邂逅輪廻



『二時間目、数学、自習』
 休み時間の選挙活動から帰ってくると、黒板にはでかでかとそう書かれていた。話を聞いてみると、数学の平山先生が貧血で倒れたらしい。虚弱体質で知られる名物教師なのだが、若くて美人の為、人気が高い。儚げな感じが一部生徒に受けて、持ち上げられている訳だ。俺が思うのは、りぃの血を分けてやれば、少しは元気になるかも知れないということくらいだが。但し、型が違うはずなのでお勧め出来無い荒業だ。
 何にせよ、ぽっかりと五十分程の時間が空いてしまった。かと言って、授業中の選挙活動は即立候補取り消しに繋がるので出来無い。事務的な仕事も、岬ちゃんが持っていってしまったので同様だ。りぃ辺りと駄弁って潰すと言うのも手だが、あまり無い機会だ。少し休息に充てよう。真面目に自習するという選択肢に手を付けないまま、俺はそっと教室を後にしたのだった。


 うちの学園はそれなりの進学校ということで名が通っているらしく、毎年幾人もの有名大学進学者が輩出され、そこを宣伝している様だ。と言っても、一学年六百人も居れば、優秀な奴はそれなりに良い成績を残すだろうし、ダメな奴は落ち零れるものだとは思うのだが。ああいう合格者とかで触れ込むのであれば、絶対数では無く、率で提出するのが筋だと思うのだが、どうだろう。全国一万人もの学生を抱えている予備校で、三十名の東大合格者が出たとしても、それは〇.三パーセントに過ぎないのだよ。これは受験業界に潜む闇だとは思わぬかね、ワトソン君――って、何の話だったっけ?
 そうそう。うちは進学校だけに、図書館の設備が充実している。室ではなく、館だ。蔵書数、ざっと五十万冊。第一校舎脇に離れとして二階建ての建物があり、ほぼ全てが書庫として機能している。入り口付近は吹き抜けで、その半分くらいを二階へ昇る螺旋階段で占めている。残りは司書さんと図書委員が座るカウンターや、検索用のパソコンが置かれているスペースだ。
 俺は顔見知りの司書さんに会釈すると、二階奥へ足を向けた。ここの司書さんは話の分かる人で、静かにさえしていれば、昼寝しようが咎めたりしない。もちろんテスト期間中や、受験シーズンであれば、自主的に近付くのを避けるが、今は良いだろう。お気に入りの席に腰掛け、腕を枕に、うつらうつらしようとする。
 ああ、それにしても疲れる。終始笑顔を絶やさず、ひたすらに握手と演説を繰り返す。規則で、活動は朝七時から夕方六時までと決められているので、それ以外はオフと言えばオフではある。だが、下手にスイッチを切ると立ち上げるのが大変なので、結局は二十四時間政治家モドキで居なければならない。本物の政治家は、本当の意味で二十四時間営業な訳だから、大変だなぁとしみじみ思う。俺には無理だ、絶対に出来ん。
 有り得ない仮定をしている内に、意識が段々と遠のいていく。このまどろみがたまらないんだよな。自分がまるで、このまま空気に溶けていってしまうかの様に希薄な感覚に身を任せ、水面にたゆたう木の葉の如く、唯、力無く流されていた。
「――なさい」
 声が聞こえた。
「――ますの?」
 ああ、何だ、夢か。はいはい、起きるのはもうちょっと待って下さい。焦らなくても桃源郷は逃げやしませんぜ、と。言っていることは意味不明だが、夢相手ならこれくらいで良いだろう。
 不意に、耳に違和を感じた。何だ、これは。穴の中に、丸いものが収まって――耳栓の類か? そう認識はするのだが、朧げな頭ではそれが何を意味するかも分からず、又、堕ちようとする。
 途端、大轟音がした。鼓膜を突き破り、そのまま脳を切り裂いてしまうかとも思える半端無い衝撃。な、何だってんだよ!?
