目覚めと共に耳へ入ってきたのは、雨音だった。しとしとしとと、まるで上質のホイップクリームの様にふうわり溶けて消える。そんな、目の細かい雨だった。 「ふわあ……」 小さく欠伸を噛み殺し、枕元の時計に目を遣った。六時五分前。何と言うか、習性とは恐ろしい。今日は七時過ぎまで寝ていようと、特に問題は無かった。一応、三人が迎えに来ることになってはいるけど、その時間も普段より一時間以上遅くて、この持て余した時間をどうしようかと考え込んでしまう。 「とりあえず、飯か」 腹が減っては何とやら。今までは、早食いも特技の様なものだったけど、たまには優雅にモーニングタイムというのも悪くない。うちのお袋のことだから、クロワッサンは常備してないと思うけど。 「よぉ、相変わらず早いな」 「兄貴、おはようさん」 階下まで降りてきたところで、洗面所で髭を剃っていた兄貴と鉢合わせした。何だか、大学の活動が忙しいらしく、俺同様、朝が早い。ちなみにその間お袋と言えば、眠ったままだったり、飯を作ってくれたりと安定感が無かったりする。今日の様に未だ夢の中の場合、適当にあるものを食って登校するという訳だ。お蔭様でめっきりマザコンとは程遠い野郎二人に成長した訳だけど、これはこれで何か切ないものがある。 「今日だっけか? 投票日」 「ああ。何とかここまでは漕ぎ着けられたよ。後は運を天に任せる状態だな」 一応は、それなりに緊張もしているのだけど、具体的にやれることが無いのだからどうしようもない。今はまだ、それなりに平静を保っていられた。 「トーストとコーヒー、後はベーコンエッグで良いか?」 「そうだな。そんなもんか」 俺としては優雅なモーニングタイムにクロワッサンは外せないのだが、無いものは仕方が無い。諦めて八枚切りされた食パンを取り出して、マーガリンを塗ると、トースターに放り込んだ。 「それで、どうなんだ?」 兄貴はダイニングテーブルに腰掛けつつ、そう問い掛けてきた。その中身をすぐさま察し、ゆったりと返答する。 「さてね。三割……は無いな。二割あるか無いかってとこじゃないか」 昨日の討論会で、決定的な差を付けた候補は居なかった。となれば前評判が上だった綾女ちゃんが有利として、残りを俺ら三人で割ってせいぜい二割かな、と。まあ、二階堂先輩は無いだろう。昨日の調子では一次から上積みどころか、半減していてもおかしくないし。 「生徒会長かぁ。女の子にモテまくるんだろうなぁ。俺も立候補しておけば良かったぜ」 ああ、やっぱり俺の兄貴だなぁ。テーブルにベーコンエッグを二皿並べつつ、心の底からそう思った。 「兄貴の時は、何か面白いことはあったのか?」 「俺が三年の時、とんでも無い奴が出て来た様な。そうそう、桜井茜だったか。立候補した奴はどうにも思い出せんけど」 選挙さえ終われば名前なんて忘れられても良いというのは本音に近いものがあるけれど、これだけ綺麗に嵌まられるとぐぅの音も出ない。 「あれ、そういやお前の参謀って――」 「桜井岬……血の繋がった実の妹だよ。ついでを言えば、その桜井茜は俺の友人、舞浜千織を立ててきていて政敵に当たる」 冷静に分析すると、随分とドロドロした関係にあったもんだなぁ。 「何だ、仲悪いのか、その姉妹」 「むしろ異常なまでに仲は良さげだ」 この選挙で知名度も上がり、近い内に姉妹の公認ファンクラブも発足することだろう。公康は、票田を手に入れた。頭の中でファンファーレが鳴った気もするけど、敢えて気にするのはやめておこう。 「ま、何にせよ吉報を期待してるよ」 「生徒会長になったら、敬語使えよ」 ハハハと笑って、兄貴は席を立った。兄弟姉妹って奴は、今一つ分からない。同じ親から生まれ、似たようなものを食ってきてるのに、確固たる別人としての生涯を送る。赤の他人と命果てるまで添い遂げる結婚とは真逆で、人生とは何と奥深いことか。 「ってか、暇だな」 話し相手が居ないことには、どうにも間が潰せない。中間試験が近い気もするのだけれど、それはさておいて。仕方ない。たまには朝のニュースにでも目を通すか。いっそ占いコーナーを梯子して、今日の結果を見通してみるのも一興だ。って、俺、対立候補の星座なんて知らないじゃん。岬ちゃんの極秘ノートなら全部書いてあって、目も通したはずなんだけど、忘れたなぁ。 「おい、公康。玄関先に学園の制服着た子達が居るぞ」 「ふえ?」 兄貴の言葉に、間の抜けた声が漏れた。はて。まだ六時半前だし、どういうことだ。