葦原学園高等学校1−Aには、未だ一度も来たことがない生徒がいるという――。
「ゆーやクンゆーやくんゆーやくーんっ!」 「んー」 「あのねあのねっ、さっきの見た!? 花火研の暴発事故むしろ事件――あ、次って銀八の授業じゃん! 神凪祭に公開予定の自主作成ドラマ、三年B組VS銀八先生は期待大だよね!」 戦うのかよ。 「……う」 ツッコミを口に出そうとすると、アレが来て口をつぐんでしまった。 「どしたの? よく見れば顔色悪いよ? でも可愛いよっ!」 「……頭、痛い」 頭痛。ズキズキと、キリキリと痛むような、人なら一度は体験するであろう痛み。それが今まさに、僕に起こっていたのであった。この程度の痛みは我慢できないこともないが、やっぱり大事は取っておくべきだろう。サボリたいわけじゃないし、この早口地獄から抜け出したいわけじゃないぞ、たぶん。 やっぱ長湯が原因なのだろうか。僕の入浴時間が、以前より二倍(当社比)に増しているのだ。それが何故かと問われれば、アルビノの奉仕(誤解するな。背中を流してもらってるだけ)がちと丹念すぎるのと、アルビノを眺めながらぼーっとしている時間が長いわけで。いや、だってさ、それは青少年として正しいと思うよ? 「うわーこりゃ保健室直行だね、魅惑の授業だね、そんなのクルル許さないからねっ!」 とりあえずぴーちくうるさいクルルを無視して、そのまま教室を出る。一階に降りてすぐの場所に保健室はあったような気がする。まさかこんなに早くお世話になるとは思わなかったが。 携帯を手に取ろうとするが、止めた。アルビノにわざわざ迎えに来てもらうのもカッコ悪いし、頭痛くらいなら寝てたら治ると思う。とりあえずベッドを貸してもらおう。 廊下は授業中なので誰もいなく、時たまグラウンドの方から笛の音が聞こえる程度だ。屋上でサボっている時に似ているな、と思うながら痛みでふらつく足に鞭打って、そう遠くはない保健室へ向けてのろのろと歩く。階段をやっとのことで下りきり、この角を曲がれば保健室――というところで、 「――ヤ、バ」 くらっときた。思わず、倒れこむ。マズイ。 しかも角の向こう側には誰か居て、 「きゃっ!」 ぶつかってしまった。女の子。僕の方が、重い。だから、倒れる。下敷きに、するように。悪い、ごめん。痛い。 「っだ、大丈夫……?」 さっきのがピークだったのか、多少弱まった痛みを無視して慌てて起き上がる。僕は女の子に覆いかぶさるように倒れこんでしまっていた。否、なんとか最後の接触は堪えることが出来たので、どこも触ったりはしてない。本当だぞ? もしかしたら後頭部打って気絶してるかもしれない。意識があるか確かめるために彼女の肩を持って、 「……は?」 気づいた。彼女の後頭部から、液体がだくだく流れ出ていることを。色は、赤黒。つまり、それは、 「こ、こここここここ殺した、死んだー!? 救急車あああああああああああああああ!!!」 彼女―― ……ってか、そんな簡単な説明で済ましていいものなのか。あの出血量はハンパなかったぞ。 そんなビックリ体験のおかげか、頭痛は意識なしでガマンできるぐらいまで収まってくれていた。でも大事をとって一応寝る。あ、このベッドふかふかだー。屋上、寝っ転がると硬くて痛いからなぁ。 「……ん、ぁ」 と、田村さんが瞼を薄らと開いた。……初対面の人を、下の名前で呼んだりしない礼儀正しい僕。 彼女はゆっくりと上半身を起こして、こちらを見た。ちなみに僕は包帯ぐるぐるの田村さんの頭の具合を興味本位で見るために、彼女のベッドに腰掛けていたわけで。 田村さんは、じわりと涙を浮かせた瞳で、 「え、ええと……私、お、犯されちゃうの……かな」 「第一印象最悪だー!!」 「……私は……そういう経験は全くなんだけど……」 「なんかノリノリだー!!」 「あうぅ……」 僕の魂の叫びに怯えたのか、田村さんは身体を縮こまらせて顔の半分をシーツに埋めてしまった。ごめん、でも叫ばずにはいられなかったんだよ。 