邂逅輪廻





 とても、とても昔の話。あるところに男の子がいました。
 男の子はお父さんにつれられて、箱のようなお家へ毎日通っています。
 箱の中には男の子の大好きな女の子がいるからでした。
 男の子はたくさんおしゃべりしました。面白いことも、つまらないことも。
 女の子はずっとずっと笑っていました。面白いときも、つまらないときも。
 二人はずっとずっと一緒にいて、男の子が帰るときになると、約束をしました。
 明日もまたくるよ。明日もまたきてね。
 男の子はずっとずっと通い続けます。お父さんにつれられなくても通えるようになりました。
 あるとき、女の子はいいました。
 たすけて。
 男の子はうなずき、女の子とともに箱の中から飛び出しました。


ハンドメイドメイデン9
パラダイス・ロスト

七桃りお


 差し込む光が眩しくて、重い瞼を動かした。
 初めに映ったのは真っ白な天井。身を起こすと、しわくちゃになったタオルケットと貧相な足が。
 どうにも身体が重い。寝巻きのシャツも汗ばんでいるようだし、神凪祭ではしゃぎすぎたのかもしれない。
「マスター、おはよう御座います」
 ふわりといい香りがした。現れたのは桃色のエプロンにフライ返しを手にしたアルビノだった。スライドドアの向こうから漂ってくる良い香りは朝食のものだろう。その匂いに刺激されたのか、僕の胃がくるくると鳴いた。
「おはよう。今行くよ」
「了解しました」
 キッチンへ戻ろうとする真っ直ぐなアルの背中をぼんやりと見ながら、僕は寝起きで重い身体を動かした。枕の横に置いた携帯を確認した後、壁にかけてあった制服を引っつかむ。のろのろと着替え終えると携帯とパソコンとメディア教材を鞄に放り込んで部屋を出た。簡素な真っ白い部屋を。
 リビングは我が家の特異点だ。基本的に必要なもの以外――どころか、本来必要なものすら足りないことがある牢獄のようなこの家は、しかしリビングだけは充実していた。薄いレースのカーテン、動物を模したスリッパ、汚れ一つないテーブルクロス、そこに飾られた花、ゆったりとした大きなソファー。
 全てアルビノがやってきてから揃えた物だ。ずっと前、彼女に「掃除のし甲斐がない」と珍しくぼやかれたのだ。僕としても、機能としての家ではなく、居場所としての家とするなら、家具をそろえるのも悪くないと思った。
 そんなリビングを漂う甘い香りを胸いっぱいに吸い込みながら、僕はかえるのスリッパで滑るように歩いて椅子に座る。それと同じタイミングで、皿とグラスが置かれた。程よく焼いた食パンに適量のいちごジャムを均等に端まで塗られたトーストだ。飲み物が水なのは、朝の僕は口に色素が残るのを嫌うからだ。
 朝食はこれぐらいが丁度いい。うん、おいしい。
 ……と、そういえば。
「ありゅはきょんもかんにゃぎさいくるにょ?」
「申し訳ありません。三十ヶ国語対応翻訳機能をもってしてもマスターの言葉は解読できないのですが」
「へえ。アルにも出来ないことはあると」
「人は完璧を求めますが完全には恐れを抱きます。故に私は不完全の内にて完璧を」
「……オーケイ、僕の負けだ。話を戻そう。――アルは今日も神凪祭来るの?」
 葦原学園高等学校神凪祭は二日ある。初日はクラス中心、二日目は部活動中心の出し物だ。といっても初日で使用した器具類を流用する場合はほとんどなので、出し物自体はそう変わらないけれど。教室を使ったホラーハウスやミニゲームなどが撤去され、部活動の展示に使用されるぐらいか。
 昨日は混雑と僕が神凪祭初めてだということもあって、アルとめぐり合うことは出来なかった。僕を守ると豪語するアルならば、今日もまた来るのだろうと思っていただけれど――。
「いえ、今日は待機を予定しています」
 喰らいつこうと口まで運んでいたトーストが勢い余って鼻に激突。ジャムの香りがぷんぷんした。ふきんに手を伸ばそうとすると、さっとアルビノが掠め取って僕の鼻を拭いてくれた。親切心はありがたいけど、未だこういったことに慣れることはできなかった。子供じゃないんだからという反発もある。
 鼻を綺麗にふき取られた後、三秒の間をおいて、
「……うっそだー」
「私は嘘をつくことを許されていません。詭弁・屁理屈・曲解はデフォルトですが」
「高性能にも程があるだろっ。じゃなくて、ホントについてこないの?」
「何故そんなにも驚くのですか。――今まで私を邪険にしていたというのに」
「うっ」
 アルビノの視線がものすごく痛い。
「マスターはいつもそうです。私は私が在るべき理由をただ成そうとしているだけだというのに」
「ぐはっ」
「それは、私への否定なのでしょうか。私は必要とされてないのでしょうか」
「いや……そんなことはないけど……」
「けど、何だというのですか?」
「怒ってる! アルビノさんかなり怒ってらっしゃるよ!」
「そう聞こえるのなら、マスターにやましいことがあるのでしょう」
 正論だった。僕の完璧な負けである。
 ……仕方ない。少し恥ずかしいけれど、本心を言おうじゃないか。
「家に帰った時に『ただいま』と言える。『おはよう』と『おやすみ』を言える人がいる」
 朝目覚めると朝食が用意されているのは、とても幸せなことだと思う。一般にM.A.I.D.は普及しているけれど、それでも用法はたいてい道具としてだ。受け付け。広告塔。託児所。親代わり。
 だけど、M.A.I.D.をただの機械だと思えない――思うわけにはいかない僕は、
「それだけでいいんだよ」
 それが常識とズレた思考だということは、僕にだって分かっている。
 異常者。
 それでも、いい。
「私は人では在りません。心は鋼、血潮は電気。――しかし私は侍女故に、主望むままに在りましょう」
 アルビノはスカートの端を摘み、一礼してそう言った。
 ……さて。そろそろ時間だ。
 ふきんでささっと手を拭い、グラスの中身を一気呷る。立ち上がって鞄を掴み、
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃいませ」
 僕は心軽やかに、胸を弾ませ家を出た。



