愛車(自転車)のスカーレット・エクセレントΜ号(今名付けた)、略してスカミュー号に乗って音速を超えた(当然冗談である)スピードで校門を駆け抜けた。 直後、校門は厳かな音を立てて閉められる。ギリギリセーフ!! キキキィー!! と耳障りなブレーキ音を鳴らしつつ(オイルを挿さねばなるまい)、自転車置場へと移動。汗を拭ってから下りると、荷台に縛り付けておいたカバンを取った。今まで黙っていたが、オレの愛車は実はママチャリなんだ。ギアチェンとかそんなオシャレな機能はもちろんない。前のカゴにカバンを入れなかったのは激しく揺れて落ちたら困るからだ。 「啓輔?」 誰かに呼ばれた。 「啓輔」 後ろに降る向けばそこに風花がいた。 「おはよう」 首を傾げてにこっと品の良く笑むお嬢様の姿。 「おはよう。ってお前さん遅刻ギリギリだぞ」 「啓輔こそ」 「オレはいいのだ」 主人公だから。ここで無駄に補正を発揮。たぶん使うところを間違えている。 「ふふ、わたしはね、寝坊しちゃって」 「ほほう、自慢か」 「啓輔は? 確か電車通学だったよね?」 ナチュラルに無視しないでくれ。ヘコむだろう。 「危ないオニーサンに駅を見張られていたので急いでムササビ丸(今名付けた)で来たのだ」 「ああ、博くんが警告してくれた、あの」 忘れた頃にやってくるとは、奇襲としては大成功じゃないか。しかし、駅前で張ってるなんてことは今までなかったのに、どうしたんだろう。これは戦の前触れかもしれない。 「風花んとこは来ないの?」 あの現場にいたのはもちろんオレだけじゃない。詳しいことは三話辺りを参照願います。 「…………」 へんじがない、ただのしかばねのようだ。 いや、それは違うだろう。 「風花さん?」 「あ」 我に返ったように目を見開いた。 「ごめん、ぼーっとしてた」 「そうらしいな」 身体が弱いって言ってたからそれかな。まったく、お嬢様は貧弱で困るな。オレの心配をよそに風花はポケットから何かを取り出すと口に運んだ。それとは別に一つを取る。 「啓輔、あーん」 「あーん」 あーんと言われて口を開けない人類が一体どこにいるというのだろうか。風花の手より口の中に入れられたものが舌に乗った。すぐに甘みが口全体に広がっていく。 「ちょこ?」 「それ、あげる」 風花はオレの手に手のひらサイズの長方形の紙箱を押し付けた。食料ゲットだゼ!! 思わずガッツポーズが出た。 キーンコーンカーンコーン…… 「遅刻しちゃうよ」 そういう風花はすでに自転車置き場から出ようとしていた。その姿にオレは慌てて駆け出した。
午前午後共々何のトラブルなく授業が終了した。いや、細かいことを言うならば、数学の時間に当てられてさっぱり判らなくて周りの人に助けてもらったとか、英語の時間に訳せと当てられたのだが、さっぱり判らなくて周りの人に助けてもらったとか、そういうのはあったが、概ね平和である。ううん、オレって人に助けられて生きているなあ。いやさ、人間は支えあって生きているのだ。どっかの鼻声の先生も言っていた。ということはこれが本来の人間の姿なのだ。オレ偉いっ、オレすごいっ、オレ最高!! 「樋口くん、一人暮らしで大変なのは判るけど、ちょっとくらい予習してきなよ」 隣の席の女子、 「うう、返す言葉もございません、旧清酒様」 「色々ツッコミたいけど、ツッコだら大変そうなのでやめておくね」 授業における旧清酒様は危険回避率が異様に高いようです。 「ともかく、暇な時間はちょっと勉強したほうがいいよ。試験に役に立つんだから。それじゃあね」 言いたいことだけ言って旧清酒様は教室から出て行かれた。言っていることは正論なので反論はもちろん出来ない。