邂逅輪廻



「それで、言いたいことはそれだけか?」
 一年六組の数学担当の教師、中川教諭は恐ろしく低い声で言った。きらりと光る眼鏡のレンズ越し鋭い視線がオレを刺す。オレは打ち上げられた魚のように口をパクパクと動かし喘ぐだけ。言葉なんか出やしない。
 今オレの両手には約五センチの厚みの紙の束。すべて数式がかかれている。
「先生は別にお前のことが憎くてこれを渡したわけじゃない」
「はひ」
「先生はな、試験が近い上に毎回赤点を取って俺の休日を奪う樋口が、人の授業の最中に居眠りをしただけでなく、寝言まで言った樋口が心配でならないだけなんだ」
 オレも毎回の試験はいつも心配でして……。うん、だから先生、お願いですからこめかみをぴくぴくと痙攣させながらガンたれるのはやめてください。
「樋口もな、色々大変なのは判る。だから不本意とはいえ居眠りをしてしまった樋口に救いの手を差し伸べようと思う」
 先生は人差し指でとんとんとオレの手にある紙の束を叩いた。
「樋口、カレンダーを見ろ」
 嫌な予感がした。背筋に冷たい汗が伝う。オレの記憶が確かならば、うちの学校は第二、第四土曜日は休みだ。そんでもって今週はなんと第二週目だ。そんでもって、月曜日はなんかの祝日で休みのはずだ。
「明日から土曜日曜祝日と三連休だ」
 卓上カレンダーを引き寄せ、赤く印字された数字を指でなぞった。
「そーですねー、オレって一人暮らしなもんですから休日なんてバイト三昧ですよー」
 予想の通りの言葉にオレは必死に話をそらした。休日を苦手教科の勉強で潰される訳にはいかないのだ! 精神的にもあるけど、金銭的な部分が大きい。
「そーかー大変だなー。若いうちは苦労しとけって言うもんなー、火曜日提出」
 泣きながら首を横にぶんぶんと振るオレを見て先生は低く暗く破顔した。平たく言わなくても怖い笑顔だ。
「火曜日、提出な」
 表情を改めると中川先生は冷たく言い放った。



