また、わたしが見ていると、小羊が七つの封印の一つを開いた。すると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。
 そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った。
 小羊が第二の封印を開いたとき、第二の生き物が「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。
 すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた。
 小羊が第三の封印を開いたとき、第三の生き物が「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、黒い馬が現れ、乗っている者は、手に秤を持っていた。
 わたしは、四つの生き物の間から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた。「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな。」
 小羊が第四の封印を開いたとき、「出て来い」と言う第四の生き物の声を、わたしは聞いた。
 そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は「死」といい、これに陰府が従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた。

 ――新約聖書『ヨハネの黙示録』六章一〜八節


異端審問官の御仕事

大根メロン


 プロローグ


「はぁ……はぁ……」
 荒廃した街の中を、1人の少女が走る。
「逃げ……なければ〜……」
 少女は苦しそうに息をしながらも、足を止めない。ただひたすら、走り続ける。
 ――後方から、何かの音。
「……っ!」
 少女が眼を向けると、そこには鋼鉄の蜘蛛がいた。
 蜘蛛は機械とは思えないようなスムーズな動きで、少女の進路を塞ぐ。だがそれは、無駄に終わった。
「えい〜っ!!」
 少女は隠しておいた穴から、地下に飛び込む。
 そこには、1台のタイムマシンがあった。
 ――それに内蔵されているものこそ、奴等の狙い。
 蜘蛛が地下に入り込んで来る前に、少女はそのタイムマシンに乗り込む。
 そして、一気に発進した。
 蜘蛛を体当たりで弾き飛ばし、空へと――空に現れた門へと、向かう。
 開かれる門の扉。少女を乗せたタイムマシンは、その中に消えた。



「……逃がしたか」
 黒服の少女が、上空の門を眺めていた。
 彼女は無線機を取り出し、指示を出す。
「時空間をスキャンして、あの娘が逃げた座標を特定しなさい。すぐに追うわよ」
 黒服の少女は、再び空に眼をやる。
 ――だがすでに、門は跡形もなく消えていた。



 第1話


「ん……」
 少年は窓から差す光を浴びながら、目を醒ました。
 ――彼の名は、御神楽祐貴(みかぐらゆうき)。
 歳は、ハイ・ティーン――16,7といった所か。歳相応な、子供らしい欠伸をする。
 祐貴はもぞもぞとベッドから出ると、窓を開けてローマの空気を肺一杯に吸う。
 深呼吸の後、窓を閉め――テーブルの上に置いてあった賞味期限切れのパンを、口に放り込んだ。
 修道服を纏い、十字架を首に掛ける。
 ――その時。
「御神楽さん、起きていますか?」
 再び窓が開け放たれる音と共に、そんな声が聞こえた。
「……マリエッタ。この家には玄関があるんだから、窓から声をかける必要はないと思うのだが?」
「しかし御神楽さん。この家――いえ、この小屋の玄関のドアは、ボロボロでもう開きませんよ。そうなると、外部と繋がる場所はこの窓しかないと思うのですが」
 窓から顔を覗かせるシスター――マリエッタ・パウズィーニはそう言って、にっこりと笑った。
 彼女は祐貴と同年代の、少女である。しかし生粋のイタリア人である彼女は、祐貴よりも年上に見えた。
「…………」
 祐貴は返す言葉もなく、マリエッタに近付く。
「……で。一体、朝から何だ?」
 マリエッタは晴々とした笑顔で、
「お仕事です♪」
 と、一言。
「……おい、俺は5時間前にローマに帰って来たんだぞ。睡眠時間は僅か3時間30分だ。今日1日くらい休んだって、バチは当たらないと思うんだが」
「安息日以外に、異端審問部に休みはありませんよ」
「…………」
 祐貴は頭を掻くと、窓から外に飛び出す。
「やはり、玄関は使わないのですね」
「使えないからな」
 この窓までもが開かなくなったら、自分はこのボロ小屋に閉じ込められるのだろうか――と祐貴は思ったが、考えても仕方なかったのでこの問題は放置した。
「それで、今回はお前と組むのか?」
「はい」
「……んで、出張先は?」
 マリエッタは持っていたファイルを開くと、その中に挟まっていた地図を祐貴に見せた。
「――日本の、星丘市という街です」



 ――『異端審問部』。
 それは、人外の魔物や異端者に対する教皇庁(ヴァチカン)の宗教裁判機関である。もっとも、彼等が行うのは裁判ではなく処刑なのだが。
 異端審問は、1231年に教皇グレゴリウス9世によって確立された。
 異端審問官は異端とされた者達を拷問によって審問し、徹底的に排除してきた。故に、彼等はヨーロッパの恐怖の的だったのである。
 だがローマの異端審問所は1908年に検邪聖省と名を変え、異端審問は表の世界から姿を消した。
 だが――裏の世界からは、消えてはいない。
 検邪聖省にも、1967年に検邪聖省が教理聖省と名を変えた後にも、異端審問部は存在していた。
 祐貴とマリエッタは、異端審問部の中でも強力な4人の異端審問官――『黙示録四騎士』のメンバーである。

『白き騎士』――マリエッタ・パウズィーニ。
『赤き騎士』――御神楽祐貴。
『黒き騎士』――ブルーノ・ニィアルラ。
 そして、黙示録四騎士の長である『青白き騎士』――パトリック・オブライエン。

 黙示録四騎士はローマから地球上のあらゆる場所に派遣され、現代式の異端審問を行う。
 ――祐貴とマリエッタはそのために、日本の大地に降り立った。



「…………」
 祐貴は、日本の街並みを眺める。
 英国人の父と日本人の母の間に生まれた彼にとって、日本はイングランドに次ぐ第二の故郷だ。
「うわぁ、無骨な街ですね。ローマとは全然違います」
 マリエッタは、風景をカメラに収めてゆく。
「……マリエッタ。俺達は観光に来た訳じゃないんだぞ」
 祐貴は1つ、溜息をついた。
「今日の夜、運び屋が<贖罪の釘剣>をアルベルティ家に運び込む。その時、剣を奪えなかったらアウトなんだからな」
 ――アルベルティ家。この街で暗躍する、イタリア系マフィアである。
「ローマから日本に来てまでマフィアの相手とは……おかしな話ですね」
「言うな。悲しくなるから」
「…………」
 マリエッタは表情を真剣なものに変え、
「<贖罪の釘剣>――イエス・キリストを磔にした聖釘の鉄から造られたホーリィ・ソード。まさか、実在しているとは思いませんでした」
「俺もだ。御伽噺か何かだと思ってたよ。しかし、そうなると――十字軍遠征の時に<贖罪の釘剣>を持った1人の兵士がその剣の力で、何百ものイスラム戦士を殺したって話も本当なのかもな」
「……私達が奪おうとしている<贖罪の釘剣>が、本物だったらの話ですが」
 祐貴は、顎に手を添える。
「そうだな……実際、聖釘は聖遺物として存在している。ま、世界中に何十本もあるから、ほとんどが偽物だろう」
「では、聖釘から鍛えられた<贖罪の釘剣>も偽物だと?」
「さぁな、どっちでもいいさ。俺達の仕事は、その<贖罪の釘剣>をローマに運ぶ事だからな。落札したアルベルティ家には悪いが」
 数日前、ウェールズで行われたブラックオークション。それに、<贖罪の釘剣>が出品された。
 剣は、アルベルティ家が落札したが――本当に<贖罪の釘剣>が聖遺物なら、本来は教皇庁が管理すべき物なのである。
 故に祐貴とマリエッタは、アルベルティ家に運び込まれる前に剣を奪い、ローマに運ばなければならない。
「……じゃ、夜になる前にメシでも食うか。久し振りに普通のものが食べたいし」



