邂逅輪廻



 正常と異常の境界は何処にあるのか。これが意外と、答を出すことが難しい。そもそも常とは何か。ここから論じなければならないのだが、無常という言葉がある様に、価値観、正義、嗜好は時々刻々変わるもので、定義など出来ようはずも無い。突き詰めて考えるのであれば、誰もが正常と異常を包含しているのではなく、益虫と害虫の様に、人間の都合で選り分けているだけなのかも知れない。それを、間違いと言うことは出来ない。人が社会体制を維持し、この世界で生きていく為に必要な枷とも言える。言い換えるならば、業の類か。生きるということは背負うということ。つまりは、そういうことなのかも知れない。


 闇の中で駆けるというのは、感覚が狂う。明るい中であるのなら、ある程度の距離まで見渡すことが出来るから、自分がどの程度の速度を出しているかが良く分かる。だけど暗闇ではその指針を奪われ、必然的に足や呼吸器の負担で判断せざるを得なくなる。厄介なことに、人の絶対的な数値を割り出す能力は極めて乏しく、相対で割り出すしかない。同じ二十度の水でも、お湯の後に浸かれば冷たく、冷水の次では温かいのと同じことだ。筋繊維、神経、血管、呼吸器は、精神の変動に依って容易にその機能、耐久性、連絡能力を上下させる。今、どれだけの時間と距離を走ってきたのか、正確に導き出すのは、相当に訓練された者でも難しいはずだ。
「見失う訳には、いかないってのに!」
 俺の追う目標は、雑木の合間を縫う様にして駆け去っていく。純粋に速度で言うなら俺の方が上なのだろうが、地の利は向こう側だ。一瞬でも目を切ってしまえば、木の裏にでも隠れられて見失いかねない。それだけは避けなくてはいけない。
「!」
 不意に、目標の片割れがこちらを振り返ると、右手を差し出し、薬指と小指を折り畳んできた。やばっ。このパターンは。
「トミー!」
 俺も足を止めると、正対し両腕を顔面の前で交差させた。次の瞬間、俺の前に古木かと見紛う程の巨漢が仁王立ちで現れた。この十二月の寒空に上半身裸という変わり者だが、壁として、これ程に有用な奴も居ない。
「Hoo。Boss、お呼びかい?」
 刹那、雑木林が光に満ちた。至極単純な、視覚を奪うことを目的とした攻撃。まともに受ければ、網膜を介して頭脳まで焼いてしまうかの様に強烈だ。事実、この不意打ちを食らい、取り逃がしてしまったこともある。
「HAHA。この俺の黒光りボディに拍車を掛けてくれるのかい」
 トミーの体躯は、上背で一九〇弱。至る所が筋肉で覆われており、体重で換算するのであれば、百キロ近いだろう。そしてその表面は、本人が自慢する様に褐色だ。と言っても、生まれつきでも、陽で焼いた訳でも無い。霊体であるこいつは、外見を自由に変えることが出来るのだ。元々は、線が細く色白の、知性的な官僚的容貌だったんだが、本人の願望でこうなった。まあ、それは個人の勝手な訳だが、確実にキャラが濃くなったことだけは間違い無い。そして、その黒い肉体が、巧い具合に光を吸収してくれる。こういう使い方が本望かは知らないが、手札は有効に使う。そういう主義だ。
「Boss。野郎が一人、こっちにやってくるぜ」
「そのまま、壁になってろ!」
「OK、Boss」
 曰く、トミーの筋肉はスペースシャトルで用いる緩衝材並の衝撃吸収力を持っているとのことだ。あくまで自称で、検証したことは無いが、チンピラの振り回す鉄パイプを微動だにせず受け止めたことがあるから、あながち妄言とは言えないのだろう。
「こん、にゃろ!」
 トミーの胴体に手を掛け、軸とし、遠心力を加えつつ、突っ込んできた男の横腹に回し蹴りを加えた。奴の、左手はやばい。体勢を崩したその一瞬で間合いを取り、安全圏まで退避する。
芽依めい!」
 トミーを引っ込め、もう一人の精霊を呼び出す。対照的にと言うべきか、こちらは小さな女の子だ。身長で言うなら一五〇無い程度。小生意気なまでに反抗的な目付きが印象として鮮烈で、切り揃えられたボブヘアーも細い四肢も、これを引き立てる為のアクセントなのではないかと思えてしまう。
「風の闘牛士マタドール
