烏、鴉、カラス。日の本の国に、古来よりその姿を見せる黒き野鳥の名前である。鳴き声やその姿は不吉なものとされるが、熊野の地では神の使いとして崇められることもある。知能は極めて高く、下手な浅知恵程度では、到底勝ち目は無い。それ故に、超常的な存在として、畏怖や崇拝の対象となったとも言えるが。 八咫烏という存在が居る。三本足の神鳥であり、主として、現代で言う近畿地方で信仰されている。咫とは開いた手の親指から中指までの長さを指すが、ここでいう八咫とは厳密な話では無く、唯、大きいと言う意味だ。日本神話に於ける三種の神器の一つ、八咫鏡からも類推出来るであろう。つまり、歴史的に見れば、巨大な烏の伝承が、何時しか信仰に取って代わったといった所か。この様な事例は世界的に見ても、中国の龍族信仰や、西洋の一角獣信仰など、さして珍しいものでは無い。しかし、世に聖獣、神獣と称される存在は、本当に実在しないのであろうか。考古学で言えば、御伽噺であったトロイ伝説を史実としたシュリーマン。或いは二十世紀初頭、科学の根幹を覆したアインシュタインなど、現代の認識として証明されていないだけだと言われれば、誰にも否定出来無い。無論、それと同時に立証も出来無い訳だが。 だが、これだけは言える。真実は、自身が積み上げた先にある。しかしそれは、唯一無二では無い。意思を持った人間、一人一人が作り上げていくもの。これが、真実なのだ。 たゆたう雲になりたいと言った奴が居た。空にぷかぷか浮かんで、そのまま何処へでも自由に流れて行きたい、と。しかし、実際にはとんでも無い話だ。雲って奴は、その種類に依って高度がほぼ決まっている。積雲であれば約三千メートル、巻雲は一万メートル程だったか。そしてその移動手段は風任せ。何のことは無い。地べたを這いずり、人に流されて生きていく俺達と何ら変わりは無い。自嘲的に、そんなことを思う。 「やっぱりここに居た」 不意に声を掛けられ、身体を起こす。ここは、俺が通う烏羽(からすば)学園の屋上。初秋の涼やかな風に誘われて、何とは無しにベンチで寝転がっていたのだ。残暑厳しいこの時期、日陰で風が通るこの場所は、ゴロ寝には最適だ。授業をサボる場合は尚のこと。これを俺は、奢ってもらう飯の旨さが増すことより、タダ飯理論と呼んでいる。 「日本史の山本先生、怒ってた」 「放っとけよ。官僚が画一的に定めた指導要領とやらを復唱するしか能の無いダメ教師だろ。俺らに先んじて必要なのは、国全体のことより、この烏羽市の成り立ちだ。地元を愛せずに、誰が為の国威発揚ってね」 「俊らしい」 呆れるでも蔑むでも無く、眼前の少女、桐生霞(きりゅうかすみ)は抑揚無く、そう言った。上背は、高校一年生という年齢相応。ダークブラウンのショートレイヤーは、切り揃えただけの経済的カットだ。釣り上がった瞳はやや攻撃的だが、こいつに言わせれば、世間の方が垂れ過ぎているらしい。本気なのか冗談なのかは分からないが、ひたすらにマイペースな奴であることは間違い無い。クラスの女子と喋ることはあっても、流行のファッション雑誌には見向きもしないし、化粧もめったにしない。幾ら地が良いといっても、そんなんじゃ彼氏出来無いぞと忠告したら、『面倒だから要らない』と返ってきた。かくも若者らしくない奴なのだ、こいつは。 そんな霞は、俺のことを『しゅん』と呼ぶ。名前が、小柳俊介(こやなぎしゅんすけ)だからなのだが、俊介と発音するより、俊で済ませたいそうだ。たかだか二音だぞ、そんなに面倒かと思わなくも無いが、こいつがそれで満足なら敢えて何も言うまい。