この学院には、一つの噂がある。長針、短針、秒針が全て重なる瞬間に、八つあるドを全て和音させると、願いが叶うというものだ。まあ、何処の学校にもある、ありふれた都市伝説の類だ。誰かが思い付きで口にしたものが、学院という狭い世界で、短い時間で飽和状態になる。浪漫があるし、存在するだけなら一向に構わないと思う。本当、そこにあるだけならね。 「はぁ……またか」 ホームルームも終わり、音楽室に向かう廊下で、ぼやきにも似た溜め息が口から漏れた。総合音楽部所属の僕にとって、件の伝説は迷惑極まりない。別にピアノ自体は学院の物だから誰が使おうと構わない。だけど、考えて欲しい。人間の指が開ける幅には限界があるから、八つの離れた鍵盤を同時に叩こうとすれば、相応の頭を使わなくてはいけない。一番手っ取り早いのは、二人掛かり、三人掛かりでやることだが、息を合わせようと思ったら、予行演習が必要な訳で。結果、学院には断続的に意味の無い和音が響き続けることになる訳だ。このまま放置したら、耳障りなだけじゃなく、部の評判さえ下げかねない気もする。顧問の寺島先生に頼んで、鍵を借りようかなとも、本気で思ってしまう。 「君達ねぇ!」 今日も今日とて、質の悪い銅鑼の様な音を生み出してくれる人達に嫌気がさし、扉を開けると、つい語気を荒げて咎めてしまう。そんな自分にも嫌気がさすが、唯でさえ弱小部と侮られているんだ。たまには強気にしないと、もっと舐められるに違いない。 「って、あれ?」 音楽室には、誰も居なかった。そこにあったのは、夏独特のむっとする熱気だけで、人っ子一人居ない。入り口はここ一つだから、逃げ出すって訳にもいかない。その気になればベランダから余所には行けるはずだけど、鍵が掛かってる以上、それも無い。となると後は、何処かに隠れてるって線だけど――。 「居ないよなぁ」 様々な事態を想定し、小学生であれば潜めそうなスペースまで探してみる。だけど、誰も居なかった。可能性だけの話をすれば、扉の裏で息を潜めて、僕の死角を衝いてこっそり出て行くというのがあるけど、かなり運任せだし、そもそも、敢えてそれをする理由も思い浮かばない。出た結論は――。 「聞き違い、か」 人間の聴覚は一般に、二十ヘルツから二万ヘルツまでを聞き分ける。視覚は、三百五十ナノメートルから八百ナノメートルで、二倍強しか無いのに比べると、大分広くはあるのだけど、それでも人間だから、勘違いはする。神経質になりすぎてたかなぁ、と、少し反省もしてみる。 「と言ってもなぁ」 気が立ってるのも、ある意味仕方無い。何しろこの総合音楽部、部活の体裁は取っているものの、その内情は悲惨なものだ。総部員数は、僕を含めて四名。友達が居ないというだけな孤高のギタリスト。大和撫子という肩書きを持つ武闘派琴弾きに謎のオカリナ使い。僕自身は一応ピアニストだけど、何と言うか、部を存続する為だけに寄せ集まったのがバレバレだ。って言うか実際、誰かが生徒会に申告して、九月が終わるまでに部員数を規定の七人に乗せなければ、予算削減に加えて、廃部リストに仲間入りということになってしまった。今が七月頭だから、残り日数は三ヶ月以下。夏休みに人が集まるかは怪しいから、実質一ヶ月程度。だけど、三年は軒並み引退するし、何かやりたい一年はとっくに所属が決まってるし、集める目処なんか立ってない。三人くらいなら、名前だけの幽霊部員を集めるのも考えたけど、今度密告された場合、即刻廃部が決まってしまうかも知れない。個性には溢れているが、一応、音楽をしているということで、現行の四人は認められたんだ。何とか音楽をしたいという人を集めるしかない。次に来るのは馬頭琴使いか、トライアングル使いか。この際、楽器でさえあれば、何でも良いと思う反面、そこまで部活に固執する必要も無いんじゃないかと思う自分も居たりする。 「はぁ、ダメだダメだ。生徒会の圧力には屈しないぞ」 厳密な話をすれば、七人に満たないこの部を今まで黙認してくれた訳だから、感謝こそすれ、恨み言を言う筋合いは無いんだけど、それはそれ、これはこれ、だ。 「こういう時は、あれだよね」 言って、ピアノの鍵盤蓋を上げると、敷布を剥ぎ、譜面台に掛けた。