 頭で理解するよりも早く、耳に手を掛け、そこから伸びている紐に手を掛けた。引き抜かれたものは、携帯用小型音源――要はイヤホンだった。身体に悪そうなので試したことは無いが、多分、最大音量だったのだろう。これがもし、重低音タイプのヘッドホンだったと思うとぞっとする。大体、今でさえ、頭の中で蝉が大合唱している様な状態なのだ。
「目は覚めましたか」
 女の子の声がした。透き通る様な軽い声。音質で言えば、ソプラノの中でも高い方だろう。唯、金切り声というのでは無く、聞いていて安らぐ優しい声だった。しかし、声はすれど姿は見えず。立ち上がったままキョロキョロと見回すが、誰が居るという訳では無い。
「こちらですわ」
 声を再び聞き、大まかに右下だと当たりを付けると首を下げる。そこに、彼女は居た。隣の席に腰掛け、その手にはディスクレスの音楽プレイヤーが握られていた。犯人はこいつかと、妙に納得してしまう俺が居た。
 ってか、ちっこいな、おい。幾ら座っているといっても、普通サイズの奴ならギリギリ頭が視界に入りそうなものだが、完全に死角だった。今時、珍しいくらい小さいぞ、こいつ。
「何をジロジロ見てますの」
「あ、いや、別に」
 高圧的な態度を取られ、ふと思い出す。肩口まで伸ばしたストレートの黒髪と、釣りあがった双眸。そしてこの小生意気な口調。えっと、たしか名前は――。
「一柳菖蒲しょうぶ
「綾女ですわ」
 古名なんだから、本質的には同じものじゃないか。
「ニアピン賞、プリーズ」
「意味が分かりませんわ」
 安心しろ。正直、俺も良く分からん。
「しっかし小さいな、お前」
 神輿に担がれてる時もそれなりには思ったのだが、こう相対してみると尚のこと思ってしまう。体積で比べれば、俺の半分くらいしか無いのではなかろうか。
「あら。選挙では目立つに越したことはありませんから、案外、重宝してますわよ」
 お、中々逞しいぞ、こいつ。
「そうだよなぁ。とりあえず撫でてみたくなるもんな」
 言って、頭を軽く擦ってやる。うーむ、これ程、撫で易い位置にある頭に、今後出会うことはあるのだろうか。
「今回は許しますけど、次にやりましたら、セクハラ候補として触れ込みますわね」
 ごめんなさい。それだけは勘弁してください。選挙がどうこう以前に、命に危険が生じるのです。
「それで何か用か? 愛の告白なら、順番待ちが生じてる状態だぞ」
 もちろん大嘘だが、無駄にハッタリをかましたくなるのが男という生き物なんだぜ。
「自習時間でしたので、読書をしに来ただけですわ。選挙期間中、中々この様な時間はとれませんもの」
 これまた奇遇な。まあ、全学年で四十クラス近くあるんだから、二つくらい自習でも何の不思議も無いが。さりげなく、率を絶対数に置き換えてお茶を濁している感もあるが、気にするな。
「ですが良い機会ですので、一つ提案をさせて頂きますわ」
「何で御座いましょうか、お姫様」
 ある種、とんでもない嫌味だが、この子なら聞き流してくれるだろう。
「私の傘下にお入りなさい」
 ……は?