 同じ制服姿でぎゅうぎゅう詰めのリニアの中、僕は思う。
 ……まさか、アルがあんな物言いをするなんて。
 そもそもM.A.I.D.には人に悪意・敵意を持つことはできないとされている。たとえ三原則を無視し、人を害する命令を与えたとしてもそこに相手に対する悪意は生まれない。藍原桜太が開発したAIには、常に人が上位にあるようにと設定されているからだ。
 アルビノのアレはM.A.I.D.の有する擬似感情とは違う、もっとナチュラルな感情だったと思う。
 まるで――人のよう。
「あ……遊弥君?」
 その声で思考が途切れた。声に聞き覚えがあったからだ。ちょっと不安げな様子が窺えるこの声は、
「めあちゃ――おぅっ」
「あぅっ」
 ゴチン。頭に衝撃。
「う、う、う……」
 視線を上げると、瞑亜ちゃんが鼻をさすっていた。どうやら俯いていた僕が顔を上げたので激突したっぽい。僕にダメージは全然無いんだけど、鼻に激突するって痛そうだ……。
「ご、ごめん。大丈夫?」
「だいじょ……あ」
 とろりと流れる赤色。
 鼻血だった。
 やばい。こんな混雑の中で鼻血を噴出すなんて大事件になる。慌ててポケットからハンカチを取り出し瞑亜ちゃんの鼻に押し当てる。幸い第一次血液玉落下には間に合ったらしく、制服に血の華が咲くことはなかった。鼻だけに。
「た、助かったよ〜」
「いや、原因は僕だしね……」
「ううん、いつものことだから……」
 そう言う彼女は、鼻にハンカチを押し当ててる以外はいつも通りだ。ちょっとたれ気味で気弱そうな丸い瞳と、桃色に染まった柔らかそうなほっぺた。滑らかな黒髪は肩の後ろで二つに分かれている。今日のヘアピンは桃色の樹脂の先に小さな花が咲いていた。ちなみに瞑亜ちゃんのヘアピンは毎日色や種類の変わるのだ。
 そんな彼女と僕は今、満員電車の中である。僕が壁側、瞑亜ちゃんが人ごみ側で、その、なんというか、瞑亜ちゃんの二つのふくらみが押し付けられるような体制になっている。平均よりちょっと――というかかなり豊かなそれ。だがそれよりも夏服のゆるやかな襟元から覗く鎖骨の方が萌える僕は変態なのだろうか。変態なのだろう。変態でいいからこのままずっと鑑賞させてくれないかなぁ……。
 そんな彼女は身体が弱い。だが最近は調子が良いようで、保健室へ行く回数も少ない。その分コケたりスベったりする回数は増えたけど。その和やかな性格のおかげか、クラスではちょっとドジなぼけぼけ娘として認識されている。身体からあふれる『守ってあげたくなるオーラ』に惹かれてあれこれ面倒見る人も多い、というのは黄太郎談。そのオーラとやら、ちょっと分かる気がする。
「……瞑亜ちゃんってリニアで通学してたんだね」
「あ、ええと、ううん。乗り始めたのはここ最近かな」
「へぇ。最近は身体の調子いいんだ」
「うん、そうみたい。遊弥君のおかげだよ」
 そう言って、えへへと照れくさそうに頬を赤らめて笑う瞑亜ちゃん。
 なんだろうこの小動物的愛らしさは。いぢりたくなるというか、ちょっかい出したくなるというか。ハムスターのゲージを面白半分で突付きたくなるような、そんな感じの雰囲気だ。
「命名・ハムスター娘」
「え? 遊弥君?」
「なんでもないなんでもない」
 話を逸らそう。
「瞑亜ちゃん、神凪祭は楽しい?」
 そう問うと、不思議そうに小首を傾げた後、笑みを作ってこくりと頷いた。
「すっごく、楽しいよ」
 瞑亜ちゃんは、その楽しさを思い出して噛み締めているのか両の瞼を閉じて言う。
「やりたい放題の大騒ぎで、皆生き生きしてる。私も、たぶんだけど、その生き生きしてる人たちの中に入れていると思うんだ。結構激しいから、疲れることもあるんだけど、疲れた分だけ楽しめたって。そんな気分になるの」
 僕と出会う以前の瞑亜ちゃんがどんな風だったのか僕は知らない。少なくともこの数ヶ月で何か劇的に変わったわけでもなかった筈だ。だけど、不幸をスケープゴートにすることで逃げていた彼女ではなくなったと思う。
「そっか。そりゃ良かった」
「うん、良かったよ」
 前に進んでいる。少しずつだけど。
 それは僕の力だと、自惚れてもいいだろうか。
 僕に人を変える力があると――。
「まあ、今日も人が多いから気をつけてね。なるべく誰かと行動した方がいいよ」
「あ、えっと……ゆ、ゆー……あう……」
 何故か耳まで真っ赤にしてもごもごと口ごもる瞑亜ちゃん。風邪だろうか。手のひらで額に触れてみる。
「んー、平熱みたいだけど」
「……うー……う、う、う」
 何故か涙ぐんでいた。
 どきりとした。何だこの湧き上がる衝動。鼓動が激しくなる。
 そう、僕は今この娘を――いぢめたいのだ。
「……そういえば、今年の後夜祭がどんなことするか知ってる?」
「え? ううん、知らないよ」
「今年はね、ファイヤーストームへ奇声を上げながら次々飛び込んでUFO召喚するんだよ」
「す、すごい奇祭なんだね……」
「ちなみに去年は後夜祭で悪魔召喚したら間違って世紀末覇王が現れたってのは有名な話」
「ロマンティックが止まりそうだよぅ……」
 もう一息だと意気込んだ矢先、電子音が響いた。壁のパネルを見れば『葦原学園第三ホーム』とある。
 はっ。ぼ、僕は一体何を。なんか瞑亜ちゃん真っ青になって「愛を取り戻せないよぅ……」とか呟いていた。
 ぷしゅー。ぴんぽーん。
 音と共に扉が開き、雪崩のように生徒が外に――って、
「わ、あわわわわぁっ〜っ!」
 流れに乗ってものすごい勢いで流されていく瞑亜ちゃん。鞄が何かが生徒に挟まれているらしく、半ば引きずられるような形で遠ざかる。伸ばした手は届かず、僕達二人は離れ離れになってゆく――。
 ……ええっと。
「大丈夫……だよね?」



