この世には卑怯だと感じることが星の数ほどある。後出しじゃんけん、チート、特定球団に有利な判定ばかり下すアンパイア、特定球団ばかりから白星を稼ぐ球団等だ。ちなみに最後のは卑怯でも何でもなく、ただの私怨である。 その中でオレが最も卑怯だと思っているものがある。 ――抜き打ちテストだ。
話は午前の授業最後の四時間目、数学の時間まで遡ることになる。 が、面倒なので簡潔にまとめよう。 ・最も腹減ってる時間に数学でした。いきなり小テストです。抜き打ちです。 ・数学担当の中川先生は言いました。 ・「八十点以下は放課後追試なー」 ・全力で立ち向かう。結果、三十五点(十問あって一問十点、五点は途中計算でもらえました)。 ・次は楽しい放課後追試♪ 「なめんな!! オレはバイトなんだあああああああああ!!」 そう叫んだのは確か昼休み。慰めてくれたのは合格者で、オレと同じ不合格者はこちらをちらりとも見ないで黙々と勉強していた。きっと正しい姿だ。ちなみにいつもの二人は体育だからとか言って慰めもしないで帰りましたよ。……まあ、追試なんて恥ずかしいから言ってないけど。でも言ったら言ったで夏子さんには馬鹿にされるんだろうな。風花は馬鹿にはしないけど、無邪気に「頑張って」って言うんだろうな。オレには頑張れないことがそこそこあることを理解してもらいたい。 今は放課後、十六時。この時間は掃除当番を考慮した時間である。 一年六組には数学敗退者(不合格者)が集まっている。自分のクラスなので当然みんな自分の席だ。程なくして中川先生(数学教師)が現れた。 「……ちゃんと全員いるな」 中川先生は教室内を見回し確認する。途中目が合った。悪辣に微笑みかけられました。 「授業中と同じで八十点が合格。合格したものから帰っていいぞ。で、七十九点以下はすぐに再試だ」 合格するまで帰れないって奴ですね。微笑み同様悪辣ですね。覚悟してたのでショックはない。ないよ? ホントだよ? バイト代わってくれたのが気のいい先輩だったけど、代償に今週休みがないことをちょっと気にしてるとか、そんなことじゃないですよ……? くそう。 そうこうしているうちにプリントが配られた。数秒にらめっこ。 目を閉じて深呼吸。 心を落ち着かせて、と言うよりも腹をくくって目を開く。 ――やりますか。 一度見た問題である。しかも付け焼刃だが対策済み。ならば計算間違いに注意しとけば何とかなるだろう。 さくさくと問題を解いていく。 追試と補習だったらオレは追試のほうが好きだ。理由は前にやった問題か、前にやった問題よりも簡単になっているから。あと点数次第で帰れるからだ。今日みたいに同じ問題なら答えさえ覚えていればなんとかなる。でも今回は途中計算を書かなくては解答と認めてくれないので書かなくちゃ駄目だがね。風花みたいなのはどう判断するんだろう……。そもそも追試と無縁だから良いんだろうか。 補習は嫌だぞう。決まった時間まで拘束されるからな。教え方が悪い先生に当ったときなど最悪だ。判るものも判らなくなる。ちなみに中川先生は……まあ、教え方は悪くない、らしいよ? うちのクラスメイトの評価ですけど。オレは……あってないなあ。 補習と言えば……麻美を最初に見たのも補習だったな。確かあれは入学直後の成績に関係ない試験で、とんでもない点数を取ったものだけが受けられる(強制)補習だった。選ばれたものは五人しかいなかった。女子は麻美しかいなかったから自然と目に付いたのだ。ほら、麻美だって口を開かなければ夏子さんほどじゃないですが、美人さんですからね。たぶん、他の四人もなんとなく麻美を見てたと思う。 んで、当の麻美は……こっちの視線なんか気にせずに、窓側の前から二番目の席でほけーと補習を受けていた気がする。どう見ても人の話を聞いている態度じゃなかったな。真面目に受けないでこれから大丈夫なのかなって思った気がする。まあ、人の心配なんてしてる場合じゃなかったけど。 ほけーとしてるもんだから何度も先生に注意されてたんだよな。でもあまり変わらない。宿題が出されたんだけど、麻美はちゃんとやってきてた。