とりあえず彼女のベッドから腰を上げ、僕が使用するべき隣のベッドへと腰掛ける。 「……えっと、僕は1−Aの藍原遊弥。さっき田村さんにぶつかっちゃったんだ。ごめんっ」 頭を下げて素直に謝った。どんな原因・結果であれ、女の子を押し倒した僕が悪い。 「か、顔を上げてよぅ〜。あれは私が悪かったの、私の身体が弱いから……」 何故か田村さんはぺこぺこ頭を下げる。 「うーん、それでも女の子に怪我をさせたのは僕の責任だから。田村さんは謝ることないよ」 「あぅ……で、でも……」 しかし田村さんは違う意味で納得してないようだ。穏やかな雰囲気は感じていたものの、予想以上に優しい女の子だった。だが、こういう場合はちょっと困る。両方が謝り続けてしまうからだ。 「じゃ、こうしよう。藍原遊弥の不注意と、田村瞑亜の不注意。どっちもどっちで 「……そうだね。おあいこだよ」 それで納得したのか、田村さんは恐縮の表情から安堵の表情へと変わる。うん、そっちの方が可愛い。 「それで、田村さん……」 「あ、私のことは瞑亜でかまわないよ。ほら、田村ってありふれた苗字だし〜」 田村さん――瞑亜ちゃんは、そうですかと首を傾げる。穏やかな雰囲気だけでなく、間延びした口調が更に彼女のぼけぼけのんびり加減に拍車をかけているような気がする。 とりあえずこっちも遊弥でいいと伝えておいて、 「じゃ、瞑亜ちゃん。瞑亜ちゃんって……何で休んでたの?」 いきなり失礼だとは思ったが、僕の知的好奇心がうずうずして仕方がなかったのだ。 田村瞑亜。珍しい名前(何故か僕の身近には沢山いるが)をしているクラスメイトを忘れるわけがない。1−Aに存在する、入学式から一度も姿を現さない生徒――その生徒は、何を隠そうこの瞑亜ちゃんなのだった。 担任の峰先生が毎日欠席を伝えていたのを思い出す。 「えっと、私は身体が弱いから……あぅ」 「うん、そうっぽいね」 一連の流れから大体想像はしていたが、見事大当たりのようだった。 「入学式に行く途中で車に撥ねられてちゃって、昨日まで入院していたの……」 なかなか痛々しいディープな話だった。大丈夫なのか、この子。 「……そりゃ、災難だったね」 「うん、入院先でも色々あって……階段から転げ落ちちゃったの。三階から一階まで」 「って大丈夫なの!?」 「た、たぶん。頭の後ろをちょっと切っちゃったんだけどね」 と言って瞑亜ちゃんは自分の後頭部をさする。もしかするとさっきの出血はその傷が開いたからなのかもしれない。頑丈なのか惰弱なのかよく分からないなぁ。 「で、でもだいじょぶだよっ。私、元気だから!」 「うん……」 元気なのは分かるが、ものすごく危なっかしい。 「――っと」 グラリ、と。まためまいが起こった。次第に頭の痛みを増してくる。 「だいじょぶ……?」 「ほ、保健室で大丈夫なら意味が無いと思うけど……ごめん、僕寝るよ」 「そっか……ごめんね、つき合わせちゃって」 「謝る必要は無いよ、おやすみ」 「おやすみなさい……」 瞑亜ちゃんは、ふらつく僕をベッドに寝かせてくれた。ありがたい。 横になり瞼を閉じると幾分か楽になった。でもまだ頭痛は止んでくれない。隣で瞑亜ちゃんがベッドに入る音がした。そういや彼女もけが人だ。後頭部を怪我してる時って、やっぱり横向きに寝るんだろうな―― ごめんなさい。 ごめんなさい。ごめんなさい。 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。 謝罪の声が頭の中でリフレインする。木霊のように響く。 小石を水面へぶつけた時のように、ゆらゆらと波打つ。頭の中が、波打つ。 波は世界を浸し、満たしてゆく。 ごめんなさい。 ごめんなさい。ごめんなさい。 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。 もう、いいだろ。償えない罪なんて無いんだ。 罪を負う者は、償えるよう精一杯頑張って、いつか皆に赦されるくらい、がんばって。 