前略、兄さん、久し振りのお手紙ですね。如何お過ごしでしょうか。世間では冬の足音も遠くに聞こえ、間も無く初夏の陽気にさえなろうとしています。時の流れの何と早いことか。嗚呼、今は唯、兄さんの顔を見たい気持ちで一杯です。毎朝毎晩、食事の度に付き合わせている気もしますが、とりあえず聞き流すことにします。 「おい、七原。現実逃避をしている場合か!」 遊那の声でこちらの世界に引き戻され、顔を上げた。薄闇の中、コンクリートの壁を背に、目に見えぬ恐怖と戦う。久々に襲ってきたこの緊張感に、どう対処して良いか分からず、とりあえず色々な意味で原点に帰っていた訳だ。 「うぅ、人間ってのはな、切羽詰った状況に目を背けることこそが楽しい生き物なんだぞ。テスト前に掃除はしても、終わってからはしないのと同じなんだい!」 我ながら、可愛くない語尾だとは思う。 「まあ、その理論の否定はしないが、命が惜しければ真面目になった方が良いと忠告だけはしておく」 「命って……」 たかだか生徒会長選挙で、何でそんな展開になっているのかが疑問なのですが。いや、米国大統領選挙なら分かりますよ。マジな話。 「来るぞ!」 ヒュンヒュンヒュン。幾筋もの風を裂く音が、耳を衝いた。次いで、風船が割れるかの様な炸裂音。ちょっと待て! 何で、BB弾が壁に当たって破裂してんだよ!? 「ちっ、相手も本気か。金属片を使ってこないだけ、まだマシとするか」 「その不透明な理論は何だ!?」 つうか、外科処置的には、破裂された方がよっぽど面倒な気がするのですが。 「それにしても人気者だな、七原。一次投票通過直後からこの調子だと、あと五日でどれだけの客が来ることか」 「そんな人気、欲しくないやい」 歌舞伎町の住人に好かれても、喜んで良いのか微妙なのに通じるものがある。 「逆に朗報とも言えるぞ。相手が本気ということは、それだけ脅威に感じているとも取れるからな。何しろお前は奇跡の合格者だ。実力、実績はさておき、知名度だけはトップレベルに跳ね上がったのは事実だ」 それはたしかに思う。実際、一次で最下位の通過者が、二次で当選した事例は少なくない。つまり、最下位になったことが知名度を押し上げ、同情票や激励票が集まる流れになるのだ。更に言えば、一位通過者は支持者が安心してしまう為、必ずしも優位という訳でも無い。報道機関が流す情報に依って得票率が変わるアナウンス効果に近いものがあると言って良いだろう。 「と言っても、落選した一派の嫌がらせかも知れんがな。少なくても私がその立場なら、奇跡らしきもので当選したお前は、気分の良いものでは無い」 実に率直な意見をありがとう。 「んで、どうすんだよ。このままここに籠もってたらジリ貧だぞ」 何か微妙に壁が削れてきてる様な気もするが、深く考えるのはやめておこう。 「相手の人数が分かっていれば狙撃というのもありなのだけどな。スコープを用いても、認識出来るのは二人までだ」 何か妙なものを装着してると思ったら、本当に持ってやがったのか、赤外線何とやら。 「強行突破しかないな。ゴーグルをつけておけ。目だけは洒落にならん」 「出来ることなら、全身防護スーツとか無いのかね」 この状況なら宇宙服でも遠慮なく着るぞ、俺は。 「走れ!」 合図と共にその場を飛び出し、遊那が牽制として二、三発撃ち放つと、敵の攻撃が一瞬だけ止んだ。俺らはその間隙を縫う様にして道を突っ切ると、向かいの壁を背に大通りまで駆け抜けた。 「ふう、このままじゃ身がもたん」 何とか襲撃を逃れ、繁華街まで来た所で、俺は一息吐いた。それにしても一次を突破した晩にこれかい。本当、どうなってるんだ、今年の生徒会長選挙は。 「だがしかし、この人込みでは襲ってこれまい」 「それはどうかな。暗殺が前提なら、人だかりはむしろ防護壁となってくれる」 無駄に不安を煽るのは、ボディガードの職務ではないと思う。 