「あー、悪い。寝起きか、さっきのショックか分からんが、今一つ聞き取れんかった」
「軍門に下れと勧告しているのですわ」
 どうやら、聞き違いでは無いらしい。
「あなた、どうせ売名、或いは興じる為だけに立候補した泡沫の類でしょう」
 すんません。当初はそのつもりでした。
「どの道、一次を通過する見込みが無いのであれば、早めに票を私に譲りなさい。そうすれば当選後、憶えも宜しくてよ」
 つまり二次投票進出時、俺の支持者をこのお嬢様に誘導しろということらしい。実際、一次投票が確定してからは、どう脱落者の浮動票を獲得するかが勝負の分かれ目だから、この様な取り込みは珍しくないと聞いている。上手く思想の近い生徒会長が当選すれば、多少なりとも運営に影響力を持たせることも出来るから、弱小候補にとっても無益という訳ではない。最良ではなくとも常に次善策をとるのが政治だとは、岬ちゃんの弁だ。
「私に岬さんが加われば、体制も磐石ですしね」
 何だか、俺がおまけみたいに聞こえたぞ、おい。
「うーみゅ」
 何だがいきなりな申し出で、頭の中が混乱していた。一次を突破出来なかった場合は、残った誰かを選ぶべきだとは言われていたものの、それはあくまで仮定の話。今は全力で頑張るだけの俺にとって、あまり現実味の無いことだった。
「別に返答は急ぎませんわ。明後日の演説会か、投票当日か、次に会った時で宜しくてよ」
 そう言うと、綾女ちゃんは立ち上がった。と言っても、座った俺よりやや目線が高い程度なのだが。時計を見てみると、休み時間まで七、八分程度か。俺もそろそろ戻らなきゃな。だけどその前に――。
「綾女ちゃん、ちょっと待った」
 立ち去ろうとする彼女を呼び止めた。
「あら、即決していただけましたの」
「いや、俺は生徒会長になる為に立候補してるからな。一次投票での負けが確定するまで、誰かに付くなんてのは考えられない」
 今、俺にどれだけの支持があるかなんてのは分からない。だけど笑顔で握手に応じてくれた奴も居た。つたない俺の演説を熱心に聴いてくれた奴も居た。りぃと岬ちゃんはもちろん、そいつらに顔向けする為には、何があろうと途中で降りる訳にはいかない。
「だけど、折角だから聞いておきたい。綾女ちゃんは、何の為に生徒会長になりたいんだ?」
 考えてみれば、自分のことで手一杯で、こうじっくり他の候補者と話をすることなんて無かった。茜さんはマジで何考えてるか分からないし、良い機会だ。
「それはもちろん、上からの景色を眺める為ですわ」
 あっさりと言ってのけた。
「山に登ったことはありますわよね。下から眺める山は美麗ですが、上から見るとまるで別の物の様にさえ思える。物の価値は、一つの視点で決められるものでは無いのですわ」
 将来、どの様な職に就こうとも、その経験は生きるとも付け加えてくれた。
「あなたはどうですの?」
 当然の如く返されるその質問に、少し引いてしまうが、小さく息を吸い、ゆっくり言葉を返した。
「俺という人間に何が出来るかは分からない。だけど、何も出来無いと思うのは嫌だし、俺にだって出来ることはきっとある。だから、立候補した」
 ほとんど、岬ちゃんの受け売りだが、今の偽らざる本音がこれだ。知識は後追いで何とかなる。足りない知恵は借りれば良い。俺なんかが生徒会長なんかに収まった所で、何かが動く保証なんて無い。それでも俺はやり遂げると決めた。だからここに居る。決して、逃げやしない。
「分かりましたわ。あなたにはあなたなりの志がある。それならば、一次が終わった時にまた伺いますわ」
 俺が落ちるのは大前提かい!
「ねえ、綾女ちゃん、もう一つだけ」
「何ですの?」
 きょとんとした顔はしているが、気分を害した訳では無いようだ。そっと、言葉を続ける。
「何で俺なの。そりゃ、お互いの演説くらいは聞いてるけど、話したことなんて殆ど無いし」
 岬ちゃんが目的だというのも考えたが、それだったら茜さん狙いで千織を落とした方が効率良い。
「そんなの、誰でも良かったからに決まってますわ」
 言葉を、失った。
「何を成すにせよ、最低限の力は必要――でしたら、弱い方から取り込んでいくのは、至極真っ当な発想でしょう」
 たしかに、一理はある。義を通した政は、後世の人間は評価するかも知れないが、それだけのことでもある。負けた者が残せるのは綺麗事だけだ。
