「シャンヌペチア皇族妻女がお逃げあそばせた」との報告がなされたのは、シャルセオナ暦千四十年二月、シャルセオナ初代国王の直系であるアルフェルト・ブローロメスが脱走した七日目の新月の晩であった。 アルフェルト・ブローロメス皇帝子息及び、シュレビアス・シャンヌペチア皇族妻女の脱走は、宮廷中を震撼とさせた。外交的に有利な人間が立て続けにいなくなり、オガメスは今にも倒れてしまいそうなショックを一身に受けたのだった。 シュレビアス・シャンヌペチアは、そのまま奴隷身分へと格を落とされても仕方なかったであろう。しかし、アルフェルト・ブローロメスを操る切り札として、オガメスは手元に残し、皇族妻女という身分を与え、宮廷内に軟禁状態を強いていたのだ。使えるものは使う――それがオガメスの流儀であり、逆に言えば取るに足らない平民など、兵と税金、そして女を提供していればそれでよいという、人道的に誤った方角へと、思考が発展してしまっている。 「まったく・・・・・・母子そろって、忌々しいヤツらめが!」 オガメスが怒るのも道理である。道理ではあるが、シュレビアスやブローロメスから見れば、わがままを言っている子供のような存在なのだ。もっとも、オガメスにしても簒奪の際に智謀を働かせた。老練には程遠いオガメスは五十三歳、帝王として君臨するにしても、知略が衰えるにしてもまだ、若すぎる年齢であった。 「いかに致しましょうか、陛下?」 若輩の臣下であり、シャルセオナ、ソールジャ・パストロネアが指示を仰ぐ。最高警備兵隊は、思想犯から脱走者や暗殺者に至るまで、シャルセオナの治安を乱す恐れのある人物の補導権限を与えられている。無実の人間に対して、あらぬ疑いをかけるのは彼らの得意とする分野であり、あろうことかオガメスもそれを咎めないのである。 「国境の検問所は全て封鎖しろ。シャルセオナ国内から、ネズミ一匹出してはならんぞっ」 この布令は、ブローロメスが脱走して十日後に、シャルセオナ中に浸透した。ブローロメス脱走の報告に五日、そしてそれぞれの地域へ布令が正式に伝わったのに五日である。ブローロメスを、首都ラヴェンからもっとも遠ざけたのが、この時は失敗であったのだ。十日あれば、金鉱から隣国へ亡命もできるだろう――なにより、消息を掴む時期を失したのは確かである。 その時分のブローロメスはというと、麻布と羽毛でできた布団に体を横たえていた。彼のそばには二十五歳ほどであろうか、美しい女性が座っており、看病をしている。熱に侵された彼の体を乾いた布で拭き、額に水を含ませたタオルをしばしばと取り替える。彼は命からがら川を逃れて倒れこんでいるところを、この女性に助けられたのだ。いや、正確にはこの女性ではなく、彼女の二人の同居者に、であるが。 「ボウヤはどうだい?」 「打撲に凍傷。それに骨も何本か逝ってるね。打撲や凍傷はとりあえずとして、を使っても一ヶ月は絶対安静だね」 「・・・・・・ってことは、俺達は一ヶ月間、お荷物を抱えることになるわけだ」 男は不服そうに呟いた。 「元はといえば、お前達が連れてきたんじゃないか」 「連れて帰ろう、って言ったのはシドだ。俺じゃねえ」 「ラギオンだって反対しなかったじゃねえか。そもそも、あのボウヤを見つけたのもラギオン、お前だろうが」 「擦り付け合いはそこまでにして、真剣に今後を考えるのが大事だよ」 「そうは言っても、ケアレン。ボウヤの容態が回復してからでもいいんじゃねえのか?」 ラギオンは言った。 「そうだねえ・・・・・・しかし、このボウヤが一人でこんなとこに居るわけがないと私は思うが・・・・・・」 ケアレンと呼ばれた女性は眉を顰めた。 「と呼ばれた巫女が考え事かい?」 「うるさいね。馬鹿は黙ってな、シド」 「馬鹿じゃない、アホだ」 シドはムキになって返したが、本質は対して変わらないな。ラギオンは苦笑した。 「とりあえず、現状分析が先だよ。ボウヤが起きたら事情を訊こうじゃないか」 「うむ、それが一番いいだろうな」 ケアレンも賛同した。 「あとどれくらいで、ボウヤは目を覚ますんだ?」 「それは分からないね、ラギオン。この子の回復能力が高ければ、二日くらいで意識は戻るだろうよ。だけどかなり消耗してるからねえ・・・・・・人並みの回復能力だったら、一週間くらい眠ったまんまだろうね」 そうか、とラギオンは呟き、シドはため息をついた。 