「それにしても大したものだな」 「何がだよ?」 何に納得しているのか、理解できなかった。 「お前は立候補を取り下げることを匂わせたことさえ無い。恐らく、逃げだしても誰も文句は言わないぞ。たかが生徒会長選挙だからな」 あー、まあ俺もそう思わなくは無い。 「だけど俺はやり遂げるって決めちまったからな。りぃや岬ちゃんの為。そして、投票してくれた百二十三人の想いを受け取っちまったんだ。易々とは降りられない」 不器用な生き方かも知れないが、決めたことを曲げるのは嫌だった。自分に嘘を吐いて生きるのは、必ず何処かで後悔する。だから、俺は俺を貫いて生きようと思う。 「そういや聞かなかったが、お前、一次は誰に入れたんだ?」 遊那はスタッフではあるが、俺の政策や思想に協調した訳ではない。誰に入れようと自由ではあるが、それなりに気にはなる。 「何も書かなかった」 さらりと言ってのけた。 「今日だけじゃない。一次二次含めて過去五回、誰かに投票したことは無い」 「ほう」 白票投票は一つの意思だと言う奴が居る。誰かを支持する気になれないのだから、その意を表す為に何も書かないのだ、と。だけど、現実問題として政治は誰かが仕切らなければならないのだ。無効票扱いとなり、結果として欠席と変わらないなら、その行為に価値はあるのだろうか。つっても、去年の選挙は適当に投票した俺に、説教する資格は無い訳だが。 「何も書かない位なら、俺に入れてくれても良かったんじゃないか?」 義理チョコ状態だが、無いよりは遙かに嬉しい。 「甘えるな。投票は弁舌と人望で勝ち取るものだろう」 「……はい」 完全に正論なだけに、反論する余地は無い。 「んで、何で全部白票なんだ?」 国政、地方選挙とは違い、帰りのホームルームで選挙用紙が配られる生徒会長選挙だ。興味が無いなら、むしろ適当な名を書くのが普通の気がする。つまり、何らかの意図があるのかなとも思ってしまい、雑談がてら問い掛けた。 「何と言うかな。平たく言えば怖い」 「怖い?」 意外と言えば意外なその発言に、鸚鵡返しに疑問符を付けてしまう。 「ああ。選挙ってのは人の意思が反映されるものだろう。学園という小さな世界とはいえ、自分の存在が影響を与えるというのが無性に怖い」 珍しいことを言うと思った。一般的に、人は社会との関係を自覚することで安心感を得る。こいつが言っているのはその真逆。学園というコミュニティに関係することを怖れているのだ、と。 「変わった奴だと思うだろう。残念にと言うべきか、私もそう思う」 やや自嘲気味にそう言い捨てた。 「いや、全く分からないって訳じゃない」 票が纏まっていると気付き難いが、立候補者の当落を握っているのは突き詰めれば選挙民一人一人だ。極端なことを言えば、一票がその人の人生を変えると言っても良い。全員がそこまでの覚悟を持って投票しろとは言わないが、意識くらいはすべきなのかも知れない。 「だが皮肉にもそれが幸いした。私がお前に投票したなら、規程の六十パーセントを越えていたはずだ」 結果論だが、それもまた事実だ。運命の女神様とやらが居るのなら、土下座くらいはしておくべきなのだろう。 「何にせよ、私にお前の名前を書かせたかったら努力することだな。詰まる所、死生を共にして良いと思わせることが最大の口説き文句だ」 物言いは大仰だが、その通りではある。遊那の様に、無効票を投じた人数は百十名。書き間違いがそれなりに居るとしても、勢力としては、十二分に中堅と言える。遊那流に言えば、こいつらを惚れさせることも勝負の鍵な訳だ。 「ところで七原、気付いているか?」 「ああ」 のんびりと話をしている内に、こんな状況に陥るとは想像さえしなかった。背中に嫌な汗が滲み、全身の筋肉が意識せず強張ってしまう。 「ここは、何処だ」 要約すると、道に迷った。