出来ないので、今度感謝の気持ちを込めてふくびきけん――いや、お菓子でも持ってこよう。女子はスイーツ(笑)が好きと聞くしな。夏子に言ったらきっとフルボッコの刑になりそうなので言わないでおこう。 授業道具がきちんと机の中に入っているのを確認。よし、帰ろう。今日はバイトもないし。ああ、前回バイク事故に巻き込まれた不運なオレの同僚は無事に退院したぞ。 軽いカバンを担ぎながら教室から脱出。さて、今日は無駄な出費をしないようにおとなしく部屋に帰ろう。そんでもってスイーツ(笑)の研究でもしよう。桜って名前だからきっと桃が好きに違いない。だが、今は桃の季節ではないので入手が(値段的に)困難だ。ならば簡単なクッキーにしようか。簡単ってならシフォンケーキってのもあるな。確か本があったはずだ。 うむ。なんて素敵な放課後の計画だろうか。ちょっぴり男子高校生としては間違っている気がしないでもないが、不健全じゃないからいいだろう。 階段を下りつつそんなことを考えていたら踊り場に魔王様がいらっしゃった。 「……さて何でしょう?」 クイズ番組における屈指の難題を魔王様はおっしゃった。ノリのよいオレは解答席に座ってるつもりでボタンを押した。 「ピンポンっ!」 「……赤の方早いっ」 「行脚!!」 「……残念。正解は矜持。赤の人は少しの間お立ちになってください」 何をやらせるんだろう、この人は。 「……あなた、私に何をさせるの?」 「いや、オレのセリフでもあると思うぞ」 「どっちもどっちだよ」 そこに我が六組の学級委員長、名は 「……手伝って欲しいの」 魔王様こと麻美さんがツッコミを気にすることなく人に助けを求めています。 「…………」 思わず黙ってしまった。だって、麻美の頼みなんて人格的にろくなもんじゃないじゃないか。 「……部室の掃除だから、いたって普通」 「部室って、部外者は入っちゃいけないと思うんだがね」 「……大丈夫、うちの部活は校内一のフリーダム」 何か、嫌な予感がするだけど。 「……仕方ない」 麻美はため息を吐くと、人差し指と中指をぴたりとくっつけ立てる。 「……アーマートーラ」 「判った、行きます」 洗脳は嫌です。身体の自由はもちろんですが、魂の自由も欲しいです。 「というか、博を使えばいいじゃないかよう、何でオレなんだよう」 「……外せない用事があるそうなの。そう言われたら私も強くは言えない」 そういう真っ当な神経は持っていたんですね。 「ぬう……」 「……ま、大丈夫よ。本当に掃除しかしないから」 とか何とか言って、ものすっご汚い部屋に閉じ込めて掃除し終わったら出てきていいよとか言うつもりなんだろう。 「……先輩もいるから、それはないわ」 なんだ、それなら安心だ。 「……ということで、部室にゴー」 やる気なく麻美は言うとさっさと階段を下り始めた。オレは黙って付いて行く。 「麻美って部活やってたんだ」 ちょっと意外。というか、補習で忙しくてそれどころじゃないと思うのだが。いや、補習ってそんな年がら年中やってるもんじゃないから暇はあるか。 「……うん、名前だけ」 人はそれを幽霊部員という。 「……まあね」 「で、どこの部なんだ?」 階段を下りて下りて、一階にたどり着いた。玄関とは逆方向、体育館へと続く廊下を無言で進む麻美。黙られたらオレも黙って付いて行くしか出来ないじゃないか。ここらへんに部室なんてあったっけ? グラウンドへ続く道に部室という名のプレハブが連なって立っているのは知っているが……、あれ冬は寒くて夏は暑いんだろうな。何の試練なんだろう。 「……ここよ」 考え事をしていたら到着していた。 「えっと、ここは……」 「……元講義準備室、今は暗室。つまりは写真部ね」 元・講義準備室、それは初芝な事実だ。 