輝く摩天楼を眼下に収めることの出来る窓がある。 その大きな窓を背に一人の女性が座り、その前には二人の男女がいた。 ここは日陰市の中でも高い部類に入る七十階建てビルの最上階に位置する場所であり、部屋の入り口には金のプレートに社長室と刻まれていた。 白一色の壁に黒のソファーが二つと茶のデスク、部屋の両側にはアンティークの棚が幾つも並んでいた。 「トリノの 展示されているものの下には金のプレートで名前が掘られていたが、遠華はそれを見ずに言う。 身を深く沈める彼の横、不自然な程に背筋を伸ばした希望がいる。 彼女はこの部屋に入る際、展示してものに触りそうになったところを遠華が大まかな値段を言いつけるとずっとこの調子だ。一ヶ月ほど前は『金』という概念すら知らなかった事は、良き思い出として心にしまっておこうと思う。 とまぁ、冗談思考は止め前に向き直る。 視線の先にはスーツを着込んだ女性、この部屋の主でありこのビルの主だ。 名を 物腰穏やかで微笑を絶やさない美人の彼女に悪い感情は抱かない。 「……ええ。貿易をしていますと珍しい品物も出入りするようになりましてね? 折角だからと集め始めたのですが、 「あーいや、いいです」 彼女に語らせると色々と長くなりそうなので断わった。コレクターは厄介だ、と思いつつも話を進める。 「で、仕事の方は」 「……ああ、そうでしたね」 一息。 「あなた方に、あるゲームに出て欲しいのです」 「――ゲーム?」 遠華が目を細めて言う。それに九条は訂正として答えた。 「ああいえ、ゲームというと変ですね。…… 「つまり俺たちは優勝して、その賞品をアンタに渡せばいいってことか?」 「ご理解頂けて幸いです」 微笑で返ってくる。 彼女は二十代後半らしいが、もう少し若く見える。女学生と言っても通用するのではないのだろうか。 くだらないな、とそこで思考を打ち切り再度視線を前に向ける。 「……だがその優勝賞品はやはり貴重な物なんだろ? だったら俺達は依頼なんか受けなくても、勝手に優勝して誰かに売りつけた方が儲かるんじゃないか?」 九条の提示する金額はまだ分からないが、コレクターが部外者に頼むほど欲しているのならかなりの金額になるだろう。むしろこちらが九条に売りつけてもいいのだ。 しかし九条は微笑を止めず、懐から一つの紙切れを取り出した。 そこには『招待状』と書かれており、 「この招待状がなければ会場である『ノアの方舟』へは入場できません。……優勝賞品は招待された人物しか獲得できないのですよ。しかし条件は『出場者が身内外であるもの』ですから、便利屋であるアナタに頼んだのです」 「……ほぉ。そういうことか」 提示された紙切れを取り眺める。 茶に近いインクで滑らかな英字が綴られており、恐らく内容は先述べた事と同等だろう。表の右端にはチップらしきものが埋め込まれてあり、これで招待されたかを判断するのだろう。 と、最後の単語に目を止める。そこには名前があり、 「なぁ、これを送ってきたのは誰だ?」 「――エドワード博士です。書いたのは助手の方らしいですけど」 言った声に眉根を寄せる。 「エドワード……エドワード……どっかで聞いた事あるような」 悩む遠華にすかさず九条が備考を加えた。 「博士は有名な生物学者で考古学者です。以前一度お世話になっただけですが……」 「一度だけなのに招待状? おかしな話じゃねぇのか?」 「いえ、この招待状は数百人に送られているそうで……」 「日本限定で? 数百人ってことはそこそこの規模だろ」 「エドワード博士は日本を気に入っているらしいので、その辺りもあるんじゃないかと……」 流石の質問攻めに困り、九条はどうしたものかと頬を掻く。 「と、すまない。とにかく俺達はこのゲームに勝ち残ればいいんだな。……しっかし、明日とは急だな」 「いえ、招待状は一週間ほど前から届いていたのですが、依頼を受けてくれる人物を探していたのです。……強さが必須ですし、信頼に足る人物でなければいけませんので」 遠華はほお、と声を漏らす。 「俺みたいなチンケな便利屋が信頼に足る人物、だと?」 確かに仕事に対してそれなりの誇りと実力はある。