この現実に抗う様になって、如何程の時間が流れたのであろうか。人が人と言う器を持ち、大河の奔流に立ち向かう様に生きてきた現実は変わらない。人は今、何処に向かい、何処に降り立つと言うのか。その問いさえ曖昧なまま、人は目を背けて生きていくのでは無いのかと、時として思う。 「七原ぁ!」 「――!」 遊那の奴に一喝され、一瞬にして正気に戻る。今、俺は何処に居る。周囲が暗いこと。背中に感じる冷たい壁。空気を切り裂く小さな衝撃音から、戦いの最中にあることを認識する。あー、何つうか、飽きないよなぁ。 「全く。この状況でうたた寝とは大物だな」 「ふっ、生まれ持った気質は隠せないということさ」 そういや昔、兄貴に脳の配線が一本足りないと言われたことがあったなぁ。褒めてくれたのかは相当に怪しいけど、とりあえず喜んでおくとしよう。 「ほいで、やっこさん、どんな感じだ?」 「言うなれば、総攻撃って所かね。何しろ明日の演説会さえ終われば、候補者本人が居なくても、一応選挙は執り行われるからな。何らかの形で辞退させるとすれば今日しかない訳だ」 遊那は淡々と、状況を解説してくれる。 「とは言え、ここまで来れば腕や足の一本が折れた所で大勢に影響があるとも思えんがね。残る手段は、明日が終わるまで拉致監禁辺りが現実的か」 遊那さん、あなた自分が何を喋っているか分かっておいででしょうか。それは、極みの付く道の御方の発想ですよ。 「の、呑気に解説してないで何とかしてよ!」 はっはっは、りぃ。まだまだ人間が出来て無いな。この程度で動揺する様であれば、大阪のおばちゃんには勝てないぞ。勝つ必要があるのかに関しては、大分疑問が残るけど。 「慌てるな。エアガンの弾倉なんてのは、改造した所でたかが知れてる。一方は三十秒後、もう一人も四十秒後には尽きる。椎名。その隙に左側から回りこめ。目だけは気を付けろよ」 言って遊那は、防護用のゴーグルをりぃに手渡した。 「お前は大丈夫なのかよ?」 「当たらなければ良いだけだ」 うーわ、何だこの自信。しかしこいつなら、実弾でさえ見切って躱せそうだから侮れない。 「三、二、一、――」 目配せと言の葉で数を数え、零になると同時に二人は飛び出した。刹那、遊那の読み通り、銃声が止む。連中が居るのは、向かい側の雑木林だ。どんな人間が潜んでいるかは知らないが、近接戦闘であの二人に勝てる輩が居るのであれば、最初からエアガンなんか使わないだろう。それほどまで、今の俺は保有戦力に恵まれている。って、待てよ。これは生徒会長選挙だった気がするのだけど、間違い無いよな。 「いい加減目障りだ。捕まえて黒幕を吐かせてやる」 しかし、遊那の作戦ってのが、こんなものだったってのも何だかなぁ。シンプルイズベスト。下手な考え休むに似たりの観点に立つのであれば、良いのかも知れない。だけど、候補者である俺を囮にするってのはどうなんだ。済し崩し的に同意した俺も俺だけど。 「はぁ〜!」 うぉ、あいつ今、りぃの掌底を躱したぞ。しかしその衝撃波で吹き飛ばされるとは、まだまだ温いな。一方の遊那サイドも甘い、甘い。まさかあの至近距離から十連射を避け切れるとは思うまい。遷音速の巫女の異名は伊達では無いのだよ。 「先輩。妙な脳内妄想で一人、盛り上がってますね」 良いでは無いか。どうせ暇なんだし。 「七原。とりあえず鎮圧した」 「お、思ったより何とかなるもんだね」 時として思う。自身が保有する潜在能力を認識しないのは罪か否か。俺の様な者に人様のことをどうこういう資格は無いのだが、りぃの無自覚っぷりを見る度、そんなことを思う。 「ですから、良くこの状況で他のことを考えられますね」 俺も自覚が無いだけで、特異な才能の持ち主なのかも知れない。そんなことを思ってみる。 「ま、良いさ。とりあえずこれで何かが好転――」 「う、動くなぁ!」 