コンコンとノックすると、麻美はさっさと扉を開けた。 ――カオスの扉が今開く!! 「…………」 前に来たときに別におかしいことがあったわけでもないから、いいか。麻美に続いてオレは暗室に入室した。 「しつれーしまーす」 「あ、あさちゃん来てくれたんだね。それに助っ人つき!!」 能天気な声にとても歓迎された。 「……はい、元気です」 もう早会話が成り立っていない。 「うんうん、あたしも元気。それでね、そこの助っ人くんの名前を教えてくれるかな?」 テンション高っ。 「あ、えっと、一年六組の樋口啓輔です」 「ん、あたしは三年六組の 強引に手を握られてぶんぶんとふられた。 「それでね、こっちが副部長で三年二組の」 ハイテンションの西野先輩をさえぎって、落ち着いた女子生徒が前に出た。 「 「はあ……」 テンションがまるで逆だなあ……。 西野先輩は全身からエネルギーが溢れているスーパー☆ガールって感じ。顔もよくよく見ると整っていて美人さんだ。でもこのテンションじゃ美人に思われないんだろうな。きっと黙っていればもてる人だ。夏子と一緒か。でも夏子より人懐っこい感じ。 そんで三上先輩は一言で言うならばクールビューティ。背も高いしとても落ち着いているから大人と間違えられそう。ただ、ちょっと目つきが鋭いので冷たい印象を人に与えそうだ。オレは外見で人を判断しないからヘーキなのだ。ホントだぞ? 「じゃ、早速お掃除始めようか」 部長らしく西野先輩は言うが、勝手の知らないオレは何をしたらいいんだろう? 「ちゃんと役割決めてからやるってさっき話したでしょ?」 すかさず三上先輩が西野先輩の動きを止めた。タイミングがらしてものすごい慣れを感じる。 「え? そうだっけ? んー、じゃあ、樋口くんは男の子だからー、んーと、重いもの……冷蔵庫を捨てる? いや、それよりもバットを――」 「……あんたが適当に決めたら厄介だから黙って」 「あはははは、洋子はやっぱり頼りになるねえ!!」 西野先輩は楽しそうに笑い出した。な、なんだか長時間一緒にいるとものすっご疲れそうな人だなあ……。 「そうね、麻美ちゃんはそこのキーボード(パソコンのではなく楽器のほうだ。しかし何故そんなもんが写真部にあるんだろう)らへんを整理して。フィルムはあのお菓子箱に。ネガはあそこの空き缶に立てといて。弥生はあっちの引き伸ばし機下をお願い。樋口くんは……そうね、私の手伝いをしてもらうわ」 はへ。 「りょーかい!」 「……いえっさー」 女子二人は返事をすると持ち場に移動した。 「さて、私たちは冷蔵庫の中をやるわ」 「はあ」 「主に廃液を捨てる」 「……その水道に捨てちゃっていいんすか?」 前はじっくり見ていなかったが、結構立派な、美術室とかにある水道がある。廃液なんか捨てたら腐敗しそうなんですけど……。 「いえ、そっちじゃなくてこっちの水道。そこに捨てて」 ん? 「あ、これっすか」 水道の隣にまた小さなトイレの個室にある水道があった。ほら、用具箱と個室のほかにあるあれですよ。 「了解ッス」 単純な肉体労働で済みそうだ。 「じゃあ早速お願いね」 白の冷蔵庫(ピンクの冷蔵庫が別にもう一つあるのだ)から三上先輩は青の四角いタンクを出した。結構でかいな。 「それは現像液だからそんなに重くないわ」 「他にもっと重いものがあるみたいじゃないですか」 「あるわ」 あっさり三上先輩は肯定した。 「ドライウエル」 「何すかそれ? って重っ」 渡されたタンクは思ったよりも重かった。 「水切り剤ね。うちはフィルムにしか使ってないけど」 「だってさー、印画紙はアイロンがあるからいーじゃん」 アイロン? 