序章 〜日る子〜 大海原を、一つの葦舟が漂っている。 その葦舟には、小さな赤ん坊が乗せられていた。 大いなる父神と母神の間に生まれた、第一子。 彼の身体には骨がなく、三才になっても足が立たなかった。 故に父神と母神は葦で造った舟に乗せ、その子を海に流した。 真っ当に育っていれば、その名の通り太陽の神となったはずの子。 ……彼は、捨てられたのだ。 波はどこへとも知れず、舟を運ぶ。 いくら神といえども、まだ三才の赤子である。飲まず食わずで雨風に晒され続けて、生きていられるはずがない。 刻一刻と、彼の命は磨り減ってゆく。 葦舟が、大きく揺れた。波が強くなったらしい。 流れに任せて、舟は進む。 急流の正体は――海に開いた、大きな穴だった。その穴に、次々と海水が流れ込んでいる。 彼も水と共に、その穴に吸い込まれた。 ……落ちてゆく。 一秒。一分。一時間。一日。一ヶ月。一年。一永劫。 それでもまだ、落ちてゆく。 どれくらい落ちたのか、もはや計り知れなくなった時。 葦舟はいつの間にか、また海を漂っていた。 だが、以前とは違う。そこはもう、青海が広がるばかりの世界ではなかった。 ――島が一つ、在った。 波は優しく、彼を島へと向かわせる。 その島には、小人のような神が住んでいた。それ以外には、誰もいない。 小人は医術の神でもあり、骨のない彼の身体に、しっかりとした骨を埋め込んでくれた。 ……後に、多くの神々が訪れる島。 赤子は、初めてそこに流れ着いた神となったのである。
第一章 〜常世の神々〜 「平和だねぇ……」 少年が草原に寝転がり、空を見上げていた。 流れて行く雲。照り付ける太陽。 少年にとっては、文句のない状況。このまま、眠りたくなるほどの心地よさ。 ――貫頭衣を纏った、小柄な少年。彼の名は、蛭子(ヒルコ)という。 彼の表情はその子供のような身体に似合わず、大人びたものだった。最も、リラックスしている今は少々緩んだ顔だが。 「蛭子さん、蛭子さん! 大変ですよー!」 その平和を乱す声と共に、誰かが走って来る。 ああ厄介なのが来た、とか思いながら、蛭子は相手を見た。 大きな眼鏡が特徴的な、少女。眼鏡と言うより、遮光器と呼ぶべきか。 少女の口調は丁寧だが、かといって内気だったり暗かったりする訳ではない。蛭子の悩みのタネは、彼女が活動的に運んで来る多種多様な厄介事である。 蛭子の顔が、大人びたものに戻る。 「……荒吐(アラハバキ)。何が大変なの?」 「それがですね、ケツァルコアトルさんやイシュタルさんが、再起をするって演説を……!」 「ああ、いつもの事じゃないか。お休み」 眼を閉じる蛭子。 素晴らしき夢の世界へと旅立とうとした所で、 「ね、寝ないでください! あのふたりを止めないと!」 大声に邪魔をされた。 嫌々、瞼を上げる蛭子。 「あのね。僕に、そんな事をする義務はないんだよ」 「……え? ないんですか?」 「……どうしてあると思うんだい?」 「…………」 ふたりは、しばらく見詰め合う。 「……とにかく! ふたりを止めてくださいよ!」 「はぁ……」 蛭子は仕方なくといった様子で、草原から起き上がる。そして、一枚の葦の葉を取り出した。 それを地面に落とすと――数人が乗れるほどの、大きな葦舟に変化する。 「行くよ。案内して、荒吐」 「はい!」 ふたりが乗ると葦舟が浮き、空へと舞い上がった。 蛭子は大空から、地上を見下ろす。 ――『常世(とこよ)』。それが、この世界の名だった。 この世界に住む者達は、基本的には人間ではない。かつて、現世――人間達の世界で、信仰されていた神々である。 他の神に追われた神。異教の人間によって、信仰を弾圧された神。時代の流れと共に、忘れ去られた神。 そういった神々が住むのが、この常世。蛭子と荒吐も、虐げられた神なのである。 周囲には海が広がっており、常世以外の島は見えない。ここは、完全なる閉鎖世界なのだ。 島の中央に山がそびえ、その周りに森や草原が広がっている。