――人だよ。 落ちた落ちた、どこから落ちた? ――この建物の上の方からだよ。 落ちた落ちた、いつ落ちた? ――ついさっきだよ。 落ちた落ちた、どうやって落ちた? ――頭から真っ逆さまに。 …………………… 落ちた落ちた、どうして落ちた? ――それは秘密。だけど私は知っている……。
それは突然の出来事だった。 人が声を上げながら落ちて来たかと思うと、目の前で地面に激突したのだ。――いわゆる飛び降りだ。 僕と飛月、そして香良洲先輩の三人はともにその光景を目撃してしまった。 一生の内に一度見ることさえ確率の低いその現場に立ち会ってしまった僕は、とりあえず警察に通報し、今は警察の到着を待っている。 再び遠巻きに墜落現場の方を見てみると、早くも人が集まりだしている。 夏休みだというのに、キャンパスには結構人がいるものなんだなぁ……。 「よし、莞人氏、飛月氏。我々も現場に行ってみましょう」 「え? って、先輩待ってくださ……、まったく!」 「ちょ、置いてかないでよ莞人〜」 先輩が現場に向かって走っていくのを見て、僕と飛月も仕方なくついていった。 ……近づくにつれ、鼻を突く気持ちの悪い臭いがしている気がしてきた。 人だかりが出来つつあるそこに辿り着くと、臭いは最早気のせいではすまないくらい濃くなっていた。 人だかりの更に奥に行った先輩を追って、僕も更に進む。……鼻を手で覆って。 そして、臭いが一段と濃くなったそこに、先輩は佇んでいた。 「先輩! 何でこんな近くに……うわぁっ!」 先輩に声を掛けているときに目を移した先にあったものを見て、僕は思わず驚いてしまう。 視線の先にあったもの。それは、墜落した“ヒトだったもの”……。 うつ伏せになった“それ”は、手足はありえない方向に折れ曲がり、墜落の衝撃でか横を向いた頭部の地面に接した部分がまさしく“潰れて”いた……。当然ながら息は無い。 まさしく地獄絵図。 そして、飛び散る大量の血がさっきからの臭いの正体だと分かった……。 「ど、どうしたのよ…………ひっ!」 遅れて追いついた飛月も悲鳴は上げないものの、“それ”を間近で見て目を見開いてしまっている。 しかし先輩は動じない。むしろ、その“それ”をまじまじと見ていた。 「せ、先輩?」 「ねぇ、莞人氏。彼……見たことが無い?」 あくまで冷静な質問。 ――彼? ……あぁ、もしかしたらこの落ちた人のことだろうか? ……確かにかろうじて見える顔や白髪混じりの頭髪、着ている背広等は“それ”が男性である事を示していた。 だから“彼”なのか――僕はそう勝手に納得した。 しかし、それとこれが誰か分かるかなんてのは、まったく違う問題だ。 僕は首を横に振る。 「知るわけないでしょう! 第一、この人顔が……潰れているから正確に分かる訳ないじゃないですか!」 「えぇ。今の状態ならそうですが……。さっき落ちる直前に聞いた声、それにこの格好……私の予想が正しければ……」 そこで先輩は飛月の方を向く。 「あなたも薄々そう思っていたりしない、飛月氏?」 「……え?」 「あなた、あの声に聞き覚えなかった? それと彼の格好に……」 「そ、それは……」 飛月が焦った表情を見せるが、僕には一連の会話の意味が分からない。 「え、え? もしかして二人は何か分かっていたりするっていうの?」 「莞人……えっとね、その……」 「私の予想が正しいとすれば……考えたくない事だけど、ここにいるのは――」 ――おい、とっとと道をあけろ、こらぁっ!―― 先輩が喋っている時、背後が騒がしくなり、野次馬の間から二人の男が出てきた。 一人は白衣を着た横長眼鏡の若い男。 もう一人は、茶に染めた髪を軽く立てたラフな格好の男。 男達は、僕達のいる位置よりも更に遺体へ近づこうとしており、白衣の男の方が先輩を突き飛ばして先へ進もうとした。 「そこをどけ!」 