 夜――月の下。
「あのトラックだな」
 待ち伏せをしていた祐貴達の元に、1台のトラックが近付いて来る。
「普通のトラックですね」
「……普通じゃないトラックってのも、よく分からんが」
 祐貴が、マリエッタのボケに小さく笑う。
 彼女は、頬を少し赤くした。
「――じゃ、行くぞ」
 祐貴とマリエッタが、道路に跳び出す。
 トラックはタイヤから耳障りな音を発しながら、急停止した。
「……何者?」
 トラックから人影が降りて来る。夜の闇に遮られ、その姿は見えない。
「白き騎士――マリエッタ・パウズィーニ。勝利の上に、更に勝利を得ようとする者」
 マリエッタの手に、白き弓が現れる。
「赤き騎士――御神楽祐貴。地上から平和を奪い取り、殺し合いをさせる力を与えられし者」
 祐貴の手には、赤き剣が現れた。
「……聖書ではなく、『魔女の鉄槌(マレウス・マレフィカルム)』を教典とする教皇庁の犬ども。来ると思った」
 トラックのライトにより、人影の正体が明らかになる。
 それは――十代後半くらいの、ブロンドの長髪を持った小柄な少女。
「リリィ……!?」
 祐貴が、驚きの声を上げる。
「御神楽さん、知り合いですか?」
「……まぁな。イングランドにいた頃、何度か会った事がある」
 少女の顔には、何の表情も浮かんではいない。まるで機械のようだった。
「あいつはリリィ・ベレスフォード。12歳で親に捨てられて、非合法格闘技の世界で生きてきた女だよ。でもあまりに強すぎて、そこからも追放されたらしい。最近、噂を聞かないと思ったが――なるほどな、こんな所で裏稼業か」
 リリィが1歩、祐貴達に近付く。
「……久し振り、御神楽」
「ああ、久し振り。2度と会いたくなかったけど」
 祐貴が、剣を構える。
 リリィは変わらず自然体で、殺気も闘気も鬼気も感じない。だがそれ故に、何を仕掛けてくるか読めなかった。
「<贖罪の釘剣>をアルベルティ家まで運ぶ事が、私の仕事。邪魔をするなら容赦はしない」
「俺達の仕事は、<贖罪の釘剣>を奪う事だ」
「……そう。なら、仕方ない」
 ――刹那。
 祐貴の眼前に、リリィの2本の指が迫って来ていた。
「――ッ!!」
 祐貴は身体を反らし、その目潰しを避ける。そして、コンクリートの地面に手を付き、脚を蹴り上げた。
 だがそれを、リリィは軽いフットワークで躱す。
 祐貴は素早く体勢を立て直すと、リリィに赤き剣を振り下ろした。
 だが――リリィはそれを避けると、カウンターの一撃を祐貴に叩き込む。
「ぐ、ぁあ……っ!!!?」
「……剣を振り上げた段階で、振り下ろされた時の軌道が分かる。躱すのはたやすい」
 リリィは祐貴に追撃を仕掛けようとしたが、
「――御神楽さんっ!」
 マリエッタの白き弓から放たれた光の矢が、それを遮った。
 光の矢が地面に突き刺さり、コンクリートを爆砕する。
「御神楽さん、大丈夫ですか!?」
「ああ、助かっ――」
 祐貴がマリエッタの言葉に答える前に、
「のんびりしていると、死ぬ」
 リリィが、祐貴との間合いを詰めた。
「く……っ!!」
 祐貴は咄嗟に飛び退き、リリィの拳撃を躱す。代わりに、祐貴の背後にあった大木がその拳を受ける事となった。
 幹が砕け、大木がへし折れる。
「……なかなか上手く避ける」
「俺も、ハードな仕事をしているんでね」
「そう。なら、手加減はしない」
 ――次の瞬間。
 リリィの拳が、祐貴に打ち込まれていた。
 彼の全身が、嫌な感触と共に軋む。
「な、に……ッ!!?」
 今の、リリィの一撃は――まったく、祐貴の眼に映っていなかった。
「何だ、今のは……!?」
 祐貴は、リリィを凝視する。
 しかし――
「――ぐぁっ!!?」
 再び、『見えない拳』が祐貴を打つ。
 祐貴は口から血と、さっき食べた食事を吐く事になった。
「御神楽さん、瞬きです! リリィさんは御神楽さんが無意識に瞬きをした瞬間を狙って、ヒット・アンド・アウェイを仕掛けているんですッ!!」
「……ッ!」
 マリエッタの叫びに、祐貴がはっと顔を上げる。
「……瞬きの瞬間は、完全に視界が閉ざされている。そこを狙えば、どんな攻撃でも当たる」
 リリィが、静かに言う。
「無茶苦茶な奴だな……!」
 祐貴は赤き剣を振り下ろす。
 赤き剣風が地面を割りながら、轟音と共にリリィに迫る。
「…………」
 だがリリィはそれを、簡単に躱した。
 しかし――祐貴の狙いは、リリィを斬る事ではない。
「――行けぇッ!!」
「……ッ!!!?」
 剣風が、<贖罪の釘剣>が積まれているトラックを粉砕する。
 バラバラに弾け飛ぶ様々な破片の中に――金属製の、箱があった。
 祐貴は本能的に理解した。その箱の中に、<贖罪の釘剣>があると。
「マリエッタ!」
「――はいっ!!!」
 マリエッタが跳び、地面に落ちる前に箱をキャッチする。
「御神楽さん、取りました!」
「よし、逃げるぞッ!!」
 祐貴とマリエッタが、一気に駆け出す。
 リリィはその様子を、ぼんやりと眺めていた。