そこには、木造の住居がいくつも存在していた。 「あそこです、蛭子さん」 荒吐が、島の一点を指差す。 蛭子はそこに向かって、葦舟を降下させてゆく。 白い少年が、他の神々に演説していた。 彼の背中には緑の羽毛が生えた翼があり、幻想的な雰囲気を漂わせている。総合的な美しさなら、常世の神々の中でも五指に入るだろう。 蛭子は、その美しい神を――ふたり分の体重が乗った葦舟で、容赦なく押し潰す。 「――ぐげぇッ!?」 彼は汚い声を上げ、船の下敷きとなる。 必死に手足を動かし、プレスから脱出する白い神。 ゴキブリっぽかった。 「テメェ……蛭子! また邪魔に現れやがったなッ!」 幻想的な雰囲気とやらを粉々に粉砕する声と口調で、彼は蛭子に叫ぶ。 その瞳には、明らかな怒りの色。 「別に好きで現れてる訳じゃないんだよ、ケツァルコアトル。ただ、五月蝿いのに言われて仕方なくさ」 葦舟が一枚の葉に戻り、蛭子の手に収まる。 「五月蝿いのって誰ですか」 「想像に任せるよ」 じとりと睨む荒吐を、蛭子はスルー。 見物をしていた他の神々が、その場から離れ始めた。いつものパターンに入ったからである。 「しかし、君も飽きないね。これで何回目だい?」 「黙れ。国に帰るのが俺の目的だって事、お前も知ってるだろうが」 ケツァルコアトルは、アステカ族の神である。 彼は人類を生み出した神であり、民からも愛されていた。 だが――兄であるテスカトリポカの罠に嵌まり、王位を奪われ、国を追放されてしまう。 ……ケツァルコアトルは再来を予言し、東の海へと消えていった。 「それは知ってるけどね。でもアステカ族は、すでに滅亡しているだろう。君が再来を予言した年に現れた、スペイン人達によってね」 「……う」 「認めなよ。君の民は、もうどこにも存在しない」 ケツァルコアトルは、蛭子を嫌そうに睨む。 「……あのさぁ。地味に凹ますのは止めてくれねえ?」 「何言ってるんだい。少し凹んだって、すぐに復活するくせに」 「でもほら、そいつまで凹んでるぞ」 蛭子が、眼を向けると。 「民……私の民も、朝廷に征服されちゃいました……」 荒吐が、地面に『の』の字を書いていた。 蛭子は、ケツァルコアトルへと視線を戻す。 「まぁ君がどうしようと勝手だけど、他の神を扇動するのは止めてよ」 「うわ、完璧に無視しやがった……」 「アレはね、いちいち相手にするととても疲れるんだよ」 しれっと答える蛭子。 「前々から思っているのですが!」 荒吐が、勢いよく立ち上がった。 くわーっと、蛭子を威嚇する。 「蛭子さんの私へのイジメは、もはや信仰弾圧の域に突入していますッ!」 声を大にして、叫ぶ荒吐。 「それがどうしたの」 否定すらしない蛭子。 「改善を求めます! 私にも、神権(じんけん)があるんですよッ!」 「はいはい、善処するよ」 「真面目に聞いてませんね!?」 「聞く訳ないだろう」 とりあえずチョップで荒吐を気絶させ、本題に返る。 「で、ケツァルコアトル。これ以上他の神によくない影響を与えるというのなら――」 「へっ、何だってんだよ?」 「――埋める」 真顔だった。蛭子は、この上なく真顔だった。 一切の冗談なく、ホントに埋めるノリである。 「…………」 思わず沈黙するケツァルコアトル。 「スコップは……適当に捜せば見付かるか」 「お、おい」 「山の麓辺りがいいかな。あそこは土が固くなくて、穴を掘りやすい」 「おい!」 「え? 何?」 蛭子は、きょとんとした眼でケツァルコアトルを見る。 「……ゴメン。俺が悪かった」 素直に謝るケツァルコアトル。 これ以上抵抗すると、ギャグでは済まされない事態に発展すると分かったらしい。そんな事になったら、父が泣く。兄は笑うだろうが。 「最初っからそう言えばいいんだよ」 蛭子はケツァルコアトルの額を、ペチペチと叩く。屈辱で死にたくなるケツァルコアトル。 「じゃ、僕は次に行くから」 蛭子はまた、葦舟を出現させる。 「次って何だ?」 「イシュタルの所。