「腹、減った……」 世の中には二種類の人間が居る。お袋が確実に飯を作ってくれなくなった時、諦めて早起きをする人間と、そうでない人間である。おかしい。前々から、作ってくれたりくれなかったりだから、兄貴と共同戦線で乗り切って――これか。どうやら、何だかんだで、兄貴とお袋が居た頃は、俺を含めた誰かが朝飯を作っていたから、食いっぱぐれることが少なく、影響も少なかった。ところが、今は俺が自分でどうにかするしか選択肢が無く、サボると即朝飯抜きの状態に陥ってしまう訳だ。 「こんなことなら、プライドを捨ててりぃに頼むべきだったか……?」 しかし、人として食の権利を一切合財握られるというのは、隷属することに等しい。ここは耐えるべきところでは無いのか、俺。 「何だか、今にも朽ち果てそうな空気だな、七原」 「うるさい、放っておかぬか」 畜生め。遊那如きにここまで虚仮にされるとは。こんな生き恥を晒すことになるとは思わんかったぞ。 「と言うより、コンビニでパンくらい買って来れば良いだろうに」 「アホか。そんな隙を作れるんだったら、そもそも朝飯が食える時間に起きてるわい」 遅刻しない為、コンマ一秒に凌ぎを削る。そのギリギリのタイミングに命を賭けるからこそ、こんな瀕死の男が生まれるんだぞ。 「私には、お前の方がアホに見えるがな」 「御尤もです。反論の余地も御座いません」 嗚呼……無駄な口論をしたら、尚のこと力が抜けた。購買が開くまであと二限。体育が無かったのは幸いだが、俺は本当にそれまで思考を維持出来るのか。中間試験も近いのに、こんなことしてる場合じゃない気もするんだが。 「さて、ここで取り出だしたるは私の弁当な訳だが――」 「貴様、さては生粋の腐れ外道だな」 仮に、ここでそれを食い出したら俺は暴れる。恥も外聞も照れも無く、遊那に掴み掛かるぞ。返り討ち濃厚だけど。 「慌てるな。私も鬼じゃない。どうだ。これを欲しいとは思わんか」 「もしやあなたは現世に舞い降りた天使様でしょうか」 憐れな子羊の瞳で遊那を見上げつつ、弁当に手を掛けようとしたところで、すっと持ち上げられて空振りに終わった。おのれ、大昔のコントの様な真似をしおってからに。 「人が人に施しを与える際、最も基本的な対価は誠意だと思うのだが」 「おみ足をお舐め致しましょうか」 「何処まで安いんだ、お前のプライドは」 生憎と、物の値段は需要と供給のバランスで決まる。今の俺にとってプライドの必要性が格段に下がったと言うだけだ。 「幾ら出す?」 ……そう来たか。 「おのれ、純な民に対し暴利を貪ろうとは、この自由主義経済の奴隷め!」 「その物言いは聞き捨てならないな。私は一度として強要した憶えは無いぞ。あくまでこの弁当に自由入札という形で値段を設定させているだけだ。と言っても、母の愛が詰まったこの一品、安値で売り捌いてしまっては申し訳無いとは思うがな」 こ、こいつもしや、茜さん並に悪党なんじゃないのか。一時期、案外、純粋な一面もあるんじゃないかと思ってもいたが、少し検討し直すことにしよう。 「はぁ、見てられませんね」 溜め息一つと共に、目の前にポンと弁当を置いてくれたのは、西ノ宮だった。 「えっと……これは?」 「食べて良いですよ。料金も、学食で何かしら奢ってくれればそれで構いません」 「もしやオプションとして、秋に票を寄越せとか――」 「そんな汚れた票は要りません」 どうやら、汚れていたのは俺の心だったらしい。うほほ〜い。それでは何の遠慮も無く――。 「あの、遊那さん。愛銃を額に突き付けて、一体何の真似でしょうか」 「いや、な。破談なら破談で構わんのだが、こういう形では今一つ納得がいかない」 ほぼ純然たる八つ当たりじゃねえか。 「という訳だ。私も西ノ宮と同じ条件で構わん。今すぐに食え」 あ、あの〜。頂く身でありながら失礼だと思うのですが、私に選択権は無いのでしょうか。 「き、公康。