「はぁ……」 とある日の放課後、俺達は学食でお茶していたんだけど、綾女ちゃんは晴れない表情のまま、豪快に溜め息を吐いた。 「どうした?」 まさか、選挙戦での敗戦を思い出して憂鬱になった訳でも無いだろう。未だに、思い出すと気が沈まないでも無いけど、ここまで露骨に落ち込んでたら生きていけない。 「兄が帰ってきてますの」 「お兄さん?」 「ですわ」 そういや何処かで、兄貴が居ると聞いた記憶はある。ほいでもって留学中だとか何とか。 「それって、嫌なことなの?」 軽く一家離散っぽいところはあるけど、別段、嫌い合ってる訳でも、憎しみがある訳でもない俺にはピンと来ない。 「嫌、と言われると違いますわね。単に気が重いだけですわよ」 それがどう違うのか、今一つ分からない。 「ん、ちょっと思い出してきたぞ。綾女ちゃんには、兄が一人と、従兄が二人が居たんだっけか」 「ええ」 大政治家であった一柳正剛から見ると、血縁としての孫は四人居ることになる。 「たしか、他の三人はそこまでは優秀じゃないから、綾女ちゃんが後継者候補になったとか」 余り他人の家庭に口を出すもんじゃないかも知れないけど、代議士ともなれば税金を動かす立場なんだから、ある程度は良いだろう。 「従兄の御二方については、お爺様の評を代弁しただけですので何とも言えませんわ。唯、兄に関して言えば、はっきり素質が無いと言い切れるか分かりませんの」 「どういうこと?」 「頭自体は相当に切れますの。海外の一流大学で上位の成績を収めていますし、人の心を掴むことにも長けてますのよ」 まんま綾女ちゃんの男子大学生バージョンだな。血統、恐るべし。 「でも、お爺さんは後継者候補として認めなかった」 ここまでの情報を統合する限り、釈然としないものが残る。何だかんだ言って、古い人間なら年長男子を後継者にすることを望むだろう。お兄さんとやらは条件にピッタリだ。それでも、眼鏡に適わないと切り捨てるのは、相応の理由があるに違いない。 「あ、本人が政治の道を志して無いとか」 相応以前に、これは決定的なものかも知れない。幾ら能力が高かろうと、本人にやる気が無ければ持ち腐れだ。国家の為にも、財界や官界、或いは他の業界で力を発揮した方が良い。 「それもありますわね」 「も?」 引っ掛かる言い方だった。 「性格に問題がありますの」 「はぁ」 どうにも、全体像が見えてこない。 「何でしたら、引き合わせてあげますわ。百聞は一見にしかずですものね」 「良く分からんけど、面白そうなので了解した」 この後、特にすることが無いというのが最大の原動力となり、俺は綾女ちゃんの兄貴を拝むことになったのだった。 綾女ちゃんの家は、電車で言うと一駅、歩きでも、三十分は掛からないところにあった。かの有名政治家の息子と孫が住まう家なのだから、かなりの豪邸を想像していたのだが、割と庶民的だった。一家四人で住むには充分な広さだろうけど、周囲と比べて格段に大きい訳ではない。 「父は普通のサラリーマンですもの。これでも相当に無理をしていますのよ」 「実に良い話だ。財産が世襲される様な世界じゃ、俺達庶民は生きる甲斐が無い」 綾女ちゃんが、少しだけ微笑んだ。 「はっ、しまった。御両親にお土産を買ってくるのを忘れていた」 「何でそんな気を遣いますの」 「将来、俺の両親になるかも知れないじゃないか」 「戯言は、夢の中でだけお言い下さいまし」 たしかに、ちょくちょくこんなことを言っていると、本気の時に信じて貰えない気がしないでもない。 「それに、今は兄しか居りませんわ。相応に、覚悟をお願いしますことよ」 「変人を見るのは慣れてるからどうってこと無いよ」 言って俺は、導かれるまま玄関をくぐった。 「ぐふぅぅ。こいつは僥倖だぜ」 何か、妙な声が聞こえた。 「映画か何かを見てるのか?」 「兄ですわ」 「ほぅ」 どうやら、想像以上の方らしい。 「あと、この音は何だ?」 小石を掻き混ぜるかの様な、ジャラジャラというものだ。