しかし信用される覚えは無い。 だが九条はさらに微笑を作って声をかけた。 「アナタは実力もありますが、なにより仕事に忠実な事で有名ですよ。……それこそこちらが騙せば返り討ちに遭う程の」 「……は。そんなに有名か、俺が?」 「ええ。しかしアナタの情報が隠されてるのか、一週間もかかってしまいましたが」 それは愉喜笑のしてくれた事だ。姿を隠す為に所在やダミーを配置してもらっている。そのため遠華への依頼は殆どが愉喜笑経由である。仲介料取られるので損した気分にはなるが。 「そうか。で、目的の品と報酬は?」 明日という急な時間帯であるため、色々と準備もしなければならない。遠華は早々に話を終わらせる為、質問を一気に投げかけた。 「優勝賞品はエドワード博士が発見したという『聖者の 「聖杯ねぇ……」 「……あの、遠華さん。せーはいって何ですか?」 今まで口を開かなかった希望が声をかけてきた。依頼の内容ばかりで話題が無かったのだろう。彼女は頭上にハテナマークを浮かべながら問うてきた。 「聖杯ってのは西欧中世によく出てくる聖遺物の事だ」 「最後の晩餐でイエス・キリストが使用したとされていますし、十字架に掲げられたイエスの血を受けた器ともされています。アーサー王などの聖杯伝説で有名ですよ」 「…… セリフとは裏腹に落ち着いた様子で遠華は言う。 大抵こんなものは嘘っぱちに決まっているのだ。願いをかなえる奇跡の器など存在する筈が無いのだから。 そんな失礼な遠華に罵声を浴びせるでもなく、ゆっくりとした口調で九条が言った。 「確かに信憑性は薄いですが、レプリカだったとしても相当な価値はあります。……大丈夫ですよ。たとえ聖杯の存在が虚偽でも、報酬は全額前払いで返金無しでも結構ですから」 さらりとスゴイ発言をする。 それでヤル気になったのか、遠華は身を乗り出して言った。 「口外できないという条件、場所は明かされない。まともじゃないが……報酬は?」 そのセリフを待ってましたとでも言うように、九条は指を鳴らす。すると漫画のように黒服の大柄な男が扉から現れ、持ったアタッシュケースを、開いた。 「一千万で、どうでしょう」 卒倒しかけたのは、内緒だぞ。 「――ふぅん、そんなに怪しげなのに行くんだ」 天井からぶら下がる灯りに照らされた『Complete』店内に、四つの影があった。 一つは客席側のカウンターに頬杖をつく男、一つはその隣で安らかな寝息を立てる少女、一つはカウンター越しに話しかける少女だ。 「馬鹿だなぁ。そうやっていろんな事に首を突っ込む癖、やめなさいよ」 希望はいつの間にか寝てしまったようだ。時刻が深夜を回っているので当然といえば当然なのだが。 「まぁな。一千万ってのは魅力的だし……それに怪しいからこそコトハ達にも協力を頼みに来たんだぞ」 遠華が言う。それに言葉がため息をつきつつ、 「で? 協力はできると思う。だけど私達も潜入できるの? 話じゃ招待状ってがあるんでしょ?」 一通り全て話したので、入場に招待状が必要な事も知っている。 「ああ。だが人数制限は無いようだし、会場までは依頼人が連れてってくれるからな」 「そ。……でも、やっぱり気にかかる。報酬の高さはまぁいいとして、何か、こう……」 言いにくそうにもごもごと口を動かしていたが、途中で止めた。そのままこちらへ向き、 「……ま、大丈夫よね。ハルと私の居場所は、愉喜笑さんのお陰で三年経った今でも見つかっていないし。連中だってもうあきらめているわ」 さらりと言葉が過去を呟く。 三年前。愉喜笑と出会った『あの日』、身を隠す為に彼女は様々な手段を用いこちらを隠してくれた。しかし遠華はまだ彼女達に言っていない。 ――以前、溢流と出会った事を。 「……そうだな」 ばつが悪そうに答えるしかできなかった。 出発は明日、それまである程度の準備をして万全にしておかなければならない。 どちらにせよ腕に覚えのある連中も集まるのだろう。そこそこ楽しくなると思うが、 「ま、俺は俺のやりたい様にやる。酒飲み楽しみ、敵が出てきたなら引き金を……そういうこった」 強がりを言うが、嫌な予感としか判別できないもの、それが胸のあたりで蠢いていた。 