言ったところで無駄な努力なのが分かっているというのも多分にある訳だが。 「んで、何か用か?」 「一緒に帰ろうと思って」 日本史の授業は六時間目だから、終われば放課だ。あれ、だけど待てよ。時間的にはまだ――。 「お前、ホームルームはどうしたんだ?」 「その程度、別に構わない」 結局、こいつも良いタマなんだよな。そんな呑気なことを思いつつ、俺達は静けさの残る校舎へ足を向けたのだった。 帰りしな、真っ直ぐ家へ向かうにはまだ早いということで、街中をブラつくことになった。と言っても、昔ながらの古書店に駄菓子屋、そして骨董屋と、年齢不相応なコースだ。誰かに、時流に乗りたくないお前らなりの反抗期と言われたことがあるが、その通りなのかも知れない。でもまあ、誰かに迷惑を掛ける訳でも無いし、それなりに楽しい。これはこれで良いだろうと、軽い気持ちで身を委ねていた。 「良い仕事してる」 霞は、湯飲み茶碗に手を伸ばすと、そんなことを言ってくれる。正直、俺に真贋鑑定なんてのは出来無いし、雰囲気が味わえれば良いと思っている。だけど、ここは乗ってやるのが男の度量という奴だろう。 「うむ、中々に見事な備前焼だ」 「九谷焼」 知ったかで恥を掻くという典型例でした。 「パンパカパーン、霞ちゃんクイズ〜」 抑揚無くテンション高い台詞を吐くというのは、そこはかとなく怖いものがある。 「この備前とこっちの美濃、最近作られた模造品はどっちでしょうか〜」 いやいやいや、ちょっと待て。値札こそ付いていないが、同じ場所に置かれ、同じ様に薄汚れている――もとい、趣きと味を持っているからには、ものとして大差は無いんじゃないのか。 「一応聞いておくが、引っ掛けとかは――」 「そんな真似しない」 だよなぁ。割と長い付き合いだが、そういう所は妙に律儀だ。両方贋作という大穴も面白そうだが、その場合、無事に店を出られる保証は無い。 「ええい。左の方だ!」 はっきり言って、どっちが備前で、どっちが美濃かさえ分かっていない俺だ。引っ掛けが無い以上、下手に考えた所で、当たる確率は半々。だったら、悩んだ末によりは、スパッと間違えた方が、幾らか印象が良い。 「ピンポンパンポン、大正解〜」 相も変わらず、霞の奴は覇気無く喋る。それにしてもこのクイズ、何処と無く昭和の匂いがすると感じたのは内緒だ。 「兄ちゃん、姉ちゃん――」 ふと気付くと、俺らの背後には、一人の男が立ち尽くしていた。身長で言うなら二メートル弱。肌は浅黒く、筋肉の付きも良い。さっきからこちらを睨んでいた店員だと理解したのはその数秒後。やば。ちょっとはしゃぎすぎたか。 「良い目、してはりますな」 「てへへ」 た、頼む。褒めるんなら、そんなドスの聞いた声はやめてくれ。しかもアクセントのおかしいエセ関西弁だし。 「そのニセモンはな。客を見極める為に置いてあるんや」 うーむ、頑固一徹と取るか、趣味の悪い店と取るか。微妙な所だ。 「あんさんら、気に入ったで。とっときの見せたるわ」 言って店員さんは、番台の下から、小振りの箱を取り出した。中には、布に包まれた茶器が収められている。 「桃山時代の名工、菊三郎の品や。箱も本物やで」 「おお、これは逸品」 未だに差の分からない俺は、完全に蚊帳の外だ。 「学生さんやから、何か買えっちゅうのは酷な話やろ。そやけど遠慮せんとちょくちょく来てええで」 「わーい」 かくして俺らは、新たな寄り道スポットを得たのだった。 夕暮れの薄暗い時間帯を、逢魔が時と称する。大いなる禍の起こる時、大禍時が転じた言葉だ。