「きゃっ!」 「危ない!」 先輩が倒れそうになるのを飛月が何とか支え、彼女は男達を非難した。 「こぉら! 女の子を突き飛ばすってどういう了見なのかしらぁ!?」 男達は言葉に反応し、飛月のほうを向くが、それも一瞬の事ですぐに遺体の傍に膝をつき、それを見始めた 「ちょ、ちょっと! 無視しないでよ!」 しかし、男達は相変わらず無視を続け、そして少しして白衣の男の方が立ち上がった。 「くそ! やっぱり教授だった……」 「そ、そんナ! 一体どうしテ!」 そんな言葉にもう一人の茶髪の男の方が、少々イントネーションのおかしい日本語で訴えながら肩を掴んで詰め寄った。 どうやら、茶髪の男は日本人ではなさようだ。 すると白衣の男は肩を掴むその手を払いのけ、苛立ち気味に叫ぶ。 「知るか! 俺だって今の状況を確認しきれてないんだ! とりあえず今は警察を呼んで……」 と、男が携帯をポケットから取り出し、電話を掛けようとしていたので、僕は慌てて声を掛けた。 「あ、あの……!」 「何だ!? さっきからぎゃあぎゃあとうるさいと思っていたら……」 白衣の男があまりに苛立った顔をしていたので、思わず尻込みしてしまう。 一方の飛月はそんな態度に更に怒りを増幅させていたが、僕はそれを何とか押さえて答えた。 「警察になら僕がもう通報しておきました。もうじき来るはずです」 「……そうか。そうだったら早く言えよな……」 僕の言葉を聞いて、男は携帯をしまう。 そして、そんな男に興奮気味に声を掛ける茶髪の片言男。 しかし……遺体を見て“教授”ってあの人達は言っていたよなぁ……。 それに香良洲先輩と飛月の二人も知っている風だったし……。 じゃあ、あそこにいる“教授”っていうのは、もしかして……。 と、そんな事を考えているときだった。 蝉のけたたましい鳴き声の間から、パトカーのサイレンの音が段々大きくなって聞こえてきたのは……。 「警察です! はいはい、そこ道を開けてくださいよ〜!」 背後を見ると、そこには遠巻きに現場を見る野次馬達をかき分けて近づいてくる警察関係者の姿。 そして、その中心にいた中年男性と長髪の若い女性には見覚えがあった。 「み、源警部!?」「あ、なっちゃん刑事だ!」 僕と飛月はほぼ同時に声を上げた。 すると、その声に向こうも反応して、こちらの存在に気付くと近づいてきた。 「おや、君達は……たしか谷風探偵の弟くんに九十九飛月さんだったかな? いやぁ、久しぶ――」 「誰が“なっちゃん”ですってぇ!?」 警部の声に被せるように、苑部さんが僕達に言った。 ――というか、何故か僕のほうを見ているような……。 「私はねぇ、その名呼ばれるのが世界で五番目くらいに嫌いなの! 分かってるの?」 「ぼ、僕はそんな風に呼んでないですって!」 しかし、彼女は僕を睨むのを止めない。 「あぁ……言葉を思い出すだけで、あの忌まわしい男の言葉を思い出してしまう……」 「いや、だから……」 「いいじゃないですかぁ! “なっちゃん”って名前可愛いでしょう?」 その“忌まわしい”言葉を発した元凶である飛月が、全く悪びれずにフォロー……というか横槍を入れてきた。 苑部さんは相変わらず激昂している。 「良くないから言ってるのでしょう! そ、それに可愛いだなんて……私はもうにじゅう――」 「ま、いいんじゃないの、苑部君? 私はその呼び方もいいと思うよ」 今度は警部が苑部さんの言葉を切って割り込んできた。 「それに市民に親しみを持って貰えて何よりじゃないか。なぁ、君もそう思うだろ?」 「え? あ、そ、そうですね……」 突如話を振られたが、とりあえずここは頷いておく。 「ま、そういうことだ! 今はここら辺でいいだろう? そろそろ話を進めたいんだがな……」 「わ、分かりました……」 流石に上司には反抗できないのであろう、苑部さんは早々と引き下がった。 