「大丈夫か、ポーレン?」 「こっちは平気。そっちはどうなのよ、ジャベイン」 「問題ない」 ブローロメスが介抱されている頃、ジャベインとシャルガナはブローロメスの這い上がった場所よりも更に下流で、野宿をしていた。這い上がったといっても、ブローロメスは単に、岸に流れ着いただけだったのだが。 「ブローロメスを探さなくちゃ」 「そうだな・・・・・・きっと上だと思う」 ジャベインは上流を睨んだ。 「ヤツの腕輪が、さっき流れてきた。ブローロメスがもし、下流に流されたなら、腕輪はこっちに来なかったはずだ」 「だけど、腕輪がどこかに引っ掛かってたって可能性だってあるわよ」 シャルガナの指摘に、ジャベインはしばし考え込んでから、顔を上げてシャルガナを見た。 「一人は嫌か?」 「絶対に嫌だ」 「・・・・・・まずは、下流から探してみよう。この川はシャルセオナまで続いている、もしブローロメスが下流で岸に這い上がったんなら、街から離れた場所にいるだろう」 「そうね。それに、下に行く方が手がかりは掴みやすいと思うわ」 二人は頷きあった。 「さて、どっちが最初の見張り番をする?」 「私は見張りたくないわ。どうして、見張り番をたてる必要があるのよ?」 「野獣が襲うかもしれないぞ・・・・・・?」 ジャベインはそう言うと、野獣のように咽喉を鳴らしてみせた。 「そしてお前を食うんだ」 「やめて! 本当にやめて、嫌!」 「それじゃあ、どっちが見張り番を先にする?」 「私、私がやるから許して! それだけは本当に嫌なの、怖いの!」 シャナックは、怯えたシャルガナの姿を見て脅すのをやめた。 「いや、最初は俺がやる。お前は寝てろ、まだガキだろうが」 「・・・・・・あ、ありがと」 ホッとしたようにシャルガナは言い、地面に寝転んだ。 「俺が抱いて、温めてやろうか?」 「お断り!」 シャルガナはピシリと言い、瞼を閉じた。 「やれやれ、頑固なお嬢さんだ」 ジャベインは呟いた。 「黙れ!」 ムキになったジャベインは怒鳴った。やれ、仕方ないな。ジャベインは心の中でボヤき、黙りこくった。 冬の夜は静かで、暗い――。ジャベインが黙れば、あとは木の葉だ時折、カサカサと擦れる音がするのみである。なんとか火を熾し、体を二人は温めていたが、それでも寒いことには変わりない。着ているものも水で濡れているし、さらには半分凍っている。その中で二人が、乾いた地面を見つけることができたのはせめてもの慰みだった。 「ねえ、ジャベイン。こういう日ってなにを思い出す?」 シャルガナは不意に、口を開いた。 「私はね、辛い辛い日々を思い出すの」 「シャンドゥラでのことか?」 「そう、シャンドゥラの男は、女を人間だと思っていなかったの」 静かに、シャルガナは話し始めた。 「愛情もなく育ったわ。母親だって、私を厳しく育ててきた。お母さんも私も、兄さんや父さんには虐げられてきたのよ。学校は男女別。しかも、女の学校にはまともな設備が整っていなかった・・・・・・便所だってなかったのよ? シャンドゥラの男にとって、女は子供を作り、肉欲を満たすためだけの奴隷だったのよ」 ジャベインは黙っている。シャルガナのすすり泣きに耳を澄ませるかのように、ジャベインは近くの木にもたれかかっている。 「奴隷は働き続けなければいけない。朝から晩まで机に向かわされ、勉強させられたわ。女は金を儲け、男はその金で遊び呆ける・・・・・・何度となく見てきた光景よ。もちろん、結婚相手だって選べないのよ。結婚する相手だって選べないのよ。十五歳になったら、私も男に選ばれて嫁がされるはずだったけど、シャルセオナのオガメスが救ってくれた」 「オガメスが救った?」 「そう、私はこっちで奴隷になったわ。勉強だって必要ないし、好きな人と結婚することだってきっとできたでしょう? そりゃ、ちょっとは辛いことだってあるけど。でも、本当は今、こうしていたくなかったわ」 シャルガナは話を続けた。 「オガメスだって、善人とは言えないわ。だけど、私は金鉱で金を選別したりするのは好きだった。金色の輝きも好きだったし、出来ることなら出たくなかったのよ。だけどあなたたちが・・・・・・」 「わかった、わかったって! 