いい歳した二人が、長年住み着いている街で迷子になろうとは、間抜け以外の何者でも無いと思う。俺らは顔を見合わせると、深々と溜息を吐いた。 「ふぎゃるるー」 「何で猫に纏わり付かれてるんだ、お前」 「さあな。何故かは知らんが、昔からこうだ」 こいつ、鰹節の霊でも憑いてるのか。猫は人格ではなく、好みで人を選ぶというから、精神が猫に近いのかも知れない。いや、猫は単独生活者だから、逆にかけ離れているという可能性もあるか。 「とりあえず、何とか家には着きそうだな」 非戦闘地域というのは、それだけで有り難い。最近では、家族と一緒に飯を食えるということがこれ程安らぎに満ちたものなのかとしみじみ思ってしまう位だ。 「うむ、選挙を通じて家族の大切さを感じたというのは、次回の答弁で使えるかも知れん」 「市会議員にでもなるつもりか、お前は」 「先のことは分からないさ」 将来をそんな真面目に考えたことは無いが、議員を目指すのも、可能性としてゼロでは無い気がした。選挙自体は半端無く大変だし、やらずに済むならそうしたいが、それと同時に皆の声がとても良く聞こえる。衆議院議員のことを代議士とは言うけれど、民の声を代弁するのが議員の仕事なんだ。それは生徒会長選挙であっても何も変わらない。 「もしそうなったら、SPとして雇ってやろう」 「ほう。上から目線と来たか」 ごめんなさい、ちょっと調子に乗りました。 「まあ、その時は岬も一緒だろうからな。考えておいてやる」 「妙な物言いだな。岬ちゃんとお前の進路は、あまり関係無いだろ」 「バカを言え。お前は私が真っ当にOLなどの職に就けると思っているのか」 成程、自分を良く分かってらっしゃる。そりゃ、友人のツテを頼ってみたくもなるよなぁ。十六歳でその後ろ向きな思考もどうかと思うけど。 「夢とかは無いのか」 「そうだな。月並だが、心を許せる場所で生きてみたいとは思う。それが職場になるか家庭になるかは、想像さえ付かないがな」 こいつが家庭って……やばい、本気で想像が出来無い。りぃは案外尽くすタイプだろう。岬ちゃんはしっかりと仕切ってくれそうだし、茜さんは上手いこと操縦しそうだ。だが、こいつのお嫁さん像と言うと、何がどうなってしまうのだろうか。気弱な旦那でバランスを取るのか、力に対抗できるのは力だけなのか。かなり本格的に考え込んでしまう。 「分からないぞ。収まってみれば意外に、『はぁ〜い、あなた、お・か・え・り』とか言い出すかも知れん」 ええい、心を読むな。と言うより、そんな可能性が本当にあるのか、とことんまでに問い詰めてやりたい気分だが、どうしてくれようか。 「安心しろ。恐らくは愛した男の前でしか見せることは無いだろう」 出来ればその方向でお願い致します。ああ、でも怖いもの見たさでお邪魔したい気分が全くのゼロと言われると、必ずしもそうでは無い。 「何を考えてるのか、分かり易いな、お前は」 すんません、両親にも良く言われます。 「ここまでで良いだろう。又、明日な」 俺の家がある路地まで来た所で、遊那はそう言い放った。俺は片手を上げて礼を示すと、家へと足を向けた。嗚呼、神様。今日も無事に生き残れたことに感謝致しますわ。 「さて、こちらはこちらで仕事をするか」 その小さな呟きと、ガチャリという安全装置を滑らす機械音は、風に紛れて、静かに消えた。 茜:一つ気付いたんだけど。 遊:何だ? 茜:十話からこの十二話まで、一日で起こったことだよね。 遊:更に言えば、放課後からの数時間だけだな。 茜:こうやって、段々段々引き伸ばされて、最後は五分に一月使う様になるのかな? 遊:何処の格闘、スポーツ漫画だ、それは。 茜:何はともあれ、次回、第十三話『白刃の巫女』。 遊:私はしばらく、休むとするか。
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