すると源警部はようやく本題に入った。 「それで、だ。君達は今回の第一通報者の名前がたしか“タニカゼ”……とかいうらしいのだが、それはやはり……」 「え? あ、はい……それ、僕です」 警部はその言葉を聞いて、やはりか……と頷いた。 「むう、やっぱりそうか。じゃあ、通報当時の状況を教えてもらいたいのだけど……」 警察に連絡した際に、名前を聞かれたがこういうことだったのか……。 何はともあれ、僕はとりあえず、あのおぞましい光景をもう一度思い出しながら話し始めた……。 男の叫び声が聞えたと思ったら……堕ちた。 説明を極限まで簡潔にするとそうなる。 僕は、そこまで簡略にまでは行かないものの、あまりくどい説明はしなかった。 相手にわかりやすく説明する為にも、自分の脳内で細かく惨状を再生させない為にも……。 「ふむ――血の飛び散り具合からいっても、相当高い場所から落ちたことになるが……」 「周囲にこれよりも高い建物はないですし、十中八九ここの高層から落下したと考えて良さそうです」 僕の話を一通り聞いて、源警部と苑部さんはそんな会話をしていた。 そして、そんな時に一人の制服警官が二人の傍にやってきた。 「源警部! 所持品と野次馬の証言から遺体の身元が分かりました!」 「ほう。……で、一体ホトケさんはどこの誰なんだい?」 「は! 転落したのはこの大学の理工学部応用化学科の教授である 応用化学科の入瀬教授……。 確か、テレビとか雑誌でもよくインタビューを受けている化学界では有名な人だったはずだ。 それに応用化学科ってことは……飛月や香良洲先輩が知っていてもおかしくはない。 だから、さっき遺体の傍にいた時、二人は何かに気付いていたんだ……。 「ふむ、ここの高層部に研究室か……。そこの研究室の関係者とは話できるかな?」 「身元を確かめてもらった野次馬というのが、その研究室の学生達なんです。あちらで彼等を待たせておりますので!」 警官が指し示した方向には、先程遺体に近寄っていた白衣の男達がいた。 「あ、ご苦労さん。今すぐそっちに向かうよ」 「はっ!」 警部が返答すると、警官は再び人ごみへと消えていった。 そして、警部と苑部さんはこちらを振り向きてきた。 「いやぁ、情報提供感謝しますわ。それじゃ、我々はまだ聴取があるので今日はこれで結構です」 「後日また聞く事があるかもしれないけど、その時はまた連絡するから。じゃ、また」 「谷風探偵によろしく言っておいてくれよ〜」 そう言って背中を向ける二人。 そして向こうに向かって歩き出したが……それについていく人がいた。 ――香良洲先輩だ。 そしてその背後の気配に気付いたのか、警部が振り向く。 「……え、え〜と……君は?」 香良洲先輩は仰々しく頭を下げて自己紹介を始める。 「私は香良洲結華。理工ミステリ同好会所属の二年生です。莞人氏と飛月氏は私の後輩にあたります。以後宜しくお願いしますね、警部殿?」 「せ、先輩……また一人で暴走して……」 僕と飛月も仕方が無く、先輩のもとに駆け寄った。 一方の警部は困り顔だ。 「え、え〜っと香良洲さん? 私に何か用ですかな?」 その問いに、先輩はこれまた凄い発言で返す。 「捜査協力、してあげます」 沈黙。 …………え、何で? それは僕だけでなく、その言葉を聞いた全ての人間がそう思っただろう。 「……ど、どうしたんです、香良洲先輩……?」 そして、その周囲を代表して飛月が尋ねた。 しかし、その問いを聞いて香良洲先輩は不思議そうな顔をしていた。 「だって、事件の第一発見者が事件の捜査に携わるのはミステリの基本でしょう? ほら火曜サスペンスとかで……」 「……………………」 再び沈黙。 さ、流石、香良洲先輩といったところだろうか……。 「と、言うわけで私達三人がこの事件の犯人を見事暴いて見せます!」 