俺は今、未曾有の危機に立たされていた。何という盲点。何という想定外。自身の先見性の無さを呪うことさえ許されない絶対的虚無感。何ゆえに、何ゆえにこんなことになってしまったのか。原因を論理的に究明するが、どの様に解釈しようと一点に集約される。くっ、認めるべきか。認めるしかないのか。自問自答しつつ、俺は頭を上げて周囲を見遣った。 「随分と、汚れちまったなぁ……」 家の主たる母親が親父と共に消えて早一月。自分の部屋程度ならともかく、俺に一戸を丸々掃除する程のマメさはなく――埃やゴミに塗れた部屋の片隅に愕然として、頭を抱えるのであった。 「俺の為にエプロンドレスを着てくれませんか?」 「朝っぱらから何を言っているんだ、このトンチキは」 遊那君。トンチキなんて言葉、本当、久々に聞きましたよ。 「先輩、家事に全面降伏宣言ですか?」 上目遣いで、岬ちゃんが問い掛けてきた。 「家事と言うか……食い物は何とかなってるんだけど、掃除がなぁ」 何というか、索敵範囲が広すぎる。その道のプロである主婦でさえ悪戦苦闘するのに、一介の高校生にどうしろと言うのだろうか。努力が足りないだけだろと言われると、返す言葉に詰まってしまうけど。 「日々、学舎で繰り返される当番に気を入れてないから、こういうことになるんだ」 「あれは、人を如何に使うかを学ぶ為にあるのでは無かったのか」 「そういう間違った帝王思想を語っていると、その内、飲み込まれますよ」 ふぅ、そんなに出世出来ることがあるなら、ドンと来いだぜ。 「まあ、しゃーない。明日の休みにシャコシャコ片付けるさ」 お兄さーん。たまには帰って来ておくれー。 「はぁ、仕方ありませんね。手伝ってあげます」 ピクリと、耳が動くのを感じた。 「それは、僕の為にエプロンドレスを着てくれるということかい?」 「一生は御免ですが、一日だけなら」 うほほーい。これで労力が半分になるぜー。はっ。だがしかし、秘蔵のブツが危険なことになりかねない気もする。あ、明日の話だし、ちゃんと隠しておけば大丈夫だよね。 「そうだな。私も暇だし、冷やかしに行くか」 「邪魔するくらいなら、来るんじゃない」 こんな言葉を吐いてみたものの、友情のありがたさをしみじみ感じ入るの俺であったのだった。 「さて、皆さん、クエスチョンタイムだ」 「ん〜?」 「うん?」 「ですの?」 目の前の女の子達は、三者三様、それぞれのリアクションをとってくれた。 「まあ、手伝ってくれるというのはとてもありがたいことなんだが、何でまた、貴重な休日を費やしてまで我が家に足を運んでくれたのか、それを伺いたい」 「公康君。私は、面白そうなことを聞きつけたら、例え地球の裏側だろうと首を突っ込むんだよ?」 茜さん。明瞭な御回答、ありがとうございました。 「わ、私はさ。公康が困ってるって聞いて、特にやることもなかったし、うちじゃ掃除させて貰えないから勉強になるかな〜とか思ってさ」 りぃ。悪気は無いんだろうが、君の家はどのレベルのお金持ちさんなんだい。何だか神々しく見えてきたよ。 「お兄様のことで、色々とお世話になりましたもの。これでも私、義理堅いんですのよ」 綾女ちゃん。その気持ちは実に嬉しいよ。だけど折角だから、親衛隊のマッスル軍団を連れて来てくれると尚、嬉しかった――ゲフンゲフン。いえ、何でも無いです。 「それで、最大の問題はお前だ」 「ほぅ?」 何が、ほぅ、だ。この天然会長。 「掃除の手伝いに来た奴が、何で押入れの奥にあったマンガを読んでやがりますかね」 「いやぁ。実に基本的な罠というか、絶妙のトラップだよね。当然のことながら、大好きだから買ったマンガなのだけれど、物理的にかさばるし、部屋のバランスを考えて押入れに封印してしまい、月日が流れる。そして良い感じで本編の内容を忘れてる頃に引き出してしまい、時を忘れて貪るかのように読み出してしまう。マンガを嗜む者の中で、この経験が無いなどという無骨者が存在するとは思えないほどにありがちな話だよ、全く」 「人のマンガで、論理的っぽい分析をするな!」 