「あれ」 三上先輩が指差すのは長方形の……何だ? えっと、ローラーが付いてる。 「洗った写真をローラー部分に載せる。そしてスイッチを入れるとゆっくりローラーが熱を与えつつ印画紙をプレスしながら動くの」 「ああ、だからアイロン」 「正式名称は誰も知らないのよね」 いい加減な。 「たぶん、乾燥機じゃないー?」 西野先輩ががさごそしながら言う。まあ、確かにそれには違いなさそうだ。でもオレはそんなに興味はない。 「じゃ、始めましょうか」 予想した通り、オレの仕事は単純な肉体運動だった。青の四角いタンクを水道まで運んで捨てる。距離は二メートル強しかないので楽なもんだ。 「うわ、洋子全部捨てちゃうの?」 「ええ、印画紙用の現像液はもう色が付いちゃってるわ」 「ええー、醤油はまだ使えるんだよ?」 「限度ってもんがあるでしょうが」 「あ、停止液までっ、こんなの腐るわけないじゃん」 「でもこれ私たちが入部したときから使ってるのじゃない」 「ちょっとう、定着液もー?」 「こんな中途半端な量で何が出来るのよ」 「ううー」 専門用語の連発。何を言っているか判らない。一段落ついたついた麻美にそっと耳打ちをする。 「何言ってるか判る?」 「……ええ」 お、さすが幽霊とはいえ関係者。シロートとは違うねい。 「……日本語」 倒れそうになった。 「あの、そうじゃなくてさ……オレだって日本語くらい……」 「……ま、専門用語なんて聞き流しておけばいいのよ」 それは写真部員として問題ある発言だと思う。 「で、そっちは終わったの? 終わったら入口の引き伸ばし機下をお願いね」 「ううー。洋子は人使いが荒いんだよう」 「掃除をするって言ったのはあんたでしょうが」 何かデコボココンビだな。三上先輩がこちらを見た。 「麻美ちゃんは……もう少しね。じゃあ、私たちは続きね」 三上先輩の言葉に作業を再開する麻美。何か色々新鮮な風景だ。 「タンクを洗うんですか?」 「ええ、そう」 「こっち?」 銀の水道を指差す。 「いえ、白でお願い。と言っても水を白のほうに捨てればいいだけだから」 「判りました。白大活躍ですね」 「まあ、銀のでやると錆ちゃうから」 「……なら何で銀のあるんですか? 白だけで充分じゃ」 何気なく出た疑問だった。薬品で錆てしまう水道などいらないじゃないか。 「食べ物作るときに白の水道から出た水は使いたくないよねー」 遠くから西野先輩が答えてくれた。 「まあ、気にしないで」 三上先輩は少し困った顔で言う。いやでも気になりますって。ここで一体何してるんだ? 明らかに写真部としての活動とは違うこともやってやがるな? 前にも見たけど何で木製のバットやらテニスボールやら竹刀やらがここにあるんだ。おかしいだろ。 「いいから樋口くんはそれ洗って。私はお湯を沸かすから」 「お茶の時間ですか?」 疲れてないけど、食べ物は食べたいです。 「まさか、新しいのを作るのよ」 あ、薬品か。えーと、捨てたのは……いっぱいあるから……。 「さっさと洗ってね。後がつかえるから」 ニッコリ笑顔。三上先輩って、初対面の人だというのに人使いが荒いや。 三上先輩はオレに指示するとさっさと電気ポットに水を入れ始めた。オレは肩を竦めてタンクを洗い始める。洗うったって簡単だ。水を入れて蓋を軽く閉めて、揺さぶって残りの薬品を落として捨てる。それを何回か繰り返す。体力的には辛くないが、ずっと水を触ってるせいで手がべらぼうに冷たい。それにお肌が荒れてしまう。 「あたしもやるね」 担当の場所が終わったらしい西野先輩がオレの隣にやってきた。スポンジに洗剤を持っている。 「おうおう、頑張ってるな少年。偉い偉い」 西野先輩はオレが洗ったボトルに手を突っ込むとわしゃわしゃと洗い始めた。