私――達? どうやら僕と飛月もカウントされているようだ。 しかし、そんな先輩の言葉を苑部さんが一蹴した。 「……あのねぇ、ミステリ研究会だかなんだか知らないけどね、現実でそんな簡単に民間人を捜査協力させるわけじゃないの。分かる?」 「……そうなんですの?」 いや、僕の方を見られても……。 「それに、事件が起きたら何でもかんでも殺人事件と結びつかないの。今回だって犯人なんているかどうか……」 そこで苑部さんが口ごもる。 どうやら、言葉から察するに警察は当初からこれを飛び降り自殺だと考えていたのだろう。 その考えには僕も異論は無かったが。 「まぁ、そういうことでね。君達に捜査協力は頼めないんだ。悪いね」 「そうそう、本の知識だけのあなた達の力を借りなくても、プロの私達に任せていればすぐに解決する訳」 やんわりと拒否する警部とは対照的に、苑部さんは挑発的な言葉を投げかけた。 「さ、分かったら、捜査協力のためにもここを離れていてくれると嬉しいんだけどね。それじゃ」 そんな言葉を残して、二人は去っていった……。 残されたのは意外そうな顔をした香良洲先輩、そして呆然とする僕と飛月だけだった……。 ま、当然の事なんだけどね。 だけど、この方々の不満は募る一方のようで……。 「捜査協力をすると言っているのに、どうしてそれを断るのかしら? これはいわゆる警察の横暴なのでしょうか?」 「まぁ言い分はわかるけどさ……なっちゃん刑事め……最後の台詞は納得いかない〜!」 色々と不満はあるかもしれないが、今回ばかりはどうにもならないって……。 前回は駿人が冒頭で上手く事件に絡んだおかげで警部の信頼を得られたけど、今回はただ第一発見者という立場なだけだからなぁ……。事件に絡める要素が無い。 そんな事を考えながら諦めていた僕だったが、突然香良洲先輩に声を掛けられた。 「莞人氏? あの二人は警視庁捜査一課の所属ですよね? 名前は源と苑部で――」 「え!? は、はぁ、そうですけど……。それが一体……?」 先輩はおもむろに携帯電話を取り出すと、それをどこかに掛け始めた。 「か、香良洲先輩?」 しかし先輩は答えない。 そして電話が繋がったのか、いきなり喋り始めた。 「あ、叔父様? 私です、結華です。実は――」 僕から遠ざかりながら、電話で会話をする先輩。その会話内容は聞き取れなくなった。 しかし、すぐに先輩は戻ってきた。その顔は満足げだ。 そして再び、警部達のいる方へ向かおうと歩き始めた。 「ちょ、ちょっと! そっち行ったら、また警部……というか苑部さんに何か言われますよ!」 「大丈夫です。今度こそは……」 「な、何が今度こそなんですかぁ!?」 先輩が歩みを止める事は無く、結局僕達は、警部達の元にたどり着いてしまった。 その時、警部はあの白衣の男達と会話をしていた。まぁ、会話といってもいわゆる聴取なわけだが。 そしてそんな仕事中の彼の肩を、先輩は叩いた。 「警部殿? 少しよろしいですか?」 「……ん? って、何だ君達かい? えぇっとねぇ、だから今は忙しいから後にしてもらえないかな?」 少し困ったような迷惑なような表情を浮かべる警部。当然だろうな……。 隣にいた苑部さんなんかは露骨に嫌そうな顔をした。 「ちょっとちょっと! あんた達、これ以上邪魔すると公務執行妨害で拘束するわよ!」 「まぁまぁ苑部君、もう少し落ち着いてもいいだろう。……まぁ、というわけで今は少し離れていてもらえ――と失礼」 苑部さんをなだめていた警部が胸ポケットから携帯電話を取り出し、開いた。 「はいはい、こちら源ですが……――え?」 それからの警部はいつもより、更にかしこまった喋り方をした。 「はい、えぇ、はい」と、相槌を打つ度に心なしか腰も少し折っているような気もする。 「――はい、そうです……はい……え? あぁ、了解しました……。