そして椅子に腰掛けると、小さく息を吸った。この曲に関して、譜面は要らない。頭の中の五線に音符を並べられるし、そもそも腕の付け根から指先に至るまで、きっちりと全てを憶えている。小さい時から何千何万回となく弾き続けてきたから成せる技で、例え身近な人が分からなくなることはあっても、この感覚だけは消し去ることは出来無いのだと思う。 「――」 G線上のアリア。音楽の父と呼ばれるヨハン・セバスチャン・バッハが産み出した、管弦楽組曲第三番だ。誰もが一度は耳にしたことはあるであろうこの曲で思い浮かべるのは、森の湖畔か、深い海の底か。今から十年くらい前、小学生だった僕はこの楽曲を耳にして虜になった。何でと理由を求められても、答は出せない。言うなれば、初恋だろう。好みが全て揃っている女の子が居たとして、絶対に好きになるとは限らない。今にして思うと、感情は理屈じゃないと、あの頃から知っていたんだと思う。それ程までに僕はこの曲を愛しているし、愛しいと思っている。そんな想いを目一杯籠める様にして、僕の腕は、指は、全身は、力の限り楽曲を掻き鳴らし続けた。 パチパチパチ。数分程の一人演奏会を終え、意識がこちらの世界に戻ると同時に、拍手の音を聞いた。珍しいな。うちの部の連中が他人を褒めるとかは有り得ないから、通りすがりの生徒かな。好きでやっていることとはいえ、評価されるのは素直に嬉しい。ちゃんと礼をしておいた方が良いと思って、入り口の方を振り返った。 「あれ?」 そこには、誰も居なかった。既視感の様なものが浮かび、思い起こすが何のことは無い。ついさっき、この部屋に入って来た時と同じだ。参ったね、疲れてるのかな。それとも、趣味の悪い悪戯か。でも、隠れる場所なんて無いし、走って逃げた音も聞こえなかったし、もう訳が分からない。 「家、帰っちゃおうかな」 だけど、万に一つにも入部希望者がやって来るかも知れないことを考えると、中々踏み出せない。一年以上この学院に居るけど、それで集まったのが三人だけとか言うな。 「いや〜、中々の名演奏だね〜。良い耳の保養になったよ。まさしく、いやー、って、にはははは」 ふと、女の子の声を聞いた。今時、オッサンでさえ使いそうも無いギャグと思しきものとの対比が奇妙で、驚くよりも先に気を惹いた。だけど、相変わらず近くには誰も居ないし――。 「あ、そっか。このままじゃ人間には見えないんだっけ」 よっという小さい声を聞くと同時に、不意に、椅子の上に女の子が湧いて出た。な、ななな、何。一体、どういうこと!? 「チャオ、私、ピアノの精霊だよ。特別に、ピアノちゃんって呼ぶことを許してあげる」 あまりにそのまんまなネーミングセンスに、二の句が継げなかったのは僕だけの秘密だ。 「えっと、順番に聞いて良い?」 「どしたの」 正直、頭の中はこれ以上無いってくらい混乱してたけど、おろおろしているよりはまだ、こうして質問している方が平静を保てる気がした。 「今、ここにいきなり現れたのって、どんなイリュージョン?」 どれだけの天才奇術師だって、何も無い場所に浮かび上がるなんてことは不可能だって分かっているけど、僕は証明を求む。ギブミーサイエンス。ここだけは感性より論理を優先するぞ。音楽家としてはどうかと思うけど。 「むぅ、人間にはちょっと難しいと思うけど、分かり易く言うと、中性微子、ニュートリノってあるでしょ。基本、何処にでも無限に近い量、存在してるんだけど、それを取り込んで擬似原子化して、人間に近い組成で構築した結果が今の私――」 「ごめんなさい、さっぱり分からないです」 かなり噛み砕いた説明にも思えるが、根が文系の僕には単語自体が意味不明だ。『何か分からないけど、凄いことが起こって、女の子が現れた』ってことで納得する他無い。 「質問を変える。ピアノの精霊って、何?」 「そりゃもちろん、ピアノの精霊だよ」 別に僕は、掛け合い漫才をしたい訳じゃないんだけど。 「九十九神って知ってる? この国には、九十九年愛しんで使ったものには、神様が宿るとされてるの。