「結婚という枠組というか、概念がいつからあるか知らないけれど、少なくても、記録が残っている限り、人類は夫婦という関係を基軸に生活していたのはたしかみたいね」 遠くに、運動部の掛け声を耳にする、僕と先輩以外、誰もいない閑散とした生物室。僕は先輩と黒い長机を挟む形で向かい合って、言葉を交わしていた。 「その形態のほとんどが、一夫一婦制か、一夫多妻制。それも後者は、充分な経済力を持っている必要があった訳だから、現実はともかく、建前上、ほぼ全ての人類が一人の夫に、一人の妻を娶ることを基準にして社会を形成してきた、と」 「そう、なりますね」 「考えてみれば、不思議な話じゃない。本来、生物種としての交配の役割は、子孫を多く残すこと。優秀な種を残すという意味で、社会的地位、ないしは経済力を持つ男性が一夫多妻制を採用するのは分かるわよね。ライオンなんて、一夫多妻のハーレムを形成するけど、ボスが決闘に負けたら、メス達は、まるまる新しいオスのものになるわけだし。これをハーレムアニメかなんかでやったら、非難轟々だろうけど、それはそれとして」 話が少し逸れてしまったことを気にしてか、先輩は視線を逸らした。その様が、なぜだか少し蠱惑的に思えて、僕の心臓は小さく高鳴った。 「アリやハチなんかは、女王を頂点とした多夫一婦制だったわね。まあ、あそこの場合、巣の中のほとんどはメスで、オスは精子を提供する以外の仕事なんかしてやしないらしいんだけど。巣を移る時には置いてかれるらしいし、ヒモ生活も楽じゃないわよね」 「精子……」 あくまでも学術的な話ではあるのだけれど、臆面もなく女の子の口から漏れでた言葉に、照れを感じた。 「話を戻して、有性生殖本来の、多様性を持たせるという意味では、二夫二妻、三夫三妻、いっそのこと、毎年相手を変えてもいいわけでしょ。実際、オシドリなんか、毎年、相手を変えることで有名だしね。オスが育児をすることもないらしいし。何でアレ、仲睦まじい夫婦の例えに使われてるのかしら。表面上は取り繕ってる仮面夫婦も、内実はこんなもんだっていう皮肉?」 「そこは、僕にはなんとも」 またしても明後日の方向に向きだしたことに気付いて、先輩は一瞬だけ、目線を天井に向けた。 「結局、一夫一婦制が主流になったのは、育児の問題なんでしょうね。人類は、頭脳を大きくし過ぎたために、他の哺乳類に比べて、はるかに未成熟な状態で産まれてくる他なかった。結果として、成体と呼べるまでに、十五年から二十年も要するようになった。これだけの期間をメスだけで育てるのは、生産性が少なかった太古ではかなりの困難。そこで子供を作り養うという、生物本来の目的をエサに、一生扶養する義務を負わせるという通説が、合理的な解釈になるんでしょうね」 そこまで言ったところで、先輩は小さくため息をついた。 「そう考えると、女性が男性に経済力を求めるのは至極当然の成り行き。むしろ人間という生物種としては、そちらに特化した進化をしていても不思議ではない、と。 その割に、外れの男を引く女が後を絶たないのは不思議な話ではあるんだけど」 言って先輩は、前髪を掻き上げて、目線だけを窓の外に向けた。 「生物学的に見ると、男女関係とはかくも怪奇なりけり。もしかすると、何も考えず、愛だの恋だの騒いでる方が、よっぽど健全なのかも知れないわね」 「そう、なんでしょうか」 「ふふ。別に同意を求めてもらいたくて喋った訳じゃないわよ。ただ単に、聞いてもらいたかっただけ。クラスの子相手に、こういうこと言ったら浮いちゃうだけだからね。たまにはこうして、普段、なんとはなしに思ってることを言葉にしたいな、って。ありがとね」 「いえ、こんなことで良かったら、いつでも」 真正面から両目を覗きこまれる格好になって、気恥ずかしさから目を逸らしてしまう。すぐさま、すごくもったいないことをしたと気付くんだけど、もう一度、向き直る勇気は僕には無かった訳で。 