誰かのためのおとぎ話 16
〜カレーと猫の国の姫君〜

りむる



 約五センチの数学のプリントの束を両手に泣きながら教官室を後にした。
 放課後特有のざわつき浮ついた空気ではオレのかなしみは消せない。むしろ増長するだけ。判ってるんです、オレが悪いんです。数学の時間に、よりにもよって赤点しか取っていない数学の時間に居眠りした挙句、寝言まで言ったオレが悪いんです。
「ううっ」
 でも、でも、オレが悪いと判っていても、涙が止まりません。これからバイトだってのにどうして数学の宿題を大量に出されなければならないのでしょうか。ええ、判ってますオレのせいです。数学の時間に(以下省略)。
 プリントの束に水滴が落ちる。ヨダレじゃないぞ、涙だぞ。
「あれ、啓輔どうしたの?」
 理系の、国語が苦手なお嬢様がいらっしゃった。帰りの準備は整ってますね。そうですね放課後ですもの。
「何で泣いてるの? あれ、それ……宿題?」
「罰です」
「はい?」
 嘘偽りない判りやすい説明に風花は小首をかしげた。
「つまり――」
 涙ながらに熱く熱く説明した。さらにプリントは涙で濡れました。
「そりゃあ啓輔が悪いよ」
 笑顔でお嬢様はオレにトドメをさした。悪意がないのがまた性質が悪い。プリントは涙でぐしょぐしょになってきました。
「判ってるんだよう、改めて言うこともないんだよう。しかし……火曜日か」
 肩で涙を拭う。おのれ鼻水までついちまったぜ。ハンカチーフかティッシュを取り出したいが、どちらもポケットだ。うぬれ。
 しかしどうしたもんか。自慢だが数学は苦手である。ものすごい苦手だ。教科書を開けて数秒で睡魔が襲ってくる。公式など暗号にしか見えない。よく高校受験を突破できたなと思ったそこの君! 血反吐が出るほど頑張ったんですよ。
「わたし、手伝おうか?」
 綺麗なハンカチでオレの肩を拭きつつ風花は言った。
「はい? ああ、そんなので拭くな汚れるだろ」
 目を見開いた。さらに風花のハンカチーフから逃れようと後ろに下がるが、風花はめげずにこちらに歩み寄る。
「いいの気にしないで」
 気にするのはこちらである。が、話が進まないので大人しくしよう。
「ほら、この前暗室でケーキをご馳走してもらったお礼」
 あのカオスな推理合戦のときのか。元々あれは弥生先輩に頼まれたものだから風花は関係ない……けど食べたし……、でもお礼を言われるもんでもない。しかも毎日昼飯を分けてもらっている身、お礼を言うのはこちらのほうである。
 がっ!! このお嬢様、見かけはともかく……それは関係ないが、頭のほうは理系だ。国語が苦手と言う、典型的な理系だ。理系ってのは数学や理科のことだ。
 オレは迷わなかった。
「本当か? いやあ、助かる!!」
 自分一人で出来ない以上、頼るしかあるまい。
 オレは諸手を上げて喜びを表したかったが、プリントの束があるのでそれは出来ない。オレの返事に風花も嬉しそうに微笑んだ。
「ならどこでやろうか? 図書室にする?」
 風花がいれば百人力だ。しかし――
「ごめん、オレ今からバイトなんだ」
 これである。どうしたもんか。明日も午前中はバイトだし明後日はまるまる休みだが、どこでやればいいのやら……。
「じゃあさ、明日わたしが啓輔のおうちに行くよ」
「もげ?」
 思わずタイムリープしたくなるような声を上げる。
「風花が?」
「うん」
 笑顔で頷くお嬢様。それはありがたいんだけど……あの小汚いアパートにお嬢様がいらっしゃるのか……。いや、それよりもドシスコンが黙っちゃいないだろう。
「いや、それはいくない。一人暮らしの男の部屋に女子一人で入り込むなど、けしからん」
 漢ならば問題はなかったが、オレはまだまだそんな器じゃない。
「そう?」
 まったく気にしていない様子。
「図書館とか、別のとこでやらない?」
「えー?」
 オレの提案に不満げな顔と声で答えるお嬢様。そう言われましてもね。
「じゃあ、風花んちにする?」
 ドシスコンがいるのはむかつくが、執事の鈴村さんもいるので暴力的妨害とかそういう危険はないだろう。
「やだ。啓輔の部屋がいい」
「えー?」
 何故オレの部屋に拘る? 別に部屋が汚いから入れたくないとか、そう言う問題じゃない。大体オレの部屋は綺麗だ。休日に掃除機をかけるのが楽しいからです。ただし雑巾がけは嫌いである。変な趣味です。だが笑うな。
「駄目なの? お菓子もちゃんと持っていくよ」
「それはありがたい」
 風花が持って来るんだからきっとお高くておいしいに違いない。おっと、想像しただけでヨダレが出そうだ。
「じゃなくて」
 頷きかけた。でも食べ物に釣られるのは人として当然なのだ。
「あのさ、普通一人暮らしの男の部屋に行くのってやばくない?」
「なんで?」
「女の子はこう、身の危険的にさ」
 一般常識を説いた。
「啓輔がわたしに乱暴なことするわけないじゃない」
 不思議そうに小首を傾げてから微笑んだ。
 確かにオレは風花に乱暴なことをするような男じゃない。漢を目指している以上そんなことは論外だ。でも、風花……オレのことをヘタレと思ってそう言ってるんじゃなかろうか……。邪推なのは承知だが……。
 ちなみに夏子がうちに来ると言っても同じことは言わない。むしろオレの身の危険を案じさせてもらう。麻美の場合は部屋を守ることに徹しそうなのでまず断るだろう。
 何故だ、何故オレの周りにはろくでもない女の子が多いんだ。
 まあ、それはいくないが、限りなくいくないが、いい。
「う〜ん……」
 風花の考えはともかく、オレは手を出さないんだからいいかも、だが……。
「家の人が心配するんじゃない? やっぱさ」
 ドシスコンとか任されている執事さんとか。オレもこの二人に本気で狙われたら嫌だし、それに金持ちのお嬢様なんか襲ったら、しっぺ返しが怖いじゃないか。もしかしたら法的に裁かれるだけじゃなくて物理的にこの世から消される可能性もあるじゃないか。
 ……そう考えたらめちゃんこ怖くなってきた。
「大丈夫よ」
 その根拠は何だ。
「友達のおうちに遊びに行くだけだもの」
 確かにそうだけど……。ま、本人が良いって言ってんだから良いんだろう。オレも助けがどうしても必要だし。細かいことには構っていられん。背に腹は代えられんとも言うな。
「じゃあ、うちでやるか」
「うん」
「じゃ、明日の午前中はバイトだから、そうだな、二時くらいに来てくれ」
「うん、判った」
「あ、オレんち知ってたっけ?」
「うん、ボウリング場に行った帰り、送ったでしょう?」
 ああ、そんなこともあったな。
「うん、判った。明日よろしく頼む」
 頷いたのを確認してからオレたちは別れた。風花の助けはいいが……この量は極悪である。おっと、視界が歪んでいるが気のせいだ。鼻がちょっとぐじゅぐじゅいってるのももちろん気のせいだとも。
 カバンにプリントの束を入れ、手の甲で熱い雫を拭う。
 さあて、働きに出かけますかね。