当てられたらちゃんと答えてた。だから先生も注意しにくそうだった。それにあれはあれで話を聞いてるみたいだったから。 補習は一週間あった。当然、麻美の態度は変わらなかった。 オレは最後の補習が終わった後に麻美に話し掛けた。 「どうして真面目に受けないの?」 麻美はオレをぬらーと見ると答えた。 「……面倒でしょう?」 恐ろしく判りやすい理由だった。 「……追試じゃないんだから、真面目に受けようがどうしようが残ることになるじゃない」 だからってほけーとしていい理由にはならんと思う、そう返したかったが、頭のどっかで麻美の言い分も理解できたから反論はしなかった。 「お前、すごいなあ」 理解半分、呆れ半分でそう言うと麻美は黙って少しだけ口端を上げた。 面倒なら補習に引っかからないように勉強すれば良いのに。その時は思わなかったことを今思う。なんか麻美って勉強出来る感じがするんだよな。眼鏡をかけたら頭が良さそうに見えるからとか、見た目的理由だけじゃなくてさ。あの時も何だかんだ言って五人の中で一番物分りが良かったし(悪かったのはもちろんオレだ)。宿題はほとんど正解だったみたいだし。……ま、補習のときだけしか知らんから判断は出来んが。 「樋口、終わったのか?」 「あうえがおうえだうふえ!?」 上から急に声がしたので思わず奇声を上げた。顔をしかめる中川先生と周りのクラスメイトを無視して答える。 「ま、まだです」 「……そうか」 見回り中だったようだ……。 改めてプリントを見ると下の三問が空白だ。 昔話はまたの機会にじっくり思い出そう。今は追試だ。 五分後、すべての問題を終え、丹念に見直し、提出。教壇で中川先生がすぐに採点を始めた。すでに何人かの生徒は合格して帰路に着いている。今残っているのは十人もいない。 「お前、天才だな」 誉められているのかと思いきや、その表情は呆れまくっている。先生は採点を終えたプリントをオレに見せた。 「ほれ、七十九点だ」 「!? な、何でそんな嫌がらせな半端な数字を出すのですか!!」 一問十点で、途中計算でもらえる点数は半分の五点のはず。四点はどう考えても嫌がらせとしか思えない! 「うん、途中計算入れたらちゃんと八十点なんだが、ほら、ここ」 先生が指差す問題を良く見る。 「単位間違い」 「…………」 言ってなかったが、最後の問題だけ文章問題だ。 立法センチメートルのところを平方センチメートルと書いてある。3と2の違いである。 ぐうの音も出なかった。 「もっかい頑張れ」 ひいひい言いながら再試。 お、同じ問題だ……落ち着けば大丈夫のはずだ。 心を落ち着けるため、深呼吸をするが、先ほどのショックが尾を引いて全然落ち着けない。が、早く帰りたいので構わず問題に取り掛かった。 六五点だった。次は五十点だった。その次は五十五点だった。その次は――以下省略。 気が付けば教室内はオレンジ色に染まっていた。そんでもって残りの生徒はオレだけだった。 先生を見た。ものすごく疲れた顔で虚空を眺めていた。きっとこんなに時間がかかると思ってなかったようだ。フハハ、オレを見くびるからだ。 さて、これで最後にしてくれる。オレは丹念に見直ししまくったプリントを片手に立ち上がると、真っ直ぐに先生の下へと向かった。もっとも数歩の距離であるが。 やる気なさそうに採点する先生は、疲れた声でオレを見もせずに言った。 「これ終わったら帰っていいから」 今までの努力を踏みにじるその発言に体内の血液が逆流しそうになった。 「不合格だったら明日の放課後続きなー」 残酷な発言に体内の血液が凍りついた。まったく、忙しい血液だぜ。もっと持ち主の身体を労わってもらいたいぜ。 「お、良かったな。合格だ」 すぐに自分の発言を撤回するが。先生の手元を見ると八十点という輝かしい文字が見えた。ペンが赤だったので赤だけど。 「おおおおおおおおおおおおおおおうううううううううううううううううううう!」 歓喜の雄たけび。きっと迷惑。 「でも名前が書いてないな。こりゃ――」 「!?」 通常の試験だと零点だ。