深夜の星空と海原を見渡せる場所に彼はいた。 鉄の地面に足を乗せ、鉄の柵に体重をかける。足元にはギターケースのような箱がある。 身を乗り出すようにした姿は長身で、首から背へと流れる尻尾があった。その正体は軽く結ばれた鮮やかな銀の長髪だ。額に垂れる髪は潮風でそよそよと踊り、しかし男性である彼には鬱陶しくて仕方が無い。 「――ッチ」 髪をかきあげる。 そこには獣のようにギラついた双眸と整った顔立ちがあった。 狂犬じみたそれは危険極まりなさそうなイメージがするが、それ以上に彼から発せられる殺気は、常人ならば気が狂ってしまいそうな程。 と、彼は突然背後に声を投げかけた。 「出てこいよ、変態野郎」 「ふふ……」 呟いた声の先、月光の届かない暗闇にすっと一つの形が浮かび上がった。 それは人型で彼と同じ位の長身だった。顔には眼鏡があり、口元はにやにやとした笑みがある。 「テメェ……一体何の用だ研究室ヒキコモリ」 「ふふ、随分な言い草だな。私は確かにヒキコモっているが、それは研究の為だ」 「馬鹿か。だから研究室ヒキコモリっつったんだよ」 あからさまに嫌な顔をする。対する影より現れた人物は、体の半分を闇に生めたまま問いかけた。 「計画は順調かね?」 「あぁ? 各々自由に物事たくらむのに計画が必要ってか?」 即答する。 それなのにどうしてか、影は微笑を作った。そして声が発せられる。 「貴様も例外ではないだろう。しかし珍しいな、一匹狼の君とこうして酒の場に立てるとはね」 その問いに、彼は口を三日月に歪めて笑い、 「はっ、残念だが――」 同時に足元のギターケースの側面を踵で蹴った。 金属音が成り、そして箱の中から何かが跳び出してくる。 側面には一つのスイッチがあり、それを押すと中身の一部が跳び出す仕組みになっているのだ。 丁度手を伸ばした辺りに浮いているのは一丁の 「――俺は酒は飲めねぇからよ」 しかし撃鉄の引き起こされたその先に、居たはずの人影はもう無く彼は右手に持った凶器を持て余した。 「相変わらず、いけ好かねぇな―― 昼であるというのに太陽の隠れている空がある。 その下、白と灰の西洋ドレスに身を包んだ少女――しかし雰囲気から大人の女性とも見紛う程の――が立っていた。 ロリータやらなにやら言われるファッションというより派手さが無く、本当に中世絵画から抜け出してきたような気品を感じる。スカートの裾まで延びる金の長髪は、染めたものなどではなく美しく輝いていた。 白の日傘を差し、日光を完璧に遮るに至る装備をしているその左右、共に同じ灰色のスーツに身を包む人物が立っている。 右の男性は、白の混じる灰色の髪を後頭部の高い位置で縛っている。この男は外国人顔でそこそこの年齢だろう。しかし荒々しく着込んだスーツの隙間から見える筋肉はある程度隆起しておりたくましさを連想させる。瞳は一文字に細められているが、これは癖のようだ。 対する左、細い線に凛とした表情を持つのは、女性だ。背格好では男性とも見間違えるだろうが、彼女の胸は膨らんでいる。つまりは男装。彼女は黒髪を浅く肩口で切りそろえており、瞳は鋭い。 そして三人の前には――巨大な客船があった。 幾つも並ぶ窓、視界には納められない壁のような船体、見上げると首が痛くなるような高さの豪華客船だ。 それが停泊しているのは日陰市の港。不審船の行き来するこの場所には、白の少女も客船も不釣合いだった。 と、少女が隣の男装女性に声をかける。 「招待状……無理矢理強奪してよろしかったんですの、リズ……?」 リズと呼ばれた女性は、懐から一枚の便せんを取り出す。それをくるりと旋回させ、 「姫、我々は快くその招待状を譲り受けたのです。――それはもう快く」 「ええと…… 「――姫、快く譲っていただいたのです」 強調する。 ちなみに彼女らの背後、コンテナの影に隠された黒塗りのリムジンには、眠らされた富豪がSPと一緒に叩き込まれているのは三人だけの内緒である。 「がっはっは、諦めるんじゃ姫様。それにワシ達は手段を選ぶ時間は無かったじゃろぅ?」 隣の男性が、場を気にせず大声でいう。