風の匂いが好きだと、あいつは言った。俺は何も考えること無く、それを否定した。そもそも、風は唯、空気が流れているものに過ぎない。匂いがあるとすれば、それは風が運んで来たというだけのこと。小高い丘が好きならば、それは草の匂い。中華街なら肉まんの匂いかも知れない。 だけどあいつは、そんな俺を怒ることもなく、小さく微笑んだ。それでも私は風が好き。そう小さく呟き、頬をくすぐる優しい息吹を、胸一杯に吸い込むと、大きく身体を伸ばした。何故だろう。こいつを見ていると、胸が締め付けられる程に遣る瀬無い。整った顔立ちと、風になびく柔らかい髪。触れてみたいという衝動に駆られるが、首を振ってその気持ちを追い遣った。 あなたは何が好き。そう問い掛けられ、口を噤んだ。 適当に答えても良かったのだろう。好きなものはたくさんあるし、嫌いなものも同じくらいある。だけど何に代えてもと聞かれれば、その答は霞の中に消えてしまう。 そもそも、何故この様な問い掛けをしてきたのだろう。話の流れに過ぎないのか、明確なものを求めているのか。横顔を覗いて伺ってみるが、素直なのか、只の天然か。破顔されてしまい、何も読み取ることが出来無い。 不意に、そいつは立ち上がると、遠くを見遣った。視線の先を見渡してみるが、そこには何も無い。どうしたのかを問うと、風が見えた気がしたと返してきた。もちろんそんなものが見える筈も無いのだけれど、一笑に付すことも出来無かった。 そろそろ帰ろうと、どちらからともなく言い出した。ああ、もうこの時間も終わりなのか。夕闇が影を落とすのは、街やここだけじゃないんだと、何とは無しに思った。俺は腰を上げて土を払うと、再びそいつを見詰める。何時までこうしていられるのか。何時かは終わりが来るのか。その、目に見えない不安感を拭う様に明るく振舞いつつ、俺達は家路に就いた。 あれから幾年かが過ぎ去った。今も俺とこいつの関係は変わらない。一緒にバカやることもあれば、ちょっとした諍いで口を聞かないこともある。極々ありふれた二人の関係は、これからも変わることは無いのだろう。 後はこいつが男で無かったら、実に良い思い出なんだがなあ。
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