俺達が悪かった、謝るよ」 「もう遅いわよ」 あちゃー、機嫌悪くしたんだろうな・・・・・・。ジャベインは不機嫌な声色を聞いて思った。 「ブローロメスもどこか行っちゃった・・・・・・私の大切な友達が一人、消えちゃったの」 その声は、絶望を色を帯びていた。事実、シャルガナは絶望に心を支配されていたのだ。ブローロメスを探す手段も、歩くことのみ。もう一生、邂逅することは叶わないのかもしれない。 「シャルガナ、落ち着けって。ブローロメスは必ず見つかる。なんなら、保証したっていい、絶対に俺が見つけてやる」 「ジャベイン、そんなの無理よ。だって、どこにいるのか全く分からないんだもの!」 「大丈夫、安心しろ。だてに無駄な人生を歩んじゃいないさ、伝手なんていくらでもある」 ジャベインの声は、自信に満ちていた。その声を聞いて安心したのか、シャルガナはため息をついた。 「本当に、見つけてくれるのね?」 「必ず見つける」 ジャベインは焚き火に、薪を足した。炎の爆ぜる音が、夜の森では大きく聞こえる。 「約束する。命を賭けろと言われたら、俺はブローロメスが見つかる方に命を賭けるね」 ジャベインの言葉は力強く、確信に満ちていた。その力強い言葉を聞いて、シャルガナはなにか、心に温かいものが広がるのを感じていた。 「本当に、命を賭ける?」 「もちろん賭けるさ」 「それじゃ、私も賭ける」 好きにしろ。まどろみの中、シャルガナは確かに、その言葉を聞いた。 静かな寝息を立て始めたシャルガナの上に、ジャベインは自分の羽織っていた、唯一乾いている服をかけた。 「うう、寒い。風邪引いたら嫌だな」 愚痴りながらも、ジャベインは焚き火に体を寄せた。上を見上げれば、うっそうとした木々が視界を阻む。 「これで、綺麗な星空が見えたら最高なんだがなあ・・・・・・もっとも、雲で隠れているかもしれないが」 ジャベインは両腕を上げて、大きなノビをした。 その時、ガサガサと繁みで足音が響く音が聞こえた。数人の足音に混じり、こんな会話も聞こえてくる。 「・・・・・・しかし、オガメス様の甥っ子であるブローロメス王子は何処へと行ったのだろう?」 「知るもんか。だいたい、王子が出奔するから俺達がこんな目に・・・・・・」 「グチグチ言うな。それよりも、南の方へ行ってみよう。南なら暖かいし、この季節ならそっちに向かってもおかしくないはずだ」 幸い、ジャベインとシャルガナ達のいるところは、彼らから北方面にあった。足音は遠ざかり、やがて消えた。 「どーやら、オガメスが動いたみたいだな。まあ、ブローロメスは利用価値の高い王子様だからな・・・・・・当たり前だろう」 ここで、ジャベインは少し考えた。シャルガナを起こして、このことを話すのは簡単だが、今眠りに入ったばかりのシャルガナを起こすのも忍びない。彼は少しばかり逡巡したが、結局は起こさないことに決めた。 「しかしなあ・・・・・・このままここにいるのも危険だろうし、どうしろってんだ」 ジャベインは頭を掻いた。 もっとも、ジャベインが出来ることといえば見張りをすること、危険なときにはシャルガナを守ることくらいしか、今のところはないのだ。そんな中、手持ち無沙汰なジャベインはひたすらに暇だ。 どうせならば、近くの村に逃げ込んで、オガメスの目に止まらないように生きていくのがもっともいいのだろう。だがしかし、ジャベインは友情と信義に厚い男だった。彼はブローロメスを見捨てることなく、このシャルセオナをシャルガナと共に放浪することを心に決めたのだ。 ――翌日。 「そうだ、シャルガナ。昨晩、捜索隊が来てたぞ」 朝食の席にて、サラリと言いのけた。 「多分、見つかったら捕まるぞ。一応俺たちだって奴隷なわけだし、ブローロメスの件もあるから、拷問にかけられて吐かされるかも」 「なんであんたは、そんな重要なことを軽い口調で言えるのよ!」 拳骨がジャベインの頭にドスンと落ちた。 「痛ったー! こちとら、お前が起きなかったから完全徹夜で見張りやってんだ、少しぐらいは労わってくれてもいいだろ?」 「あ、ゴメン・・・・・・。大丈夫?」 「今さら遅えよ」 ジャベインは、涙目でシャルガナを睨んだ。 「ゴメンなさいってば!」 しかたない。ジャベインはため息をついて、言葉を続けた 「よし、行くぞ。