「御神楽さん――大丈夫ですか?」
 マリエッタはローマから持って来ていた教皇庁の車を運転しながら、後部座席で寝ている祐貴に話し掛ける。
「……ぶっちゃけ、かなりヤバい」
「えぇっ!!!?」
「大木を一撃で粉砕するパンチを3発も受けたんだぞ。素人だったら確実に死んでる」
「どど、どどど、どうすれば……ッッ!!!?」
「まずは前を見て運転してくれ。それに、そんなに心配するほどでもない。これくらいのケガはいつもの事だ」
「……それって、いつも死にかけてるって事ですか?」
「俺は弱いからな。ま、寝ればある程度は回復するけど」
「そんな――」
 マリエッタは祐貴に何か言おうとしたが――突然、口を閉じた。
「……どうした?」
「御神楽さん――あれは」
「――?」
 祐貴は身を乗り出し、前方を見る。
「……ッ!!!?」
 道路の真ん中――車の進路に、人影があった。
 それは、リリィ・ベレスフォードの姿。
「み、御神楽さん、どうします?」
「……このまま撥ね飛ばせ」
「いいんですかッ!!!?」
「いいんだ! ほら、アクセルッ!!」
「――は、はい!」
 マリエッタがアクセルを踏み込む。
 一気に、車が加速してゆく。
 だが――リリィに退く様子はない。
「な、何だか嫌な予感がします……」
「奇遇だな。俺もする」
 すぐに、それは現実のものとなった。
「…………」
 リリィは1度だけ眼を閉じ、精神を静める。
 そして――時速80km近くまで加速していた車に、拳撃を打ち込んだ。
 車の前面が何かの冗談のように潰れ、ボンネットが紙のように折れ曲がる。
「――ッッ!!!?」
 車内を振動が突き抜け、祐貴とマリエッタの身体が跳ねた。
 車は運動エネルギィを相殺され停止。一緒に、エンジンも停止した。
「…………」
 予感していたとはいえ、あまりの出来事に動けない祐貴とマリエッタ。
 リリィはジャンプし、ボンネットに飛び乗る。着地の衝撃で、歪んでいたボンネットが粉々に割れて吹き飛んだ。
 彼女はフロントガラスに指を突っ込む。20ミリ弾にも耐えられるはずのガラスを、軽々と5本の指が貫く。
 そのまま――フロントガラスを、剥ぎ取った。
「……剣を、返してもらう」
 そこでようやく、祐貴とマリエッタは正気に戻る。
 マリエッタは運転席から跳び出し、祐貴も<贖罪の釘剣>が収まった箱を抱え、車から離れる。
 次の瞬間には、リリィの拳が車を真っ二つにしていた。
「お、おいッ! いくらなんでもおかしいぞお前!! 走行してる車を拳で止めるんじゃないッ!!」
「貴方、本当に人間ですかッ!!?」
 祐貴とマリエッタが叫ぶ。
 リリィは冷静に、
「別に大した事じゃない。最初は、走って来る自転車を拳で止める事から始めた。それが出来るようになったら、次は原動機付自転車。次は普通自動二輪車。次は大型自動二輪車――そうやって少しずつステップアップしながら、鍛えていった。今の私なら、こんな普通自動車くらい簡単に止められる」
 と、まるで当然の事のように答えた。
「覚悟して。次は――殺す」
 少しの間、静寂がその場を支配する。
「……み、御神楽さん。逃げましょう」
 マリエッタが、怯えを含んだ声で言う。
「上手く言えないんですけど、もの凄く嫌な感じがするんです。震えが止まりません」
「ああ。見てみろよ、マリエッタ。この辺り、鳥も獣も虫も1匹残らず消えてる。皆、あいつから逃げ出したんだ」
 ふたりは、少しずつ後退してゆく。リリィは動かない。
「俺も今すぐ逃げたい。だが、あいつは俺達を逃がすつもりはないだろうな……」
 リリィがゆっくりと腕を振り上げる。そのまま、一気に振り下ろした。
 拳が地面を打ち抜き、その衝撃が祐貴とマリエッタを弾き飛ばす。
「ぐぁ……!!」
「きゃぁああッ!?」
「――まずは、貴方から」
 リリィが、マリエッタに接近する。
 そして――彼女の身体を、殴り飛ばした。
「――ッ!!!?」
 マリエッタはまるで水面の上を跳ねる小石のようにコンクリートの地面を跳ねると、そのまま動かなくなった。
「マリエッタッッ!!!?」
 祐貴が絶叫する。
 彼は地面を蹴り、リリィと距離を取った。
 ――そう、いつでもリリィから逃げられる距離を。
「…………」
 祐貴は、倒れているマリエッタを見る。
 リリィも、彼女を見た。
「……何を迷っているの? 貴方もプロなら、最優先するべきは任務。目的を達成するためには、多少の犠牲は仕方ない」
「…………」
「逃げて。貴方の甘さに付け込んで勝っても、私にとっては何の意味もない」
 祐貴は何も言わず、その場から消えた。
「……行ったか」
 リリィが歩き始める。
 祐貴をどう追跡するか、考えていた時――
「うりゃあああああッ!!!!」
「――ッッ!!?」
 雄叫びと共に、祐貴が奇襲を仕掛けた。
「ひ、卑怯……ッ!」
「ケンカに卑怯もクソもあるかぁ!!」
 祐貴の赤き剣が、リリィの背中に向かって突き出される。
 だがいきなり、リリィの腕の関節が本来は曲がらないはずの方向に曲がり、その腕が赤き剣の柄を握っている祐貴の手を打つ。
「な……っ!!?」
 さらに、関節の外れた腕は鞭のようにしなり、祐貴を弾き飛ばした。
「ぐっ――くそ、この人間凶器め……!」
「……失礼な」
 祐貴が、体勢を立て直す。
「何故、逃げないの? そんな意地に、意味なんてないのに」
「意味のない事にこだわるから、男っていうのはかっこいいんだ」
 そう言って、祐貴は赤き剣の切っ先をリリィに向けた。
「俺は絶対に、マリエッタを見捨てるような事はしない」
「…………」
「なおかつ、<贖罪の釘剣>もローマに持ち帰る」
「……そう。なら、もう言う事はない」
 リリィが祐貴に向け、駆けた。
「――死んで」
 鋭い鎌のようなローキックが、祐貴の脚に襲いかかる。
 祐貴は赤き剣で脚を護ろうとしたが、
「それが、甘い……!」
 蹴りの軌道が突然、下段から上段へと変化。
 ハイキックと化したリリィの蹴りが、祐貴の頭に打ち込まれる。
「ぐ、がぁ……ッ!!?」
 祐貴は頭から鮮血を噴き出しながら、よろめく。
 ――だが、祐貴は倒れない。
「倒れねぇぞ――まだ、敗けない、敗けられない……ッッ!」
「そんな幻想で何が出来る……!」
 祐貴の身体にリリィの拳が突き刺さる。
 しかし――彼はそれでも、闘志を失わなかった。
「幻想でもいい……! 俺は、その幻想を研ぎ澄ましてやる。そして、何者にも敗けない剣に変える……ッ!!」
「そんな剣に斬られるほど、私は甘くない……ッ!」
 リリィは地を蹴る。
 祐貴が赤き剣を構えるが、彼女はそれを手刀でへし折った。
 教皇庁が誇る聖具の1つが、柄を残して砕け散る。
 そして――リリィの拳撃が、祐貴の頭に向けて放たれた。
 彼の眼には、その動きがまるでスローモーションのように映る。今の祐貴は、何もする事が出来なかった。
 だが、最後まで祐貴は睨み続けた。敗けられない――その想いを、ぶつけるように。
「これで、終わり――!」
「……ッ」
 ――その時、それは起こった。
 祐貴の背後で大きな音がした。<贖罪の釘剣>を収めている金属製の箱が、粉々に吹き飛んだのだ。
 剣は未知の力で空中へと舞い上がり、祐貴達の元へと飛来する。
 そのまま――祐貴の眼前で、<贖罪の釘剣>がリリィの拳を受け止めた。
「な……っ!!?」
 リリィが眼を見開く。
 対する祐貴の眼には、あるものが映っていた。
 それは――<贖罪の釘剣>の鏡のような剣身に映った、背後のマリエッタの姿。
「――ッッ!!!!」
 祐貴の想いが爆発する。
 それは力となり、赤き剣の柄に光の剣身を創り上げた。
「何……ッ!!?」
 光の剣が、リリィの身体を貫く。
 剣は彼女を身体を斬る事なく、その力だけを斬断する。
 リリィは身体の力を根こそぎ奪われ、その場に倒れ込んだ。



「あらあら、やられちゃったみたいね」
 闘う力を失い、祐貴達を逃したリリィの元に、1人の女性が現れる。
 それは、彼女のクライアントであるアルベルティ家の娘――アレッシア・アルベルティ。
「……運送は失敗」
「ま、仕方ないわ。いくらロンドンの賭け試合では不敗だった貴方でも、黙示録四騎士の2人が相手じゃね」
「あの剣は――」
 道路に寝そべっているリリィは、アレッシアを見上げる。
「一体、何なの?」
「……ただの聖遺物よ」
「――嘘。さっき、<贖罪の釘剣>は御神楽を主として選び、護った。でもそれは、あの剣に意思がある事を意味する。イエスの力が込められた聖遺物が、付喪神のように意思を持つ事はありえない」
「…………」
 アレッシアは頭を掻くと、はぁと息をつき、
「……噂によると、あの剣は2000年以上前からこの世界に存在していたらしいわ」
「という事は……キリスト教とは関係ないし、当たり前だけど聖遺物でもない」
「ええ、そうね。レムリア大陸で何かの儀式の時に使われていた、なんて話もあるくらいだし」
「……なら、この世にあの剣の起源を知る者はいないと思う」
「さて、それはどうかしら。白き騎士と赤き騎士に<贖罪の釘剣>の奪取を命じた、黒き騎士――ニィ神父は、何か知ってるような感じだけど」
 ふふっ――と、アレッシアが笑う。
「でも私は、正体不明のあの剣よりも、御神楽神父が創り上げた光剣の方が好きよ」
 アレッシアが手を伸ばす。
 リリィはそれをしっかりと掴み、立ち上がった。