彼女も、君と似たような事をしてるらしい。……あ、案内役気絶してる。まぁいいや、適当に捜そう」 気絶している荒吐を、葦舟の中に放り込む。 「ふぅん。頑張れ」 「何言ってるんだい。君も来るんだよ」 「……は?」 有無を言わさず、蛭子はケツァルコアトルを舟中に押し入れる。 「テ、テメェ! 何考えてやがるッ!」 「いや、大した事じゃないよ。イシュタルを止めるのに、君を使おうかと思って」 「――!? ま、待て、それは止めろ! さっきの事ならいくらでも謝るから!」 まるでその声が聞こえないかのように、葦舟が飛び立つ。 「止めろおおおおぉぉぉぉ……!」 哀れな神の悲鳴を、青空に残して。 「今こそ立ち上がる時よ! 天の扉を開放して現世へと戻り、私達の存在を忘れた人間達に復讐してやるの!」 ひとりの少女が先程のケツァルコアトルのように、群集に語りかけて来た。 少女の容姿は、まさしく美の女神と言う他ない。彼女の前では、どれほど綺麗な花とて、恥らわずにはいられないだろう。 古代メソポタミアの愛の女神――イシュタルである。 「一神教徒達は、異教の神である私達を悪魔と呼んだわ! その怨み、億倍にして返してやるのよッ!」 皆の視線が、イシュタルに集まる。女神である事もあってか、その数はケツァルコアトルの時よりも圧倒的に多い。 (ああ……今の私、輝いてる……!) 内心で自分に酔う、イシュタル。目立つのが好きな女神なのだ。 彼女の心象世界では、皆に女王様の如く称えられる自分自身がイメージされている。 と、その時。 「……ぉぉぉぉおおおおーッッ!?」 何かがイシュタルに向かって、落下していてきた。 見上げるイシュタル。だが時既に遅し。 その何かは、超高速で彼女の顔面に突っ込んだ。イシュタルは、地面に叩き付けられる。 「い、痛た……一体何よっ!?」 落ちて来たモノを押し退けて、イシュタルが起き上がった。 落下物を、見てみると。 「…………」 グルグルと縄で縛られた、白い人型。背中の翼も、これでは役には立たなかっただろう。 ソレは青い顔で、イシュタルを見ている。 言うまでもなく、ケツァルコアトルだった。 「……そう。貴方、私の邪魔をするのね」 「待て! これが、俺自身の意思で邪魔をしたように見えるかッ!?」 「はぁ――ふぅ……!」 ケツァルコアトルの声など、もはや耳に入らないイシュタル。 彼女は拳を構え、武術の達人みたいな呼吸をする。気を練るとか、そういう類だ。 「や、止め――!」 ――そして。 「はァ……ッッ!」 ロケットのように、イシュタルの正拳突きが打ち出された。 喰らったケツァルコアトルは地面を抉りながらバウンドし、直線上にある物を全て薙ぎ倒しながら、イシュタルの視界の外へと吹っ飛んで行く。 「……相変わらず、凄まじいね」 その黙示録的な光景を見届けた後、蛭子は葦舟を地に下ろす。 「蛭子……! あのケツ野郎が落ちて来たのは貴方の仕業ね!?」 「うん、まぁ」 「……こ、こんにちは、イシュタルさん」 船から出る、蛭子と荒吐。『ケツ野郎』という呼称には誰もツッコミを入れないらしい。 「……ふん。女連れとはいい身分ね」 「どちらかと言うと、僕が連れて来られたんだけどね」 蛭子は溜息と共に、肩を竦める。 「いや皆さん、それよりも……ケツァルコアトルさん、死んだんじゃないですか?」 荒吐は汗を流しながら、ケツァルコアトルが飛んで行った方向を見る。無論、彼の姿は影も形もなく、ただ破壊の爪痕が残されているだけ。 ケツァルコアトルが死んだという考えを、かなり確信させてくれる有様だった。 「……あれくらいで死んでくれるなら、僕も楽なんだけど」 「まったくよ。それに、あいつが死んでも別に困る事ってないし」 少しの慈悲もなく言い切る、蛭子とイシュタル。 「そ、それは流石に酷――」 そこまで言って、荒吐は気付く。自分も、ケツァルコアトルが死んで困る事がない。 「で、貴方達も私の邪魔をする訳?」 「そのつもりだけど」 「あっそう。