あ、苑部君? ちょっと君に替わってくれと……」 「私にですか? ……はい、もしもし苑部です。只今替わりました。…………は、はぃぃ!? え、えぇ、はい! そうです……」 電話を替わった苑部さんも、警部同様の喋り方と態度を示していた。 一方、話を終えた警部はこちらを驚いたように見ていた……気がした。 少しして、苑部さんも通話を終えたようで、こちらを警部同様の視線で見てきた。 「まさか……でも、やっぱりそうなんですか?」 「あぁ、名前を聞いたときから、もしかしたらとは思ったが、本当にそうだったとはな……」 なにやら小声で話し合うのが聞えてくる。 ……一体電話の向こうに何がいたのだろう……? そして何故か、先輩が自信満々であるように見えた。 先輩はその表情のまま、警部達に近づく。 「もう一度聞きますよ。協力させて頂けますか?」 またあんな事を言っているよ……。 どうせ追い出されるに決まってるじゃないか。 しかし、その返答は予想外のものだった……。 「………………ま、まぁ民間人の協力を名乗り出ているのを無下に断るわけにもいかないしなぁ、そうだろ苑部くん?」 「え、えぇ! そうですよね! 市民あっての警察ですしね!」 何だか言葉がどこかわざとらしいが、ともかく先輩の要請は何故か通ったようだ……。 そして、警部はこちらを改めて向き直る。 「と、言うわけで多少なら協力を受け入れよう。……それじゃ、彼等には苑部君、君がついて面倒をみてやってくれ」 「え、わ、私ですか!?」 「まぁ、私は陣頭指揮をとらねばならんし、今後の為の勉強だと思って頑張ってくれないかな、わはは!」 「ちょ、そんな強引な……」 苑部さんは、驚いた表情のままだ。 突然、素人の僕達の面倒を見ろ――とどのつまり子守りをしろということだ――と言われたら当然だろう……。 しかし、そんな心境を知ってか知らずか、飛月が気軽に苑部さんの肩を叩いた。 「よろしくね、なっちゃん!」 「だから、なっちゃんって呼ぶなって言ってるでしょう……」 苑部さんは、これからの苦労を想像した為か、力無くそう突っ込んでいた……。 「……んで? 何かそっちで色々話してるみたいだけど、俺達の方はもう終わったって事でいいのか?」 僕達がそんなやりとりをしていると、元々聴取を受けていた白衣の男が、気だるそうにそう言ってきた。 その横にはあの片言の茶髪男もいる。 確か、彼等は亡くなった入瀬教授の研究室の関係者のはずだ。 「あぁ、申し訳ない。すこし立て込んでしまいましてねぇ。じゃあ、続けましょうか」 警部は声に気付くと、慌ててそっちに向き直った。 すると、その横にいた苑部さんが僕達に小声で喋りかけてきた。 「あの白衣の人が研究室助手の 「あ、どもです、苑部さん……」 「まぁ、後で忙しいときに聞かれてから教えるよりは、私が今のうちに教えておいた方が楽だから……」 苑部さんは照れ隠しなのか、そっぽを向いている。 「なっちゃん、案外親切だねぇ」 「だから、なっちゃん言うなっての! それに案外って何よ!」 声を荒げている苑部さん。 当然その声は警部達にも聞えるわけで、彼等(特に穂積助手)は少し怪訝そうな顔をして振り返った。 「も、申し訳ありません!」 「まったく……。こっちはこの後も色々と忙しくなるから、ちゃっちゃと終わらせたいんだよねぇ」 穂積助手は、どうも面倒くさそうに聴取を受けているようだ。 仮にも自分のところの教授が死んだというのに、態度が悪いような……。 すると、そんな穂積さんに香良洲先輩は果敢にも近づいていった。 「な、何だよお前は……」 穂積さんと袁さんは、その接近に少し動揺したような表情を示す。 銀髪ツインテールに黒服というある意味異様な格好の女性にいきなり接近されたらのだから、それは仕方が無い事かもしれないが……。 