「んぅ……」
 マリエッタは自動車の後部座席に揺られながら、目を醒ました。
「おぅ、起きたか」
 運転席からは、祐貴の声。
「……御神楽、さん?」
「身体はどうだ?」
「……え? えぇっと、あちこち痛いですが――大きなケガはないようです」
「……そっか。無事でよかった」
 祐貴が軽く笑う。
「……私、気を失ってたんですか?」
「ああ。でも<贖罪の釘剣>は奪取したし、おそらくリリィはもう追って来ない。俺達の勝ちだ」
「良かった――」
 マリエッタは安心し、眼を閉じようとしたが――すぐに、
「み、御神楽さん! リリィさんと闘ったんですかっ!!?」
 慌てて起き上がった。
「ああ、勿論」
「ケ、ケガはっ!!!?」
「死んでもおかしくないようなダメージを負ったんだが、今は全部治ってる。多分、<贖罪の釘剣>の力だろうな」
「そ、そうですか……」
 マリエッタはようやく安心し、再び寝転がる。
「さすがは聖遺物ですね」
「聖遺物、か……」
 祐貴の呟きには疑念がこもっていたが、マリエッタがそれに気付く事はなかった。
「……御神楽さん、すみませんでした」
「――ん? 何がだ?」
「私は今回、ほとんど役に立ちませんでしたから。それに、私を見捨てる事も出来たのでしょう?」
「いいや、そんな事は出来ないな」
 運転席から、陽気な笑い声が響く。
 マリエッタは祐貴には聞こえない小さな声で、呟いた。
「……ありがとうございます。とっても、嬉しいです」



 ――ローマのボロ小屋。
「御神楽さん、お仕事ですっ!」
 日本での仕事を終え、まったりしていた祐貴の元に、そんな声が届く。
「……マテ。俺とお前はつい30分前にローマに帰って来たんだぞ」
 祐貴は嫌々、窓から顔を覗かせているマリエッタに目をやる。
「今度の任務は、トランシルヴァニアの古城を占拠している吸血鬼の駆除ですよ」
「人の話を聞けッ!」
 マリエッタは、祐貴を窓から小屋の外に引きずり出す。
 そして――彼の手を引きながら、駆け出した。



 第2話

 かくしてついに内なるエジプトより
 尋常ならざる闇きもの来たりて
 農夫ら額衝きぬ
 ……野獣ども其の跡につづき
 其の手を舐めん
 たちまち滄溟より凶まがしきもの生まれいずる
 黄金の尖塔に海藻のからまりし忘却の土地あらわれ
 大地裂け 揺れ動く人の街の上には
 狂気の極光うねらん
 かくして戯れに自ら創りしものを打ち砕き
 白痴なる<混沌> 大地の塵芥を吹きとばしけり

 ――ハワード・フィリップス・ラヴクラフト『ユゴス星の黴』



 ――また、夜が来た。
 私――青山礼香(あおやまれいか)は病院のベッドの上で、天井を眺めていた。
 ……私は、大きな病を抱えている。
 だから――とても陳腐だけど、眠るのが怖い。1度眠ったら2度と起きられないんじゃないかとか、そんな事を考えてしまう。
 皆、私の事を心配してくれている。だからこそ、別れの時が――
「……違う。それは、違う」
 ネガティヴな方向へ走り始めた思考を、止める。
 別れの時なんて来ない。いつかまた昔のような、満ち足りた日々に戻れる。
 お母さんと一緒に朝ご飯を作って、それをお父さんが美味しいと言ってくれて。
 学校では、皆とくだらない話で盛り上がって。
 ――そんな日々に、また戻れる。
 そう信じなれればならない。皆が、私の回復を信じてくれている。私が信じないでどうする。
「ふふ、信じる事は素敵ですよね」
 ――突然、病室の中にそんな声が響いた。
 私は恐る恐る、声の方に目をやる。
 そこには――
「ノックレスでごめんなさい。僕は、ブルーノ・ニィアルラといいます」
 ――神父の格好をした、男の子が立っていた。
 身体が動かない。声が出せない。部屋の中の闇が、私を縛っているよう。
 ……何だろう。頭がぼけっとしてくる。
「とは言え、不公平だと思いませんか? 貴方はこうして死に近付いて行ってるのに、皆は生きている」
 不公平? うん、不公平だ。どうして、私だけが死ななきゃならないんだろう。
 ――皆、生きてるのに。生きて、楽しい事をしているのに。
「しかし安心してください。僕が貴方に、神の救いを与えましょう」
 ……何処からか、トランペットの音が聞こえてくるような気がした。
「カミの……スクい?」
「はい」
 黒い神父はそう答えると、注射器を取り出す。
 注射器の中は、何か得体の知れない液体で満たされていた。
「これは、とある医師が開発した死者を生者もどきへと転化させる薬を改良したものでして、生者を不死者へと転化させる事が出来ます」
「……不死者」
「ええ。不死なる存在、ですよ」
「……フシ」
 もう、何も考える事が出来ない。
 だけど――その不死という言葉は、あまりにも魅力的だった。
「ワタシ……イきたい」
 黒い神父は小さくワラうと、その注射器を私に差し出す。
 彼が、首から下げている十字架は――キリスト教の十字架というより、エジプトのアンクのようだった。



 警備員の萩本は、病院の見回り中に人影を見た気がした。
 それを追うと、案の定入院患者の姿。
「うっ……ぁあ……!」
 その女の子は苦しそうな呻き声を上げながら、萩本を見る。
「お、おいっ、どうした!? 発起でも起きたのか!?」
 ここが病院である以上、こういう事態が起こっても不思議ではない。
「待ってろ、すぐ夜勤の看護士を――」
「喉、が……」
「――何?」
「……喉が……渇く……ッッ!」
 瞬間――萩本の目の前から、女の子が消えた。
 そして、背後から何かが首に噛み付く。
 いや、噛み付かれたなんてものではない。喰い千切られたのだ。
「……ッア……!!!?」
 ベキベキという音が、萩本の耳に届く。それが自分の身体が引き裂かれている音だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
「貴方の血を……命を……全て、ください……!」
 さっきの女の子の声が聞こえる。
 そこで、萩本の意識は闇に呑み込まれた。



 その数時間後、萩本の死体は発見される事となる。
 彼の身体はバラバラに食い散らかされており、血液の殆どが奪われていた。
 ――吸血鬼となった青山礼香が起こした、最初の事件である。