こ、こいつは遊那以上に戦力として当てにならない。むしろ、隅っこの方で大人しく読ませておけば、邪魔にならないだけマシかも知れないな。 「それじゃ、折角だからチーム分けして勝負しようか」 「……はい?」 何を仰りやがります、茜さん。 「後に戦国時代の覇者となった豊臣秀吉は、名が木下藤吉郎だった頃、お城の修復工事を命じられたの。そこで藤吉郎は作業員を幾つかの組に分けて、一番に仕事を終えたチームに報奨金を出して競争心を煽ったと言われるのよ。世界に自由主義経済が浸透するよりずっと前から、競わせることで効率を上げられるって感覚的に理解してたってことだよね」 「はぁ」 理屈は分からないでも無いが、人の家で正論を主張出来る精神は大したものだと思う。 「だからこそ、ここは競い合ってすぐに終わらせて、皆で楽しく遊ぶのが正しい道だと思うのよ」 「あっさり本音が漏れる辺りが流石です、姐さん」 まあ、意見自体は別に悪くないものだけどな。 「それで罰ゲームだけど、三つに分けて、一位のチームが三位のチームに命令できるってことで良いかな?」 「うむ、そんなものが妥当であろう」 何故だか、時代劇のソウルが混入しやがったぜ。 「それじゃ、私と岬ちゃんで桜井姉妹コンビ。綾女ちゃんと莉以ちゃんで、いつもちょっとツンツンしてるコンビ〜」 「その分類は何だよ!」 つうか、その論理だと残るのは――。 「公康君は、特別に三人チームを許してあげようと思うんだけど」 「マジで要らん。本気で要らん。全力で以って要らん」 「三回も言うことは無いだろ、七原」 遊那のツッコミは聞き流すとして。 「千織と遊那を押し付けられるなんて、それだけで罰ゲームじゃないか。俺は再議決を要求する」 「先輩、先輩。どんな人間でも使いこなしてみせるのが器ってものですよ」 「耳障りの良い言葉でお茶を濁すな、岬ちゃん」 あー、もう、これだから政治家の一族は! 「知っておりますの」 「ん?」 綾女ちゃんが、何やら意味ありげな言葉を吐いた。 「民主主義国家では、多数は常に絶対正義ですのよ」 「切ない現実を、たかだかこんな小競り合いに持ち込むな!」 はっ! しかし考えてみれば、まだあちらが多数だと決まった訳じゃないぞ。 「りぃ、お前は俺の味方だよな」 ゲヘヘ。この浮動票をこちらに持ち込めば、情勢は一気に逆転するぜ。 「う、う〜ん。そ、そうだよね。やっぱりここは、クジかなんかで決めるのが筋かな?」 よし! 俺の交渉術は未だ現役。まだまだ通用するぜ。 「さぁ、これでこちらが四票で多数だ。今からアミダを作ってやるから、覚悟しろ」 「いや、それには及ばんな」 不意に、遊那が割って入ってきた。 「私は、茜の案に不満など無い」 「……ナンデスト?」 遊那さーん。あなた、一体、何を言ってやがりますか。 「茜。例え最下位になったとしても、罰ゲームは私を除外したものにするというのを条件に、案を飲んでも良いぞ」 ぐはっ、そ、そんな戦術があったとは。つうか、何だ、この姦計、根回し、何でもありのプチ議会は。 「それじゃ、担当場所を三等分にするのは公康君がやって良いよ。もちろん、公平を期す為に選ぶのは私達だけどね」 「……」 敬愛するお父さん、お母さん、そしてお兄さん。俺の政治力はまだまだ未熟な模様です。如何に相手がその道の者とは言え、同年代の女の子にここまでコテンパンに熨される様ではいけません。日々、精進を忘れず、いつかは立派な男になろうと思っています、草々。 「う〜。台所に御手洗い、風呂場って、水周りばっか押し付けやがって〜」 気が動転して纏めてしまったが、考えてみれば、この三つは分散させるのがセオリーではないか。トイレはやりたくないだろうから、そこを巧く使えば、有利に運べたかも知れないのに、俺の慌てん坊さんめ。 「七原〜。皿洗いは、どうやってやれば良いんだ?」 「何処の姫様だ、お前は!」 家庭科の授業で何を聞いてやがったんだ。御嬢様であるはずのりぃでさえ戦力になっているというのに。 「公康〜。