たしかに、西の空にだけ僅かな赤みが残るこの時は、何とはなしに気持ちが不安になる。昼という絶対的な動から、闇に満ちた静へ移行する混沌とした空間だからか。そう言えば、海風から山風へ切り替わる夕凪もこの時分だ。失われる光と、在るべき風の喪失が、魔物の現れる前兆と捉えられても、何ら不思議は無い。ふと、そんな詩的なことを思った。 「ふー!」 「そして、お前は何をしている」 「学園からの帰り道、野良猫と縄張り争いするのはお約束」 聞いたことの無い常識だ。 「それで、勝てたのか?」 「今日の所は、痛み分け」 明日もやる気かい。 「何つうか……平和だなぁ」 ここ数年、ずっとこんな感じで過ごしてきた気がする。烏羽学園は、一貫校でさえ無いものの、地元生の半分は進学する所だから受験戦争をした記憶も無い。この状況に、何時かは終わりが来るはずなのだが、どうしても明確にイメージできない。何十年と続くホームドラマやアニメ番組の様に、半永久的に終結しないのでは無いかと、非現実的な錯覚に捉われてしまう。 「にゃー」 いや、唯単に、こいつが大人になる様を想像出来無いだけの気もするが。 「……?」 不意に、視界に違和を覚えた。何のことは無い。目の前のゴミ捨て場に烏がいたのだ。夕刻時とはいえ、マナーの悪い住民が捨てた生ゴミが目当てだろうか。唯、問題はそこじゃない。そいつは間の抜けたことに、防鳥ネットに肢を引っ掛け、抜けられなくなっていたのだ。羽をバタつかせ、必死になってはいるが、暴れれば暴れる程、絡まっていく。蟻地獄状態とは、この様な時に使う言葉なのだろうな。 「可哀想」 「ああ、そうだな」 「弱肉強食の世界は非情だから、明日の朝には、野良猫に美味しく頂かれる」 「そういうことかよ!?」 まあ、明日は燃えるゴミの日だったはずだから、何事も無かったかの様に処理され――いや、違う違う。 「助けてやるか」 「戦場で、情け心は命取り」 「戦場って何だ!?」 烏羽市の名が示す通り、この街は、烏関連の伝承が多い。大正時代まで烏天狗の存在が信じられていたらしいし、今でも絶対数が多い。俺に信心なんてものは殆ど無いが、縁起位は人並に担ぐ。崇められているものを見殺しにするのは、寝覚めが悪いとまでは言わないが、気にはなる。 「しかし、良くこんな目の細かいネットに引っ掛けたもんだな」 正確に表現すると、肢が嵌まったのでは無く、爪が掛かり、ジタバタしている内に巻き付いた様だ。人間ならば、はっきり言って間抜けの領域だ。 「頭が良いって言うけど、何処の世界にもこういう奴は居るんだな〜」 意外にも、その烏は俺が網を外している間、抵抗らしきことをしなかった。助けようとしているのが分かるのだろうか。だとすれば、空気を読めない人間なんかより、よっぽど賢いってことになる。只単に、危機管理能力が欠如している可能性もあるが。 「これで良し、と」 網に掛かった爪を外し、地べたに置いてやる。俺は獣医じゃないから確たることは言えないが、肢が折れている風では無かった。多分、大丈夫だろう。 「もう引っ掛けるなよ」 流石に、もう一度同じことをされたら助ける気になるかは怪しい。そんな俺の心を知ってか知らずか、そいつはてくてくと歩きで去っていって――いや待て。鳥類の癖に飛び立つ気ゼロですか、あなた。 「変わった烏」 ホモサピエンスを代表する変わり者である霞に言われるのもどうかと思ったのは、俺だけの秘密だ。 夕食後、俺は自室で古文の宿題に勤しんでいた。と言っても勘違いするな。俺はそんなに真面目な学生ではない。