リズが彼の足を思い切り踏んづけ、耳打ちする。 「コゥル、黙れ。計画がバレてしまうではないか……!」 「おお、そうじゃったな。がっはっは――」 「――黙れ」 それきりコゥルと呼ばれた男性は黙る。 と、頃合を見てもう一度白の少女がおずおずと話しかけてきた。 「……い、行きますわよ? 船の中へ」 「と、すみません姫。さぁ、行きましょうか」 「……にしても大人数ですね」 黒に染められた部屋がある。向かい合うように座席が並べられ、内には小さなテーブルが備え付けられている。壁には小窓が取り付けられていて、フィルター越しに見えるのは高速で後ろに流れる景色だ。 「ああ。だがこんなに広い車なら大丈夫だろ?」 「ええ、もちろんです」 笑みを作る九条の左右に一つずつ、正面に二つの頭があった。 彼女の右、白のブラウスに丈の短い黒のキュロットスカートで、胸元には赤のリボンが結ばれている。いつものメイド服では客船の侍女に間違えられるからだ。 その反対、希望は白とクリームのパーティードレスだ。薄手の生地に張り付くようなタイトドレスなので、あろう事か胸元が強調される。以前海に行った時と同じようにも見えるのだが、それを言うと愉喜笑に殴られた。何故だ。 そしてこちら側、黒のスーツを着た遠華の隣に愉喜笑がいた。 普段からちょっと想像できないような、希望たちにも負けず劣らず上品な服装をしている愉喜笑。黒のキャミソールパーティードレスを着こなし、肩にロングストールを滑らせているその姿は、ハマリにハマっている。 そんな彼女がすまなさそうに眉尻を下げて言った。 「すいません。私達が無理してついてきてしまって……」 愉喜笑だ。そんな彼女に九条は絶えぬ笑みを崩すことなく、 「大丈夫ですよ。今回の事を口外さえしなければ、何人でも歓迎します」 「ありがとうございます、九条さん」 礼儀正しく頭を下げる愉喜笑。いつもより気品があるのは服装だけではないな、と思う。 「それに女の子と戯れるのは久しぶりですから」 そう言った彼女の左にいる希望は、笑みを浮かべながらこちらを見た。先ほどまで彼女らはじゃんけんをしたりにらめっこをしたりと幼稚な遊びばかりをしていたが、それはそれで楽しいのだろう。 遠華は希望を見る。 最近は愉喜笑が服を選び送りつけてくる場合が多く、その度に雰囲気が変わる。子供っぽいかと思えば今のような大人びた服装をする事もある。女性はそういうものだと愉喜笑は言うが、女性に対する経験の薄い遠華には理解できない。 こちらも何故か妙にとぎまぎしてしまうし、何よりそれが煩わしい。 言葉や愉喜笑にはこんな感情が生まれてくる事はないのに何故だろうか。 ……クソ、イライラする。 「――と、ついたみたいですね」 九条が言った。すると左右の壁が開き、もたれていた遠華は思わず倒れこみそうになるが気合で堪える。不気味な空中姿勢を解除し、車から降りる。 移動距離自体はそう長くなかった。と言うことはそれほど遠い場所へは来ていない様だ。もしかすると日陰市港ということさえある。 目的地は招待状に書かれていた客船の中らしい。パーティーという事になっているが、真実は依頼の通り。 昼下がりの曇り空、その下に荘厳な白亜の壁が聳えている。 「どうしてこんなに大きなものが水の上に浮かぶんでしょうか」 「……それはお客様の笑顔に支えられてるからだ」 「間違った知識を植えつけないでよ、遠華」 希望の問いに、真顔で答えた遠華は愉喜笑にチョップされた。 伸びる階段を上り、船へと入る。背後にある景色の遠くにビルが乱立していたので、やはりそう遠くは無いようだ。 「どうしたんですか、遠華さん?」 首を傾げる希望が視界に入る。先ほどまで思考していた事柄を思い出し、赤面する。 視界にあるのは髪と裾をなびかせる希望で、こちらは上から見下ろす形なので強調された胸元に自然と目が行く。特別ひらけた作りになっている訳ではないが、普通よりやや大きめのソレは窮屈そうに布の中に隠れていた。 「うがー!」 「あうっ!!」 一発小突いておいて、客船『ノアの方舟』へと足を進ませた。 