 で。
「何でまた僕が女装してるのかな、クルル?」
「新しい自分、発見?」
「僕を女装キャラに仕立て上げるな!」
「でも、手伝ってくれるんでしょ?」
「う……まぁ、困ってるみたいだし」
「はい決定!」
 そんな感じで決まってしまった。もしかして、僕って流されやすいんだろうか。
 事実はこうだ。神凪祭二日目での部活単位の出し物でメイド喫茶をやるというトチ狂った部活あったのだが、急遽メイド役が欠けるという事件があったらしく、そのピンチを聞きつけたクルルが無責任にもメイド役の確保を買って出たのだそうだ。本人曰く、
「それでもゆーやクンなら、ゆーやクンならきっと何とかしてくれると思って!」
 ということらしいが、いい迷惑にも程がある。
 まあでも僕に割り振られた時間は精々一時間程度であり、報酬として模擬店の前売り券を横流ししてもらえるらしいので、考えようによっては儲け話なのかもしれないけど。
 良くも悪くも猪突猛進天真爛漫厄介娘、早乙女躯瑠々ということか。
 僕としても、流されたとはいえ請け負った仕事を適当にすましてしまうような根性はしていない。ここは気持ちを入れ替え引き締めて、ウエイトレスに励もうじゃないか――
「――やあやあ藍原遊子ちゃん、ご機嫌麗しゅう!」
「お帰りくださいませ! 御主人様!」
 初っ端の客は黄太郎だった。最悪だった。
「おお? 御主人様にそんな口きいていいと思ってるのかい?」
「知ってるか、メイドにだって人権はあるんだぜ。いい加減現実を見つめ直せ」
「め、メイドさんはメイドさんなんだい! それ以上でもそれ以下でもないやい!」
 唐突に店内の男性客から拍手喝采が。何故だ。
「……なあ遊弥。わりと真剣な質問がある」
「どうせロクでもないことなんだろ。何だ、聞いてあげるよ」
 黄太郎は周囲に注意を払うように手で口を多い、僕の耳にささやきかけるようにして、
「そのスカートの中、どうなってんだ? ちゃんと女モノの下着つけてんのか?」
「お前はいい加減セクハラって言葉を覚えてちっと賢くなりやがれ!」
 本当にロクでもなかったよ! お前はつくづく期待を裏切らない男だな!
「……何言ってんだよ遊弥」
 と、何故か黄太郎はふっと皮肉交じりの笑みを浮かべて、
「――お前、男だからセクハラじゃねぇし」
「こんなところで現実を見つめ直すなー!!」
 僕が馬鹿みたいじゃねぇか。
 いや、多分馬鹿なんだろうけど。
 類は友を呼ぶ。
「……注文はいかがになさいますか」
「藍原遊弥を一つテイクアウト。もちろん、性的な意味で」
「ノリ任せの脊髄反射で答えるな! 頼むから脳を使ってくれ!」
 というかお前、いつからホモキャラになったんだよ。
「でもさ、お前もいつか気づく時が来るって。友達だと、親友だと思ってた。だけど、そこにはほのかな恋心。しかし二人の距離はあまりにも近すぎて、その淡い想いに気づくことができない……すれ違い宇宙そら
「素で気持ち悪いって思っちゃったよ! それと宇宙そらですれ違うのはビームとニュータイプだけだ!」
「じゃあ俺達はニュータイプだな!」
「僕は嫌だよニューハーフなんて!」
 その後、皮肉にも黄太郎直伝の接客術を駆使しながら、そんなこんなで一時間。
「つ、疲れた……」
 約一名の馬鹿から逃げるようにして、僕はメイド喫茶を後にした。