「だけど、俺には出来無い」
 少しだけ、語気を荒くしてしまった。
「票は、意思だ。例え一票、二票でもその数字には思いが籠められている。もちろん、何かを貫く為、数に物を言わせなければならないことがあるかも知れない。だけど、数を集めることを先行させたら、そんなの虚しいだけじゃないか」
 青臭いのは分かっている。世の中は、そんな綺麗になんて出来てはいない。だけどそれだけに染まってしまうのも嫌だった。俺は義を通してみせる。価値観が一つじゃないと言ったのは、他ならぬ綾女ちゃんだ。
「上等ですわ。その言葉、ゆめゆめお忘れにならぬ様に」
 彼女は、その言葉を置いて、去っていった。後に残されたのは、二時間目終了を告げる鐘の音と、呆けたまま立ち尽くす俺だけであった。


「はぁ……」
 昼休み早々、俺は大きく溜め息を吐いた。この時間帯、昼休みの前半三十分は、選挙活動が禁止されている。食事を摂らない者や、早弁、或いは午後の授業にずらす候補が続出した為だ。なので、大抵はスタッフと一緒に卓を囲んで、作戦会議を兼任するのが通例になっていた。
「先輩、どうしたんです?」
「いや、某候補と個人的な討論をして啖呵を切ったのは良いんだが、逆襲が怖くて怯えている所だ」
 俺が言ったことに間違いは無いはずだ。唯、綾女ちゃんの理屈もそれほど的外れでは無い。妙な逆恨みをされて、あの筋肉部隊を送り込まれても敵わん。
「何だか良く分かりませんけど、お父さんが『突っ張りきれないケンカは売るな』って言ってました」
 ああ、桜井パパ、あんた良いこと言うぜ。顔も名前も知らんけど。
「遊那。お前は助けてくれるよな!?」
「生憎、私は有事の際の備えだ。お前が売ったケンカまで責任持てるか」
 薄情者め。それにしてもこいつ、学園内で堂々と愛銃を磨いているが、これはれっきとした規則違反だぞ。なのに誰も指摘しないのはどういうことだろうか。と言うより、こいつが居ることで俺のイメージダウンになっている気もする。本当にこいつで良かったのだろうかと思わなくも無い。
「七原公康さんはおりますの?」
 不意に、声を聞いた。独特の透き通る高いソプラノ。振り返るまでも無く、綾女ちゃんだと理解し、身体をビクつかせた。小動物並とか言うな。俺は、チキンハートなんだよ。
「御指名だぞ、七原。レディを待たせると、印象が悪くなる」
 ええい、遊那。お前は関係無いから気楽なもんだな。不幸なことに、りぃは何かの呼び出し食らってて居ない。自分の身は自分で護るしかないということか。覚悟を決めて、入り口に向かった。
「よ、よぉ、久し振り」
「二時間前にお会いしましたわ」
 そりゃそうだ。その間の記憶が飛ぶ位、くっきりと憶えている。
「先程は好き放題言ってくれましたわね」
「あ、いや、まあ、な」
 言葉にしたことが間違っているとは思わない。だけど、無闇に敵を作る様な物言いをした点は反省している。上に立つものは、刃であるより鞘であれとは、岬ちゃんの談だ。
「ですが、あなたの言うことにも理があると、考え直しましたの」
 ……ふえ?
「相手の考えや思想を無下にして数を得たとしても、それは烏合の衆。いずれ消えゆく運命にあるのは、歴史が証明していますわ」
 はぁ、さいですか。
「ですので、今からあなたの理念を説明なさい。私と合致する部分が多ければ、その時に改めて共闘を申し込みますわ」
 なんですとー!?
「早くなさい。時間はありませんのよ。岬さんも居られますし、よもや喋れないということも無いでしょうに」
 自分の言いたいことだけ述べると、綾女ちゃんは俺の手を取り、席に向かった。あー、もう、こうなったら幾らでもやってやる。何だか、近所の仔猫にでも懐かれたかの様な心持ちで、俺は議論の卓に着いたのであった。





次回予告
※ 茜:桜井茜 綾:一柳綾女

綾:全く、あの方にはペースを乱されますわ。
茜:公康君、面白いでしょう。最近のお気に入りなのよ〜。
綾:お姉様、相変わらず、独特の感性ですわね。
茜:あら、それは綾女ちゃんも一緒よ。
綾:――それはどういう意味ですの?
茜:という訳で、次回、第七話『最強の遺伝子』。
綾:私は誰にも負けませんわよ!




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