霞と協定を結んで、理数系をあいつが、そして文系は俺が受け持つことにしたのだ。それぞれの得意分野だから、労力は全て一人でこなす三分の一程度で済む。そういうのは身にならないと言う奴も居るだろうが、勉強なんてのは好きなことをとことん突き詰めれば良いと思っている俺には馬耳東風だ。 「ふう」 一段落付いたところで、教科書を閉じると、今度は図書室から借りてきた本を開いた。丁寧な作りの背表紙には、『郷土史から見る烏羽市』と書かれている。関東圏と中部地方の狭間辺りに位置するこの街は、開発されている部分がある反面、昔ながらの匂いも充分に残っており、ある種、混沌とした風情だ。その名を、烏羽郡、烏羽町、烏羽市と受け継いでいるところからも分かる通り、かなり前から烏が信仰されていたらしい。実際に今でも、烏を御神体とする神社は幾つかある。唯、八咫烏のミイラが発見された時は失笑を禁じえなかったが。一応、噂を聞いて見に行ったのだが、ミイラではなく明らかに干物で、三本目の肢も不自然な感じで付いていた。結論として、えらく罰当たりなことをしてるなあと、呆れながら帰ってきた記憶がある。そう言えば、都心の烏が郊外にやって来たとテレビが沸いたこともあった。もちろんそれは真っ赤な嘘で、狙ったものは得られないまま適当なこじ付けで放送されたらしい。まあ、この街の連中はそういう部分については冷静で、何事も無かったかの様に日々を過ごしていたが。 何にせよ、こうしてこの街の成り立ちを調べるのは、結構面白い。週に一度開かれる、烏羽市文化保存研究会には俺も所属しているし、そこではもっと濃い話が聞ける。流石に、鶴の恩返しならぬ、烏の恩返しはバッタモンだと思うが。 「ふに〜」 ふと、奇声を聞いた。よもや人の声では無いだろうが、獣のそれにしても聞いたことが無いものだ。本に栞を挟んで、ベランダから外を見遣ってみた。 「やっぱ何も無いよな」 近所の猫に盛りが付いたかとも思ったが、あれは春先のもので半年も違う。うん、空耳だな。気付かないだけで疲れてるのかも知れない。今日は早寝をしよう。 「ふに!?」 風呂にでも入ろうと踵を返したその時だった。背後に先程の奇声と、ドスンという衝撃音がした。何事も無かったかの様に去りたいという衝動を無理矢理抑え、恐る恐る振り返る。 そこに居たのは、女の子だった。歳で言うなら、俺の二つか三つ下くらいか。ストレートの黒髪は肩口まで伸ばされ、綺麗に切り揃えられている。瞳は真ん丸で、体格以上に幼く見えるのはこのせいか。どうも尻餅をついたらしく、座ったまま涙目でその周囲を擦っていた。着ているものは、白の小袖に黒の袴――まあ、ここまでは理解出来無いことも無いのだが、一つだけ常識の範疇を超えていた。その子には、羽が付いていたのだ。漆黒の、まるで烏の様な羽だ。位置的に見て、背中から生えているのだろう。色々と突っ込み所が多すぎて、どうリアクションして良いかを本気で悩んでしまう。 「うう……こんばんは〜」 女の子はゆっくり立ち上がると、右手を上げてそう語り掛けてきた。 「こ、こんばんは」 我ながら間の抜けた行動だとは思うのだが、つい同じ様に右手を上げて、そう返していた。何だろう。異国の地で、全く知らない文化と接する時は、先ず真似から入る心境に似ていると言うべきか。この子の顔は実に日本人的だし、喋ってる言葉も間違い無く日本語なのだが、正直、地球外生命体と接触している気にさえなる。ああ、また頭が混乱してきたぞ。 「あの〜。私〜、先程助けて頂いた烏なんですよ〜」 その一言に、俺の頭脳は処理能力を突破し、完全にフリーズした。 |