平気な顔して銀の水道で。 「そっちでいいんですか?」 「うん。薬品は大体落ちてるから。すすいだらこっちも手伝ってね」 「あいさー」 ガシャガシャガシャ、ザー。 わしゃわしゃ。 ガシャガシャガシャ、ザー。 わしゃわしゃ。 「何で今の時期に掃除なんですか?」 黙っているのも何なので話し掛けてみた。 「うん? んーとね、顧問に部屋掃除しろーって言われてるのもあるけど、ほらあたしたち引退しなきゃいけないから。可愛い後輩には綺麗な部室で作業してもらいたいなって」 おおう、何て良い先輩なんだ。先輩の鏡じゃないか。 「でも一年の麻美が手伝ってますよ?」 「いーのいーの。あさちゃん幽霊だもん。それに三年はあたしらだけだし、二年生は居ないしね」 明かされた新事実に驚愕。 「え、じゃあめっちゃ人数少ないんですか?」 「ううん、三年はあと五人はいるよ」 あははははーと笑い飛ばす西野先輩。全身から思いっきり力が抜ける。 「い、引退って文化系の部活っていつごろ引退するんですかっ」 負けてたまるか。普通に会話を続けてくれるっ。 「体育会系だと、大会後ですよね」 「うーん、そうらしいねえ」 別にすっとぼけるわけでもなく、西野先輩はのほほーんと答えた。 「で、写真部の引退時期は?」 西野先輩は手を止めずに答えた。 「学校祭の後くらいにある、大会終了後だよ」 「へええ」 案外まともだ。 「なーんてね、実は卒業式っ」 どんがらがっしゃん!! 思いっきりひっくり返ってやった。嘘かよ!! 「つーかまだまだ先じゃん!!」 「あははー♪」 ひっくり返ったオレに三上先輩は冷静に忠告してくれた。 「弥生の話はたまに嘘が混じるから気をつけたほうがいいわ」 「酷い、あたし嘘なんかつかないよ。大法螺吹くだけじゃん」 三上先輩の言葉に西野先輩はぷくーと頬を膨らませて抗議する。嘘と法螺って何が違うんだろう。 「……悪意の有無」 麻美がこちらを見てぼそりと言った。 「いやあ、しかしコンロが付いてから作業が大分楽になったよねえ」 関係ないことを西野先輩は言う。 「弥生の話に脈絡なんかないから」 三上先輩のワンポイントアドバイスがありがたい。 前は気付かなかったけど、水道の隣には何故かガスコンロがあった。 「お湯がないと現像液も定着液も作れないからね、結構死活問題だったりなんだよね」 「コンロもポットもないときはどうしてたんですか?」 当然出る疑問だった。立ち上がり、制服についた埃を払う。 「ふふん♪」 西野先輩は何故か誇らしげに微笑んだ。なんとなく三上先輩の顔を見る。 「…………」 何故か遠い目をし鼻で笑い、オレから視線を外した。 「職員室からかっぱらってきた♪」 楽しそうに言わないで欲しい。 「だってないんだもん。あるとこから盗ってくるしかないじゃん」 いけしゃーしゃーと何を言い出しますかこの人は。 「それに校則には『職員室のお湯を盗ってはいけない』って書いてないし」 「書いてあったら盗らなかったんですか?」 「そりゃ盗るよ」 盗るのかよ。 「でも今はお湯沸かせるからー」 ぱたぱたと手を振ってカラカラと笑う西野先輩。あーもう、泡が飛ぶがな! 「弥生とまともに会話すると体力根こそぎ持ってかれるわ」 三上先輩のワンポイントアドバイスは苦労が滲み出ていた。 「はい、これで終わりだね。あさちゃんは?」 「……ねこふんじゃったなら弾けます」 言葉のキャッチボールをしてほしい。 「あたしはねえ、静かな湖畔が弾けるよ。あれずっと静かなご飯だと思ってたんだ」 「……チャーハンより焼きそばのほうが美味しい」 眩暈がする。 「みたらし団子が食べたい」 助けて、三上先輩っ。 