ブローロメスは俺達が先に見つけ出す」 「なんだか、凄いことになっちゃったわね・・・・・・まるでブローロメスが、世界の運命を握る鍵みたい」 「事実、このシャルセオナの鍵は握ってるけどな」 ジャベインは苦々しげに呻いた。 「とりあえず、俺達がアイツを見つけ出さなきゃいけねえな」 ジャベインは、少ししかない荷物と偶然にも一緒に岸に流れ着いたツルハシを担ぎ川下へと歩き出した。 現在ジャベイン達がいる場所、シャルセオナからはほど遠い場所にある、ディアドル川の近くである。ディアドル川の源泉は、ブローロメス達の働いていた金鉱よりも更に高みにあり、そこには竜が棲むとまで伝えられている。ジャベインとシャルガナは、このディアドル川を下ろうというわけだ。 川下へと先立って歩き出したジャベインは、とりあえず匿ってくれる家を探すことにした。情報に通じていて、隠れ住むには適した場所を提供してくれる人をジャベインは求めていた。 そのことをシャルガナに話すと、眉根を寄せてこう言った。 「そんな都合のいい人間、いるのか?」 「金さえあれば、もしかしたら・・・・・・ってことだ」 ジャベインは川原の小石をひとつ拾い上げると、ポンポンと手の平の上で放り投げた。 「この石ころじゃ駄目だが、金色の石ころだったら金の価値がある。分かるな?」 「それぐらい、私だって分かるわ」 「それじゃあ訊く。ポーレン、金を持ってるか?」 「残念ながら、私は金を持ってないわ。そっちこそひとつやふたつくらい、欠片でも持ってないの?」 「それが、あるんだな」 ジャベインはニヤリと笑みを浮かべた。 「少し待ってろ、すぐ取ってくる」 「待ってろって・・・・・・ええっ?」 案ずるな、と声をかけて、ジャベインは山の中へと入っていった。 ジャベインは、いくらもしないうちに戻ってきた。その手には、いくばくかの金が輝いている。どこから出したの? というシャルガナの問いには答えずに、ジャベインは村へとシャルガナを急かした。 「歩いて近くの村まで行くとしても、半日はかかるだろうな。その間、飲み水には困らないだろうが・・・・・・どうしても食料がないな」 飲み水は、川に真水がある。しかし、食料となると、魚を獲るか、獣を狩るか・・・・・・どちらにしても、ツルハシ一本でどうこう出来るものでもない。 しかし、その問題は取るに足らないものだと、すぐに判明した。 「任せてよ。私、シャンドゥラにいた頃、よく手づかみで魚を取ってたわ。ちょっと待っててね、取ってくる。ジャベインは、燻製にするものでも探してて」 言うが早いか、シャルガナは川の中へと入って行った。 そんなシャルガナに、ジャベインは苦笑を漏らした。 「やれやれ、シャンドゥラの娘ってのは、みんなああなのかい」 そして、燻製にするために体のよいものを探しつつ、ジャベインは見も知らない南の山脈を越えた国のことを思った。 女性蔑視の国にして、奴隷売買が合法化している国としても有名なシャンドゥラ。ただでさえ蔑視の対象として産まれたシャルガナは、更に奴隷売買でシャルセオナへと来た。そんな悲惨な十年と少しの人生を送っても、元来持って生まれたシャルガナの明るさに翳りなどはないように見えた。それも、無理やり明るく振舞っているのではなく、内側からの太陽のような明るさだ。 シャルガナの笑顔は、何よりも眩しいとジャベインは思う。そして、その笑顔を守りたいとジャベインはふと、思ったのだ。 「おーい、ジャベインっ。結構たくさん獲れたよ!」 思考の世界へと羽を伸ばしていたジャベインは、シャルガナの呼ぶ声で現実へと引き戻された。 「これくらいあれば、半日くらいは足りるかな?」 見ると、シャルガナは服の裾から溢れるほどたくさんの魚を捕まえていた。レッシャー(鮮やかな黒の斑点を持つ川魚)や、ビノーシュ(赤いヒレと、紫の筋を持つ川魚)は燻製にしても美味しいし、バス(肉食の、真っ黒な魚)はどんな料理にも適している。 その量に、ジャベインは目を見張るほどだった。 「これ、全部お前が?」 「・・・・・・? そうだけど」 「凄いな・・・・・・」 シャルガナが魚を地面に下ろすと、ピチピチと勢いよく魚達は跳ね回った。 そして、ジャベインの見つけた四角い箱のようなものを加工して、燻製するために火を熾した。