そうすれば、罪なんてなくなるから。 ――それは、嘘だ。償えない罪だってある。 その罪は最低最悪で。 その罪は赦されるものではなく。 その生涯を終えるまで、業を背負って生きてゆけ。死ぬ時は、業に押しつぶされてから死ね。 それがお前の唯一の贖罪方法だ。 ――人殺しの、藍原遊弥。 「……っは」 目が覚めた。 頭痛もめまいも今は無いが、身体は汗ばみ呼吸は荒い。全力で走った後のような感覚。とても、疲れていた。 僕はさっきまで、何を夢見ていた――? 「……帰って早く寝るか」 気分は最悪だった。 ふと隣を見れば、ベッドには誰も寝ていなかった。まるで、全てが夢だったかのような。 いや、触れてみるとまだ温かみはある。何処かへ行ったのだろうか。かなり心配だったが、探し出す気力はない。携帯の時計を見れば、時刻は昼過ぎ。もうそろそろ昼食の時間ってところか。教室へ戻れば弁当もあるが、それは遠慮しておく。今の気分のまま何か食べたら、絶対戻してしまうから。 「屋上で時間潰すかな……」 アリアがいるかもしれないが、彼女はコーヒー片手に風を浴びているだけだろう。黄太郎と違って彼女は空気を読んで話しかけないでいてくれるだろうし。うん、やっぱ屋上だな。 乱れたシーツを綺麗に直しておいて、僕は保健室を後にした。 「……やっと帰れるー」 結局早退することなく最後までいる僕。気分の悪さは回復したし、頭痛も今はない。帰ってすぐに寝ればそれでいいだろう。僕は黄太郎と別れを済ませ、凱旋門へ向かってとぼとぼ歩いていた。 と、凱旋門に瞑亜ちゃんがいた。彼女は僕を見つけると、長髪を揺らしながらこちらにとことこ歩いてくる。うわ、危なっかし―― 「きゃっ……!」 「やっぱりー!」 全速力で滑り込み、瞑亜ちゃんを庇う僕。躓くはずのない滑らかな樹脂地面は、滑り込んだ僕を摩擦で焼いた。ものすごく熱くて痛い。だが、それ以上に、 「あうぅ……ごめんなさい〜」 瞑亜ちゃんの豊満な二つの肉(なんか卑猥だなぁ)が、僕の背中を圧迫していた。 説明しよう。前に倒れる瞑亜ちゃんを支えようと僕は滑り込んだが、勢い余って転びその上に瞑亜ちゃんが倒れこんだのであった。以上、説明終わり。 ……うーんアルビノの以上かなぁ。別にアルビノの方は接触したことないけど。にしても……ふぅむ。クルルは並だし、アリアはストレートぺったんだし――って、何故か殺意を感じた。慌てて周りを見回す。すると、主に男子諸君がこの僕に熱い視線を送っていた。彼らの声が、その視線に乗って何故か脳へと流れ込んでくる。 『またか、またお前か藍原遊弥ぁ!』 『孤高の天才・アリア=アルケティプスちゃんと、一年のアイドル・早乙女躯瑠々ちゃん、そして噂のメイドちゃん! それだけでも飽き足らず、保健室の眠れる美少女・田村瞑亜ちゃんまでぇぇぇ!!』 『えー、今から弓道部一年男子の狙撃演習を行いまーす。はい、狙って――大当たり! 大当たり!』 「ひ、ひぃぃぃぃぃ……!!!」 なんとか瞑亜ちゃんのボディ・プレスから抜け出して、飛んでくる矢を転げまわることで回避する。嗚呼、女の子の視線が痛いぃ。ってうわ、クルルが写真撮ってる! 「に、逃げるよ瞑亜ちゃん!」 「はぅ……へ、きゃわぁ!!」 未だ倒れたままだった瞑亜ちゃんの腕を取り、全力で学校を脱出する。 「逃げるぞ、追え! ミリタリ同好会に協力要請、武器の準備だ! 放送部は通信担当!」 「葦原高校一年男子連邦軍――今日こそヤツを仕留めるぞぉぉぉぉぉ!!!」 「うわぁぁああああああ!!!」 「ぜ、ぜぇぜぇ……はぁはぁ」 路地裏に隠れ、ようやく自分の脚にストップをかける。学園区を出てからは流石に追っ手は来なくなった。部活動があるからだろう。にしても、あの学園の男はあんなのばっかなのだろうか。いや、学園自体がイカれてるんだ。 「はぅ……ん、っは……」 と、瞑亜ちゃんの荒い吐息が僕の頬を撫でた。 「って、ごめん! 身体弱いんだっけ!」 