私のも食べて良いよ」 だぁー! りぃ、常識的に考えて、女の子用で少なめとは言え、残り五分しかない休み時間で三つも食えるかぁ! し、しかし、ここで誰かの分を断るというのも悪いし……ええい。こうなったら、食ったるわい! 「何で七原の奴、一人フードファイトしてるんだ?」 クラスメートの素朴な疑問が遠くに聞こえつつ、俺は怒涛の勢いで三食を平らげた。 「うう……男は辛いぜ」 何だか、男気の使い方を完全に間違っている気がしてならない。 「嗚呼……流れる風が気持ち良いことだ」 昼休み、約束通り三人に定食を奢った後、俺は屋上にやって来ていた。ベンチに寝そべりつつ、天を仰ぎ、二時間前に食した物が消化されるのをひたすらに待つ。こりゃ、完全に晩飯までは何も食えないな。まあ、少しこなれて来たし、午後の授業くらいは何とか受けられそう――。 「テストも近いというのに、良い御身分ですわね」 「お互い様、って言葉を知ってるか?」 慣れた感じで、声と喋り方で対象を割り出すと、身を起こして言葉を返した。 「私は普段から勉強していますから、問題ありませんわ」 うわ、綾女ちゃん。それは自信過剰というものだぜ。 「ところで、食後のデザートか何かか?」 綾女ちゃんの右手には、巾着の様な小さな袋が握られていた。定番としては、コンペイトウかクッキー辺りかね。バターっぽい匂いがするから、クッキーが濃厚かな。 「調理実習でクッキーを焼きましたの」 お、当たった。そういや去年、俺もやった様な気がする。甘い物がダメな奴に無理矢理食わせるとか、如何にして可愛いあの子が焼いたのを手に入れるかで、盛り上がったものだなぁ。 「それで、折角ですから食べて頂けませんこと。皆さんから頂いている内に、お腹が膨れてしまいましたの」 ……はい? 「えーっと、何で俺?」 「最初に会った、他学年の知り合いがあなたでしたから」 凄く分かり易い解説ありがとう。 「御両親に取っておくとかは良いのか?」 「生憎と、今日は帰ってこないそうですの。どうせでしたら、焼き立てを差し上げたいので、又作りますわ」 何か、凄く逃げ場が無くなってる気がする。正直に話して、勘弁してもらおうか。でも、この国には勧められた物は絶対に口にしなければならない暗黙の了解があるし、そもそも弁当三つに比べればこの程度のクッキー、どうということも無いし――。 「ありがとう。俺、甘い物には目が無いんだ」 「別に、あなたの為に焼いた訳ではありませんわ」 嗚呼、またしてもやってしまった。保健室に、胃薬は置いて無いよなぁ。心の何処かでそんな淡い期待をしつつ、俺は満面の笑みでクッキーを頬張った。 「ぐおっぷ。振り出しに戻ってしまった」 小さな綾女ちゃんの掌に収まる程度のものだったから油断してた。考えてみればクッキーなんて、油分と糖分の塊じゃないか。恐らく、雪山で遭難して命を繋ぐ物としては、トップレベルの実用性に違いない。数的根拠は公開しないけど。 「あ、先輩。ちょっと良いですか?」 「おぉ、岬ちゃん。こちらもちょうど探していたところだ」 胃薬を持っていたら、ちょっとプリーズ。少なくても選挙期間中は、救急箱に近いものを持ち歩いていた。今は知らないけど、一般人よりは確率が高いだろう。 「実はですね。調理実習でクッキーを焼いたので食べる人を探しているんですけど」 その一言を耳にし、俺の意識は緩やかに現世から遠ざかっていった。 「公康、一体どうしたのさ? 五、六限の間、ずっと唸ってたけど」 「千織君。やはり男というものは、女の子を悲しませてはいけない。そうは思わないかね」 「公康の場合、選挙に落ちて、何人か泣かせてる気がするんだけど」 こいつ、こっちが動けないと思って言いたい放題だな。 「あ〜。公康君と千織君、見っけ」 ぐはっ。悪魔だ。悪魔が湧いた。畜生め。身体さえ動くなら全力で逃亡するものを。 「とあるルートからの情報なんだけど、公康君、朝から何も食べてないんだって?」 「いえ、茜さん。皆々様の御好意により今は満腹です。