このマンガの続き、何処にあるの〜?」 「千織君。今、俺は君に対して明確な殺意が湧いた訳だけど、神は許してくれると思うんだ」 はっきりと言う。こんな面子を使いこなせる奴が居たら、間違いなく天下を獲れる。掃除なんかで才能を浪費してる場合じゃない。 「ぱっぱっぱ〜と」 「せっせ、せっせ、です」 一方、親父の書斎を担当してる桜井姉妹は、効率良く部屋を動き回り、次々と埃を除去していた。こ、この参謀共め。何という無駄の無さだ。その効果は、姉妹の血縁効果もあって、更に倍では無いか。 「そちらの本の束を、ここに収めて下さいまし」 「あ、うん。分かった」 りぃと綾女ちゃんは兄貴の部屋を担当している。戦術としては、綾女ちゃんの指示の下、組織として動かすということらしい。りぃは腕力があるし、運動量も豊富だから使う者に依っては多大な結果を残すことが出来る。流石は綾女ちゃん、生来の司令塔の二つ名は伊達ではない。 「それにしても、男の方というのは本当にどうしようも無いですわね」 「……」 兄貴、帰ってきたら驚くだろうなぁ。まあ、これも人生だ。思う存分、悶絶して貰おう。 「うおぉぉぉぉ!」 そして、俺の方もむざむざと負けるつもりは無い。あの二人が役に立たないと言うのなら、俺が二倍働けば良いだけのことだ。何という完璧な論理。我ながら惚れ惚れするぜ。 「……飽きた」 「本当に、どうしようもない男だな」 ふっ、褒め言葉が何故だか心に突き刺さるぜ。 「いっそ、罰ゲームを甘んじて受け入れて、のんびりやるのも手かなって思う」 「何処まで堕ちれば気が済むんだ」 それは、俺にも理解しきれない部分がある。 「大体、茜を甘く見るなよ。あいつなら、一般的な罰ゲームの範囲で、想像を絶する恥辱を伴うものを考え付くに違いない」 「俺を売った奴が言う台詞か」 もう、混沌とし過ぎて、何が何やら分からない。そもそも俺は茜さんに、何でも言うこと聞く券を握られてるんだから、大差無い気もするしな。 「公康くーん、ちょっと良い?」 「何ですか? そんな高級なもんは無いはずですけど、危なそうだったら触れないということで。男の聖域に属する話だったら、例えどんな突拍子が無いものでも、良くあることと割り切って下さい」 しかし、冷静に考えると、半ば旅烏の様な親父だ。お袋に見付かったら危険な物は残して居ないだろう。兄貴とは、詰めの甘さが違うということだな。 「ん?」 茜さんが差し出してきたのは、一つの巻物だった。はて、親父に骨董品収集の趣味などあっただろうか。或いは、春画などというマニアックな展開だろうか。全く以って見当が付かない。 「開けて良いよね?」 「何を根拠にしているか分からないですけど、これくらいは構わんでしょう」 正直、俺の方も何を根拠にしているかは良く分からない。 「ぬ――?」 そこに描かれていたのは、山と川だった。と言って、山水画などという風流な物ではなく、地図の様な感じだ。その山頂には×印が記されており――。 「もしやこれは、宝の地図!?」 などとほざいてみたが、そんな訳無いよなぁ。 「やっぱり、公康君もそう思う?」 「……」 茜さん? 「ふむ。掃除なんかしてる場合では無さそうだな」 遊那。お前は何の役にも立ってないだろ。 「これは、皆で出向かざるを得ませんわね」 って、ちょっと待て! こんな中途半端に引っくり返したまま出掛ける気じゃ無いだろうな! かくして、俺の家の清掃事情は悪化した状態で放置されたのであった。 お前ら、実は俺より飽きっぽいな、コンチキショーめ。 千:何やら、妙な展開になってきたね。 岬:いつものこととも言いますけどね。 千:非日常であっても、それが多発すれば日常となる。 中々に、奥深い話だよね。 岬:私は、お姉ちゃんと育ってきたので慣れてますから。 千:という訳で、次回、『やむにやまれぬ御家事情 中編』だよ。 岬:お姉ちゃんが結婚する姿は、本当に想像すら出来ません。
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