 翌日の午後。
 昼飯は簡単に焼きそばを作った。タマネギが多めでピーマンが少なめである。全部オレの好き嫌いの話だ。嫌いならばピーマンそのものを入れなければ良いと思うが、栄養を考えると入れたほうが良いんじゃないかなーというのが表向きで、中途半端に余ってたから入れた、と言うのが真相である。
 ま、そんなことはどうでもいい。
「さて」
 そろそろ約束の時間だ。いつきても良いように準備をしとこう。食事用の小さなテーブルをふきんで拭く。勉強机もあるがこれはどう見ても一人用なのでこっちを使う。ゴミ箱のゴミも捨てておこう。あとは……布団は押し入れに仕舞ったし、洗濯物は昨日仕舞っておいた。
 数学のプリントの束をテーブルの上に置く。
「……おおう」
 無駄に威圧感がありやがる……。これは床に置いといて一枚一枚片付けていったほうが良いな。そんなことを考えていると、

 コンコン

 控えめなノックが聞こえた。うちのアパートにゃ、チャイムなんて気の利いたもんはありませんぜ。
「はーい」
 ドアを開けるとそこには私服の風花がいた。高そうな白のブラウスに真っ黒なスカート(膝上十センチといったところか)。トドメに黒のハイソときたもんだ。白と黒のお嬢様か。あと髪型はいつも通り二つ結び。ちなみにオレはTシャツにジャージと室内着だ。動きやすさが重要なんです。
「いら」
 言葉は途中で止まった。なぜなら風花の後ろに極悪な面をしたドシスコンがいたからだ。
「…………」
 何を言ってやろうか。ここはけん制を含めたジャブを放たなければいけないところだ。だが、いきなりなため言葉が出ない。
「元樹も一緒に行くって言ってきかなくて」
 そうだろよ。このドシスコンが簡単に愛しのお姉さまを訳の判らぬ男の下へ一人では行かせる訳がない。
「それとこれ、お土産」
 風花からまた高そうな長方形の包みを受け取った。ちなみに若かりしオレはお土産をおどさんと読んだことがある。もちろん、その日のヒーローはオレだった。
 それはともかく、息を吸い込み、元樹を指差した。
「王様の耳はロバの耳!」
「やっぱり馬鹿なんだな、君は」
 速攻で切り捨てられた。特に考えて言ったわけじゃないからあまり気にしない。
「まあ、いい。どうぞ、汚い部屋なりに綺麗にした部屋ですがどうぞ」
「お邪魔しまーす」
「お邪魔します」
 双子はやはり声をハモらせオレの部屋に足を踏み入れた。


「狭いね」
「いちいち判ってることを指摘するな」
 作り置きの麦茶を二人に出す。
「いただきます」
 またハモる。双子と言うのはこういうものなのだろうか。麦茶を飲む二人をよそにオレは筆記用具とプリント一枚テーブルに置いた。
「宿題を手伝うんだって?」
 困ったように元樹は風花を見た。何故そんな表情をするのだろう? しかし風花は笑顔で頷くだけだ。
「……そりゃあ風花は数学得意だけど」
 曖昧なことを言う。得意ならば助っ人として申し分なかろうに。しかし邪魔するつもりはないらしい。ドシスコンといっても姉の行動を制限しているわけじゃないようだ。でもこいつオレにボウリングの球投げてきたからな。姉が絡むとヤバイのには変わりないだろう。要警戒である。
「それじゃあ早速やろうよ。沢山あるんだから」
「先生、お願いします」
 深々と頭を下げた。昨日ためしに一人でやってみたんだが……ふっ、まったく歯が立たなかったのさ。
「うん。まずこれね」
 問一から取り掛かる。数式を見た後、風花は言った。
「判らなくなったら――」
「先生、判りません!!」
 手を真っ直ぐ九十度に上げ、力強く言った。
「えっと、じゃあ――」
 ちょっとだけ困ったように笑い、風花は再度数式を見る。その横――と言っても邪魔にならないように離れている――にいる元樹は馬鹿にした目つきではなく、呆れた目でオレを見ている。ほっとけ、数学は苦手なんだ。
「啓輔、本棚見ていい?」
「あ? エロ本はないぞ」
「見ていいの?」
 無視されました。
「いいよ。勝手に漫画でも読んでろ」
 オレはお前のだあい好きなお姉さまを独り占めしてやるんだからあ!!
「えっと、啓輔まずどこが判らないの?」
 問題定義からとは中々やる気満々ですな。
 かくてオレたちは罰と言う名の数式に立ち向かっていった。