 葦原学園の神凪祭には、恐ろしいほどの人間が集まる。
 屋上庭園・校内公園・凱旋門前広場――葦原学園高等学校美観スポットは、学園中でも特に人の数が多い。しかし逆に考えると、人が少ない場所は限られているのだ。といってもここは広大な敷地を無駄に浪費している学園だ。心当たりはそれなりに多く、昨日は予想以上に喫茶に時間を省いたりアルビノも探さなければいけなかったりで、全てをあたることは出来なかったけど、今日は違う。
 一時間ほど彷徨って、ようやく僕は第二書庫の奥深くでアリアを見つけたのだった。
「――ここにいたんだ」
 小さなクッションを尻に敷き、古い書物を手にした彼女の視線が上がる。驚いた様子はない。いつも通りの仏頂面が真っ直ぐと僕を見詰め返している。床のゴミで汚れるのが嫌なのか、赤い髪は肩越しに前へ流していた。
 僕は彼女の隣に腰を下ろした。ややかび臭さが鼻につく。外の喧騒が遠く、周りには誰もいない。
 アリアはやんわりとした笑顔――のように見えて、よく見ると他人を嘲笑っているシニカルな笑みで言う。
「おはよう遊弥。今日会うのは初めてね。相変わらず貧相な顔だわ」
 ほっとけ。だいたい僕の顔が貧相なのは度重なる不幸のせいだ。
「何しに来たの?」
 本当に不思議とでもいうように、アリアは小首をかしげた。さらさらとした赤色の髪が肌理細やかな肌をすべる。大きな瞳がぱちぱちと瞬きしながら僕を見ていた。
「お祭。一緒に回ろうと思って」
 するとアリアは怪訝な顔をして、
「……お金ならないわよ?」
「僕は女の子にたかるような男じゃないっ!」
「そうね……遊弥はどちらかというと、たからずとも奢られるタイプかしら。嫌な男ね」
 否定できなかった。メイドのバイトでちゃっかり十数枚もタダ券貰っちゃったし。
「残念だけど遠慮するわ。こんなに人が多い中、はぐれてしまったら怖いもの」
 アリアは、細腕で身を抱くようにしてそう言った。
 ――人間嫌いというよりは対人恐怖症。傲慢で高圧的な物言いは、誰も彼をも近づけまいとする防衛線で。
 いつも毒を撒き散らすアリアは、時折こうして震えることがある。張り詰めている気が解けかかっているのか、僕だから油断してくれているのか、それは僕の与り知らぬことだ。しかし、稀に見る儚い彼女は、あまりにも――。
 だからなのか。僕は次の瞬間、とても恥ずかしいことを言ってしまっていた。
「じゃあ、手を繋ごうよ」