 途端、木々がざわついた。突然、あるべきものを喪失した空虚が生み出す、一種の余波だ。芽依は、空気をある程度まで操ることが出来る。台風の進路を変えるなどという無茶は効かないが、対人戦闘に於いては、使い方次第で相当の戦力となる。例えば、顔の下半分を極端に減圧してしまえばどうなるか。鼻腔や口内を通じて肺胞から空気は奪われ、程なく血中酸素飽和度も急激に低下する。誰もがお風呂やプールで一度は挑戦する息止めの苦しさは快感へと変様し、視界が暗闇に囚われると意識を保つことは困難だ。相当に訓練された者ならいざ知らず、全身から酸素が奪われていく感覚というのはそれだけで恐怖であり、耐えようはずもない。
「よしっ。そのまま、動きを封じておけ!」
「了解」
 出来ることなら、すぐにでもふん縛りたい所だが、軽々に近付いては拙い理由がある。それに、片割れと言った様に、俺が追っているのは二人組だ。もう一方を逃しては意味が無い。
「いい加減に、観念しろ!」
 もう一人というのは、少女だ。年で言うのであれば十五程。長くボリュームある前髪の為、容貌は良く分からない。持ち合わせているのは、右手から光を放つ、それだけの能力で、身体的に優れているということは無い。一対一であれば、逃がすことも負けることもまず無いだろう。
「――!」
 いきなりの発光だった。ストロボを炊いたかの様に強烈なもの。実際、揉めている隙に溜め込んだのだろう。俺の知る限りでは、最高レベルの光量だ。
「悪足掻きを、するな!」
 右腕で両瞼を保護しつつ、遮二無二左腕を振り回して掴み掛かる。幸いなことに、人肌と思しき感触を指先が捉えたので、握り締め、捩じり上げた。それが相手の右腕だと理解するまで、約一秒。女の子に乱暴するのは趣味じゃないが、事態が事態だ。不可抗力だと――。
「な!?」
 唐突に、違和を感じた。脳内を情報が錯綜して、その正体を見極めるのに数拍を要してしまうが、何とか理解する。この腕には、現実感が無かった。血色良く、熱を帯び、弾力も重さも、何一つ生身の人間のそれと変わらない。だけど、精霊を従える立場の俺には分かる。この子は、霊体だ。何故だ。何の因果でここに居るんだ。
「うわああああっ!!」
 それは突然だった。背後の男が、咆哮を上げたのだ。しまった、今の光で芽依の集中が途切れたか。足の筋肉を捻る様にして振り返ると、男の居た所を見遣る。俯き、震える奴の横には誰も居ない。基本的に、芽依は俺に隷属している訳では無い。危険を冒してまで命令を遂行する気概などさらさら無く、恐らく近場に逃げ込んだんだろうと――。
「やっほ〜」
 案の定、いつの間にやら俺の脇にまで来てやがった。
「こう見えて、逃げ足だけは通常の三倍速」
 微妙に自慢になってねえ。
天竜一伐流てんりゅういちばつりゅう秘技――散花縦横斬さんかじゅうおうざん
 再び、木々がざわついた。男に向けて、闇の向こう側から姿を現した少女が、鞘が付いたままの日本刀を振り下ろしてきたのだ。その一撃は左腕で防がれたものの、着地と同時に熟達した動きで脇腹へと一太刀を叩き込んだ。暗闇に紛れて分かりづらいが、苦痛に歪んだ表情をしている様に思える。そりゃそうだ。言うなれば鉛入りの木刀で殴り付けられたのと大差無い。あんな竹刀みたいに軽々と振れる方がどうかしてる。
「ここまで、よ。観念なさい」
 喉元に切っ先を突き付けつつ、勧告する。鞘のままだからと言って甘く見てはいけない。達人と呼べる腕の持ち主であれば、腕の押し引きで呼吸困難に陥れることくらい容易い。それが、並の相手であるのであれば、だが。
風花ふうか! 避けろっ!」
 声を上げると同時に、男が左手を振り上げた。それに呼応して風花も右腕に力を籠め、喉を突こうとする。しかし何を思ったか、すんでの所で腰を引いて、後方へと飛び退いた。刹那、男の左手が風花の右袖口から胸元を切り裂いた。奴の左手は、何物であろうと容赦無く寸断する。ギリギリのタイミングで避けた為、切れたのは制服のブレザーにブラウス、それに薄皮一枚といった所か。パッカリと空いた穴から覗く肌に、幾筋かの血が流れ落ちているのが目に付いた。
雅人まさと、目がイヤらしい」
 うわぁん。男の子の条件反射を否定する芽依なんて嫌いだ。
「う――」