不意に、声を聞いた。出所は、りぃと遊那の居る雑木林とは反対側で、身体を翻すようにして、そちらへ向き直る。 「ちっ、伏兵か」 全く以って想定してなかったことでは無い。だが、ここ十日で鍛え上げられた俺の健脚を舐めるなよ。遊那の所まで走って逃げるくらい造作も無いわ。何か情けない気もするけど。 「う、うわー!」 フルフェイスヘルメットを被った暴漢は、ナイフを構えたままこちらに走り寄ってくる。って、おい。俺じゃないのかよ! 「――!?」 岬ちゃんの声にならない悲鳴を聞いた気がした。 「岬ちゃん!」 思考するより早く、身体が動いていた。俺には護身術の心得も無ければ、自慢できる程の腕力も無い。それでも尚、守らなくてはいけないと思った。だけど、間に合わない。俺が割って入るには一歩届かない所で、メット男は、岬ちゃんに到達してしまう。 「はっ!」 ふと、気合の声を聞いた。刹那、岬ちゃんは相手の手首を払う様にして叩き落とし、肘関節を取り、捩り上げると、地面に叩き伏せてしまう。何が起こったか分からず、俺は唯、唖然と見詰めることしか出来なかった。 「み、岬ちゃん?」 今まで、何処にでも居る普通の女の子だと思っていただけに、驚きの声が漏れてしまう。 「い、いえ。選挙参謀にとって体力は基本ですから、少し格闘術を嗜んでたんです。柔術をベースにしたお姉ちゃんのオリジナルですから、そんな大層なものでは無いんですけど」 あの人は何処まで突っ走る気なんだ。いや、マジで。 「さて、と。それじゃ、顔を拝ませてもらいますか」 たかだか学生選挙で、街中のチンピラを雇うとかは考えにくい。となれば、学園内の誰かである可能性が高く、黒幕へ辿り着く手掛かりになるはずだ。 『え――?』 フルフェイスヘルメットの下に隠されたその素顔に、俺と岬ちゃんの声は小さく和音した。 「おい、聞いたかよ。選挙でまた辞退者が出たらしいぜ」 「ああ。現職の大村先輩といい、今年は大荒れだな」 「たしか、一次終了後に辞退しても、繰上げとか無しだったよな」 「そうなるな。これで今日の討論会は五人での決戦か」 「しかし、このタイミングってのはきな臭いな。誰かのリークとかが影響してるんじゃねえか?」 「おいおい、根拠の無いことを言うもんじゃないぜ、スティーブ」 「誰がスティーブだよ!?」 翌日の学園は、程度の差はあれ、何処もこの話題で持ち切りだった。一次選挙通過者に依る、他候補への妨害工作の発覚。国政、地方選挙であれば、謹慎などでは済まず、政治生命が終わりかねない事態だ。まともに教職員へバレれば、退学はともかく、停学程度なら充分に考えられる。だけど俺達は、事実の公表をせず、立候補を取り下げて貰うだけで済ますことにした。理由の一つは、今という時期だ。午後に討論会が控えているのに、下手な弱みは作りたくない。日本人はとかく、火の無い所に煙は立たないと思いがちだから、それだけの妨害を受ける以上、何かがあると勘繰ってしまう。準備期間があるならともかく、半日程度の付け焼刃で、生来の論客である西ノ宮には勝てないだろう。 だけど、それはあくまで付随的と言うか、打算的な部分だ。心の底からこの状況に怒り狂っているなら、岬ちゃんやりぃの制止を振り切ってでも、事実を公表していただろう。小さいながらも政治家として、感情を優先するのは間違っているのかも知れないが、人は何処までも人だ。心が無くちゃ、何も動かすことは出来無い。そんなことを少し思う。 「先輩。何を考えてるんです?」 「いや、選挙ってのは大変だな、って」 そう表現する以外に無かった。それ程までに、今回の一件はやるせない。 「そうですね。私にとってこれが初陣ですけど、きっとこれからもたくさんの人に会うと思うんです。怒り、憎しみ、喜び、悲しみ、苦悩、切なさ、戸惑い、苦しさ、辛さ、憤り、後悔――これをみんな包含して生きていくっていうのは大袈裟ですけど、それでもしっかり見据えていかないといけないんです。