彼女は虚弱体質らしいのを思い出す。なのに全力疾走につき合わせてしまった。 「ごめん、なさい……でも、だいじょぶ……だよ……」 「いや、全然大丈夫そうじゃないから」 瞑亜ちゃんの顔は真っ赤で、心なしかふらふらしているようにも思える。 「……ごめんね、私のせいで」 「え? いや瞑亜ちゃんのせいじゃないよ」 頭のイカれた男子生徒が悪いのだ。いや本当に。 「と、とりあえずどっかで休もっか。……そうだな、静かで横になれる場所」 何故か瞑亜ちゃんがズッコケて壁に額を打ち据えた。 「いた……あの、それって……あうぅ」 「あ」 今更ながら僕が大変な発言をしたことに気づく。 「いや、このあたりにはそんな場所ないから、たぶん!」 どんな場所かはご想像にお任せします。 「そうだな……うん、仕方ない」 あそこには行きたくなかったんだが、この辺りで僕の知っている静かな場所といえばあそこぐらいか。 僕は瞑亜ちゃんの手を引いて、商業区のアーケードを抜ける。 微かな香ばしい香り。一歩踏み込めばそこにはシックな店内が広がっているのだが、しかし、 「いらっしゃいま――やっほぉ、遊弥かよ。はよ帰れ!」 余計な店員が一名、いるのだった。 「テメェ、客に向かってそういうこと言うんだ」 「客ぅ? 俺とお前の仲はそんなんじゃないだろぅ? なぁ、心の友の書いて心友」 「そうだね、死ン友」 「……心なしか発音が変な気がするのだがこれいかに」 「お前の頭がイカれてるんだよ、黄太郎」 アーケードの一角、そこにこの喫茶店はある。ヤギの実――それが店の名前だ。 「うん、ここなら静かだ。客居ないし」 「はよ帰れ」 「あっそ。何か注文しようと思ってたのに」 「ご注文の方お決まりでしょうかお客様」 こいつ、変わり身速いな。 ヤギの実は黄太郎の実家である。以前は彼の両親が経営していて、その時は人気の喫茶店として有名だったのだが、そのご両親が突然旅行へ。稼いだ金が尽きるまで当分帰ってこない(ちなみに二年目。どっかに住み着いてるんじゃないかってのが有力)のだという。残された黄太郎は一人で店を切り盛りすることになるのだが、以下省略。 「お、俺の血と汗と涙と白濁の人生を省略するな!」 無視した。 「とりあえず瞑亜ちゃん、局地的にうるさいけど全体的に見れば静かだから」 「うん……」 「とりあえずコーヒー二つ。インスタントだったらぶっ飛ばすよ」 「てめ、曲がりながりにもここ店だぞ!?」 「いやお前の店は曲がってないよ。一本筋通ってるさ。方向はアレだけど」 「流石俺!」 「はよコーヒー」 めそめそ言いながら店の奥に消える黄太郎を無視しておいて、僕らは座った。瞑亜ちゃんもさっきのやり取りの時間でだいぶ落ち着いたのか、顔色もよくなっている。 「……さて」 とりあえず座って身を落ち着かせる。しばらくして、十分落ち着いたところで、 「で、さっき僕に用事があったんだよね?」 一年男子連邦軍に追いかけられる前に、瞑亜ちゃんはこちらへ駆け寄ってきたはずだ。そう言うと彼女は何故か顔を真っ赤にしながら、 「あの……朝のお詫びをしたいの……」 「お詫び? 僕何かされたっけ。とゆか、お詫びをするのは僕のほうじゃ……」 ぶつかったのは僕のほうだ。それに、謝りっこで半分半分になったはずだ。 「いえ、その……とっ、とにかくお時間空いてますかっ」 しかし、いつになく(知り合ったばかりだけど)積極的な瞑亜ちゃんだった。その彼女の好意を無駄にするわけにはいかないし、ここは頷くべきだろう。実際、僕も暇なわけだし。 「うん、空いてるよ」 「よかった〜」 それで力尽きたのか、へろへろと瞑亜ちゃんはテーブルに倒れこむ。このまま溶けそうな勢いだ。 「って、これから出かけるんでしょ。この程度でくたばっちゃだめだよ」 「そ、そうだねっ」 「んじゃ善は急げ。行こうか、瞑亜ちゃん」 「で、でもコーヒーが……」 「いや、まだ来てないし大丈夫だよ」 「で、でも――きゃうっ!」 問答無用で彼女を引っ張って店を出た。