 男の方も、苦しげに呻き声を上げると、踵を返して脱兎の如く逃げ出した。その瞬間、この手に掴んでいたはずの少女は音も無く姿を消してしまう。これは彼女が奴に従属する精霊であるのであれば、さして驚くことでは無い。俺ら精霊を従える者、精霊士せいれいしには、幾つか決まりごとがある。その一つは、行動範囲の限定だ。物凄く大雑把に言うと、精霊は土地から得られる霊的なエネルギーに加えて、精霊士に付き従うことでそいつからも力を補充できる。その代償として、力を発揮できる範囲が精霊士を中心とした球形となってしまう。その距離は精霊士と精霊に依って様々だが、ラジコンが電波の届かない範囲では動かないのと同じと思って良い。仮に不可抗力的にその球から出てしまうと、従属精霊は不可視の存在となり、互いの干渉も受けなくなる。と言っても消える訳でも無ければ、関係が解消される訳でも無い。再び球内に戻るだけで元の状態に戻ることが出来る。
「ダメ、か……」
 俺と風花は、すぐさま男の後を追ったのだが、奴は辺り構わず枝葉を切り落とし、獣道を塞いでいた。何とかギリギリ通り抜けられたものの、既に姿は何処にも見えなかった。くそっ。あそこまで追い込んで取り逃がすとは。
「……」
 すっと、風花は無言のまま来た道を引き返していく。
「って、挨拶も無しかい」
 一応、顔見知りが顔を合わせたんだから、その位はするのが一般的だと思う。
「何で? 私は、あなたの邪魔をした訳でも、味方をした訳でも無い。そんなことをする理由は無いと思うけど」
 義理人情は無いのか、お前の思考回路には。
「まあ、それは良い。分かったことがあるから、伝えておく」
「分かったこと?」
「ああ。あの女の子は、精霊だ」
「そう」
 何の抑揚も無く相槌を打つと、再び歩き去ろうとする。待て待て待て。何だ、その淡白なリアクションは。
「折角の新情報だ。少しは驚くとか感心するとかだな――」
 特に深い意味も無く追い縋りつつ、感謝の言葉の一つも求めてみる。そんな俺に呆れたのか、風花は立ち止まると、わざとらしいまでに大袈裟な溜め息を吐いた。な、何だ。素直に褒めてくれる雰囲気じゃないな。
「そこを、動かないで」
 刹那、風花は刀の戒めを解くと、居合いにも似た素早い抜刀で俺に切り掛かって来た。ぎゃー、ごめんなさい。俺、ちょっとしつこい男でしたぁ!
「……」
 恐る恐る瞼を上げると、視界には誰も居なかった。身体に、痛みは無い。剣術を極めると、痛み無く切り落とすことが可能とも聞くけれど、彼女の愛刀、揚羽あげはは刃引きしてあることを思い出す。撲殺は可能だろうが、本来の仕事は出来ないはずだ。
「って」
 ゆっくりと周囲を見渡すと、風花が背後に居ることに気付いた。彼女が切り付けたのは、そこにある巨木だった。当然、安物の包丁より切れない今の揚羽にどうこうする力は無いはずなのだが――巨木は、音も無く消えた。切り倒されたのでは無い。比喩でも誇張でもなく、その場から消えたのだ。風花はこちらを振り返ると、揚羽を二度三度振り、血を払う所作をすると、ゆっくりと鞘に収めて戒めた。
「世には、精霊の類が溢れている。たった今消した木もそう。揚羽の持つ破魔の力は強すぎるから、無闇に振るえば消さなくて良いものまで消してしまう」
 言いながら、流れるような動きで鞘の先を俺の喉元に突き付けて来る。
「だけど、それは私もあなたも同じこと。もしかすると、揚羽の一太刀で消えて無くなる存在なのかも知れない。精霊であるということ自体は、それ程大事なことでは無いのよ」
 ふうと息を吐き出すと、揚羽を腰に戻した。
「肝心なのは、あの二人組が通り魔であるということ。性別、年齢を問わず幾多の人間を傷付け、その中に私の友達も含まれていたということ。簡単に許す訳にはいかないの」
 風が舞い、枝葉が擦れて鳴き声にも似たざわつきを見せた。風は、目に見えなければ、匂いも無く、触れることも叶わない。彼女の純粋性は、その特性に何処と無く似ている気がして、ある意味に於いて見惚れていたのかも知れない。
 彼女が音も無くこの場から立ち去ったことに気付いたのは、それから半刻も過ぎた頃のことだった。


 中編へ続く



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