はて、何処かで似た感じのものを聞いたことがある様な。 「洗牌ですわよ」 「あー、それそれ」 麻雀に於いて、ランダムに山を積み上げる為、掻き混ぜることを洗牌と言う。自動卓でならさほどでは無いが、昔ながらの手積みとなると、割かし響く。壁の薄いアパートともなると、御近所トラブルの元になるって兄貴が言ってた。 「で、何でそんな音がするのさ。お兄さんの友達か?」 「それでしたら、まだ健全ですわ」 呆れにも諦めにも見える表情のまま、綾女ちゃんは一室の前で足を止め、扉を叩いた。 「綾女か……入って来い」 その男の声は太い様にも感じられたが、何処か不自然で、若干無理をしている雰囲気が感じられた。 「ちぃっす」 「おぅ、貴様が綾女の友人か」 何処か芝居掛かった喋り方をするその男は、随分と線が細かった。身長は俺と同じ程度に見えるから、百七十ちょいくらいか。全身に肉や脂も感じさせない風体は、一言で言うとガリガリだ。顔付きも、吹けば飛ぶような雰囲気で、優男と呼ぶのがピッタリなのだろう。唯、千織の柔和な感じとは違い、ススキ的というか、針金的というか、少し儚げな印象を受けた。 「こちらが、私の兄、 「どうも、七原っす」 「良い眼をしているな」 んな、ロープレの主人公みたいなことを言われても、リアクションに困る訳だが。 「えっと、それでお兄さん。何で一人で牌を弄ってるんです?」 夕暮れ時、二十歳くらいの青年が取る行動としては珍しいものだと思う。 「お兄様は、雀士になると言って聞かないんですの」 「――ん?」 一瞬、耳を疑った。 「それはつまり、麻雀のプロってこと?」 「他に何があると言うんだ」 いや、言うんだ、とか言葉を強められても。 「博打は良いぜ。伸るか反るか、薄氷の上を歩いている様な緊張感。あれを味わう度に、生きている実感を骨の髄まで染み込ませることが出来る」 「はぁ」 言わんとすることは分からんでもないが、何故この心境に至ったのかが今一つ分からなかった。 「綾女ちゃん。留学先って、もしかして中国?」 一応、渡来元はあそこだし、結構、盛んらしいから切っ掛けがあったのかも知れない。 「イギリスですわ」 「ああそう」 返された言葉に答は無く、最早、何がどうなっているのか分からない。 「雀士になる為には、常日頃から牌に触れてないといけないからな。ネットだけで勘を磨こうなんて、甘ちゃんも良いところだぜ」 「そーいうもんですか」 部屋の配置としては、端に机がドンと置かれていて、そこのパソコンでネット対戦をしているらしい。その横には、やたらと足の長いちゃぶ台があり、上にはマットが敷かれ、牌が転がっている状態だ。空哉さんは、左手でマウスを動かしつつ、右手でその牌を弄り続けている。画面は止まることなく姿を変えているし、対局中であることが見て取れた。 「ヌ――?」 ふと、表示された画像に違和を感じた。 「何でそこで六索を捨てるんですか!」 「何を言ってやがる。対面はみえみえのホンイツ。索子は安牌だ」 「それは完全に術中ですって。きっと対面はドラを抱えて、役は中か風牌のみ。ピンポイントでその六索を狙ってますよ」 「忘れてましたわ」 片手を頭に添えて、半眼でこちらを覗く綾女ちゃんが視界に入った。 「貴方は、お兄様と同じくらいバカでしたわよね」 褒め言葉として受け止めさせて貰うことにするよ。 「ええい、黙って見ていろ! 俺は、俺の読み以外、信じないんだ!!」 タンッ、という牌を叩きつけるものを模倣した電子音が響き、空哉さんは六索を切り捨てた。一瞬の静寂、それは永遠に思えながら、また一瞬きに過ぎないものだ。 『ロンッ!』 無情にも、俺の読み通り、対面は六索を狙い打ちにしてきた。役は、北、ドラ三で満貫。これで空哉さんは二位から最下位に転落した。しかもオーラスだったので、半荘での敗北も決まったことになる。南無南無。俺はたしかにアドバイスしたが、最後に決断するのは、牌の前に座ってる人間だ。