「現像液作るから、手伝って」 二人を無視して三上先輩はため息とともに言った。要するに相手にするなってことだろう。確かに、まともに話を聞いていたら発狂しかねない。 計量カップ(二リットル強)には約一リットルのお湯が入っていた。そこに白い粉を入れて三上先輩は説明書きを読み上げた。 「泡立てないように攪拌してください」 「かくはんって何ですか?」 「辞書を引きなさい」 「そんな殺生な」 「冗談よ」 よかった。これでいきなり辞書なんて渡された日にゃ―― 「はい」 笑顔でオレに国語辞書を渡してくれる西野先輩。 「…………」 半分くらい泣きながらページをめくる。本当に何でもあるなあ、ここには。 「かき混ぜるって意味よ」 無表情で答えを言う三上先輩。辞書を閉じて気を取り直す。 「ああ、自分で答えを見つけることに意味があるんだよー」 「……そうだそうだ」 西野先輩が文句をつけ、それに麻美が同意する。ああ、何か厄介な人たちがコンビ組んだぞう。 「えーと、泡立てないようにかき混ぜるんだな」 無視して攪拌棒を手に取った。攪拌棒ってのは、先がぐるぐると渦を巻いてある棒だ。 ? あわだてないようにかきまぜる? 「出来るかぁあ!!」 「出来るわよ」 三上先輩はオレの絶叫をあっさり否定すると、攪拌棒を奪い混ぜだす。 「…………」 お湯は静かに計量カップの中でクルクルと回る。あわ立つことなく。 「料理じゃないから」 「…………」 料理だったらさ、かき混ぜるって大体空気を入れることじゃん? だからさ、だからさ……。くすん。 「麻美ちゃんはお湯を沸かして」 「お茶にするんだね。ほら、紅茶を発掘したよ」 誇らしげに、むしろ埃りまみれで西野先輩が言う。つーか危ないものは飲みたくないです。 「違う、定着液を作るの。まあ、飲みたいなら勝手に淹れなさい」 止めないんだ……。 「あ、弥生はバットを洗って」 「ええー」 露骨に嫌そうな顔をする西野先輩。ふと気付いたんだが、三上先輩ってさほど働いてないような……。タンクを冷蔵庫から出しただけな気が……。ひたすらに指示を出しているだけで動いてはいないんじゃ……。 「洋子あんまり動いてないじゃん、洋子が洗ってよ」 西野先輩はオレの考えそのものをズバリと指摘した。 「……誰があれをあーしたのよ」 が、三上先輩は無表情で西野先輩を見下ろした。いや、見下した。傍から見ても怖いんですけど。 「え?」 判ってないのか、首を傾げる西野先輩。 「あんたが、定着液を一ヶ月も放って置いたから、あんなんなったんでしょうが!!」 タイミング良く、『あんなんなった』バットを麻美がオレに見えるように掲げた。 ……何か、怪しくて白い物質がバットの底に張り付いてる。 「うへへ〜」 罰が悪そうに西野先輩は笑った。 「うー、判ったよう」 素直にバットを麻美から受け取ると、白の水道で洗い始めた。 「麻美ちゃんは定着液の作り方知ってる?」 「……お湯に入れて混ぜるだけ」 「お願いね」 やっぱり三上先輩楽してる。 「…………」 「…………」 目が合ってしまった。 「次、もう一つ袋があるでしょう? それも同じように溶かして」 「はひ」 何か、見透かされてるような気がしてならない。 「私は印画紙用の現像液を作るから」 「はひっ」 ……オレってそんなに考えていることが顔に出るのかな? 「あたしの終わったらお茶淹れようね、お菓子もあるしさっ」 西野先輩の陽気な声に急に元気が出た。泡立てないように力いっぱいかき混ぜる。 「あなたって単純なのね」 現金なオレの反応に三上先輩は微笑んだ。初めて見る笑顔は西野先輩に比べて小さかったけど、やさしい笑顔だった。 「本日の仕事の終了を祝してカンパーイ!!」 西野先輩が何故か乾杯の音頭を取った。 