「じゃ、オレ様はこの豪華な偏屈パーティーを満喫できるわけだなっ」 少年っぽい青年の声に、男性の老人が肯定で言う。 豪華客船『ノアの方舟』の中央部に位置する大ホール『 彼の目の前にいる老人は止麻の依頼人だ。愉喜笑の薦めで遠華と同じ便利屋となった止麻は、時々依頼を受ける事がある。 だが今回は止麻の実家、白鐵家にお願いという形で入ったものだ。 古い歴史をもつ白鐵家はその体術を買われ度々こういった富豪の依頼を受けることがあった。最近は少なくなったのだが、この老人は現在白鐵家領主・白鐵 しかし子供の稽古で忙しく、それに八十越えをした身ではハードな作業は向かないとか本人は言っている。その割には未だ時々熊鍋が開催されるらしいが。 なので弟子の止麻が強制的にする事になった。翁には一人娘がいるのだが、彼は彼女の事を溺愛しているためこういった危険地帯には向かわせない。というか、滝から突き落とされるような修行をしたのは自分だけらしい。糞爺ぃめ。 パーティーという事で、豪華な食事にでもありつけるとでも思ったのだが間違えではないようだ。依頼は何かのゲームで優勝しろとの事だが、自分ならばなんとかなるだろう。 「くぉ〜、旨いなこのジュース!」 一気にワインを飲み干し、テーブルに並べられた色とりどりの料理を意地汚く食べていく。 周りから人が離れていったのは、気のせいではないようだ。 「色々もらってきたぞ〜」 口にビスケットを銜えた遠華が両手にトレイを乗せて部屋へと入ってきた。広い空間は、遠華達に割り当てられたものだ。一部屋だがキッチンまで備え付けられている豪華なもので、四人ならば十分だ。 三つに分けられた中央、テーブルとソファーの並ぶ部屋がある。そこに腰掛けるのは愉喜笑だ。 左のカウンターの向こうにはキッチン、右の仕切りより向こうはベッドルームとなっている。しかしどこにも希望と言葉の姿がない。 「んぐ……折角持ってきてやったのに……どこ行った?」 ビスケットを噛み砕き飲み込み、少女達を探して首を回す。愉喜笑は大画面のテレビで豪華客船が沈没するという、あまり心臓に良くない映画を見ていた。何十年も前のものだが感動は未だ色あせる事のない、と愉喜笑が部屋を出る前に言っていた。今は男女が船の甲板で抱き合ってるシーンだ。男性に後ろから支えられ女性が両手を広げる。 「いや、そうじゃなくて。希望と言葉は?」 と、やっと気づいたように愉喜笑が振り向く。 「ん〜ごめんごめん、集中してた。……二人ならバスルームよー。すぐに出てくるって行っていたけど」 「バスルーム?」 背後を振り向く。廊下に出る出口、その右の壁に扉が取り付けられていた。反対にも扉があり、そこはトイレらしい。 「気づかなかったな……でも何でバスルーム? まだ昼だぞ?」 問う遠華に答えたのは、例の扉だった。木製と金属の心地よい音を微かに鳴らし開く。そこから現れたのは、バスタオルで胸元から太股をギリギリ隠した言葉だった。湿りを帯びた銀髪が肩裏を伝い腰まで流れているが、その先端から水が滴るのもお構い無しで、 「愉喜笑さーん、バスローブ忘れて――」 目が合った。 「――――」 しかし言葉は硬直する遠華を無表情で通り過ぎ、彼の持ってきたグラスをテーブルの上に律儀に置く。それにより残ったのはシルバートレイで、 「――ばかぁぁぁぁぁぁ!!!」 涙眼になりつつ全力で振りかぶり――と、視界がブラックアウトしたので覚えているのはここまでだ。 客船の中央に位置する大ホール、その壁から突き出すようにあるのは賓客用のテラスだ。 金の手すりに上半身の体重をかけ、目下のホールを覗いているのは黒のスーツを着込んだ少年だ。愛用品である双眼鏡を使用しているが、 「みちる君、これとってもとってもおいしいの〜」 背後から声が来た。 「どうしました、ソフィ?」 双眼鏡から目を離し振り向く。そこには白のクロスがひかれたテーブルの横に立つ、黒のドレスに身を包んだ少女と、その片手のグラスに注がれた赤黒い液体があった。 「あのー、ソフィ? それはお酒という大変危険な――ってワイン一本空けたんですか!」 視線を巡らして見つけたのは、ソフィの足元に転がるボトルだ。