だ、だが、これは通常の試験ではないはずだ!! 「いや、俺もそこまで意地悪はせんよ。樋口、合格だ。真っ直ぐ帰れよ」 あまりに必死な表情をしていたのだろう。先生は苦笑しながら言った。 「ありがとうございました!!」 感謝を込めた最敬礼。それに苦笑する先生。 オレは筆記用具をカバンに詰め込むとさっさと教室から脱出した。 いやっほう! 身体が軽いぜ!! 廊下を軽やかにスキップ。そしたら見覚えのある顔がいた。 「……あけましておめでとう」 季節感その他諸々を無視した挨拶をするのは飯田さんちの麻美さん。この手の不可解な挨拶はそろそろ慣れてきました。 「ぐーてんもるげん」 あちらの言葉で返す。 「麻美さんは何故こんな時間まで学校に?」 「……数学の、追試」 「アイヤー、オレと一緒アルか」 エセ中国人っぽく返した。 「……奇遇ね」 「奇遇ですね」 それにしても何でオレ敬語? 「何でこんなに時間かかったの?」 「……そのセリフ、そっくりそのまま返してやるぜ」 ぐ、と言葉に詰まった。 「なかなか問題が解けなかったからだよう。頭のせいだよう。馬鹿にするんじゃないよう」 オレの声は震えていた。泣きそうだったからだ。 「麻美も同じ?」 「……同じだけど、違います」 びみおな否定だな。 「……追試中に考え事してたら、こんな時間になってた」 「…………そうですか」 そんなことを出来る神経が羨ましい。 「何を考えていたんだ?」 当然の疑問に麻美は黙り、口元に手をあてた。視線が虚空をふらふらと彷徨っている。どう説明するか考えているんだと思う。 数秒それが続く。ぴたりと視線をオレに止め、人差し指をぴ、と立てて口を開いた。 「……例え話として聞いてね」 黙って頷く。 「……この世に二つとないとても美しいガラス細工があります。……ガラス細工ってくらいだから美術品です。……あなたは一目見たときからそれを気に入りました。……そしてそれを苦労して手に入れました。……ガラス細工だけあって、取り扱いには苦労します。……ただ飾っておく分には問題ないですが、そこそこの衝撃――そう、手元から落としてしまった、テニスボールがぶつかってしまった、そんな衝撃でこれは破壊されてしまうでしょう。 ……さて、どうする?」 「どう、って?」 首をかしげた。 「……苦労して手に入れた繊細な宝物。……啓輔ならどうする?」 「どう、って……」 同じセリフを繰り返す。セリフは同じでもそこに込められた意味は全く違う。 この世に二つとないとても美しいガラス細工。とても気に入っている。しかも苦労して手に入れた。でも壊れやすい。 壊れやすい。 「ううん、オレが扱うとすぐに壊しそうだから……金庫とか安全な場所に仕舞っとくな」 どんなに気に入ったものでも、そんな神経使うものは手元に置いておきたくない、が半分くらいある。 「……気に入っているのに?」 「うん。だって壊れちゃ元の子もないだろ」 オレの答えに麻美は考え込むように黙った。 「麻美は? 麻美ならどうするの?」 「……自分の部屋の、それが一番良く見える場所に置くわ」 考え込みながら答える。 「へえ、勇気あるね」 「……勇気?」 「うん。だって外に出てる分、壊れる確率がぐんと上がるじゃん」 「……気に入っているものよ。いつでも見ていたいわ」 「でも、気に入っているからこそ、壊したくないじゃん」 麻美はオレをじっと見つめた。思わず身構える。だが、麻美は何もしてこない。綺麗な漆黒の瞳でオレを真っ直ぐに見つめるだけだ。 「……色々なパターンを考えた。……私以外の他の人の考え方をトレースして」 「うん」 「……あなたが言った通り、壊れないように安全な金庫に仕舞う。 ……壊れてもいいから手元に置く。 ……壊れないように扱える技術を習得してから手元に置く。 ……壊されないように壊しそうな人から遠ざける。 ……壊したくないから信頼出来る人に譲る。 ……壊して自分以外に興味を持たせなくする」 「ちょっと待て、最後おかしい」 おかしい、おかしすぎる。一体誰の思考をトレースしたんだ? 「……おかしいわ。