「か、かんぱい……」 「いいの、無理しなくて」 ティーカップを掲げようとしたオレに三上先輩は呆れたように言い放った。つ、冷たいです先生。 「いやいや、樋口くん、今日はどうもありがとね」 「いえいえ」 麻美には逆らえませんから、と心の中で付け加える。 「あさちゃんも」 「……やよやよ先輩に会えただけで幸せです」 だから会話のキャッチボールをしやがれ。 「なんだその明らかに名前よりも長いあだ名は?」 「……やよやよ先輩は実はひそやかに教祖なのです」 胡散臭さを余裕で百パーセント超える発言を真面目な顔で言わないでください。 「……その名も『ぴたぴた☆やよやよ教』」 きっと「狂」の間違いだろう。この際、「経」でもかまわない。 「……信者はやよやよ先輩を見て「お、こいつ可愛いな」思っている男子」 「かわいそうだ……」 「深く考えちゃ、というか、まともに取り合っちゃ駄目」 反射的に出た言葉を三上先輩はやはり冷静に切り捨てた。 「そんで、もとくんはどうしたの?」 もとくん? ……ああ、人気投票にてゼロ票獲得の桐生元樹のことか!! 可愛らしいあだ名をつけてもらいやがってっ。博に教えて一緒にからかってやる! 「何か慌ててたから詳しいことは聞いてないけど……」 「……風花が倒れたから一緒に帰っただけです」 は? 麻美さんの言葉を脳内で再生。 風花が倒れたから一緒に帰っただけです? 「倒れたって?」 「……貧血起こして倒れるのがあの子の特技」 いやいやいやっ、それは特技じゃなくて体質ではないでしょうか。 「ふぅん、もとくんは風花ちゃんのこととなると何というかだからね」 シスコンですから。いや、そうじゃなくて。 「何で教えてくれなかったんだよ!?」 「……どうしてそんなに怒るのよ」 オレの激昂はあっさりと切り捨てられた。 「確かにそんなこと教えても意味は無いわね」 三上先輩が他人事のとように言う(実際他人事だ)。その通りだけど……だけど、何か寂しいじゃん。 「まーまー、教えなかったのは心配かけたくなかったからでしょ?」 西野先輩の言葉にちょっと我に返った。ふむ、自分のだったらどうするか考えてみよう。 貧血で倒れたとする。ばたーん。近くにいた人及び友達に驚かれる。そんで近くにいた人及び友達に心配される。口では「大丈夫だ」と言う。何でだ? そら、心配されたくないからだ。そんでもって、わざわざ倒れたことを知らないでいる友達に教えるだろうか? 普通、教えない。また心配されるからだ。いや、心配されるのは気持ち的に悪くないが、申し訳ないというか、心配はかけたくない。考えてることわけわかめ。でも、大したことじゃないんだから、心配されたくないな。 「…………」 ああ、そういうことか。 「なっとく?」 「なっとく」 「そっか、よかった」 にはにはと西野先輩は微笑んだ。しかしよく笑うお人じゃ。 「ん? てことはオレは元樹の代打だったのか?」 オレがたった今気付いたことは考えていたこととは全く関係なかった。 「……そう」 今明かされた衝撃の真実!! とそんな大げさなものでもないか。 「……ご不満?」 「いんや、知らんもん見れたから楽しかった」 「ホント?」 オレの答えに喜ぶのはやはり西野先輩だ。 「じゃあ写真部に入らない? 今なら新聞もつけちゃうよ♪」 なんつー怪しい勧誘をするんだこの人は。 「いやあ、オレ、バイトやってるんで全然出れないから駄目っすよ」 笑顔で回避。面白かったけど入部したいと思うほど魅力は感じてないぞ。 「……私も幽霊してるから、平気」 何て心強い発言なんでしょう、麻美さん。とても嬉しくないけど。 「……それに、あなたがどうこう言おうが、来年は入部しているから問題ない」 「はい?」 