その中身はものの見事に空っぽである。 「ふにゅー……なのぉ」 酔った彼女はふらふらとテーブルに上半身から倒れこむ。その下にあったテーブルクロスがしわくちゃになり、 「――あっ」 ガラスの割れる音とともに、粉々に 「もう、無茶するから……っ!」 テーブルクロスが砕けたのなら、その下のテーブルも砕ける。そしてこのテラスが砕け――。 無駄な思考を止め、彼女の首筋に手を伸ばす。 ――すると小さな破砕音と光の飛沫が舞った。 溢流の手先、そこから光が生まれたのだ。しかしソフィに接触すると、ガラスが割れるような音とともに砕け散った。クロスと同じ末路を描いた光は消え去り、しかし溢流の人差し指が彼女の首筋に到達した。 「……っと」 ほんの一瞬触れただけ。何の変化は生まれない。 だが、テーブルが砕けるということは無くなり、酔っていた少女は眠っていた。溢流の魔術でソフィを強制睡眠させたのだ。 一瞬の攻防を終えた溢流は、へとへととテラスに座り込んだ。テーブルクロスは粉々になってしまったが、 「おやすみ、ソフィ……」 笑みで安らかに眠る少女を愛で、溢流は 「……痛っ」 赤く腫れている額を押さえる。軽く出血するほどの傷だったらしいが、今は清潔なガーゼが押し当てられていた。 「ハルが悪いんだからねっ」 ぐりぐりと押し当てられる。軽い拷問だ。その激痛をあえて無視して口を開く。 「ああ、悪かったよ。……でもここまでするこたねぇだろよ」 実を言うとあまりこちらが悪い事をしたような覚えはない。だがこれが男の弱さというものだろうか、こういう問題になるとこちらに非があるように思えるので不思議でならない。 「……むぅ」 気が済んだのかガーゼをテープで固定し、一度こちらを小突いて腰掛けたベッドから離れる。 柔らかそうなバスローブに身を包んだ言葉は隣の部屋へと消えた。それと交代のように同じ姿の希望がとてとてと歩いてきた。 「大丈夫ですか?」 「ま、これぐらいは……」 息を呑む。 隣に希望が座ってきたのだ。胸の位置にある頭がこちらを見上げ、 「うわー、かっこ悪いですね〜」 額に手を伸ばしてきた。さすさすと撫でられ、軽く痛みが走るが、今はそれに気を配る余裕がない。 湿った髪、蒸気した頬、潤んだ瞳、柔らかそうな唇。 ……俺はガキかよ。 軽く舌打ちして顔を逸らす。 最近どうしてかこの小娘を意識するようになってしまった。愉喜笑に無理矢理押し付けられた際は、猫が転がり込んできた程度にしか思っていなかった筈なのだが。 と、背けたのに希望がこちらを覗き込んできた。思わず背を伸ばし、硬直してしまう。 「あ、もしかして先にお風呂に入っちゃった事、怒ってるんですか?」 そんな事で怒らない。 「でもでも、凄く広かったですから。皆で入れますよ〜」 「……ははは、ナチュラルに問題発言だなこの野郎」 「あうっ」 平静と冷静を取り繕い、軽く小突いてやった。 ある程度の知識と常識は叩き込んだ筈だが、思わぬところに穴。というか、前に一度『一緒にお風呂に入りましょう』と言われた時に教えたような気がする。 「……まさか、覚えれば覚えるほど抜けていくある意味幸せな人種か?」 希望の頭は相当弱い。ポテトチップスのあけ方が分からず、踏みつけて爆発させた時など笑うしか出来なかった。後に泣く泣く掃除をしたのだけれども。 「?」 ……ったく、軽口でも叩かなきゃやってらんねぇ。 あんな誘いを口にされて、こちらも少しは動揺しているのだが、この少女はお構いなしだ。上品な言葉遣いのくせに、ずけずけと入り込んでくる。 世間知らずでも物知らずな所為かもしれないが、こちらの苦労は増えるばかり。 そうしてどっと疲れが押し寄せた。数時間後にはゲームが始まるというのに、これでは休息など取れはしない。 「……あ〜、どうして 「むぅ〜!!」 隣で抗議の声が上がるが、遠華はそれを無視してベッドに深く身を倒した。 風を受ける甲板、そこに二つの人影があった。両方ともスーツを身に纏っていて、片手にはグラスがある。 「嗚呼、男二人で夕日を肴に晩酌とは……」 「黙りやがれっスよ優さん。仕事なんですから」 しくしくと嘘無きする優治朗を放っておいて、習人は沈む太陽を見つつ呟く。 