 三十分経った。ありがたいことに文章問題が三問づつなので思ったよりも問題が少ないのだ。おかげでもうプリントはすでに十二枚目である。
「うん、そこはさっきと同じで」
「なるほろ、数字が変わっただけか」
「そうそう」
 教え方が良いのがやっぱり効いている。感謝したかないがせざるを得まい。おっと、風花相手に何失礼なことを考えてるんだ、そんなことを思ったそこのあなた。真に残念な話をしてやろう。
「うう……」
 風花は畳の上にぺたりと座り込み、"の"の字を書いていた。
 どう贔屓目に見てもオレは風花に教えてもらっていないのだ。んで、今この部屋にいるのはオレと風花と元樹の三人だけ。消去法を使うまでもなかろう。
「おお、でけた。元樹、お前教え方うまいなあ、塾でも開け」
「やだよ、そんな面倒なこと」
 素直に褒めたらこの反応、言葉は可愛くないが(男なので当然だ)、ちょっと頬を赤らめてそっぽを向くということをやらかすもんだからちびっと可愛い。おっと、オレにはそういう趣味はないぞ。オレが唯一信じている野球の神に誓ってだ。当然ながらこの行為、女子がやるとすこぶるかわゆいのは請け合いである。
 そう、オレの先生は元樹である。これがまたものすごーく教え方が良い。はっきり言って学校の先生より判りやすいぞ。ちなみに風花は論外。
「あうあう……」
 途中計算式もすっとばして答えをいきなり言う奴なんか論外。元樹曰く、「風花は計算速度が異常に早いから、公式を当てはめるより、手当たり次第に数字を入れていったほうが早く解ける」だそうだ。お前はどこの西之園のお嬢様だ。なめやがって。
「ま、人間向き不向きがあるからさ」
 落ち込む風花に元樹がフォローする。
「風花の気持ちはありがたいぞ。だが今オレに必要なのは良き師だ」
 ぽんぽんと肩を叩いて、気晴らしにとカエル型宇宙人が地球の女子中学生に虐待される漫画を渡した。
「ごめんね、ごめんね」
 そんな泣きそうな表情で言われたら、無駄に罪悪感を覚えます。
「良いんだ、実力が伴っていなくてもその気持ちに嘘偽りなどないことくらい判っている。ありがとう風花」
 手をぎゅっと握って熱く語る。
「ん、ありがと……」
 風花は視線をつい、とそらしてうつむいた。
「これ、読ませてもらうね」
 ううん、何気にオレも恥ずかしいや。視線を逸らして頭をぽりぽりとかいていると……元樹の冷たい視線が突き刺さった。その目は語る「てめえ、何汚い手でオレのねーちゃん触ってんだよ死にてーのかこのボケが」と。
 つ、続きも教えてもらえるのかな……? 一抹の不安を覚えた。