こんな感じで、僕、平田勇(ひらたゆう)と、二つ上の水橋小波(みずはしこなみ)先輩は、放課後のけだるい時間を、何をするでもなく、のんびりと過ごしていた。 「ふぅ」 小波先輩との対話を終えて、僕は何となく、学院内を散策していた。時計を見てみると、四時半を過ぎたところか。若草香る五月半ばのこの季節、陽はまだかなり高くて、窓から射し込む光が少し目に痛かった。 僕がこの私立玉藻学院に入学したのは、一月前のことだ。家から自転車で通える距離にあることと、そこそこの進学校であること。それに緑が多い環境にあることが気に入っていて、無事、第一志望の合格を得ることができた。詳しいことは入ってから知ったんだけど、中高一貫で、それなりの格を持った学院らしい。ご多分に漏れず、内部進学組と、僕みたいな外部組にはちょっとした壁はあるんだけど、少しずつ崩れてきてるとは思う。まあ、新しい学校に入ったばかりなんて、知らない人ばっかりなんだから、そう大した違和感は無いんだけどさ。 三年生の小波先輩と知り合ったのは、部活紹介のオリエンテーションがきっかけだった。彼女が部長を務める生物部は、実質的に何の活動もしていなくて、プレゼンテーションもよく言えば無難、悪く言えば事務的なものだった。建前上、どこかの部活には所属しないといけないことになっているので、さしあたってやりたいことが無かった僕は、仮入部という形で入部した。どこか入りたいところができたら、掛け持ちでも退部でも好きな方を選んでいいと言われている。それまでは、さっきみたいに、とても部活動とは言えない、只のだべりをちょくちょくやることになるんだと思う。あれで、結構、興味深いというか、面白いんだよね、小波先輩の話ってさ。 「お?」 不意に、声を聞いた。 「よ、少年。何やってるのさ」 顔を上げてみると、体育館へと繋がる渡り廊下に、一人の女の子を確認できた。褐色の肌に和装の上下を纏う彼女は、鳳柚葉(おおとりゆずは)先輩。弓道部の二年生だ。やや色が抜けた長めの髪を簡素に後ろで縛った髪型と、大きくよく動く瞳、気さくな物言いと相まって、体育会系特有の気安さがある。元々はクラスメイトに弓道部員が居て、その繋がりで、こうして挨拶と世間話をする程度の顔見知りになったんだ。 「特には、何も。強いて言うなら、まだ入学して一ヶ月ってこともありますし、校内探検ってやつですかね」 「若さ故の探究心は恐ろしいよね〜。好奇心はウリ坊を殺すとも言うし、あまり社会の闇には切り込み過ぎない方がいいよ」 気さくとか、気安いと言うより、単に適当なんじゃないかって思っちゃったら負けだからね。 「先輩は、部活ですか?」 言ってから、他に弓道着を着る理由がどこかにあるのかと気付いたけど、会話の流れなんだから気にしないでおこう。 「いや〜、これからちょっと、恋のキューピッドとして、クラスメイトの意中の人を射抜かなくちゃなんなくてさ。弓使いって、大変だよね」 「ハハハ」 「イッツ、弓道部ジョーク!」 「面白かったですよー」 「棒読み無表情で言わない。何か、滑ったみたいじゃない」 今のを滑ってないと言い切れる精神力を、いずれ身に付けられればなと思います。 「そう言えば、ゆず先輩は何で弓道部に入ったんです?」 略さず、ゆずはと発音するのが言いづらいのか、面倒なのか、先輩の知り合いの殆どは、ゆずと呼びかける。僕も気付いたら、そう呼ぶようになっていた。 「ん? うちって、江戸時代に出来た、何とかって古武術の道場でさ。まあ、跡継ぐのは兄貴がやってくれるからいいんだけど、家でも弓射ったりできるし、運動部入りたかったから、中学上がる時になんとなーく始めた感じ?」 「自分のうちの流派ですよね? 何とかって、どうなんですか」 「いやいや、女の子にとって、割とどうでもいいことだよ? 切紙がどうとか、門外不出の口伝がどうとかって。 弓を引く! 