「……にしても、こんな大きなパーティーが秘密裏に行われる理由って何っスかね」 それに優治朗はワインを一飲みし、 「どうだろうね。大概はよからぬ事でもするんだろうが……今夜行われるのはゲームなんだろう?」 「話によると賞品をめぐって争うんだとか。金持ちのやることはわからないっス」 「ま、死人が出るわけではないだろう。のんびり状況を見させてもらおうか」 「っスね〜」 それからあれこれ話しているうちに、日は沈み時刻は夜となっていた。それに気づいた習人が、記憶していたパーティー開始時間を思い出す。時計を見ればその時刻は今であり、 「優さん! もう始まるっスよ!!」 手すりでうな垂れている優治朗をひっ叩くが、 「……おぅぅ? どうしたしんいりぃ〜」 酔っていた。 「えええええ!? 優さんってお酒弱かったんですか!?」 「ふふふふふ……大丈夫だぁ……僕は弱くな……」 倒れこむ。 「勘弁して下さいっスよ〜!!」 そうして午後七時。殆どの参加者が一箇所に集まり、視線は正面のステージへと向いていた。 『ノアの方舟』の最上部フロアを丸々使用した巨大ホール『若葉の知らせ』は現在沈黙に包まれ、視線は今か今かと焦っているようでもあった。 ――そして、フロア全体の光が消えた。 それによるざわめきが生まれるより早く、ステージにスポットライトが当てられた。 「紳士淑女の皆様ぁ、お集まり下さりありがとうございますぅ」 響くは少女の声で、続くのも少女の声だ。 「今宵は飲み歌い踊り、そして戦いを楽しんで戴ければ幸いよぉ!」 同じ声かと思えば、しかし微細な違いがある。前者は控えめな印象があるが、後者は明るく活発だ。 直後、照らされたステージに二つの影が降り立った。 「パーティーの司会は私、ポリュデとぉ――」 「――私、キャステルがお送りさせていただきますぅ」 黒と青のパンク衣装の短髪少女と、黒と青ドレスに身を包んだ巻き髪の少女がそれぞれマイクを片手に立っていた。 ホットパンツで素肌を惜しみなく晒す前者がポリュデと名乗り、ロングスカートで巻き髪を揺らす後者がキャステルと名乗っている。 二人が踊るように動くステージを呆然と見つつ、遠華は声を漏らした。 「なんだ……ありゃ」 同じく呆然とする一同を無視して、少女二人のパフォーマンスは続く。 「さてはて今夜はどうなるのかなぁ、お姉ちゃん?」 「分からないよぉポリュデちゃん〜」 「だったら『あの人』呼んでこよぉ?」 「はいはいわかった今呼ぶからね――エドワード博士ぇー?」 人名に反応に、伏せていた顔を上げる。そこにはステージ奥から現れる痩身の男性がいた。白衣に似た長衣に、メガネをかけた知的そうな男だ。 「――こんばんわ、皆様。突然のマンザイをお許し下さい」 「って漫才じゃないよぉ〜」 「博士、さいてぇ〜」 少女達は悪態をつきつつ下がり、背後の暗闇に消えた。周囲はぽかんとした空気が流れている。 「ああ、すまない。彼女らは私の友人でね、司会がやりたかったのだそうだ。許してくれ」 と、その声一つで場が緩む。ほっと息つく声が多く聞こえるが、 「ハル?」 「お久しぶり、そして初めまして。私がエドワードだ」 ステージの声と重なるように問う声の先には、身を硬直させた遠華がいた。右胸に軽く手が添えられており、 「……そういう事かよ」 「ハル? ちょっと、ハル?」 それきり遠華は黙ってステージを見つめていた。 対するステージでは、 「私がこよなく愛す日本の友人達よ……本当にありがとう」 白衣を着込み、メガネをかけた男が言う。 「そしてこのパーティーを、もっと楽しんでもらう為にゲームをしようか」 髪は全て後ろに流すオールバックで、鋭い瞳には期待の色がある。 「私の用意した賞品を、あなた達の見込んだ腕利きで勝ち取ってもらいたいのだ」 伸ばした右手の先、ホールの壁に巨大なスクリーンが幕のように垂らされていた。それに光が映し出され、 「詳しい話は司会の彼女らにお願いするが……」 そう前置きし、 「このホールを除く、『ノアの方舟』全てのフロアにて己の技を競い合ってもらおう」 スクリーンに客船の全景が映し出された。