流行りの自己責任って奴だから、俺を恨むんじゃないよ。 「と言うか、突っ伏したまま動かないんだが」 「負けた後は、大体、こんなものですわ」 打たれ弱いっていうのは、プロとしては致命的な欠点の気がするんだが、どうなんだろう。 「それにしましても、何で相手の牌が分かりましたの」 「沖縄で茜さんに負けて以来、いつなんどき決戦の場があろうとも対処できる様、日々、精進を重ねている」 「何という無駄な努力ですの」 俺も、そう思わないことも無い。そういや、あの時の何でも言うことを聞く券、まだ有効だよなぁ。忘れててくれると嬉しいなぁ。あの人のことだから、絶対にそんなことはないよなぁ。 「ところで、だ」 「何ですの」 「俺はこのまま、打ちひしがれる兄君殿を凝視し続ければ良いのかね」 「お茶でもお持ちしますわ」 「催促したみたいで悪いね」 いや、実際、その通りなんだけどさ。 「……」 結局、綾女ちゃんが出ていった後も、俺はこの部屋に居た。いや、空哉さん見物が主目的だし、応接室とかに案内された訳でも無いしさ。綾女ちゃんの部屋には興味があるけど、多分、入れてくれないだろう。だったらこのまま、人間観察をしていた方が面白い。 「……はっ!」 不意に、空哉さんが起き上がった。 「俺は……負けたのか」 いや、今更かよ。何というか、独特の間だな。或いは、売り出し方を間違えなければ、イロモノ雀士として通用するかも知れない。業界に明るくないし、そんな世の中の渡り方があるのか知らんけど。 「貴様……何でこの結果が分かった」 こんな近くで喋ってたのに聞いてなかったのかよ。もしや俺、また説明しないといけないんだろうか。 「ふん。この程度が読み通せない様では、先が知れてるな。言っておくが、俺程度の奴なら、それこそ束で安売りするくらい転がってるんだぜ?」 もう何と言うか面倒だったので、お茶を濁して終わらせよう。 「うっ――」 空哉さんは、いきなり大粒の涙を零した。 「な、な、な、何やってんですか!」 「師匠!!」 「……」 はい? 「俺は、俺はずっと考えていた。俺に、何が足りないのか。今、気付いたんだ! 俺には、師匠の優しさと厳しさが必要だったんだと」 「いやいやいや、色々と待て」 思わず、タメ口になっちまったじゃないか。 「はぁ、また始まりましたわね」 「またって何だ、綾女ちゃん」 綾女ちゃんは俺の質問に即答せず、ゆっくりとした動作で茶盆をテーブルに置くと、ティーカップをこちらに寄越した。 「見ての通りですわ。お兄様は少々、こちらの世界から逸脱することがありますの。慣れればどうってことありませんわよ」 そんな、身内をちょっと変わったペットみたいに言うなって。 「考えてみましたら、そういう意味では貴方にそっくりですから、類は友を呼ぶということで仲良くしたら良いと思いますわ」 「ええい、可愛い女の子ならともかく、何処の世界に兄貴と殆ど同い年の同性に引っ付かれて嬉しい男が居るんじゃい」 いや、割と居るかも知れないけど、少なくても俺は該当しない。 「シショオォォォ!!」 「やかましいわい!」 すがりつく空哉さんを、一切の加減をせず、本気で引っぺがしに掛かる俺。それをのんびりお茶しつつ眺める実の妹、綾女ちゃん。ああ、もう、何て空間なんだ、ここは。 かくして、俺は全く望んでいないというのに、不肖の弟子を手に入れてしまったのだった。 遊:名に、遊の字を入れる親は稀有らしい。 千:そうかもね。 遊:まるで、遊びで出来た子供だと思われるからだろうか。 千:それは違うと思うけど。 遊:何にせよ、私が人生を楽しみ尽くす所存であることは変わらんがな。 千:そういう変わった人が、偏見を生み出すからって感じもするけどね。 遊:とにかく、次回、『瞼の裏のお兄様 中編』を楽しみに待て。 千:それにしても、僕くらい扱いの悪い生徒会長も居ないだろうなぁ。
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