的に当たる! メチャクチャ嬉しい! くらいでいいじゃん」 弓道って、アーチェリーと違って、単なる的当て競技じゃなくて、型とか、その精神性が重要視されるものだって聞いてるんだけどなぁ。古武術継いでる家の娘さんがこう言うんなら、案外、こんなものなのかも知れないけどさ。 「そういう少年は、中学の頃、何かやってなかったの?」 「一応、水泳部でしたよ。大会に出たのは、三年最後の夏だけですけど」 人はそれをお情け出場と言うらしい。 「ってことは、ちっちゃな体してるくせに、脱いだらちょっとしたものだったりする訳?」 「やめてください、セクハラですよ!」 何とはなしに両胸を覆うように腕を交差させたけど、うん、傍から見たら只のアホだよね。 「特に運動してない文化部の人よりは締まってるくらいじゃないですかね。元々、体力つけるのが目的でしたし、それはある程度、達成出来ましたから」 「じゃあ、高校じゃやらないってこと?」 「また二年以上、大会を目指して練習に明け暮れるっていう程の情熱は、ちょっと。近所のプールで、たまに泳ぐくらいならいいですけど」 「ふーん、そういうものかな。私なんか、一日一回は何かしらで体動かさないと落ち着かなくてしょうがないけど」 「ま、人それぞれってことで」 正直なところ、文化部ってやつにも興味あったりするんだよね。掛け持ちしてエネルギーを分散できるほど器用じゃないし。生物部は、何一つ受け継がれる活動が無いから微妙に対象外なんだけどさ。 「でも、男の子として、もう少し鍛えた方がいいんじゃないの。こないだ、私に腕相撲で負けたでしょ」 「ゆず先輩に勝てる男子は、全校でも一割居ないと思います」 弓から放たれる矢の初速は、弦の強度に依存する。無理なく引けるのであれば、固ければ固いほど速くなって、風なんかの影響を受けなくなるんだろうと、素人の僕は思っている。ともあれ、ゆず先輩が使ってる弓の張力は一般的な男子弓道部員よりやや強いくらいで、ちょっと運動不足を解消した程度の僕じゃ、勝てるはずがない。というか、締まってはいるけど、僕と大差ない細腕のどこにそれだけの腕力が潜んでいるのかが凄い疑問だ。 「そんなんじゃ、まだまだ私の背中は任せられそうもないな〜」 「何と戦う気なんですか。ってか、普通、背中を守るのは弓兵の仕事でしょうが」 ゲームその他で得た知識なので、間違っていたとしても謝る気はない。 「甘いね。私が目指してるのは、弓兵二人で背中を預け合って敵を掃討する新スタイルの……うん、言ってて無理があるって気付いた!」 「出来れば、口にする前に気付いて欲しかったな〜、って思います」 あくまで、ゆず先輩は感覚が先行するタイプってだけだから。本当、適当な訳じゃないんだからね。 「でもさ、近接戦闘ってなると、どうしても弓使いは不利な訳じゃない。頼りになるスペシャリストな相棒が欲しいって思う所存で」 「古武術って、むしろそういうの得意な印象なんですけど」 「……」 「……」 「ハッ!?」 「何、今更気付いたみたいな顔してるんですか」 「いや〜、実はうちに伝承されてるやつって、何一つ修めてないんだよね。ほら、反抗期だったし、弓道だけでのし上がるとか、訳分かんないこと言ってた気がする」 「どこからツッコんでいいか分からない先輩の成り立ちに、頭がオーバーヒートを起こしそうです」 これで二年生にしてほぼエースだっていうんだから、恐ろしい人だ。 「んっと。そろそろ戻らないとうるさいかな。じゃあ、またね、少年。うちのクラスからプール見えるし、水泳の授業は期待してるよ」 「先輩によるセクハラ相談は、保健室で受け付けて頂けるのでしょうか」 そもそも、どこまで本気で言っているか分からない以上、扱いに困る面はある。 「ん」 先輩が小走りで去っていった渡り廊下を見守りながら、小さく声を漏らした。 でもまあ、うちっていい学院だよね。学年間の隔たりもほとんどないし、受験勉強とかでギスギスしてる訳でもないし。本当、ここに合格して良かったって思うよ。 中編へ続く |