そして、先輩はそのまま二人を見つめながら口を開いた。 「あなた方、入瀬教授が殺された時のアリバイはありますか?」 「…………は?」 穂積さんと袁さんの顔はまさしく目が点になっていた。 二人だけではない。警部や苑部さん、そして僕も同様だ。 「せ、先輩? 今なんて……?」 「殺された……って、あなた何言ってるの!? どうしてそんなことが断言出来――」 「えぇ。私は、これを殺人だと思うのです。理由もあります」 苑部さんの言葉を遮って、先輩は力強く断言した。 「思えば、私が教授の落下しているのを見た瞬間に薄々は感じていたんです。あの時、彼は叫んでいましたよね? あれがきっかけです」 「さ、叫び声がどうして……?」 飛月は頭にクエスチョンマークを浮かべていた……ように見えた。 「あの叫び声は自分が落ちていることに驚いているような声でした。もし自殺なら、死を覚悟しているのだから、わざわざそんな声をあげる必要なんて普通無いでしょう?」 言われてみれば……確かにそうだ。 普通、飛び降り自殺ってヤツのイメージは、無言でいきなり地面に叩きつけられるものだ。 ……でもまだ、殺人と決まったわけではない。まだそれ以外の可能性だってある。例えば…… 「不慮の事故って事もあるが……」 そう、警部の言う通り事故説だってある。 しかし、先輩はそれも否定する。 「私は教授と授業で何度か面識がありましたが、彼は極めて慎重な性格でした。そんな自分が高層にいるのを知ってながら落ちるような真似をする人ではないと思います。研究室のお二方もそう思うでしょう?」 すると二人は慌てて頷いた。 「あ、あぁ……。うちの教授は確かに慎重だからそんな事はないと思うが……」 「……ボクもそう思いまス。間違って落ちるナんて事はまず考えられないと思ウ……」 こちらは精神論的な話だったが、まぁ慎重な性格の人間が間違って高いところから落ちるよな状況を作る可能性は低いだろう。 ……こうなると教授は誰かに無理矢理落とされた――つまりは殺人の可能性も出てくるわけだったが、穂積さんはそれを必死に否定した。 「だ、だけどよ! だからって教授が殺されたなんて事は無い! そうだろ、袁!?」 「ソ、そうですね……。ボクもこればかりはどウにも出来ない事だと思うンですけど……」 二人の顔は少々困惑気味だ。 「ほう、どうしてそう思うのですかな?」 警部が尋ねると、穂積さんと袁さんはただ一言、こう言った。 ――実際に研究室に来れば分かる、と。 穂積さんと袁さんの言葉を受けて、警部達は実際に十九階にある入瀬教授の研究室で話を聞く事となった。 十九階へと向かうにはエレベーターを使わなければならなかったが、現在は警察関係者や大学の人たちでごった返していて、すぐには乗れず、警部や穂積さんたちと僕達は別々のエレベーターに分乗する事となった。 そして、警部たちが先に上へ行ってしまい、次に来るエレベーターを待っている間、飛月が不意に喋る。 「先輩、さっきのあれ、すごいじゃないですか! まるで名探偵のようでしたよ!」 飛月は、尊敬の眼差しとさえも見えるような目を向けていた。 対する先輩もまんざらではないようだ。 「あれくらいはミステリ愛読家として当然です。それに、ミステリでは自殺は疑えってよく言うでしょう?」 「成る程!! さすが私達の先輩です!!」 「いや……その論点もどうかと思うんですけど……」 僕は、無駄と分かっていつつも一応ツッコミを入れておく。 しかし、先輩の言う事にも一理あった訳で、その言葉が通じた為に今、研究室へ向かっているのも事実だった。 「……ちょっとちょっと!」 先輩と飛月が会話を続けていると、苑部さんが僕の服の袖を引っ張って、耳元に話しかけてくる。 「一体何なの、あの子!? 