「う、うう〜ん……」
 ずっと下を向いていたので背中が痛い。両手を上げて身体を伸ばすとバキバキバキと派手な音が鳴った。不安は的中することなく、元樹は普通に教えてくれた。たぶん、嫌がらせをすると風花に怒られるからだろう。シスコンは大変である。
「そろそろ休憩したら? もう夕方だよ」
 風花の声に窓を見ると、そこはオレンジの世界だった。忠義に生きる全力での人は関係ない。
「おおう、もうこんな時間か」
 壁にかけてある時計を見ると四時三十分をちょっと過ぎた頃だった。結構な時間を集中していたらしい。お陰でプリントの束はだいぶ減った。三分の一くらいは……いや、四分の一くらいは片付けたぞ。
「んんっ」
 元樹も身体を伸ばした。こっちからは派手な音はならない。途中から教えてもらわなくても解けるようになったからな。えへん。
「ほんじゃ、今日はこのくらいで終わりにしよう」
 風花はともかく、元樹は十二分に力になってくれた。今日はこれで充分だ。それに今なら一人でもちょっとは出来そうだし。
「そうだね」
 ちょっと疲れたようにため息とともに吐き出す元樹。頭の悪い生徒で済まぬな。嫌われているとはいえ、感謝は忘れない。口には……あとでしよう。
 オレは立ち上がると再度伸びた。
「さあて、晩飯の準備でもするかー」
 ちょいと早いが、珍しく頭を使ったので空腹だ。作らない理由にはなるまい。んでもちょっと疲れてるから簡単なのだな。
 首を回し、バキバキ言わせていると風花と目が合った。何か必死な感じがするのは気のせいだろうか。
「手伝う」
 言うや否や風花は立ち上がった。
「へ?」
「勉強じゃ手伝えなかったから、そっちを手伝う」
「はい?」
 元樹がぽかんと間抜けな表情で姉を見ている。気に入らないが、オレも同じ表情だ。
「いや、えっと風花さん?」
「手伝うの! 包丁は危ないから野菜とか洗うのなら手伝えるの!!」
 自分の力量を自覚した申し出にちょっと感心した。つか、風花……そんなに役に立てなかったことを気にしているのか。まあ、昨日から張り切ってたのは知ってるけど。
「いや、そろそろ帰ろうよ」
 元樹の冷静な発言はいつもは温厚な天然お嬢様の鋭い視線に黙殺された。うん、これは怖い。だって元樹、顔真っ青だぜ。
「手伝うの!」
 その鋭い眼光のままオレを睨みつけるのは遠慮してください……。
「手伝うの!」
「わ、判ったよ」
 気迫に負けて承諾してしまった。以前に見た風花の調理スキルを思い出しちょいとばかし不安になる。が、簡単な作業ならやらせてもいいだろう。それこそ野菜を洗うとか。バイト先の見習いの仕事だな、それ。オレも最初やったもんさ……。
「うむ、ならば勉強して"疲れていることだし"」
 強調して、逃げ場を作っておく。
「簡単なものを作ろう」
「うん」
 風花は無邪気そのものの笑顔で頷いた。……表情の切り替えはえー。
「元樹、連絡しといて」
「へ? 何を?」
「晩御飯、いらないって」
「えええ?」
 俺が驚いた。
「だめ?」
 小首をかしげて訴えられる。必死に訴える様がちょっとかわゆい。
 しかし、食料的に良くないんだが、手伝ってもらって、「はい、さよーならー」はないから、良いっちゃ良いんだが……。えっと、冷蔵庫を確認させてもらいます。
「ちょっと待って」
 野菜は先日補充したので結構ある。肉は……まあまあ。で、問題のご飯は、と。確かあまりを冷凍しといたはずなのだが……。
「うわ」
 めちゃんこ、ある。オレ、炊きすぎて余ったのご飯をおにぎりにしてラップに包んで冷凍庫に入れてるんだ。それがね、すごーくある。びっくりするくらい。三人分なんてそこらじゃないぜ。でも、客に出すには失礼だから……やっぱり炊くか。
「うん。おっけーだ。カレーでも作るか」
 冷蔵庫と冷凍庫をぱたんと閉じると風花は嬉しそうに微笑んだ。
「うんっ」
 カレーなら肉も野菜もテケトーに切ればいいし、何よりルーさえあれば煮込めば何とかなる。もちろんカレーのルーは常にストックしてある。
「では手伝ってもらおう」
 諦めたように携帯電話を取り出す元樹を横目にしながら、風花に何をさせるかを考えた。