どうぞそっとしておいて下さい」 情報って奴は、やっぱ伝達までに誤差があるんだな。この人の場合、その誤差さえ利用してしまいそうなのが怖い訳だけど。 「実はね。そんな公康君の為に、購買のオバちゃんから売れ残りのパンを安く買い取ってきたんだけど――」 言って、どさっと机の上に五個程のパンを置く茜さん。うおっ。これは罰ゲーム的な意味合い以外で売れたことが未確認なことで有名なカラスミパンでは無いか。それにこっちは、生の青唐辛子を五個挟んだだけの激辛パン。その他も、例え空腹でも調理パンとしては如何な物のオンパレードだ。おのれ、購買のオバちゃん。いつものことながら、訳の分からんものを仕入れおってからに。 「さ、公康君、食べて良いよ」 「……」 茜さんが、俺の現状を理解した上でこういうことをしているのは間違い無い。この、無駄に聡明な人が昼休みを経て、俺が何の対策も講じないとは考えないだろう。嗚呼、神様。あなたは何で、この人にこれだけの才能を与えたのですか。ある意味に於いて、物凄く理不尽です。 「しかし……」 自分は泣いても女は泣かすなという親父の教えが頭をよぎる。茜さんに関しては、性差とかは完全に超越していて、一個の超生命体みたいなところもあるけど、それでも生物学的には女性だ。丁重に扱わないのは、七原家の汚名になるというものだ。親父は婿養子だった気もするけど。 「食べさせて頂きます」 俺、多分、将来は女の人を庇って死ぬな。そんなことを悟った、十六の昼下がりだった。 「わ、わ。大変だよ。公康君が泥団子を食べて倒れちゃったよ」 「お、お前が食えって言ったから……」 「食べる振りをするのが普通だよ〜」 又しても、思い起こされるのは過去のビジョン。横に居るのは、この前見たのと同じ女の子だ。この子とは、それ程に因果があるのか。それにしても、泥団子を食うとは、俺はこの頃から殆ど進歩していないのかも知れない。 「と、とりあえずこういう時は、土中に埋めるんだったよね」 それは河豚毒に中った場合だ。しかも科学的根拠の無い民間療法だし。 「だ、大丈夫だ。飲み込んだのは僅かだから、口さえ漱げれば何とかなる」 「み、水を持って来れば良いんだね」 トテトテトテと、この場を走り去っていく女の子。そんな光景に安心したのか、俺自身は深い闇へと堕ちていった。 「先輩! 先輩! しっかりして下さい。傷は浅いですよ」 ぐおっ。岬ちゃんか。頼む、今の俺にあまり刺激を与えないでくれ。 「岬、これは只の食べ過ぎだ。揺すれば無駄に負担が掛かるだけだ」 遊那、そこまで分かってるなら、手を出して止めてくれ。 「ん〜。人間はキャパシティを越えて食べ続けると気を失う、と」 茜さん、本日、俺はあなたが医者か科学者になった場合、非人道的な人体実験をして悪名を残すと確信しました。 「全く、何で満腹だという一言が言えませんの」 綾女ちゃん。それが男の生き様ってものなのさ。 「七原さん。これでは何だか、私達が悪いことをしたみたいじゃないですか」 西ノ宮。正直済まないと思ってる。 「公康。万に一つ死んだら、校門の所に銅像建ててあげるから」 りぃ。んなことに使う金があるなら生きてる間に現金でくれ。って、俺ちっさいな。 「あれ……?」 何だか、違和を感じた。この六人とは、学園に入ってからの付き合いだから、一番長くてもりぃの一年ちょっとだ。それなのに、懐かしさを感じた。あんな夢を見たから、少し混乱しているんだろうか。訳が分からないまま、女の子達に玩具にされる俺だったのだった。 勉学――それは学生の本分にして最大の試練。 そそり立つは、公式という名の伏魔殿。 禁断の果実。その名はカンニング。 果たして公康は、つつがなく試験期間を乗り切れるのか。 次回、七原公康流王道的ラブコメ之日々、後編、 『学問の神、菅原道真でも無理なものは無理です』乞う御期待。
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