「御神楽さん、私達はこの街――星丘市に、何か縁があるのでしょうか?」
 マリエッタの言葉に、俺は心中で同意した。
 何が悲しくて、時差ボケに悩まされながらこんな所に何度も来なければならないんだ。
 しかも、毎回活動は夜。夜の住人である以上仕方のない事かも知れないが、たまには日光の下で労働したい。
 俺がそんな事について考えていると、
「白き騎士、赤き騎士。待っていましたよ」
 俺とマリエッタをこの街に呼び出した、クソガキの声が聞こえた。
 黒き騎士――ブルーノ・ニィアルラ司祭はこちらを眺めながら、イタリア人とは思えないような色黒の顔にニヤニヤした笑みを貼り付けている。
 奴は自称13歳だが、俺は信じていない。マリエッタの話によると、彼女が異端審問部の一員となった2年前も13歳だったらしい。
 ……天然ボケのマリエッタは、ブルーノが13歳だと信じているようだが。
「枢機卿から聞いていると思いますが、貴方達の仕事はこの街で吸血殺人を繰り返しているヴァンパイア――青山礼香を始末する事です」
 って言うか、お前も働けよ。
「既に、死者は18人。その内2人は、青山礼香の両親です。まだ発見されていない者や完璧に喰い尽くされた者を加えれば、被害者の数は倍近くなるでしょう」
 ブルーノは言いたい事を好きなように言うと、
「では、任せましたよ」
 夜の闇に溶けるように、去って行った。
「……さて、始めるか」
「そうですね……」
 俺とマリエッタは、夜の星丘市を歩き出す。
 ……さっさと終わらせて、ローマに帰ろう。



「どう思います? 御神楽さん」
「――ん? 何が?」
「病院に入院していたアオヤマさんとやらが、吸血鬼へと転化した事についてです」
 ああ、その事か。
「吸血鬼への転化は――秘術によって人を辞めるか、吸血鬼に噛まれる事によって成される」
「はい」
「青山礼香は、どっちだと思う?」
 マリエッタはすぐに、
「それはもちろん後者だと思います。アオヤマさんが、秘術を学んでいたとは思えませんから」
 と、答えた。俺もそう思う。
 ――思うんだが。
「だがなぁ……その吸血鬼は、どうして青山礼香だけを襲ったんだ? 病院には、もっと人がいるのに」
「う、それはそうですが……」
 マリエッタが口篭もる。無理もない。
 どうも、今回は怪しい。
 青山礼香の転化にしてもそうだが、ブルーノの嫌味ったらしい笑顔がいつもよりネチネチしてたのも気になる。
 そう――あの顔は、<贖罪の釘剣>の奪取を俺達に命じた時と同じ顔だ。
「御神楽さん……」
 マリエッタの小さな、それでいて鋭い声が、俺の思考を止めた。
 ……ああ、近くいるな。
「…………」
 俺達は無言で、それぞれの聖具を出現させる。俺の赤き剣は前に折られたが、ばっちり再生済みだ。
 そして。
「――こんばんは」
 透き通った声が、闇の向こうから聞こえた。
「こんばんは」
「おう、こんばんは」
 挨拶を返す、マリエッタと俺。何かマヌケだが、挨拶を返さないのは礼儀に反する。
「今日は、いい夜ですね」
「ああ、そうだな。吸血鬼が墓から出て来そうな夜だ」
 俺の言葉に、目の前の少女は僅かに笑う。
 なかなか可愛い子だ。人間だったらの話だが。
「確認するが、お前が青山礼香だな?」
 まぁ、それは間違いないだろう。
 彼女の服は、赤いペンキでもぶちまけたかのような有様だ。本当にペンキならいいんだが、残念ながら血の臭いがする。
「はい、そうです。そちらは、黙示録四騎士のマリエッタ・パウズィーニさんと御神楽祐貴さんですね」
 青山礼香の言葉に、少し驚く。
 黙示録四騎士――と言うより異端審問部は、存在自体が極秘だ。少なくとも、一介の女子高生が知ってるような事ではない。
「……誰から黙示録四騎士の事を訊いた?」
「あの人からです」
「そのあの人とやらが、お前を吸血鬼にしたのか?」
「はい」
 予想通りの答えが返ってきた。面白くない。
「あの人ってのは、一体誰だ?」
「それは……ごめんなさい、分からないんです。頭の中に霧がかかってるみたいに、あの時の事が思い出せないんです」
 ばっちり記憶操作もされてるようだ。
「ま、いいや。俺達が何者か知ってるなら、俺達の目的も分かってるな」
 マリエッタが光の矢を番え、白き弓を引く。
 その先には、もちろん青山礼香。
「私を……殺すんですか? せっかく、生きられるようになったのに」
「お前はもう死んでるんだよ」
「変な事を言わないでください。お父さんもお母さんも、私が元気になった事を喜んでくれると思うのに。なのに……どうして」
 青山礼香が俯く。
 肩が、ガクガクと震えていた。
「どうしてどうしてどうしてどうしてどうして! どうして、殺されなくちゃいけないんですか!! 貴方達は生きてるのにッ!!」
 マリエッタが、矢を放つ。
 光のラインが、空間に引かれてゆく。
 だがもう、そこには青山礼香の姿はなかった。
「不公平です……不公平不公平不公平です! 不幸病です!! 何で私だけ私だけ私だけ私ダケ私ダケ私ダケワタシダケワタシダケワタシダケ」
 何処からか、声だけが聞こえる。
 まるで、この夜の闇が語りかけてきているみたいだ……。
「――私だけ死ぬのは、嫌なんです」
「だから、他の人間を殺したのか?」
 少しの間、闇の向こうは沈黙していた。
「……はい? 何を言ってるんですか? 私は人殺しなんてしてません。死ぬのが嫌だからって、他の人を殺すような最低の人間ではありませんから」
「……じゃあ、その血は何だ?」
「血? この血は、さっき喰べた肉が撒き散らしたモノですけれど」
「…………」
「ああ、そう言えば訊きたい事があるんでした。私のお父さんとお母さん、どこにいるか知りませんか?」
「……何?」
「家に帰ってもいないんです。肉が2つ転がってただけで。その肉は喰べましたけど。血も内臓も美味しかったですよ」
 ……嫌なタイプだ。
 言葉が1つ1つ発せられるごとに、まるで身体の中を掻き混ぜられるような不快感を感じる。
「知りませんか? 知りませんか? 知りませんか? 死りませんか?」
 くそっ、どうしてブルーノは面倒事ばかり押し付けるんだ!
「死りませんか? 死りませんか? 死りませんか? 死りませんか?」
「うるさいですッ!」
 マリエッタが闇の中に、光の矢を撃ち込む。
 その光は闇を引き裂き、一瞬だけ青山礼香の姿を現した。
 間髪入れず、マリエッタは彼女に向けて矢を連射する。
 ――チャンスだ!
 俺は光の矢を追うように駆け、赤き剣を振るった。
 矢が青山礼香の身体を貫き、さらに俺の斬撃が彼女を斬り裂く。
 浅い。だが、手応えはあった。
「ぐ……っぁあぁ……!!?」
 青山礼香は後ろに跳躍し、再び闇を纏う。
 2,3度、カエルの鳴き声みたいな呻きが聞こえたが――すぐに、静かになった。
「……逃げたか」



 ――痛い。
 身体のあちこちが痛い。狂い死にしそうなくらい痛い。
 涙が出て来る。どうして、私がこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。
 でも、諦めたらダメだ。お父さんとお母さんが待ってる。
 ……だから、誰か助けて。
 血が止まらない。このままじゃ、死んでしまう。
 助けて。
 生きたい。私、生きたい。
 何度も転びそうになりながら、必死で走る。
 ――だけど、その時。
 光の矢が、私の右足を吹き飛ばした。



 青山礼香が、声にならない悲鳴を上げる。
 彼女の右足は、マリエッタが放った矢によって、跡形もなく消え去っていた。
 右足を再生させようとしてるみたいだが、無駄だ。聖具による傷は再生しない。
 それでも青山礼香は、前進をやめなかった。這ってでも先に進もうとする。
 ……何て痛々しい姿だ。見てるこっちまで辛くなってくる。
「…………」
 赤き剣を、握り締める。
 俺には、楽にしてやる事くらいしか出来ない。