 部屋中にカレーのスパイシーな香りが広がる。いやただ単に狭いだけですが。
「うむ、あとはご飯が炊けるのを待てばよかろう」
「うん」
 三合炊いたけど……風花そんなに食べないから大丈夫だろう。
 ちなみに料理における風花の仕事は簡単なのしかやらせていない。まず、野菜を洗う。次にタマネギの皮むき。刃物を使わないところがナイスチョイス。だけどそれだけじゃ満足しなかったので、豚肉をテケトーに切らせた。
 火を使う仕事に関してはちょっとだけタマネギを炒めさせた。すごかったぞう、五分も経たないうちに腕を痛くしてオレと交代したからな。お嬢様なんだから仕方ないです。……やってくれる人がいるってのは、羨ましいです。
 まあ平たく言うとオレがほとんど作った。
「手伝い、ありがとな」
 だがお礼は忘れない。足を引っ張っていると言う事実は否定出来ないが、気持ちだけでも嬉しかったのだ。風花はオレの言葉に表情を赤らめ、小さく頷いた。つくづく可愛いは正義だと思う。
「ねえ、ここら辺って猫が多いの?」
 元樹の愛想のない声が風花が作り出したラブリー空間を破壊する。
「猫?」
 真っ先に風花が反応するが、その表情は暗い。猫が嫌いなのか? 毛が柔らかくて髭があって、にゃあと鳴く動物が嫌いだなんてどういうことだろう。でもオレは犬のほうが好きだ。理由は特にない。
「猫アレルギーなの」
 色々考えていることが顔に出たのだろう、すぐに簡単な説明をしてくれた。猫アレルギーということは……猫を触ることが出来ないのか。毛が柔らかくて髭があってにゃあと鳴くかあいらしい動物に触れられないのか……。残酷なアレルギーもあったもんだ。
 そんなことはともかくとして、猫?
「ほら、あそこにも、そこにも猫がいるよ」
 窓辺に立つ元樹はあちこち指差しながら言う。どれどれとオレも窓辺に立ち、外を見る。おおう、確かに猫がいる。一匹や二匹じゃない……こりゃ、十匹近くいるんじゃないか?
「にゃんにゃんワールド?」
 無愛想な顔と声で萌え萌えワードを口にしないで欲しい。
「わあ、すごいね」
 いつの間にか隣に来た風花も窓の外を見て驚いている。
 刹那、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。もちろん物理的にそんなもんを受けたわけじゃない。忌まわしいことを思い出してしまったのだ。
「――しまった、奴が来る!!」
「はい?」
 双子がハモるがそれどころではない!
 しまった、迂闊だった。オレは頭を掻き毟るとその場にしゃがみこんだ。しかし今更隠れても仕方ない。
 ちくせう! 風花の熱意に押されたとはいえ、カレーなど作るのではなかった。うぬれうぬれ。奴が来る、来てしまう。いや、もうすでに近くにいる! この猫が何よりの証拠だ!!
「啓輔、どうしたの?」
 挙動不審とも取れるオレの動きを風花は心配そうに見ている。元樹は一瞥した後、ガン無視です。うん、期待していない。

 コンコン!

「お客様?」
 ちょっと大き目のノック音に三人の視線が安っぽいドアに集まる。……もう、来やがったのか、猫の国の姫君、またの名をカレー星人が。
 で、出たくない……。風花と元樹と言う客人がいるからではなく、純粋に食料を食い荒らされるからだ。ビンボー学生の一人暮らしにこれはかなり痛い。
「開けるね」
 ガッテム。気を利かせた(オレにとっては大迷惑)風花がドアの元へ行ってしまう。ああ、やめてくれ。そう叫ぶ前にドアノブが捻られ、開け放たれる。
「啓くん、カレーを、ををををををををををををを!?」
「!」
 ドアを開けた先には猫の国の姫君、またの名をカレー星人、本名麻生理香が目を丸くして良く判らない構えを取りつつ後退していた。下がりすぎて手摺に思いっきり背中をぶつけて豪快な音を立てる。痛そう。
 オレは観念して理香の元へと歩いた。
「来たか、姫君」
「啓くん啓くん啓くん啓くん啓くんっ誰ですかこの可愛い人はっ?」
 可愛いと面と向かって言われた風花は思いっきり赤面した。
「あの、えっと、あなたもじゅうぶんにかわいいです……」
 いや、そういうわけわかめな言葉の応酬はいらんとです。
「まあ……カレーを作っておいてこの結果をコロリと忘れていたオレが悪い。まずは入れ。話はそれからだ」
「いや、説明くらいしても――はいはい、じゃあお邪魔します」
 気だるそうなオレの顔を見るとさっさと中に入る。うんうん、素直が一番だよ。
 狭い部屋に四人が集う。食事も近いと言うことで、いつも食事に使っているテーブルではなく、大人数用のテーブルを引っ張り出す。何故こんなもんがあるのかというと、ただ単にお隣さんから貰っただけである。今まで活躍の場がなかったのだが、まさか今日ここで鮮烈デビューするとは……。人生は判らんね。
「誰その子」
 やはり無愛想に元樹が言い放つ。お前、姉以外の女に興味を持てないのか。それは男としてと言うより人としてやばいぞ。
「えっと、麻生理香です。あなたはどちら様ですか?」
 失礼な物言い、冷たい声にも臆することなく理香は自己紹介をする。いい子じゃのう。頭を撫でてやろう。
「初めまして、桐生元樹です」
 麻生と言う苗字にちょいと眉を潜め、丁寧にお辞儀する。
「あ、ああ、兄貴が言ってた……。てことは――」
「初めまして、桐生風花です。元樹とは双子のきょうだいです」
「あ、ご丁寧に。麻生理香です、麻生博の妹です。お二人には兄がお世話になっています」
 深々と理香。オレもお世話してるが、それはいいのか。ぐわしゃぐわしゃと頭を撫でる。
「ああもう啓くんやめてくださいっ」
 頭を振って抵抗する理香。