捜査に参加することはまぁ認めるとしても、これからもさっきみたいに出しゃばられるとこっちとしても困るんだけど……」 「そ、そんな事僕に言われても……」 どうやら苑部さんは僕に先輩のストッパーになれとでも言いたいのだろうけど、それは無理な相談だ。 先輩は、飛月とはまた違った意味で強い人で僕が到底かなう相手でもない。 「あの子を見てると、何か前の……そう、あの陶芸家の事件の時のあいつを思い出しちゃうのよ……」 「あいつ……って、もしかして駿兄ですか?」 「……………………。と、とにかく! こういう事件は普通は警察という公的機関がちゃんとした手順を踏んで捜査して解決するのが常道なわけ! そこら辺はわかる!?」 「いや、だ、だけど源警部は、この前駿兄に『次があったら頼む』みたいなことを……」 その瞬間、苑部さんの目つきが変わった。 どんな風に替わったかはここでは表現できないが。 「はい、申し訳ありません。僕が過ぎたことを申してしまいました」 何はともあれ平謝り。それが今、僕に出来るコト。 「とりあえず、私も気をつけるけど、彼女達の暴走にはくれぐれも目を光らせておいてね。あなたが一番まともそうだから頼んでるのよ」 「…………わ、分かりました。出来るだけのことは……」 と、そこで悪寒が体中を走った。猛暑の夏だというのに……。 原因を探そうと、視線を移してみると、それはすぐに分かった。 なぜなら、悪寒の原因は目の前にいた飛月の視線だったからだ。 その目つきは普段どおり――に見えるだろう、常人なら。 だが、僕には分かる。それが、“あれ”の発動する前の目つきだと。 「随分、なっちゃん刑事と仲がいいのねぇ?」 飛月が目つきをそのままに口を動かす。 ……仲がいい? 今まで僕達がひそひそを話していた事か? 「あ、あぁ、これは別にそういうわけじゃ……」 「なら何で、そんなに体を密着させているのかな?」 密着……? あぁ、そうか。今、エレベーターホールには人がごった返していて、人同士が接触しあわざるを得ない状況を言ってるのか? 確かに、苑部さんと僕もひそひそと話していた事もあって、随分くっついてはいたが…………あ。 その時気付いた。……僕と苑部さんの二人が同時に気付いた。 よく見てみると、僕の腕の辺りに苑部さんの胸の大きな“それ”が当たっていた。“それ”は柔らかく、かつ弾力があって……。 ……と、今は評論をしている場合では無い。 慌てて僕と苑部さんは距離を置いた。 「よ、よし! 落ち着こう! これはまぁ、いわゆる偶然の一つであって……」 「そ、そうよ。私達だって今になって気付いたのよ。誤解しないで!」 「イエス、イエス! そういう事だから、まぁ気を落ち着かせて……って、その拳は何? オ、オーラが見えるんですけ――ぶるぉあ!!」 ――拝啓、駿太郎兄さん。 あなたがいなくとも、この展開は避けられなかったようです…………。 気付いたらエレベーターは十九階に到着していた。 そして、エレベーターを出て廊下に出ると、警察関係者が集まる部屋へ向かった。 そこは『応用化学科 入瀬研究室』とプレートに書かれた部屋だった。 中に入ると、そこにはデスクやパソコン、本棚などが雑然と並べられている。 そして、そんな部屋の隅に、先に上へ行っていた源警部や穂積さん達がいた。 僕達もそちらへと向かう。 「エレベーターが混み合いまして少し遅れてしまいました!」 「お、ようやく来たかね。ちょっと紹介しておくよ。こちら 「栗林です……」 そう言って警部が紹介した栗林さんは、お下げに眼鏡という容姿で失礼な言い方だが、いわゆるパッとしない女性だった。 引き続き、警部はこちらの紹介もするようだ。 「で、こっちが部下の苑部君と、あとは……」 「我々は理工ミステリ同好会の香良洲結華と以下、谷風莞人と九十九飛月です。以後お見知りおきを」 「は、はぁ……」 先輩の自己紹介に、栗林さんは面を食らったような表情を見せた。 