 ……誰かが、私に近付いて来る。きっと、私を殺すつもりなんだろう。
 視線を落とす。右足があった部分からは、止め処なく血が流れ続けている。
 どうして、こんな酷い事を平気で出来るんだろう……?
 ……。
 …………。
 ………………。
 ……………………ああ、何かイライラしてきた。
 こんな事をされて、黙ってる事なんて出来ない。
 ――目には目を、歯には歯を。
 返してやる。
 痛みも苦しみも悲しみも、全部返してやる。
 殺してやろう。
 殺して殺して殺して、それでもまだ殺してやろう。
 そのための『力』が、私にはあるんだから。
 ……ちょっと、楽しい気分になってきた。ははははは吐吐。
 1人残らず、殺殺殺殺殺殺殺シテヤル。
 私は笑いながら、思い切り叫んだ。
「――『暗黒の吸血鬼の神殿』ッッ!!!!」



 ――突如、世界が激震した。
 青山礼香の叫びと共鳴するように、地鳴りが轟く。
 俺とマリエッタはバランスを崩し、その場に倒れ込んだ。
 そして――それを、見た。
 夜空が裂け、その亀裂から何かが落ちてくる。
 それは、神殿。
 その神殿は街の上で重力に逆らい、停止する。
 空に浮く魔の神殿は、絶対的な威圧感を放ちながら、俺達を見下ろしていた。



「ようこそ、私を祀る神殿へ」
 気付いた時、俺とマリエッタは神殿の中にいた。
 神殿の壁や柱には、見た事もない象形文字がびっしりと刻み込まれている。
 青山礼香は祭壇の上に立ち、こちらを眺めていた。
「ここは私の神殿――私の楽園――私の世界。ここに来てしまった以上、貴方達の運命は死で決定です」
 青山礼香の全身の傷が消える。それだけではなく、漲る力はさっきまでとは比べ物にならない。
 ……まいったな。まさか、こいつがここまでやるとは。
「な、何が起こったんです!!?」
 パニック気味のマリエッタ。表面に出していないだけで、俺も心中は似たようなものだったりする。
「あいつ……神殿を使って自分自身を祀り、神になりやがった」
「……はい?」
 俺の呟きに、マリエッタが訊き返す。
 まぁ、キリスト教徒には理解し難い事か。
「人間を信仰する文化、ってのがある。日本では平将門、中国では関羽なんかが有名か。彼等は死後、その怨念やら偉業やらによって、人々に祀られ――神と成った。信仰が、人間を神にするんだ」
「……順序が逆転しています。まず神が在り、それを人々が信仰するのが筋でしょう? 信仰が先に来るなんて、矛盾しています」
「言いたい事は分かるが、そういうものなんだから仕方ないだろ。話を先に進めるぞ」
 マリエッタは不服そうだ。
「これもそれと同じ事だ。上空に出現したこの神殿に、人々は畏怖の念を向ける。畏怖っていうのは、信仰の形の1つだ。そして当然、神殿に向けられた信仰は、そこに祀られている青山礼香への信仰だな。あいつは畏怖という名の信仰を集め、神へと変生したんだよ」
 青山礼香はニコニコしながら、こちらを見ている。どうやら正解らしい。
「凄いですね、御神楽さん。まさにその通りですよ」
 ぱちぱちと、拍手の音。バカにされてるような気がするのは被害妄想か?
「……アオヤマさんが、神なはずがありません」
 マリエッタが、1歩前に出る。
「何故なら、神とは我等が主のみ。神を騙る悪魔(ドラクル)を狩る事も、私達の仕事なんです。覚悟してください、アオヤマさん」
 青山礼香の笑顔が、ニコニコからニヤニヤに変わった。
 この全てを見下すような嘲笑――見た事がある。そう、あいつの笑顔と同じだ。
「竜(ドラクル)――ですか。そういうのも、いいかも知れませんね」
 べきり――と、骨を無理矢理捻じ曲げたような気味の悪い音がする。
 骨格の歪んだ青山礼香の身体から、2枚の翼が現れた。
 最初は、蝙蝠にでも変身するつもりなのかと思ったが――どうやら違うようだ。
 彼女の身体が膨張し、肌が爬虫類じみた色に変化する。それに合わせたように、青山礼香は蜥蜴のような姿にメタモルフォーゼを遂げた。
 有翼の、巨大な蜥蜴。
 ――分かりやすく言えば、ドラゴンというヤツである。



「凄いな、マリエッタ。ドラゴンに変身出来る吸血鬼なんて、たしか3体しか確認されてないんじゃなかったか?」
 つまり、彼女が4体目だ。
「……御神楽さん、どうしてそんなに余裕があるんですか?」
「ただの現実逃避だ」
 ……さて、どうするかな。
 この神殿ごとあいつを真っ二つにする方法もあるにはあるが、出来れば使いたくない。
「いあ……んがい……いぐぐぅぅうううッ!!!!」
 竜が――咆哮する。
 そして、大きく口を開いた。
 直感的に、俺とマリエッタはその場から跳び退く。
 竜の口から吹き出された炎により、俺達が立っていた床が蒸発する。
 ……何て火力だ。まともに受けたら、間違いなく天の主の元へ召される事になるだろう。
「避けないでくださいよ……ッ!」
 竜の額に青山礼香の顔が浮かび上がり、虚ろな眼で呟く。
 だが、そいつは無理な相談だ。
 俺は竜の背後に廻り込む。
 これだけ図体がでかいんだ、後ろから斬りまくれば――
「……え?」
 ――竜の姿が、消えた。
「御神楽さん、上です!」
「――ッ!?」
 上を見上げる。
 そこには――俺に向かって落下してくる、竜の巨体。
「チィ――!?」
 渾身の力で、床を蹴り飛ばす。
 俺が立っていた床が粉々に踏み抜かれ、衝撃が走る――!
「くぅっ……はぁぁっ!」
 ――閃光。
 マリエッタの白き弓から放たれた聖なる光矢が、竜に向かって突き進む。
 だが竜は残像だけを残し、それを回避してみせた。
 くそ! あの大きな身体で、どうしてそんな動きが出来るんだ!
「あはは、あは、あはははは這ははは這はは這這這は這這は這這這這這這這はは這這這這這這這這……ッッ!」
 青山礼香の狂ったような――と言うより完全に狂い切っている声が、木霊する。
 笑い声が神殿の壁や床に染み込み、逆に何かがそこから溢れ出す。
 ――それは、数多の異形の者達。
 そいつらは異界の祝詞を囁きながら、俺達に迫る。
「み、御神楽さん……」
「……なんか、どんどん面倒な事になって来てるな」
 俺は素早く、近くの1体を斬り斃す。昆虫と人間を足して2で割ったような、醜悪な化物だった。
 マリエッタも、化物どもに矢を撃ち込む。四足歩行する奇怪な魚が、豪快に吹き飛んだ。
「イアァァッ! シュゥゥゥブ=ニィィグラァァァァスッッ!!」
「――ッ!?」
 ……しまった、化物どもに気を取られ過ぎていた。
 青山礼香の顔が叫ぶと同時に、竜の口から炎が吹き出される。
 陰を内包し、闇を内包し、死を内包した――黒い炎。
 この世のモノでない炎が、フロギストンを放出しながら俺に迫る。
「御神楽さんっ!!?」
 ――ダメだ、避けられない!
「だからって、焼かれはしねぇぞ!」
 俺は人差し指と中指を伸ばし、その2本指で正面に五芒星を描く。
 それは光る盾となり、黒炎から俺を護った。
「……? エルダー・サイン――いや、晴明桔梗印ですか」
「お袋の実家が陰陽道の家なんでね。こういう異端の魔術はあまり使いたくなかったんだが……ま、超法規的措置だ」
 俺は青山礼香の言葉に答え、不敵に微笑む。
 ……何故か、マリエッタがもの凄く冷たい眼で睨んでいるが。
「御神楽さん……魔術を使う者は、火と硫黄の池に落とされるんですよ?」
「さっきも言ったが、超法規的措置だ。慈悲深き神の御心は、きっと俺を赦してくださるだろう」
「……はぁ」
 ――呆れられた。
「小言は後で聞いてやる。だが今は、さっさとあいつを片付けるぞ」
 だが、敵は予想以上に強い。
 このまま闘い続けても、勝てる可能性は高くないだろう。
「……仕方ない」
 アレを、使うしかないみたいだ。