それって、死んでも文句ないって意味よね?」 イシュタルが、再び拳を構えた。次の瞬間にでも、あの必殺拳が打てる状態である。 「じゃ、荒吐。後は任せたよ」 フレンドリィに荒吐の肩をポンと叩き、逃げるように歩き去る蛭子。 「え、ええ!?」 「イシュタルは戦争の女神。僕みたいな小神では敵いっこない。よって君に任せる。元は、君が言い出した事だしね」 「――そんな!? わ、私に死ねと言うんですか!?」 「君は、大和朝廷と争った蝦夷の神だろう。僕よりは、荒事に向いている」 「そ、それはそうですけど……!」 アタフタとする荒吐。その間にも、じりじりとイシュタルが迫る。 「元は君が言い出した事、か。やっぱり貴方が原因なのね、荒吐。じゃあ殺してもいいわよね?」 「いい訳がないですッ!」 「問答無用! 死ね――ッ!」 恐ろしい言葉と共に打たれる、イシュタルの拳。 「ひ、ひぃぃ……っ!?」 荒吐は全力疾走で、その鬼女から逃げ出す。 無論、逃がしてくれるはずもなく。イシュタルは地を蹴り、荒吐を追う。 (こ、このままじゃ殺られる……!) 荒吐は、キッとイシュタルを見た。殺られる前に殺れ、の理である。 拳をギリギリで躱し、 「やぁ――!」 カウンターで、一発。 蹴り飛ばされたイシュタルが、地面を転がる。 「……えっと。イシュタル、さん?」 「ははは」 返って来たのは、狂気じみた笑い声。泣きたくなる荒吐。 「消し飛ばしてやるわ」 イシュタルは立ち上がると同時に、 「――『天の牛(グド・アン・ナ)』ッッ!」 自身の身長ほどもある大砲を、出現させた。 しかし大砲と言っても、筒に火薬と弾が込められただけの物とは違う。 それは、無骨な機械の塊だった。表面では、様々なランプやゲージが光っている。 イシュタルは左右のグリップをそれぞれの手でしっかりと握り、標準を荒吐に合わせた。 「エネルギィ・チャージ三十パーセント、システム・オールグリーン……!」 得体の知れないウォンウォンという駆動音が、徐々に大きくなってゆく。 「あわわ……!」 天の牛は、イシュタルが父親に造らせた兵器。発射されたら土地が汚染され、七年は何も育たなくなる。勿論、当たったら絶対に死ぬ。 自分の命どころかこの地まで危うくなり、あたふたする荒吐。 イシュタルは、引き金を引こうとした――が。 「えい」 突然、後ろから羽交い締めにされ、引き損ねる。 「なっ、蛭子!?」 「今だよ、荒吐!」 「……! はい!」 荒吐が足を振る。 その一撃は、寸分の狂いなくイシュタルの喉元に叩き込まれた。 グギゴリャ、という首の骨が折れたとしか思えない効果音と共に、イシュタルが沈黙する。 「ふぅ」 蛭子は、意識を失ったイシュタルを地面に放り落とす。酷い扱いだった。 「これで、面倒事は全部片付いたね」 「……あの。実行犯の私が言うのも何ですが……イシュタルさん、ピクリとも動かないんですけど。それに、ケツァルコアトルさんの事も……」 「いいの。僕はあの草原でまったり出来るのなら、それ以外は何でもいい」 葦舟に乗り込み、蛭子は飛び去って行く。 第二章 〜ヘヴンズ・ドア〜 常世の太陽は、月と表裏一体である。 昼は太陽だったものが、夜になるとまるで裏返ったかのように、満月へと変わるのだ。 常世に流れ着く神々は、皆あの星を扉として、この世界にやって来る。 つまりケツァルコアトルやイシュタルが現世へと戻るためには、この扉を開かねばならない。しかし、ふたりはその方法を知らない。 噂では、それを知る者はただひとり。 初めて常世に流れ着いた神――蛭子のみである。 「で、蛭子。そろそろ白状したらどうだ?」 蛭子の自宅。そこで、質の悪い神が蛭子に絡んでいた。 「そんなに知りたければ自分で調べなよ。僕は少彦名(スクナヒコナ)から、誰にも教えてはならないと言われているんだ」 少彦名とは、この世界に初めから存在していた小さな神。ここから日本列島に旅立ち、国作りに協力したという。 