そして、そんな栗林さんの様子をものともせず、先輩は間髪いれずに言葉を続けた。 「ところで警部殿、何か新しい事は分かったのですか?」 流石、先輩……。いきなりすぎるぜぇ……。 そして一方で、そんな先輩の態度を見て、苑部さんは僕の背中を小突いて睨む。 ……だから、僕に止めるのなんて無理なんですよ……。 「ふぅむ、それなんだがねぇ……穂積さん達の証言と今聞いた栗林さんの話を合わせると、どうも結局、事件性は薄いんじゃないかなって思えてきたんだよね」 先輩の問いに対して、警部はすぐさま答えてくれた。 しかしすると、飛月と先輩は驚きの声を上げて、警部に詰め寄る 「ど、どどどうしてですの!? さっき私は自殺でも事故でもない事を証明しましたよねぇ!?」 「そうですよ! もしかして警部さん、先輩の言葉を忘れちゃったんですか!?」 「お、落ち着いてくれ! どうどう! ちょっと私の話を聞いてくれ!」 「そうだよ、飛月もとりあえず暴力はよしてってば! 僕のためにも……」 今にも警部の首を絞めそうだった飛月を僕が何とか引き離す。これ以上やられたら僕の今後にも関わるし……。 警部は改めて神妙な面持ちとなって、背後にあったドアを叩いた。 そのドアは、廊下に続くものとは違う方向、具体的には隣の部屋の続く向きに取り付けられている。 「研究室にいた彼等によると、被害者は落下するその時までこの向こうにある教授室という個室にいたそうだ。つまり、その教授室から飛び降りたといってもいいだろう」 調べてみると確かに落下地点は教授室のほぼ真下だったし、窓も開いていた、と付け加える。 「それで、落下当時の教授室なんですが、どうも窓以外の全ての入り口が内側から施錠されていたみたいなんだ。そうだったね?」 警部が袁さんの方を見ると、彼は「え、エぇ……」と小さく答える。 「ということは、ですよ。つまりまぁ、ミステリ好きの方の好む単語で言いますと、ここは落下当時“密室”だった訳ですよ。分かりますよね?」 「と、いうことは誰かがその教授室という部屋に入り込んで被害者を落として殺害する、という行為は出来なかったという事ですね?」 苑部さんの問いに、警部は大きく頷く。 「つまりは、そういうことなんです。だから我々としては事件性が低いのでは……と言ったんです」 「そ、そんな……」 飛月が落胆の声を上げた。 いや、事件じゃないから落胆というのもおかしい話だが……。 かく言う僕も、結局ここまで引きずり回されて結局、事件性無しというのは正直寂しい気もした。 しかし対する苑部さんは、嬉しそうな表情を隠しきれずにいるようで僕達に話しかけてくる。 「じゃ、そういうわけで、後はあなた達の力を借りなくても大丈夫ってことだから。今日のところは帰ってもらってもいい――」 「鍵の閉まった部屋、密室、自殺偽装……燃える、燃えますよぉ……」 そこで奇妙な声。 もとい、奇妙な言葉。 その発生源は自分のすぐそば……隣だ。 誰が発したかなんて、読者の皆もう分かっているだろう? そう、あの人だよ…………。 「これぞまさしく我が理工ミステリ同好会の初事件を飾るのに相応しい難問です!! そうでしょう、莞人氏、飛月氏!」 あぁ……なんか妙に燃え上がっている……。 そうだった。 こんなことで諦める程、彼女はヤワじゃないのだ。 そう、良い意味でも悪い意味でも……。 「密室上等!! 私達理工ミステリ同好会に解けない謎はありません!!」 そのまま高笑いが聞えてきそうな台詞に、周囲は唖然としている。 しかし、誰にもそれは止められない。 それは………………彼女が香良洲結華という人だからだろう。 僕たちはまだまだ先輩につき合わされるみたいだ……。 <地の巻へ続く!!>
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