「おいしいわね、この着色料と甘味料を初めとする食品添加物の塊」
「素直にりんごアメって言えよ」
「嫌よ。なんだかとっても負けた気分になってしまうもの」
「お前ってプライド高いのな」
「自尊心の低い人間なんて狗以下だわ。自己も確立できない人間に何かができるというの?」
 知らねえよ……。
 数十種類にも及ぶ出店がキャンパスの道なりにずらずらと並んでいる。出店からは芳しい香りが漂い、それに導かれるかのように人は集まり列をつくる。雪崩のような人の量。僕等はその中を掻き分けるようにして歩く。幸いキャンパスが無駄に広すぎることもあって、満員電車のような状況ではないのが救いだ。
 僕の左手に絡まる小さな右手は、とても冷たい。
 ちらりとアリアを見る。最初こそ怯え気味だった(本人は認めないけど)ものの、今となってはいつも通りの大胆不敵な彼女に元通りだった。アリアは細い人差し指でいずこかを差して、
「遊弥、遊弥。あれをやってもいいかしら?」
「ん……射的? いいけど、アリアってあんなのできるの?」
「む。失礼ね、見てなさい」
 僕がお金を払うと、早速アリアは樹脂材で出来た簡単なライフルにコルク栓を詰めだした。何でも器用にこなす彼女だ。さっと弾丸を込め終え、一端の狩人といった様子で狙いを定める。
「物理現象はその殆どが計算で結果をはじき出せるの。この射的も同じ。この場に存在する全ての数字を操ることができる私なら、この弾丸をあのキャラメルにぶち当てることが出来るのよっ」
 引き金を引いた。すこん。コルク栓はあらぬ方向へ飛んでいった。
「…………」
「…………」
 アリアは三秒硬直した後、ライフルを放り投げ、やれやれといった様子でかぶりを振って、
「バタフライ効果はいつまでたっても私の敵ね」
「お前って実は馬鹿だろ」
「失礼ね。プライドを傷つけられたわ」
「じゃあもっと傷つけてやる」
 僕はお金を払いライフルを手に取り、片手でコルクを生め、引き金を引いてキャラメルの箱を撃墜した。
 何故かニヤニヤと笑みを浮かべる大学生っぽいお姉さんに戦利品を貰い、そのままそれをアリアに突きつける。
「はい」
「……ふん。アンタの施しなんて受けないわよ」
 そっぽを向いてそう言いながらも、キャラメルを掠め取るアリア。
「お前はツンデレかよ」
「違うわよ。それにツンデレって、よくよく考えてみればただの嫌な女じゃない」
「うん。遠まわしにバカにしたつもりだったんだけど」
「ツン」
「ぎゃあっ! りんごアメの串で目玉一突きするのはツンってレベルじゃねーぞ!!」
 ぐさりとかぶすりとか、そんな感じだ!
「射的なんて荒々しいことは私に向かないのよきっとそうだわ。次に行きましょう」
 そう言うと、僕の手をさっと掴んで早足気味に歩き出した。半ば引き摺られる僕。背中に「がんばってね!」という大学生っぽいお姉さんの声がかかったけど、何を頑張れというのだろう。アリアの扱いだろうか。確かにこれは頑張らないといけないかもしれないけど。
「……なあアリア。今日、キャラおかしくないか?」
 なんというか、いつもより活発な気がする。アリアといえば常に冷静でかつ何もかも知っていますといったすまし顔で僕を見詰めるクールなキャラなはずなのに、何か今日は――普通の女の子みたいだった。いやまあ普通の女の子は串で目潰しなんかしないけど。
 しかしアリアは振り向かず、ずんずん歩きながらしれっと言う。
「そうかしら?」
「そうだよ」
「そんなことないわ」
「そうだって」
「じゃあ、きっと浮かれているのよ」
 僕は息を呑み、躓いてこけそうになった。それぐらい衝撃だった。
 こける寸前の不自然な格好の僕を引き摺るアリアの顔は見えない。どんな表情を浮かべているのか気になったけど、回り込んだりしたら今度は両目を潰されそうな気がしたので、やめておいた。
 まあ、なんだ。
 楽しんでくれてるんならそれでいいや――。