彼は国作りの後、この常世に帰って来たらしいが……その姿を見た者はいない。恐らくは、またどこか別の世界へと旅立ったのだろう。 「そこを何とか頼むって言ってんだよ」 「そうよ、蛭子。洗いざらい喋れば、きっと楽になるわよ」 質の悪い神は、ひとりではなかった。 ケツァルコアトルとイシュタルは、さらに蛭子へと詰め寄る。 少し離れた所では、荒吐が苦笑しながらそれを眺めていた。 「…………」 蛭子は思う。何故こいつ等は、当然のように僕の家を占領しているのか、と。 「……君達。外に出る方法も分からないくせに、どうして再起の演説をするんだい?」 「いや、賛同者がたくさん集まれば、お前も大人しく教えてくれるかなーと思って」 ケツァルコアトルの言葉に、イシュタルが頷く。 「まぁとにかく、迅速に教えろ」 「……ケツァルコアトル。君とて、太陽神の端くれだろう。太陽を開く術くらい、自分で考えたらどうなんだい?」 「ヤダ。自分で考えるより、お前から聞き出した方が早えもん。……それと、俺は端くれじゃねえ。真っ当な太陽神だ」 ケツァルコアトルの言葉を聞き流し、蛭子は自分の茶を淹れる。 客の分はない。そもそも、蛭子は彼等を客だとは思っていない。 「でも少彦名さんは、どうして蛭子さんにだけ扉を開く方法を教えたんでしょう?」 荒吐が疑問を挟む。 彼女は蛭子にとって、比較的歓迎出来る神だ。あくまで、ケツァルコアトルやイシュタルと比較した場合の話だが。 「別に教えられた訳じゃない。まだ常世に僕と少彦名しかいなかった頃、彼は国作りのために外界に出た。その時、知っただけさ」 「じゃあ、私達にも知らせてくれない?」 「もう飽きるほど言ったけど、口止めされてるから嫌だ。それに知った所で、君達が扉を開くのは難しいだろうね」 寄って来たイシュタルを押し退け、蛭子は続ける。 「どういう事ですか?」 「あの扉を開けるのは、祖神である少彦名と、特殊な属性を持つ神だけだから」 その言葉に、蛭子以外の全員が首を傾げた。 「ええい、面倒な事を言わずにさっさと教えろ!」 「ヒントは出した。これでも、かなりのサーヴィスをしたつもりだよ」 ケツァルコアトルの怒号を柳のように受け流し、蛭子は茶を啜る。 蛭子がその方法を教えないのは、別に彼等が嫌いだからではない。好きでもないが。 そもそも前述のように、ケツァルコアトルやイシュタルに扉を開く事は出来ない。教えても、何の問題もないのだ。 だが――そこから、何かの弾みで『特殊な属性を持つ神』に方法を知られる可能性がある。それを避けるためにも、秘法は誰にも教えられない。 ……一つ、蛭子が懸念しているのは。 蛭子が何も話さなくとも、『特殊な属性を持つ神』が自力でその方法に気付いてしまう事だ。 その可能性は、決して低くない。 「荒吐、貴方はどうなのよ?」 イシュタルが、荒吐に眼をやる。 「え? 何がですか?」 「貴方も自分の民を殺され、信仰を弾圧されたんでしょ? 現世に戻って、その復讐を果たしたいとか思わないの?」 「……うーん、難しい質問ですね」 荒吐は、困ったように苦笑い。 「怨みがない訳ではありません。でも……この常世を捨ててまで、現世に戻りたいとは思いませんね」 「く……っ! 何よその優等生発言! あんまり可愛い子ぶってると、ロケットを開発して貴方を宇宙まで打ち上げるわよッ!」 「……可愛い子ぶってる、ですか。そうなのかも知れませんね」 荒吐は、眼を伏せて一言。 「……蛭子、ダメだわ……私、あの子が眩し過ぎる……!」 フラリ、とよろけるイシュタル。蛭子はこの茶番劇が眩し過ぎる。 「君は心が汚れているからね。純粋なものを見ると、拒絶反応を起こすんだろう」 「反論出来ないのが悲しいわ……」 ぼーっと、どこか遠くを見詰めるイシュタル。 「……さり気なく話が変わってるぞ。扉を開く方法、すぐに教えやがれ」 ケツァルコアトルが、脱線した話を戻す。 「君もしつこいね。脳味噌が悪い奴はこれだから」 「うわ、何かバカ扱い……」 「バカ扱い? 