 ぴー、ぴー、ぴー。

 炊飯器がアラームを響かせる。オレは理香で遊ぶことをやめて大人しく食事の準備をしよう。
「ご飯も炊けたし、食事にしようと思う。ご飯の量をそれぞれ申告して欲しい」
「啓くん、乙女の髪を弄んでその発言はなんですかっ?」
「理香はいらないと」
「嘘です嘘です、啓くんカッコ良い!!」
 この調子の良さは兄と同じ物を感じます。
「大盛り」
 育ち盛りらしい発言の元樹。
「少なめ」
 お嬢様らしい発言の風花。しかし両極端な双子ですね。
「特盛りで!」
 無邪気な笑顔で理香。いや……君は判っている、判っているとも……。てことはオレはたいして食べられないな。オレがほとんど作ったと言うのに。でも少ししか作っていない風花が少ししか食べないと言うのは正しい気がする。


「えーと、どうしてお二人が啓くんなんかの部屋にいるんですか?」
 すぐさま皿を空にすると持参していた白米を自分の皿によそいつつ、すさまじく失礼なことを理香は言った。麻生はどういう教育をしてやがるんだろう。というか白米持ってきてるとかどういうことだよ……。
「カレーライスを食べるため」
 元樹、貴様がそんな冗談を言うだなんて!
「ああ、私と一緒ですね」
「本気にするなよ!」
 ツッコミつつ理香から皿を奪うと台所から持ってきた(おかわりの回数が尋常ではないので)鍋からカレーをよそう。
「わーい♪」
 本当にうまそうに食ってくれるので嬉いっちゃ嬉しいんだが……、オレも食べたいんですよ。まだ一杯しか食べてない。育ち盛りなんだからもっと食べたいです。
「実際は数学の宿題を手伝ってもらったんだよ」
「へー、それはそれは」
 食べるのに夢中になってるのか、テケトーな返事だ。慣れているから腹も……立ちますよ。
「おかわり」
 元樹はオレに皿を突き出した。何か言おうと思ったが、やめる。さて、これ何回目のおかわりでしたっけね? 無言でご飯をよそい、カレーをかける。
「ありがとう」
 お礼はいい、無表情で食うのはやめろ。ちなみに風花は理香と元樹の食いっぷりに圧倒されて手を止めている。たぶん、見ているだけでお腹いっぱいになったんだろう。だが風花の皿は空である。もちろんその中身には風花の胃の中に収まっている。が、大部分は元樹の胃の中に収まっているのだ。
「……元樹が大食いだなんて知らなかった」
「言ってないから、そうだね」
 さらっと返される。そ、そうですね……もう何も言う気が起きないよ。
「あの、不思議に思うのですが」
 控えめに、遠慮がち(どっちも同じ意味だ)に風花が理香に話し掛ける。理香は自分に向けられた言葉と気付き、視線だけ風花向ける。カレーを食らう手は止めない。ごっつ失礼な態度だ。
「えっと」
「風花、理香はカレー星人なのでカレーがあると他のことが疎かになるんだ。失礼な態度だが気にしないで欲しい」
 オレがそう言うと理香がうんうんと頷く。何故オレが説明しなければならんのだろうか。
「そう……、じゃあ、あの猫たちって理香ちゃんのせいなの?」
 困ったように微笑してから、風花は話を続けた。
「ねこ?」
 ぴく、と動きを止め、理香は視線を皿から風花に移した。
「ああ、猫ですか。猫はですね、私、猫に好かれる体質なんですよ」
「?」
 話は聞いていたらしい元樹が風花と同じように疑問を浮かべた表情をする。同じように動くので面白い。
「猫限定のハーメルンの笛吹き? あ、それは違うか……」
 ハーメルンの笛吹きと言うのはネズミを笛で操り退治した童話だ。確かにそれとは話が違う。
「無駄に猫に好かれてる体質なんだ」
 簡単に言うとやはりそれしかない。
「どのくらいかと言うと、やっぱあれだな、猫の集会に参加できるくらい」
「猫の集会?」
 また双子が声をハモらせた。
「はい、夜ちょっと出かけたときにやたらと猫ににゃあにゃあ呼ばれるのでついていったら、猫がたくさんいまして。良く判らないから帰ろうとしたら怒られて……、そのままずっと参加してました」