 その後。クルルと瞑亜ちゃんに遭遇して冷やかされたり何故か半泣きだったり、黄太郎が現れたので殴り飛ばし、派手なパフォーマンスの後夜祭と長々とした閉会式を経て、葦原学園夏季学園祭・神凪祭は終了した。
 そんなわけで一日は終わり、風呂から出た僕はリビングのソファーに寝っ転がってテレビを見ている。
「マスターの精神的緊張の弛緩しているように思われます。――楽しかったのですか?」
「うん。昨日は変な乱入者がいたけど、今日はずっと馬鹿やってたからね。ま、いつも通りだよ」
「それは幸いだと判断します」
 そう言うアルビノは、暇を持て余したのか掃除機で掃除を始めだした。やることがなくなると直ぐに掃除を始めるのは彼女のクセ――否、M.A.I.D.のクセらしい。この家には最新の空調と循環機関があるから、そうこまめに掃除をする必要はないんだけど、やっぱりそこは譲れないものなのだろう。僕だって、アルビノがのんびりとテレビを見る姿なんて想像できないし。
 しかし、ここまで至れり尽くせりだと、ほんとに怠け者になってしまいそうだ……。
「アルがいればお嫁さんはいらないかもね」
「嫁――無休無給の半永久的家政婦は、確かにM.A.I.D.がいれば必要ないかと。いえむしろ紙切れ一枚で契約を破棄できる嫁よりは、M.A.I.D.の方が堅実かつ忠誠です」
 ふんっと胸を張るアルビノ。なんか意地張っていた。
 今朝の様子といい、最近何故かアルビノのこういった様子に遭遇することが多い。初めてであった頃は平坦だった彼女は、しかし今となっては何かと律儀なわからずやの女の子みたいである。
 時間とともにあらゆる物事は変化する。僕も、アルビノも、アリアも、瞑亜ちゃんも。クルルと黄太郎は相変わらずだけど、それでも何も変わってないことなんてない。変わらないことなんてない。
 しかし僕はこう思う。この平穏な日常だけはずっと続いて欲しいと。
 未知の体験は貴重だけど、それこそ未知ゆえに危険もある。それなら僕は既知だけど楽しい日常を選びたい。
 いつも通りの日常。
 願わくば、このままずっと続いて欲しい――。
「じゃあ、僕はそろそろ寝ようかな」
「おやすみなさいませ、マスター」
 アルの言葉を背に受けて、僕はシワ一つないベッドに倒れこんだ。
 おやすみなさい。



 箱から飛び出した二人は、ずっとずっと笑っていました。楽しいときも、つらいときも。
 だけど、ある日。
 女の子は笑わなくなりました。
 その次の日。
 女の子は喋らなくなりました。
 また次の日。
 女の子は動かなくなりました。
 男の子は困りました。どうしようどうしようどうしよう――。
 そうこうしているうちに、たくさんのおとながやってきて、女の子を連れ去りました。
 男の子はたくさんのおとなに怒られました。
 だけどお父さんとお母さんは怒りませんでした。
 そして次の日。
 男の子はお父さんとお母さんと一緒に箱の中に入りました。
 謝るためです。なのに、お父さんとお母さんはおとなたちと言い争っていました。
 男の子は女の子に会いに行きました。いつもの部屋に。
 しかし、もう男の子が大好きだった女の子はいませんでした。
 そう。
 女の子は死んでしまったのです。
 男の子が、女の子を、殺してしまったのでした。




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