違うよ、君は――」 「言うな! どうせ、『君はバカ以下さ』とか言うつもりだろうッ!」 「よく分かってるじゃないか」 ニッコリ笑う蛭子。この神は、他者を追い詰める時にのみ、極上の笑顔を見せるのである。 その邪悪な笑いに敗け、どんどんテンションが下がってゆくケツァルコアトル。 「き、気を落とさないでくださいケツァルコアトルさん! 蛭子さんはちょっと性格が捻じ曲がってて絶望的な感じですけど、ホントはいい神(ひと)なんです! 本気で言ってる訳じゃないんですよ!」 荒吐が、慌てて言う。 ちなみに、蛭子は純度百パーセント、混じりっ気なく本気である。 「……荒吐。一体誰の性格が捻じ曲がってるって?」 「え……!? いや、あれは言葉の綾と言うか、宇宙の神秘と言うか……!」 自分でもよく分かってないであろう事を、口走る荒吐。 まぁ確かに蛭子の脳内は宇宙の神秘よね、あと私の美貌も、とか思うイシュタル。 「ねぇケツ、そろそろ素直に諦めない? これ以上蛭子の機嫌を損ねると、ホントに明日には死体になってるわよ、私達」 イシュタルは、ケツァルコアトルを見る。いい加減、飽きて来たのだろう。 「な……っ!? 裏切るかイシュタル! いやそれより、当然のようにケツと呼ぶな!」 「し、死体になってるって……蛭子さん、そんな事はありませんよね……?」 恐る恐る、蛭子の顔を窺う荒吐。 蛭子は、さっきと同じ笑顔で首肯。どういう意味の肯定なのか、謎が深い。 「まぁとにかく、何があっても僕は喋らない。尋問だろうが審問だろうが拷問だろうが、何をされてもね」 「チクショウ、諦めねえぞ! 俺のネヴァー・ギヴアップ精神を舐めんなよコラァ!」 そう言いながらも、何だか諦めムードが漂っているケツァルコアトル。 ……それに。皆が、気付き始めている事があった。 代表した訳ではないだろうが、荒吐がそれを口にする。 「……蛭子さん。もしかして、あの扉を開くのは危険な事なんですか?」 少しの間、沈黙が部屋を包む。 しかし、 「別に」 蛭子から返って来たのは、そんな素っ気ない答えだった。 「大した事じゃない。でも……僕にとっては、あまり好ましくないね」 蛭子は眼を細め、 「僕は変化を望まない。この常世で平穏な日々が続くなら、それ以上の事はないんだから」 「ねえ、それって怠惰じゃない?」 何の遠慮もなく、イシュタルは言う。 「その言葉からは、前に進もうとする意思が感じられないんだけど」 「見解の相違だよ、イシュタル。動物と植物の幸せは違う。それと同じく、君と僕の幸せもまた違うのさ」 蛭子は一度、茶を飲む。 「前に進めばいいってものじゃない。その先が、地獄だったらどうするつもり?」 「突き進むわよ」 イシュタルは少しも迷わずに、はっきりと言い放った。 蛭子は溜息をついて、 「……まぁ、君はそういう生き物だからいいけどね。でも僕は、そこで立ち止まる。その場所だって、無価値じゃないんだから」 荒吐が、それを聞いて微笑んだ。 「蛭子さんは、常世が好きなんですね」 「……住み易い、というだけさ」 変わらぬ仏頂面で、蛭子は答える。 だが、その声にはいつもの冷ややかさが少しだけ欠けていた。付き合いが長い分、彼等にはそれが分かる。 嫌だ面倒だと言いながらも、蛭子が常世を駆け回ってトラブルを解決するのは、つまりはそういう事なのだ。 「うー。そう言われると、問い詰め辛くなる俺」 ケツァルコアトルが、情けなく眉をハの字にする。 「……お前の言い方から察するに、あれが開くと何かよくない事があるんだな」 「さっきも言った通り、僕にとってはね」 「でもさぁ。どうして扉が開いただけで、お前の大好きな常世の平和が乱される訳? 俺は外の平和を乱そうかなーとは考えてるが、別にこの世界をどうこうしようとは思わねえぞ?」 「色々あるのさ。面倒だから、説明はしないけど」 蛭子は、新しい茶を淹れに行く。 戻って来ても、ただそれを飲むだけ。本当に何も話さないつもりらしい。 