 どう考えても作り話なんだが、マジだ。
「えっと」
 事実かどうか疑っているのがありありと顔に出ている双子。まあ、そうだよな……、オレも最初は信じられなかったもん。家族も最初は信じなかったらしい。「夢でも見たんだろう」と相手にしてなかったらしいが、理香が何度も言うから気になって博が調べたらしい。
 どう調べたのかと言うと、これまた人外な方法で、猫に呼ばれた理香の後を気配を消してついていってカメラで撮影してきたそうだ。嘘かと思ったが、それを見せてもらっちゃったならば信用するしかない。
「本当なんですよ。警戒心の強い野良猫にも懐かれるし、家猫はその飼い主さんよりも懐かれますし」
 こっちのほうがよっぽど本当の話っぽい。まあ猫って人より家につくって言うから懐く懐かないはさほど問題ではないかも知れないが、ツンと澄ましている家猫が理香を見たとたんめろめろに甘えだすと言う事実は飼い主にとってはこの上ない屈辱だろう。
「だからですかね、啓くんの部屋でカレーの匂いがしたらいつも教えてくれるんですよ」
 それは色々間違っている気がする。
「ここら辺の猫とも仲良くさせてもらっていまして」
 何故猫に敬語を使う。
「私がカレー好きだと知ってるのですよ。それでわざわざうちまで知らせに来てくれるんです」
 嘘だと思う気持ちは良く判る。でもオレは実際に見たんだ……、うちの近所のボス猫が理香を導きながらうちに来たその様を……。
「でも何でわざわざここまで来るの? カレーなら別に自分でも作れるでしょう?」
 冷静に猫の件をスルーして元樹が指摘する。それはいいんだがさりげなくおかわりと皿を突き出すのはやめないか。いえ、ちゃんとよそいますけどね。
「私、料理なんて出来ませんもん」
 ない胸を張って理香は誇らしげに笑う。自慢でも何でもねえ。
「それに啓くんのカレーは最高においしいですもん」
 うんうん、判ると言いた気に風花が頷く。そんな理香の言葉と風花の反応が嬉しくて口元がだらしなく緩む。また食わせてやろうって気になってしまう。
「確かに、おいしい」
 普段目の敵にされている元樹の控えめな誉め言葉。これは……認められたと言うことですね! ひゃっほう!! 天にも登るような気持ちというのはこのことか。
「おかわり」
 今度は理香と元樹がハモらせる。細かいことはいい。自分の作った料理をうまいと食ってくれる奴は大好きだ! オレはニコニコしながら二人におかわりをよそってやった。炊飯器はすでに空で、冷凍ご飯も残り少ない。カレー鍋が空になりそうだ。だがそれもあまり気にならない。
「…………」
 風花が何か言いたそうな目をしているが、ちょいと不思議だが気にならない。ため息まで吐かれるが……あれだ、二人の食欲に呆れているんだろう。

 それから楽しい食事を終えると双子とカレー星人は満足したように去っていった。何度でも言うが、あれだけうまそうに食われると作ったこっちが嬉しくなるぜ。
 心に幸福を抱きつつ洗い物をする。終わったら数学の続きをやった。元樹の教えのと幸せな充実感のおかげか、スラスラと解けた。
 今日はもしかしたら人生最良の日なのかも……。いや、これが元々オレが持っている実力なのかもしれん! よし、そういうことにしとこう、そのほうが気分が良い。

 高揚した気分のままオレは眠りについた……。


 ――翌日。
 二日目特有のおいしいカレーを食べそこなったということに気付くと、連鎖的に――数学を教えてもらった元樹はともかく――今まで理香に無償で大量の食料を提供していたと言う事実に(本当に今更)気が付き、絶叫したと言うのは……、なかったことにしてもらいたい。



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