それは内部案内と同じもので、『若葉の知らせ』以外の全てが点滅している。 「賞品と引き換えであるワイングラスを守り、最後の一人になるまで 船の見取り図と変わり、一つのワイングラスが映し出される。凝ったデザインではあるが、その程度のものである。ここにいる人間が求めているのは、そんなものではない。 「さあ――ガラスの杯を守りきり、聖なる器で美酒を飲むのはだれになるかね?」 そうエドワードが言うと、スクリーンの光は失われた。彼はそのまま踵を返し、 「今宵は楽しんでもらうよ、諸君」 闇へと消えた。 遠華は思う。 このパーティーには何かある、と。 導き出されたそれは、あやふやで確かなものではない。いうなれば勘というヤツだ。 しかしその勘には幾度と無く助けられており、無視できる判断材料ではない。 あのエドワードという男、彼を 霞がかかったような記憶で、はっきりと思い出すことは出来ないが、確かに知っている筈だ。 ……どこだ、一体どこで出会った? 思考を巡らせ男の顔と声を頼りにサルベージをする。過去、覚えている限りの昔と今から探し出す。 そして、思い出す。 「……そういう事かよ」 「ハル? ちょっと、ハル?」 こちらに言葉が声をかけるが、今は思考に没頭したい。重心を背後の壁に預け、ステージの男に視線を注ぐ。 …… 己が描くのは未来の形。 この船はゲーム開始と同時に出港するらしい。つまり、一つの閉鎖空間が出来上がったという訳だ。 逃げられない。しかし代わりに、 立ち入り禁止区域など、巨大なこの場所には幾つもあるだろう。一人では到底回りきれない。 深く、広く、大きく。様々な可能性に対処できるようにしておかなければならない。 ただ思考に集中する。 気づいたのは説明が終わり、微動だにしないこちらを怪しんで言葉が呼びかけた時だ。 これから三十分後、ゲームが始まるのだと言う。 故にこちらは示す。 口には皮肉を、表情には微笑をもって。 「――用意されたパーティーだ。思う存分楽しませてもらうさ」 どうも〜、七桃りおです。 コンセプトは『長い夜の始まり』……まんまですね。 長編、いよいよ始まりました。ってもこの先まだあるみたいですが(他人事 そんなに長くないですが、一つの話を徹底して掘り込むことが出来るので、泣く泣く削っていた戦闘もボリュームアップですっ。 なんか殺伐としたちょい戦闘しかなかったので、今回は濃い目に頑張ります。 もしかしたら一話丸まるとかも……(苦笑 なんか続々謎のキャラが出ていますが、あとがきでの紹介は本格的に出てから。 ただ、依頼者の九条さんはここで紹介しておきます。 富豪らしくて会社を経営してるらしくて実績のある女性です。ちなみに独身。 っても軽いサブキャラなので話に絡んでくる事はありません。ええ、少女じゃないかr(銃殺 豪華客船『ノアの方舟』の元ネタ丸分かりですが解説とかやってみます(ぇ ホールの名前である『八人の間』と『若葉の知らせ』もそこに由来しますね。 『あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。(創世記第六章)』とあるように、ノアは方舟を完成させ、自分の妻と息子とその妻たちの合計八人を乗せてかの大洪水を逃れました。 よってその八人から『八人の間』を。 『見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。(創世記第八章)』では、ノアは鳩を空に放ちます。すると鳩はオリーブの葉をくわえて戻ってきました。 それによりノアは水がひいたことを知り、その七日後に方舟を出ます。最上階フロアであることから『若葉の知らせ』というのを取りました。 ちなみに方舟は三階建てで、愉喜笑の見ていた映画に登場する某客船並の総容積らしいです。 うむ、昔の人はすごいな〜(ぇ サブキャラも登場してきて、本格的に話が進みそうです。期待していてください〜。 でわでわ、七桃りおでした〜。
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