少しだけ大変さが分かりました」 溜め息こそ吐かないが、それでも憂いを含んだ表情で言い放った。あれは、俺らにとって、一つの衝撃だった。一晩経った今尚、信じられない、そして信じたくない思いが心の中に残ったままなのだから。 「矢上先輩――あんたが、何で?」 メットの下に隠されたその人物は、『永遠の生徒会長候補』にして、一、二を争う穏健派で知られる矢上春樹先輩だった。根拠の無い仮定で他人を疑うのは間違っているが、この人だけは無いだろうと勝手な憶測があった。その、自分の頭の中だけで完結していた事象を覆され、混乱し、二の句を次げなくなってしまう。 「七原君」 先輩は、小さく口を開いた。 「君は、天運というものをどう考える?」 弱々しく紡がれたその言葉は、そのまま闇に溶けて消えた。 「残念ながら、人は生まれながらに平等じゃない。財力、知力、体力、要領の良さ、口の上手さ、勘の良さ――授かる力はそれぞれで、努力で磨くことは出来ても、決して分以上のものにはならない。これで良く、人は皆平等だと言えるよね」 自嘲気味に吐き捨てた。 「正直ね、僕は嫉妬していたんだ。同い年でありながら、一年生の時点で生徒会長を輩出できる力を持っていた桜井茜君にね。だけど彼女は一度の勝利で一線から退いた。だから続けられた。まだ望みがあった。だけど勝てなかった。そして彼女は戻ってきた。今度も勝てないと思えた。逃げたいとも思った。だけど、四度出馬した僕に降りることは許されない。それは投票してくれた人への裏切りだ。それと同時に、だからこそ戦えた。一次を一位で通過することも叶った。怯えながら、震えながら、無我夢中に走ることで自分を誤魔化し続けた」 息を吸うことさえ忘れたかの様に、一気に捲くし立てた。 「でも、そんなかすかな希望も、一柳君に叩き壊された。一年生だというのに、彼女は強すぎる。自分が優位に立つ為に必要なことを本能で知り、尚、それを実行に移すだけの度量も持ち合わせている。生粋の政治家だと思った」 そこに籠められた感情は嫉妬か羨望か。言葉だけでは判断しかねた。 「君達は、ずるい」 こちらを睨みつけるその眼光は鋭く、また、痛々しかった。 「現在の最有力候補は天性の強運とカリスマ性を持つ一柳君だ。対抗馬は学園きっての論客西ノ宮君か、桜井君を背後に持つ舞浜君。そしてその妹を参謀として抱える君もダークホースとして充分に認識されている。そんな中で、僕みたいな凡人はどうすれば良いと言うんだ。決して越えられぬ壁を恐れ、諦め、失望して生きていけと言うのか」 返す言葉は無い。今回の一次投票通過者は、六人中、半分の三人が初出馬だ。もちろんそこには運の要素もあるが、それだけだと言い切るのは、ある種、傲慢だ。 「僕は……僕は唯、生徒会長になりたかった! 凡庸で何の取り得も無くたって、何かを成すことは可能だと証明したかった! それだけなんだ!」 静けさに満ちたこの場所で、先輩の叫び声は雑木林の木擦れに紛れて消えた。それはまるで、濁流に飲み込まれた小犬の様に無力で儚く、唯、終わりの時を受け入れるしかない現実を見ている様でもあった。 かくして、悲運の三年生、矢上春樹最後の選挙は、二次投票前日、自らの辞退で幕を閉じた。 由:ん〜。矢上君、とんでもないことになっちゃったよね〜。 聡:ふむ。スキャンダルに依る出馬取り消しは政治家の常。 これを糧に高みに登れば良いだけのことよ。 由:私達三年生は、これが最後だけどね〜 聡:それを言うでない、若菜君よ。 由:という訳で、次回、第二十二話『最終討論会開演』だよ〜。 聡:ところで、俺のキャラ、本当にこれで良いのかね?
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