「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな――」
 俺は静かに、三聖頌を詠唱する。
 それに応えるかの如く、手の中に一振りの剣が現れた。
「何、ですか……ッ!?」
 変わる空気。
 それを敏感に察知した青山礼香が、慄く。
 さらには化物どもが、蒸発したかのように消える。剣が放つ清浄な空気が、奴等を異界へと送り返したのだ。
 まさに――浄化。
「…………」
 マリエッタは畏怖するかのように、俺が握っている剣を見詰める。
 その剣は、キリストの血を吸った鉄から造られたといわれる――聖なる剣。
「――<贖罪の釘剣>ッ!」
 勝敗は、一瞬で決まった。



 何が起こったのか、まるで分からない。
 御神楽神父の手に剣が出現し、その剣身が滴り落ちる血のような――不気味な光を放った所までは、見えた。
 しかしその後に起こった事は、完全に私の理解を超えている。
 気付いた時には、剣が私の身体と私の神殿を真っ二つにしていた。
 ……どうやら、人間を超越した私にさえ知覚出来ないようなスピードで斬られたらしい。
 でも、そんな事はありえないよ……。
「ありえますよ。あの剣は、僕が造った物ですから」
 ――突然、頭の中にそんな声が響いた。



 竜の身体が光の粒子となり、消えてゆく。
 それと共に神殿もまた、消滅する。
 ――俺が放った必滅の斬撃は、青山礼香を完膚なきまでにこの世界から斬り離したのだ。
「……御神楽さん」
 まぁ、それはともかく。
「この状況、どうするんですか!?」
「……どうするかなぁ」
 俺達は、落ちていた。
 地上に向けて。まっさかさまに。
 まぁ……あの神殿は空に浮いていたのだから、それが消えればこうなるのは当然なのだが。
「とにかく、何とかしてみよう」
「何とかって――」
 俺は素早く、左腕でマリエッタの身体を抱える。
 彼女は短く悲鳴を上げると、ジタバタしながら顔を真っ赤にした。……酒でも飲んだんだろうか。
 だが、その摩訶不思議なリアクションにツッコミを入れている時間はない。
「ハ――ッ!」
 俺は下に向けて、右手に握っている<贖罪の釘剣>を振り下ろす。
 地面が爆砕され、その衝撃が俺達の落下速度を減殺する。
 しかし――
「く……っ!?」
 まだ、速い。このスピードで落ちたら、かなり危険だ。
 だが、もう地面は目の前にある。
 結局、スピードを殺し切れないまま――俺は、地上に激突した。



「……助かったんですか?」
「うぅむ……」
 マリエッタが、不思議そうな表情で俺を見る。きっと、俺と同じ気持ちなのだろう。
 あのスピードで落下すれば足の骨くらいは確実に砕けるはずなのだが……何故か、俺は普通に着地していた。
 これは、一体……?
「……まさか」
 試しに剣を振るい、近くの木を刻んでみる。
「――!」
 眼に映らないほどのスピードで、剣が――俺の腕が、動く。だがしかし、脳は確実に剣の動きを認識し、それを操っていた。
 あっという間に、木が山のような切り屑へと変わる。
(……俺の身体能力が向上しているのか?)
 さっきの着地といい、今の斬撃の速度といい、そうとしか考えられない。そういうレヴェルの話ではない気もするが。
 しかし、何で急に――?
(……やっぱり、この剣か?)
 手の中の<贖罪の釘剣>を見る。
「…………」
 この剣は青山礼香を斬った時、その命というか魂というか――ともかくそういうモノを、喰ったのだ。
 そして、それによって剣が得た力は、剣の主である俺の力となる。故に、突然俺は強くなった。
 ――そういった事を、理屈抜きで理解する。もしかしたら、剣が俺に教えたのかも知れない。
(しかし、これは……)
 お袋から聞いた事がある。確か陰陽道にも、そんな術があったはずだ。
 1人で考えていると、<贖罪の釘剣>に変化が現れた。
 金属で出来ているはずの剣身が肉のように裂け、血が溢れ出す。まるで、かつて吸った聖なる血を吐き出すかのように。
「……っ!?」
 あまりの光景に、マリエッタが息を呑む。
 剣身の傷口は次々と増え、流れる血量も増してゆく。そして、俺の足元に血だまりを作った。
 最後には剣そのものが融解し、血だまりと混じり合う。
「何なんだ……?」
 次の変化は、すぐに起こった。
「――ッ!!!?」
 なんの前触れもなく血だまりが爆発し、血飛沫が上がる。
 そして――無数の血の雫は、一斉に俺に群がり始めた。
「ぐっ……あああああああっ!!!?」
「――御神楽さん!?」
 血雫は俺の皮膚を貫き、血管の中へと入り込む。そのまま俺の血と混じり、身体を巡り始める。
「ぐ……っ」
 激痛が去ると、例の血はもう1滴たりとも存在しなかった。一瞬にして、全ての血雫が俺の身体に入り込んだらしい。
「だ、大丈夫ですかっ!!!?」
「……ああ、何ともない」
 心配するマリエッタに、そう答える。事実、血雫による傷は跡形もなくもう消えていた。
 ……だが。
(これでまさしく、俺と<贖罪の釘剣>は一心同体って事か。嫌な気分だ)
 不吉な予感が、俺の胸の中に渦巻く。
 ――その時。
「その剣は、私が高いお金を出して買ったモノなんだけどね。赤き騎士――ファーザー・御神楽」
「……なら、返してやろうか?」
「謹んで遠慮するわ」
 突如割り込んで来た声に、軽く答える。
 眼をやると、1人の少女が佇んでいた。
 明らかに日本人ではない、肌と髪の色。少女は不遜な笑みを浮かべながら、俺達を見ている。
 ……こうして対面するのは、初めてだな。
「貴方は……アレッシア・アルベルティ!」
 マリエッタが、矢を向ける。
 だがアレッシアはまるで気にも止めず、勝手気侭に喋り続けた。
「青山礼香は、滅んだの?」
「……? どうして、そんな事を訊く?」
「彼女に襲われた者の中には、我がファミリィの人間もいたのよ」
「ああ、そういう事ね。青山礼香なら、俺がこの手で滅ぼしたよ」
 その方法には、不満が残っているが。
「そう。彼女がどうして吸血鬼になったのかは知らないけど、そこに不幸な何かがあるのは間違いない」
 アレッシアは、空を見上げる。
「……せめて、あの世では幸せになって貰いたいものね」