考えても埒が明かないので、手にとったリモコンを元に戻し、玄関に足を向けた。 「お、おはようございます〜」 「君達。何をしているのかね」 投票日当日は、選挙活動が禁止される。それ故に、七時前に登校する必要も無い訳で。今日の集合時間は七時四十五分だったはずだ。それでも大分ゆとりがあって、俺の記録としては、八時七分に家を出てホームルームに間に合ったことがある。但し、心肺機能を著しく損なう恐れがあり、多用は危険な荒業だ。 「いえ、なんとなーく、いつも通り家を出てしまいまして」 「私も、私も」 「雨中の早朝散歩というのも、オツなものだ」 どうやら俺達は、相当に似た者チームらしい。 「ま、そういうことなら仕方無い。準備するから、五分だけ待っててくれ」 「三分だ。この雨の中、レディをそれ以上待たすことは許さん」 「へいへい」 遊那のそんな軽口も何だか懐かしく思いつつ、俺は一段飛ばしで階段を駆け抜けた。 「むぅ。そんなにも売れてるのか、その女性シンガー」 「何でも、日本記録を更新する勢いらしいですよ」 「公康、本当に知らないの? 若年層に絶大な人気を誇ってて、知らなければ日本人じゃないって言われてるらしいけど」 「生憎だが、私も初耳だな」 「まあ、遊那ちゃんは置いておいて」 「どういう意味だ、岬」 「恐らく、そのままの意味だろう」 キャラ的に、先日山籠りを終えた神殺剣の継承者と言われても、違和感は無い。いや、前髪をメッシュに染めた奴は居ないか、流石に。 「お?」 学園の最寄駅を出た所で、見慣れた顔を目にする。何だ、どいつもこいつも似た者同士なのか。能天気に思いつつ、そいつの方に足を向けた。 「よ、西ノ宮。おはよう」 「七原さん。おはようございます」 型通りの挨拶を済ませ、彼女の横を一緒に歩く。嫌がっているならそういう顔をする奴だし、問題は無いと思う。 「西ノ宮も目が覚めた口か? いや、俺達も気付いたら集合しててさ」 「再来週には中間試験ですから。少し図書室で勉強しようかと思いまして」 わーい。何か格の違う人が居るぞー。 「昨日の今日で良くそんなに切り替えられるな」 「どれかと言うと、気を紛らわす為でしょうか。いつもやっていることをしていた方が、気負い過ぎずに済むので」 しゃ、喋れば喋る程、自分の小ささを実感させられる気がする。戦闘モードからは程遠いのに、何てザマだろうか。 「それに、今回が最後の選挙になるかも知れませんから」 そっと小声で、だけど力強い言の葉を聞いた。 「どーした。次からは最上級学年になるってのに、その弱気は」 「あなたも、分かっているでしょう。一柳さんに勝てる可能性があるのは、今回が最初で最後です。知名度が上がり、論客として階段を昇り、更に生徒会長として実績を積み重ねられたら、到底、勝ち目はありません。私は、一柳さんに勝つことが最終目標では無いんです。この国の教育システムを刷新し、どの国にも負けない創造性を確立する。生徒会長になるというのは、一つの道に過ぎないんです」 「ま、西ノ宮のいうことも分かるけどな」 官僚になるか政治家になるかは別として、生徒会長になれる望みも無いのに立候補するのは労力の無駄だ。それだけの時間があるのなら、受験勉強なり、社会見学でもしていた方が良いだろう。 「でも、俺は勝ち負けに関わらず、秋も西ノ宮は立候補するって踏んでるけどな」 「何故ですか?」 「思ってたより、ずっと熱いから」 第一印象はさておいて、今までの西ノ宮の印象は、冷淡、事務的、剥き身の刃って感じだった。だけど昨日の討論会で、分厚い金属の鎧を着ているだけだと知った。勝った時はもちろん、負けたとしても素直に引き下がるタイプでは無いと思う。 「折角だから、次からは『熱血の論客』辺りを自称してみたらどうだ」 「それ……格好悪いですね」 放っとけ。どうせ俺にネーミングセンスなんて無いよ。 「ふふ。ですけど、そうかも知れません。勝敗をさておくのは問題ですが、一柳さんと競い合うことで自身を高めることが出来る気もします。どうなるかは分かりませんけど、検討をしてみようと思います」 「って、西ノ宮が笑ったぁ!?」 み、み、み、見間違いじゃないよな。妄想の類か、悪魔の悪戯か。或いはレアフラグを立ててしまったぞと、意味不明なことまで脳内を駆け巡った。 「七原さん……私を何だと思ってるんですか」 いや、つい今しがた熱いとは言ったけどさ。それはあくまで、喜怒哀楽の怒の部分であってさ。人間、インプットされてない展開には付いていけないと言うか何と言うか。 