私、自分の出生は良く知らないけど、こう見えて結構、年上さんなんだよ」 ぱっと見の年齢は、どうみても僕と同じくらいだ。って言うか、何故に制服? 精神生命体なら裸で居ろとまでは言わないけど、選択肢は他にも色々有ると思う訳で。 「だって、人間ってこれ着るのが普通なんでしょ?」 学院に住み着いた精霊なんて、長生きしていようと、こんなものなのかも知れない。 「って、ちょっと待って。この学院に伝わる、願いを叶えてくれる伝説って、君が元ネタなの!?」 根拠は無いけど、この怪奇現状と結びつけると妙にしっくりくる気もする。 「むぅ、あれには困ったもんだよね。誰かが私を認識しちゃって、それが一時、怪談になったんだけど、何時の間にかおまじないになっちゃって。人間は本当、適当っていうか」 その件に関しましては、残念なことに反論の余地が全く御座いません。 「大体、ドを八つ同時に鳴らすなんて、有り得ない和音でしょ。そんな、常識的用途から外れた使い方して、物が喜ぶとでも思ってるの!?」 ちょっと待って。僕が怒られなきゃなんないのは、とてつもなく釈然としないんだけど。 「ま、君に関しては、結構、良い腕してるよね。小まめに調律もしてくれてるし、感謝してたりするよ」 「どう致しまして。でも、楽器を大事にするのは、やっぱり基本だから」 このピアノは、僕の物じゃない。だけど一年以上使っているからには、かなりの愛着が湧く。楽曲もそうだけど、道具を愛さないことには、良い演奏は出来無い。これは、人が肉体という媒介を使わない以上、何も表現出来無いのと同じことで、切り離せない事項なんだ。 「うんうん。だから、少しくらい恩返ししたげるよ。この学院の噂に則って、君の望みを叶えてあげる」 「え?」 相手の外見が可愛い女の子なだけに、一瞬、色々なことを想像してしまう。うぅ、僕だって年頃のオトコノコなんだぞ。ピアノ一筋で生きてきて、女っ気無かったんだから尚更だい! 「何か、部活の方が悲惨なことになってるみたいだよね。昔は結構、活気あったんだけど」 悲惨とか言わないで。地味にヘコむから。 「っていう訳で、私が入部したげるよ」 「はひ?」 これまた清々しいまでに、想定していなかった台詞を吐いてくれた。 「これでも、最低九十九年は音楽に従事してきた訳だから、玄人跣とは、正にこのことだよね」 ピアノの精なら、下手なプロ以上にプロフェッショナルな気がするのは、僕だけなんだろうか。 「だ、だけど、学籍はどうするのさ?」 そもそも戸籍が無いでしょ、君の場合。 「ふっふっふ」 あなたは何処の特撮物幹部ですか。 「この学院で最年長のピアノちゃんを舐めないで欲しいわね。その気になれば、籍を置くことくらい、どうってこと無いんだから」 「ぐ、具体的には、どういう手段で――」 そこまで口にしたところで、言葉を切った。やめておこう。これ以上は、触れてはいけない領域の気がする。 「そういう訳だから、これから宜しくね、部長さん」 「あ――」 去年の初秋くらいのことだろうか。僕は、二つ上の先輩から、部長職を引き継いだ。三年生が引退して、当時残ったのはたったの二人。部長なんて呼ばれたのは、その時以来の気がする。何だか、その時に託された想いが胸に溢れて、心持ち切なくなる。 「頑張らないとね」 「そうそう。先生しか使わないピアノなんて、片羽が折れたも同じだから。生徒が自由に使える環境を維持する為にも、この部は絶対に必要なんだよ」 ピアノにとって一番幸せなのは、愛されて使われ続けることだ。先生にそれが出来無いというのではなく、学院のピアノである以上、学生が愛すべきなのだ。だからこそこの部は、無くしちゃいけない。受け継いだのは、想いだけじゃない。このピアノも、更に言えば、この場所だって、ちゃんと後輩達に残さなくちゃいけないんだ。 僕は何だか嬉しくなって、そのことを気付かせてくれた女の子にそっと微笑みかけた。彼女も又、目指す所は一緒だ。だからこそ、僕達は良い友達になれると思う。そんな温かい気持ちを胸に収め、僕達は部員獲得の為の作戦会議を始めるのだった。
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