黄太郎? 知らない知らない。 頬を撫でる、柔らかな風。 とりあえず僕達は自然区へと足を運んだ。黄太郎などが相手なら商業区の繁華街でも良かったのだが、瞑亜ちゃんが人ごみ苦手ということで、のんびり出来る公園を求めた。 春の青草の海へ、寝っ転がる。 「あー、久しぶりだなぁココ」 ガーデンの一割にも満たない自然公園は、しかし失われてしまった貴重な『自然』を体験できるのだ。春には桜、夏には昆虫、秋には紅葉、冬には雪遊び。ガーデン内は降雨機能を使用しないが、ここは違うのだ。四季にあわせて環境を変化させ、様々な草木を自然な形で育てる。ほんの少し前まではここも花見で賑わっていた。 「そうなの? 私はココ、大好きだよ」 隣には瞑亜ちゃん。ハンカチ敷き、その上に腰を下ろしている。黒髪がそよ風で、揺れる。 山頂に位置するここは、ガーデン内を一望することができる。といっても広大すぎて、果ては見えないけれど。 「しっかし、昇降機使わずに山頂までとは……明日筋肉痛かなぁ」 「運動不足だね。私は全然平気だよ?」 丈夫なのか惰弱なのか、本気でよく判らない。 「時々来るんだよ」 「……え?」 ぼおっとしていて、マヌケな声を出してしまった。どうもこういう場所にいると、和んでしまう。 瞑亜ちゃんはくすくす笑いながら、 「嬉しい時や悲しい時……よかったことがあったり悪かったことがあったりしたら、ココに来るの」 視線は遙か遠く。ツクリモノの空を見つめている。 「いいことでも悪いことでも、風は等しく吹き抜けるから……浮かれないで、落ち込まないで、頑張ろうって思うの」 それは。 良善も害悪も、皆同じだということだろうか。 ……いや、違うか。そうじゃない。いいことがあったらそれに溺れないように、悪いことがあったのならそれを改善するように、自分を戒めているのだろう。それはとても難しいことだと思う。 「強いね」 「え?」 まのぬけた声だ。今度は瞑亜ちゃんがぼーっとしていたようだった。 僕はくすくす笑いながら、 「どうしても僕は嬉しいことがあったら調子に乗って、嫌なことがあったら落ち込んでしまうからなぁ……」 皆そんなものだろう。 まぁでも考え方は人それぞれなわけで。 「……あ、ボートなんてのもあったっけ」 しんみりした空気はどうも苦手だ。騒いでないと――というわけじゃないけど、何かしらしていないと落ち着かない。この点は瞑亜ちゃんと相反するところだろうか。 その瞑亜ちゃんは少し困惑した表情で、 「う、うん。あるけど……」 「乗ろっか」 ぎぃこぎぃこ。 「……重」 「が、がんばって!」 「うー。こりゃ筋トレでもした方がいいかなぁ」 軟弱な細腕に渇を入れる。 この湖は、山を降りたところにある。自力で降りた僕達は、その湖にボードを浮かべていた。一度やってみたかったんだよね、こういうラブコメめいたシチュエーション。 が、しかし。意外と現実ってキビシー。弱体化する人類の最先端にいる若者には、ボートを漕ぐのはちと辛かった。いや、体力はそこそこあるんだけどなぁ。うー、腕が重い。 「代わろうか……?」 「いや、それは駄目」 男として情けない。それにこれで瞑亜ちゃんがぎこぎこ余裕で漕ぎ出したら、僕は泣いてしまうかもしれない。 泣いてなんかないやい。 「よっ、ふっ、そいやっ」 必死でぎこぎこ。他の客人はいないので、少し速度を出してみる。 「風が気持ちいいね……」 「そうだ、ねっ」 ね、で力を入れて加速した。ボートは僕からして後ろへ進む。なので時折瞑亜ちゃんの指示を受けターンをキメながら、すいすいと遊覧する。 「うわっ!」 「あ、ごめんなさいっ! ぼーっとしてて……」 「いや、大丈夫」 岸に激突したりもしたけど。 湖すいすい。 「……むむぅ」 「どうしたの?」 「い、いやなんでもないよ……あはは」 僕と瞑亜ちゃんは向かい合わせになっているわけで。後ろへ加速すれば当然風は後ろから。瞑亜ちゃんからすれば前から来るわけで、つまりその――スカートが気になる。