「私、極々普通の女子高生を自認しているのですけど」 それは身の程知らずに近いと思うぞ、西ノ宮。 「話が弾んでいるな、七原」 「一体、何のお話ですか?」 「む〜。二人っきりで何かずるい」 「……」 まあ、こういう真っ当じゃない女子高生ばかりが周りに居ると、感覚がおかしくなる訳だけど。 「別に大した話はしてないな。秋も立候補するかどうか。そんな程度だよ」 要約すればこんなもんだよな。 「あとは、西ノ宮って案外、可愛いとこあるなぁ、とかかな」 「へ?」 「くにっ?」 「ほう」 三人が三人、独特の奇声を上げてくれる。な、なんだ。俺、変なこと言ったか? 「に、西ノ宮先輩。い、色仕掛けによる権力の空洞化ですか。それとも、空洞による色仕掛けの権力化ですか」 とりあえず落ち着け、岬ちゃん。 「そ、そんなことしませんっ!」 そしてムキにならないでくれ、西ノ宮。何か、無駄な誤解を生むでは無いか。 「き〜み〜や〜す〜」 うぉ、何か懐かしいな、この展開。ってか、りぃ。お前の闘気、即ちバトルオーラで雨が雲散霧消していっているぞ。貴様、どれだけの才能を眠らせているのだ。 「今日の調子なら、光速の壁を破れる気がするわ」 科学の限界をさらりと越えようととするな。 「つうか、大事な投票日に何でこんな展開なんだよ!?」 今日も今日とて、俺は俺。拳閃躱して今日も行く。幸せって奴は、一体何処に転がっているのかねぇ。 「ぜえぜえ……ま、まさか学園まで疾走することになるとは思わなかったぜ」 ペース配分さえすれば、そこまで過酷な距離では無いのだが、ほぼ全力だったので、ぜ、全身に乳酸が……。 「ふっふっふ。捉えたわよ、公康!」 こ、こいつは化け物か。どういう筋肉組成をしていればこれだけの時間、動き続けられるんだよ。 「そこまでだ、椎名。校門で揉めていてはイメージダウンだからな。放課後の結果が纏まるまで順延だ」 愛用のデザートイーグルをりぃの後頭部に突きつけ、警告を入れた。この行為自体、イメージダウンだと思うのは、俺の気の回し過ぎなのかなぁ。 「分かった……ここまでの努力を無駄にするのもやだし」 俺、聞き分けが良い子は好きだぞ。 「七原も不用意な一言が多いな。昨日は馬脚を現さなかったようだが、長い目で見れば命取りになる恐れがあるぞ」 重々、肝に命じさせて頂きます。 「ああ、そうだ。言い忘れていたんだがな」 「どうした」 「二階堂陣営の刺客を締め上げておいた。万に一つ、奴が当選することがあれば、暴露して失脚させることにするぞ」 ……はひ? 「すぐざま公開して辞退させても良いんだがな。仮にもカリスマで票を集めていた奴だから、その分は一柳に流れる可能性が充分にある。だったら黙っておく方が懸命だという判断だ」 き、君達、裏で何してるのさ。 「ってか、俺にカリスマが無いみたいな物言いだな」 「あるつもりだったのか?」 「ごめんなさい。そんなには無いと思います」 うわーい。ちょっと反抗してみたら、何だか胸が痛いぞー。 「まあ、細かいことは気にするな。お前はどんと構えて、結果を待てば良い」 「ありがとな、遊那」 「なぁに。報酬をきちんと貰えればどうということは無い」 あ、すっかり忘れてた。対価って、合コンのセッティングじゃないか。やべぇ。何の準備もしてないぞ。 「まあ、何とかなりますわな」 明日のことなんて、幾ら考えても分からない。ならば、今という時を真っ直ぐに生きるということも、決して間違いなんかじゃない。そう自分に言い聞かせると、そっと空を見上げた。 五月雨というのは、本来、旧暦の五月、つまりは梅雨の長雨を指す。だから五月に降っていようと、これは五月雨では無い。だけど俺は、これも五月雨で良いんじゃないかとも思う。理由は、特に無い。候補者達のシャンパンシャワーか、涙雨か。それだけ風情があるものなら、そう読んでも良いかな、と。唯、それだけだ。 公:いや〜。ついにここまで来てしまったね、千織君。 千:全くですよ、公康君。一時はどうなることかと思いましたが。 公:たかだか思い付き一つから、半年以上に及ぶ連載になるとはねぇ。 千:本当に。人生とは奇異なものですよねぇ。 莉:あんたら、何、訳分かんないキャラで話し合ってんのよ! 千:と、という訳で、次回、最終話、『祝福の刻』だよ。 公:な、長かったぜ、マジで。
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