何でそうなるんじゃ? 「うちの部って二年生がいないから、私たちが卒業したら部員が足りなくて部として成り立たないのよ」 「そんで、うちの学校は六人から部として認められるんだよ。一年生はもとくんとあさちゃんしかいないからねー」 三上先輩の解説を西野先輩が続ける。が、理解できない。というか、したくない。 「それに写真部は幽霊公認だから♪」 西野先輩は明るく言ってるがそれは部として良いのか? 「考えておいてよ。卒業して遊びにきてなくなってるのって嫌だし。うちの妹も入りたいって言ってるし、それまでなかったらお姉ちゃんとしてはかなしいな」 おもっくそ自分の都合じゃないですか。でもまあ……そんなに嫌じゃあないけどさ。 「じゃあ考えておきます」 幽霊公認ならばそんな気負うこともあるまい。それに麻美がいるから抵抗しても無駄だろうしね。……ちょっと悲しくなったが、深くは考えないでおこう。 紅茶をぐびぐびと飲みつつそんなことを考える。 「そんでさ、他の部員は今日どしたの?」 あと……風花。勝手に倒れよって……。昼飯を分けてもらっているものとして栄養のあるものを食わせなくてはなるまい。 「いつも通り帰ったわ。だいたい、あんた連絡入れなかったでしょうが」 何が良いかな。やはりレバーか。いやさ、それならば桐生家の執事さんである鈴村さんが頑張っているに違いない。 「そうだけど、なんとなく察して来てくれるかなぁとか思ったり」 てことは今風花の口の中はレバー独特のもはーんとした空気で一杯なのだな。なんということだ。 「なに無茶言ってるのよ……」 ならば口の中を爽やかにする食べ物を作っていってあげよう。それでいて胃腸にやさしそうなの。となるとチョコ系はだめだな。重過ぎる。カレーも不可だ。 「……いえ、やれば出来るは魔法の合言葉」 あ、プリンやゼリーがいいな。そうしようそうしよう。プリンはともかくゼリーは簡単だからすぐに作れるし。 「麻美ちゃんも無茶言わないで」 自分の良い考えに思わず笑顔が出た。そしてその笑顔を思いっきり談笑中の西野先輩に見られた。とゆーか目が合ってますよ? 「ん?」 きょとんとしてから、満面の笑顔。 「にはっ♪」 悪意なく思った。――本当に幸せそうな人だ。本心からの、良い意味で。 「……笑う門には福来る」 だから勝手に人の考えるのはやめてください、麻美さん。 ま、始終無表情で居られるより笑っていてくれたほうがいいよな。おっと、三上先輩の悪口を言ってるわけじゃないぞ? 「それはいいとして。洋子、ピンクの冷蔵庫どうしようか?」 「そうね、壊れているけど使えないわけじゃないから、困ったもんだわ」 でも三上先輩だってそんな無表情って訳でもないんだよな。いや、西野先輩がいちいち大げさなので三上先輩の表情の動きが小さく見えるのかな? 二つ年上のデコボココンビを眺めつつ、そんなことを考えた。 「温度調節が馬鹿になってて、冷凍庫としか使えない」 「アイス入れたらいいんじゃない?」 「薬品まみれの箱の中に食べ物入れて平気なの?」 「うん」 「……そうね、あなたはそういう人だったわ」 「いやあ、そんなに褒めないでよ〜」 「修理じゃお金も時間もかかるから、中古の買ったほうがいいわね」 「ああ、無視しないでよー」 いや、マジで良いコンビだな。ただ、それを言ったら三上先輩は死ぬほど嫌がりそうだ。 それがすぐに想像できて、思わず笑みがこぼれた。 「何?」 三上先輩が訝しげな顔でオレを見た。 「いやあ、良いコンビだなと思って」 思ったことを素直に言った。 「冗談じゃない」 死ぬほど嫌そうな顔をして三上先輩は言った。 予想通りの答えにオレはまた笑ってしまった。 |