瞑亜ちゃんが自然な姿勢で座席に座り、膝に手を置いているせいで、時折ふわりと短いスカートが浮かんでも手に遮られて見えない。横に、こう、ターンをキメても、上手くいかない。ふっ、よっ、はっ。 「……顔が、ちょっと怖いよぅ?」 「あ、ごめん」 止めよう。この青少年の青い楽しみは、自爆を招きかねない。 「……っと、さすがに疲れたかな」 「そうだね……もう、日も落ちるね」 少し汗もかいていた。とりあえず貸しボートのとこまで漕ぐ。最後の遊覧。 その間、瞑亜ちゃんは無言だった。 「ふぅ……」 ボートから腰を上げる。降りると自動操縦で倉庫へと戻るらしい。手漕ぎボートじゃねぇのかよ。 「はい、瞑亜ちゃん先どうぞ」 「あ、ありがと」 「レディー・ファーストだからね」 瞑亜ちゃんは苦笑して、ボートから降りようとする。 って、しまった。そんな降り方したら―― 「――――!!」 「きゃ……!」 どっぼーん。 「……は、ははは」 「ごめんねっ! ほんとにごめんねっ!!」 一人浸水した僕。 バランスの崩れたボートが転覆しそうになり、とりあえず僕は瞑亜ちゃんを突き飛ばして船から脱出。湖に飛び込む形になったけど、僕という重りを失ったボートはひっくり返らずにすんだ。そして瞑亜ちゃんもちょっとコケただけ。 まぁ、結果オーライ? でも瞑亜ちゃんは必死の表情で謝っている。 「い、いいってば。二人とも沈まないでよかったじゃん」 「でも……」 納得できないのか、もにょもにょと口ごもる。 「やっぱり、私の所為で……」 「いや、僕が勝手にしたことだから」 そうだ。僕は自分で飛び込んだのだから。 しかし瞑亜ちゃんは首を振り、 「違うの……」 消え入りそうな声のまま、 「その……私といると不幸になるから……」 涙の溜まった目で、彼女はそう言った。 夕焼けの光を反射しながら、ぽろりと落ちる。 「駄目なの……私、いつも皆に迷惑かけて」 また一粒、一粒。 僕の目の前で、彼女の笑顔は剥がれ落ちてゆく。楽しかった放課後は、とうの昔の幻想で。 「やっぱり、私といると不幸に――」 「ねぇ」 遮るように。それ以上は、言わせない。言わせるものか。 「――今日、楽しかった?」 「え……」 驚きに目を見開いている。その拍子にまたぽろり――と落ちそうだった雫を、 「ひゃっ!」 指で救い上げた。そのまま口に含む。ちとしょっぱい。 「あ、あの……」 「もしかして、つまらなかった?」 すると顔を真っ赤にした瞑亜ちゃんが、両手をばたばた振りながら、 「ううん……その、楽しかった」 「どのくらい?」 「ええっ? ……す、すっごく楽しかった」 「だよね。僕も楽しかった」 なのに、 「最後の最後でそんなこと言うなんて、酷いよ」 悲しかった。心のそこから悲しかった。 僕も久しぶりに女の子と遊べて、浮かれて、嬉しかったというのに。はしゃいでいたというのに。 「確かに今日、初めて会ったときは正面衝突――不幸な事故だった」 思い出す。朦朧とした意識で衝突し、漫画じみた量の血液をだらだら流す瞑亜ちゃん。正直ビビった。そして保健室で、これまた漫画じみたタイミングで目の醒める瞑亜ちゃん。犯されるだなんて、そんなに僕の顔は怖いのだろうか。そこは議論の余地があると思う。 「男子生徒に追いかけられたし、服も濡れちゃったよ。それは、不幸な出来事だね」 正直かなり疲れた。身体も寒い。 でも、 「それがどうかした?」 今日起こったあらゆる災難あらゆる不幸よりも。なによりもなによりも、 「――僕は瞑亜ちゃんと友達になれてよかったと思ってる」 それが本当に嬉しかった。 そりゃ当然だ。一年男子連邦軍に目をつけられるほどの美少女なのだから。 つやつやの黒髪に、白磁の細腕に、いつも少し涙を浮かべている瞳に、きゅっと結ばれた唇に、ふくよかな胸。 こちらをいつも気遣ってくれる性格、少し間延びした口調、すぐに謝ってしまうクセ。 田村瞑亜。 アリアやクルルとはまた違った魅力を持つ女の子。 