「……で。君達はいつまで、この家にいるんだい?」 蛭子はジト眼で、全員を睨む。 「何だ、友達を追い出す気かよ?」 「……ケツァルコアトル。一体、誰と誰が友達だと言うんだ? そこの所、ちゃんと説明してくれないか」 「お前と俺達」 「天地が引っくり返ったとしても、それは在り得ない」 「何だよ、冷たい奴だな。昔は、川原で殴り合って友情を育んだりしなかったっけ?」 「瓦で殴り合った……それはそれは。記憶にはないけど、かなりの流血沙汰になったんだろうね。……そんな事で、友情を育みたくはないな」 蛭子はプイっと、ケツァルコアトルから眼を逸らす。もう相手にもしたくない、という意思表示である。 「ケツァルコアトル、我慢しなさい。これが、噂に聞くあのツンデレってヤツよ」 イシュタルが、ニヤリと笑う。 茶を吹く蛭子。 「蛭子はああいう性格だから、何に対しても有りのままの気持ちを伝えられないのよ」 「ははぁ、なるほどなぁ……キモッ」 「えぇっと、ケツァルコアトルさん、イシュタルさん……」 荒吐が、ふたりを何とか止めようと努力する。蛭子の怒りメーターが、グングン上昇しているのが眼に見えて分かるのである。 だが、努力が実る様子はなく。 「って事は、蛭子はいずれデレに変化するのか! ははははは、想像出来ねえ! 何だその悪夢みたいな展開ッ!」 「いや、以外とイケるかも知れないわよ? 想像出来ないからこそ、そのインパクトは強力になるんだし」 「……素直な蛭子さん……そ、それはそれでいいかも……」 ついに、荒吐まで蛭子側から離反。 蛭子はひとり、怒りを溜め込んでゆく。 「じゃあアレだ、蛭子が文句言いつつも風邪の看病してくれたりするんだな!」 「そうね……あ、何か考えれば考えるほど美味しそうになってきた。じゅるり」 「――!? ダ、ダメですよイシュタルさん! 蛭子さんは、その、私が……」 そこでついに――怒りメーターが、振り切れた。 「皆」 静かな、蛭子の声。 それに冷たいモノを感じ、全員が彼の方を向くと。 「――出てけ」 蛭子が死を予感させるオーラを放ちながら、笑っていた。 一瞬にして、三柱を外に摘み出す。 「……ふぅ」 誰もいなくなった家で、蛭子は息をつく。 以前は、これが普通だった。 「いつの間にか、この島にも神が増えたよねぇ……」 それが常世にとってよい事なのかどうか、蛭子には分からない。 でも悪い事ではないだろうな、と勝手に考えている。 ……とは言え、さっきみたいなのは本当に遠慮したい蛭子なのだが。 しばらくの間、そうやってのんびりしていると。 「……?」 ドンドンと、家の扉を乱暴に叩く音が聞こえて来た。 「蛭子! おい!」 どうやらその犯人は、ケツァルコアトルらしい。 まだ遊び足りないのか、と蛭子は一瞬だけ思ったが――すぐに改めた。声の様子が、尋常ではない。 玄関まで急ぎ、扉を開く。 外には、ケツァルコアトルだけでなく、荒吐とイシュタルの姿もあった。 皆は一様に、得体の知れない不安そうな表情をしている。 「……何があったの?」 「外に出てみろ。見れば、一発で分かる」 蛭子は言われた通り、家から出る。 そこで、違和感に気付いた。昼だというのに、やけに暗い。 雲でも出ているのかと、蛭子は空を見上げて―― 「な……っ!?」 その、驚くべき理由を知った。 「……バカな」 太陽に少しずつ、黒いモノが被さってゆく。 ゆっくりと、まるで芋虫が葉を齧るように侵蝕され――最後には、真っ黒な円形と化した。 「蛭子さん……一体、何が起こってるんでしょうか?」 荒吐が、怯えた声で呟く。 ……この現象は、それほど珍しいものではない。頻繁に起こる訳ではないが、人間ならばその人生の中で、何度か見る機会があるはずだ。 だがそれは、外界での話。 ここは常世。現世とは違う常識が支配する、神々の世界。 瞳を持つ神は、皆ソレを見ただろう。 ――皆既日蝕。 太陽と満月が一体である常世では起こらないはずの、天体ショウであった。 |