「陰陽道に、蠱毒(こどく)という咒術があるんですよ。青山礼香さん」
 私は宇宙のような――でも絶対に宇宙ではない場所――を漂っていた。
 黒い神父が、吐き気をもよおすような声で囁きかけてくる。
「蛙や蛇といった生物を壷などの中に閉じ込めて共喰いさせ、生き残った最後の1匹――1番強い1匹を、術に使うんです」
 神父の顔は見えない。まるで、顔が無いみたいに。
「他の命を喰らい、それを取り込んだ最後の1匹。それがどれほどの力を持つのかは、吸血鬼である貴方ならよく分かるでしょう。咒術として使われるのも当然ですね」
 ケラケラと、黒い神父が笑う。
「ハハハ……赤き騎士を『最後の1匹』にするためのエサとしては、貴方はなかなか良かったですよ。これで赤き騎士は――あの剣は、さらに強くなった」
 ……この人は一体、何を言っているのだろう? 分からない、分からない。
「さて、手早く終わらせましょうか」
 神父の手に、何かが現れる。
「――黒き秤」
 ……それは夜の闇よりも黒い色をした、天秤。
「古代エジプトでは、死者は死後の世界でオシリスという神の審判を受けると考えられていました。そこでは、天秤にその死者の心臓と真実の羽根を乗せ、罪の重さを測るんです。そのために、ミイラは心臓だけを残されているんですよ」
 天秤の片方の皿に、毒々しいほど赤い塊が乗った。
 あれは――私の――心臓――?
「心臓と羽根の重さが吊り合えば、その者はオシリスの国で暮らす事を許されますが――」
 もう片方に、フワフワと羽根が舞い降りる。
 天秤が揺れ、私の心臓の方が――沈んだ。
「――心臓の方が重かった場合、その心臓はアメミットという怪物に喰べられてしまうんですよ」
 異様な、気配がした。
 上下左右前後――そのいずれとも違う、認識する事すら出来ない方向から、何かが近付いて来る。
「どうやら、罪深き貴方はオシリスの国へ行く資格はないようですね」
 どうして……どうして、貴方はそんなに楽しそうなの?
「さよならです、青山礼香さん。もう会う事もないでしょう。貴方には――」
 異質な方向から現れた怪物の口が、私の心臓を呑み込む。
 それと一緒に、私自身も……2度と這い上がる事の出来ない穴へと、堕ちてゆく。
 最後に聞こえたのは、黒い神父の嘲笑だった。
「――来世すら、無いのですから」



「……青山礼香を転化させた犯人は、分かっているの?」
 しばらく呆っと遠くを見ていたアレッシアが、再び俺と話し始める。
「いや、分かっていない。だが――十中八九、あいつだろうな」
「そう……やっぱり、あの黒い男の仕業なのね。何週間か前に来日してたらしいから、まさかとは思っていたけど」
「休暇とって、日本に来たんだよ。ったく、俺達はほとんど休みなく働いてるってのに」
 ここにはいない同僚に向かって、言う。
 だが――
「ああ、すいません。少し、やらなければならない事があったんですよ」
 ――答えが、返ってきた。
 世界が重く、暗く、忌まわしく……変質する。
「……黒き騎士」
 アレッシアが、呟く。
 その鋭い視線の先には――ブルーノが、あの憎たらしい笑顔で立っていた。
「それはともかく……白き騎士、赤き騎士。仕事も終わった事ですし、ローマへ帰りましょう。枢機卿が報告を待っていますよ」
 ブルーノは俺とマリエッタを先導するように、歩き始める。
 しかし、
「――待ちなさい、砂漠の王」
 アレッシアは、それを鋭い声で止めた。
「……何か?」
「貴方、やらなければならない事があったとか言ってたけど……それは、青山礼香を吸血鬼に転化させる事かしら?」
 ブルーノが、笑う。
 怖気が立ち、思わず震え上がるほどの……壮絶過ぎる、笑みだった。
「少し違います。転化させるに相応しい者を見つけ出す事、ですよ」
 マリエッタの瞳が驚愕で震え、アレッシアの瞳には怒りの炎が宿る。
「……そういうやり方、気に入らないわね。覚えて置きなさい、ブルーノ・ニィアルラ。いつか必ず、徹底的に滅ぼしてやるわ」
 ブルーノの瞳にあるモノは、あまりにも深い闇と侮蔑。
「僕を滅ぼす? ハハ、どうやってですか? ヌァザ・アガートラームの力でも借りますか? たとえそうでも、僕を滅ぼす事など出来ませんよ」
「ニィアルラさん……貴方はっ!」
 マリエッタが、ブルーノに向けて白き弓を引く。
 だが、
「……止めろ、マリエッタ」
 俺はそれを、手を伸ばして制した。
「――ッ!!? どうして止めるんですか!!? 彼が元凶だったんですよッ!!!?」
「今の俺達がどうにか出来る相手じゃない。教皇聖下だって、あいつには逆らえないんだからな」
「な……っ!?」
 マリエッタが憎しみさえこもっていそうな視線で、俺を睨む。
 俺達にとって、聖下とは神の代理人だ。その聖下が逆らえない存在など、この地上には存在しない。少なくとも、マリエッタはそう思っているはずだ。
 なら、その存在を知ってしまった時――マリエッタはどうなってしまうのだろう?
「お話は終わりですか? では、僕は行かせてもらいます」
 ブルーノは、俺達に背を向ける。
 その貌(カオ)だけを――その嘲笑貌(エガオ)だけをこちらに向け、奴は別れの言葉を口にした。
「――さようなら、アレッシアさん。いつか、冒涜的な悪夢の中でお会いしましょう」



「……教皇庁はもう終わりね」
「そう言うなよ。俺だって、あの怪神千面相をどうにかしようと必死なんだからな」
 俺はアレッシアの言葉に答えつつ、深い深い溜息をついた。きっと、マリアナ海溝よりも深いはずだ。
「で、どうするんだ? アルベルティ・ファミリィなら、ウィルマース・ファウンデーションに協力を要請する事くらい出来るんだろ?」
「そりゃあ、出来るけど……それでどうにかなる相手だと思う?」
「……いや」
 ま、それもそうか。まったく、難儀な話だ。
「帰るぞ、マリエッタ。もう本気で疲れ果てた」
「あ、はい」
 トボトボと歩き始めた俺に、マリエッタがトコトコと付いて来る。
「さようなら、ファーザー・御神楽。2度と会わない事を天に祈るわ」
「ああ、俺もだよ」



「御神楽さん、1つだけ聞かせてもらえませんか?」
 帰りの船の中――もちろん密航である――で、ずっと黙っていたマリエッタが口を開いた。
 ……何が聞きたいのかは、見当がつく。
「何だ?」
「ニィアルラさんは……ニィ神父は、一体何者なんです?」
「…………」
 やっぱりそこか。
「……這い寄る混沌」
「――え?」
 俺の口にした単語に、マリエッタが首を傾げる。どうやら、聞き覚えはないらしい。
「昔、アメリカにハワード・フィリップス・ラヴクラフトという小説作家がいた。彼は夢からインスピレーションを得て、作品を書く事があったらしい」
「……それが、どうしたんです?」
「まぁ聞け。ある時……ラヴクラフトの悪夢の中に、邪神が現れた。そして彼は、それを作品として発表したんだ。タイトルにその邪神の名を付けてな」
「…………」
 船の中が、静まりかえる。海はとても穏やかだ。
 あの綺麗な青い海の下には、何が眠っているのだろう……?
「――その作品のタイトルは、『Nyarlathotep』という」



 ナイアルラトホテップがプロヴィデンスに来たら、ぜひ会うんですよ。ナイアルラトホテップは恐ろしい存在――あなたには想像もできないほど恐ろしい存在――ですが、素晴らしい人物でもあります。会ってから何時間ものあいだ心に取りついてはなれません。ナイアルラトホテップに見せられたものを考えると、いまだに震えあがる始末です。

 ――ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの悪夢



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