「不幸? オーケー。大いに不幸だよ、君は」 話を聞いて、実体験として、彼女はたびたび災難に出会うことがよく分かった。 それでも、 「幸福であるからといって、幸せだとは限らない。不幸だって、幸せになれるかもしれない」 たとえどんな過去があったって、どんなハンディがあったって、幸せになれないはずがない。 自らのぞんで、努力して、手を伸ばせば、幸せにはなれると信じている。 そうじゃなきゃ――悲しい。悲しい世界だ。 だから僕は信じてる。夢も、希望も、ありとあらゆる幸福も、 「だったら答えは 手に入れられないことなんて、ないと。 そう、信じることにしたのだ。約束した。 あの日、かつて――僕が殺してしまった、少女と。 「私は……私は……」 言いよどむ瞑亜ちゃん。一方的に価値観を押し付けられて、困っているのだろう。僕の考えだって、間違っている所もあるかもしれない。でも僕の考えはこうなんだって、瞑亜ちゃんに伝えたかった。同意しないのならばそれいでいい。別に価値観を共有したいわけじゃない。 「もう一度聞くよ」 僕の誓いが、少しでも彼女の助けとなるならば、それは幸いなことだから。 「楽しかった?」 最後の問いかけ。 瞑亜ちゃんはどう答えるだろうか。 たとえこちらの願う答えじゃなかったとしても、それを邪魔しようとは思わない。彼女の考えなのだ。僕の約束を、この世全ての存在が邪魔できないように、また彼女の考えも遮ることは出来ない。 瞑亜ちゃん。君はどう思ってるの? 「……私は、今日、すっごく楽しかった」 気持ちを確認するように。一言ひとことをしっかりと噛み締めるように。 「私は確かに不幸かもしれない。すぐに事故あうし、身体弱いし、すっごく不幸だと思う」 深い吐息。 夕焼けが目に染みる。 「でも、不幸でも……」 瞑亜ちゃんは顔を上げ、こちらを真摯に見つめてきた。真剣だった。腫れた目に涙はもうない。 「私は――」 すう、と息を吸い、 「――遊弥君と友達になれて、幸せだよっ!!」 思いっきり叫んだ。 もにょもにょと話すいつもの彼女からは想像も出来ない叫びだった。 僕も心底ビックリし、 「うん。ありがとう、瞑亜ちゃん」 「……こちらこそ、ありがとうっ」 心からのお礼。今日は色々な事があったけれど、そのどれもこれもが楽しかった。 困難、苦労、苦痛、涙……でもそれらは、全てが終わった後に振り返ってみると、良いものだったと思える。 頑張りが僕達の土台となって、次のステップへと進めてくれる。 多少の壁があったって、ヘコんだりしない。そこで止まってしまえば、そこで終わりだ。 僕だってそう。この先何があるかわからない。 でも、 「もう……泣き虫だなぁ」 負けちゃあいけないと思う。誰もが経験する苦い思い出。誰もが経験する辛い思い出。 「あ、あれ……?」 なにより僕達は、そんな道の真っ最中なのだから。 「ごめんなさっ……」 瞑亜ちゃんは、再度溢れてくる涙を堪えきれず、顔を伏せてしまう。 「さ……帰ろうか」 今日は本当によい一日だった。 薄れ掛けていた誓いを、再度確認させてくれた。 「うん、帰ろう」 「送っていこうか?」 「ううん、だいじょぶだよ」 涙は収まったのか、くしくしを眼を擦りながら言う。そのままくるりとターン。帰り道は逆らしい。 その拍子に、綺麗な黒髪が宙を舞った。朱の背景に黒線が描かれる。幻想的だった。 初めて出会ったクラスメイト。 明日、彼女は学校に居るだろうか。いや、もちろんいる。彼女は幻想じゃあない。ここにいるんだから。 「そっか。じゃ、また明日だね」 「うんっ!」 少し目の腫れた笑顔で。こちらも大満足の笑顔で。 「ばいばい――」 僕達は別れた。 また明日。いつもの日常に、互いの顔を思い浮かべながら。 翌朝、 「40℃。風邪だと判断できます、マスター」 「……面目ない」 僕は欠席した。うぼぁ。
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