……狂っていると言っても良い。 ……でも……これ、安全な金庫に仕舞うのとどちらが酷いことなのかしら?」 「は?」 そんなもん、自分で壊すほうが酷いに決まってるじゃないか。オレが口を開く前に麻美は言った。 「……どちらも美術品としての価値を無視している」 「…………」 言われてみれば……そうかもしれない。でも、気に入っているからこそ壊したくない。でもそしたら美術品として扱えなくなるわけで、それの価値を無視している。けど壊したくないとなると――堂々巡りだ。 「……でも、自分で壊したほうがそれに愛着があるって考えられるわよね」 まあ、壊れてしまった美術品に興味を示す奴なんかそうそういないだろう。 「でもそれ意味なくない?」 「……元のガラス細工はないけれど、代わりに壊れたガラス細工が手に入るわ」 「それでいいの? 本末転倒な気がする」 「……良いのよ。壊れてもそれを欲しいと思うならば」 「…………」 なんか、禅問答みたいだな……。 繊細な美術品。 壊したくないから、安全なところに置く。または隠す。そうしたら美術品としての価値はなくなる。確かに完成した絵を飾らないのは無意味だ。 壊れてもいいから、いつでも見えるところに置いておく。きっと美術品として正しい扱い方。 壊れないように、扱える技術を習得してから手元に置く。長く自分の手元に置いておきたいからかな? 美術品としての扱い方は最高級なんだろうか。 壊されないように、壊しそうな人から遠ざける。近くに壊しそうな人がいるのなら当然の選択だ。猫でも飼ってるのか? 壊したくないから信頼出来る人に譲る。見たくなったらその人の下へ行けばいいということか? 自分を信頼していないとも取れる。まあ、オレもそうだけど。 壊して自分以外に興味を持たせなくする。変態。ただし壊れる心配はなくなる。 ここまで考えて疑問が出る。 「何でこんなこと考えてるんだよ?」 しかも追試中に。 「……面白いから」 「実に判りやすい答えをありがとう」 同じ時間、ひいひい試験を受けていたオレが馬鹿みたいじゃないか。みたいじゃなくて馬鹿なんだよ、と思ったそこのあなた。明日の放課後、体育館裏に来なさい。拳を伴う説教をしてくれる。 「良い機会だから質問」 軽く片手を上げる。 「……ん」 首を傾げる。それを勝手にオーケーのサインと受け取って口を開く。 「麻美は実は勉強出来る子だろう」 「…………」 あ、黙った。 「……うん。中学の頃はやってたけど、高校入ってからはやってないわ」 親が聞いたら泣くだろそれ……。 「……ええ、夏休みに補習があると告げたとき、母に泣かれたわ」 お母さん、かわいそうに……。 「で、でも何で? うちの学校、良い成績取ってりゃ良い大学に行けまっせ? 就職はどうか知らんけど」 私立の進学校である。そこらへんは舐めてはいけない。 オレの一般説を麻美は鼻で笑った。 「……面倒じゃない」 今、酷い発言を耳にしました。 でも不思議なことに成績が振るわないオレへの嫌味だとか、当て付けだとかは思わなかった。人格のなせる技だろう。 「……そろそろ帰る」 「そうですね。あ、麻美って電車?」 「……いえーす」 「じゃ、駅まで一緒に帰ろう」 「……おふこーす」 オレはチャリだが、帰り道に電車の駅がある。そこまで荷物を運んでやろう。何故そのようなことをするのかと言うと、そっちのほうが漢らしいからだ。 学校から駅までの短い道のりを、麻美と二人で雑談しながら歩く。雑談の内容はおいしいお好み焼きの食べ方である。健全だ。 駅に到着するとカバンを渡した。オレは軽やかに愛車・隼丸(今名付けた)に跨ると片手を上げた。 「また明日なー」 「……また明日」 麻美も片手を上げ、こちらに手を振る。麻美が駅の中に入るのを見届けてから愛車・隼丸のペダルを漕ぐ。 「あ。そーだ」 振り返り、駅を見るが麻美の姿はもうない。オレはさっさと諦めて前を向き、またペダルを力強く踏む。 しゃこしゃこしゃこしゃこしゃこ…… 風を切って前進しながら考える。 あのガラス細工の話……。 一体何の例え話だったんだろう? |