真冬に川に入ったせいで凍えているシャルガナは、焚き火に当たりながら、ブローロメスのことを思った。 「ブローロメス、大丈夫かな?」 ポツリ、と。シャルガナは思っていたことを口にした。そんなことを言っても栓ないことを承知で、しかし不安から、大丈夫だという肯定を聞きたかった。 「分からないな」 素っ気ない返事は、シャルガナの思っていることを充分承知の上でのことだ。 既に外は暗くなり、ジャベインとシャルガナは焚き火を起こした。そして、途中で見つけた粗末な毛布を被り、深い眠りについた。 ブローロメスが保護されて、無事にベッドで寝ていることを二人は知らない。 そんなブローロメスは、床に臥せたままラギオンにことの詳細を話していた。 「そりゃ無茶な真似をしたもんだな」 全てを聞いた後、シドは鼻を鳴らして言った。 「真冬の川なんかに飛び込んで、よく死なずに生きていたもんだ。アルフェルトのガキ、お前は運がいいぞ。なんせ、この俺様に助けてもらったんだからな」 「・・・・・・そうなんですか?」 疲れた顔をしているブローロメスに、ケアレンは律儀に間違いを正した。 「いいかい、ボウヤ。ボウヤを助けたのは、この私。こんなガサツな男がお前を助けるなんて、万一にもないことよ」 「ぶっ。もっともだな!」 それに同調するラギオン。 「ちょっと待て、それ以上にお前はなにもしてねぇじゃねえか!」 「心外だな、シド。俺はこの坊ちゃんを見つけた張本人だよ?」 「力仕事を俺に押し付けたくせに・・・・・・なに言ってやがる、腹黒剣士っ」 シドは、元々無愛想でいかつい顔を更に顰めて文句を垂れたが、考え込まない性格なのかすぐにブローロメスに問いかけた。 「ところで、ガキンチョ。どうして奴隷から抜け出したんだ?」 「・・・・・・え?」 「え、じゃねえよ。え、じゃ」 シドは腕を組んだ。 「何かしたいから、お前は逃げ出したんだろ? 何か変えたいから、お前は奴隷という身分から抜け出すために逃げ出したんだ。もう死にたくなったってのも、理由の一つになる。辛かったから、平民になりてぇって思ったのかもしらん。俺は何も知らんけどな。それでも、お前は逃げ出したんだ。お前が逃げたのは、何かがしたかったからだ。今はそれが、何か分からないかもしれないが、それはそれでいい。話したくないなら、話さなければいい。でも、俺達はお前に協力できるかもしれない。だから訊いた。それだけのことだ」 「出た、お得意のお節介」 ラギオンが茶化す。 「・・・・・・! そんなんじゃねぇ、ただの興味だよっ」 「ボウヤ、シドは口と顔は悪いけど、根は良いヤツだ。話すことがあるなら、話してごらん」 ブローロメスは俯いた。 「そんなものは・・・・・・ありません」 「そうか」 シドは呟き、目を伏せた。 「ところで、ガキンチョ。お前、名前はなんていうんだ?」 その質問が間違いだったと気づいた時には、既に遅かった。ブローロメスの肩は強張り、答えることを体が拒否したのだ。 「・・・・・・それも、言えません」 「おいおい、助けてもらってそれはないだろう? こっちは名前を名乗ったんだ、そっちも名前を名乗るのが礼儀ってもんじゃないかな?」 と、ラギオンは言う。 確かな正論ではある。正論なだけに、ブローロメスは反駁することも出来ず、口惜しそうに唇を噛む。 「・・・・・・レオスです」 「レオス?」 ケアレンは、俯き加減の少年王子の表情の変化を見た。 「・・・・・・偽名だね?」 「すみません・・・・・・でも、もし僕が誰か分かったら、誰だって怒ります」 そんなブローロメスの頭に、シドの拳骨が落ちた。 「ドアホ、クソガキッ。そんなん、言ってみなきゃ分かんねぇじゃんよ」 片腕で頭を抑えるブローロメスを見て、シドは言い切った。 「まあ、言いたくないなら別だけどよ。よし、今はレオスでいい。偽名だろうがなんだろうが、俺達がお前に責任を負ったってことに違いはねぇんだからよ」 そしてシドは立ち上がった。 そのまま、部屋を後にする。 「んじゃ、俺も。坊ちゃん、絶対安静にしてなよ?」 「え? あ、はい・・・・・・」 ラギオンもシドに習う。部屋の扉は閉められ、ランプの炎が爆ぜる音と、ケアレンの息遣いと、ブローロメスの荒く浅い咳が部屋を包む。 ブローロメスの衣擦れの音が、静かな部屋には響く。隣の部屋に二人居るはずなのに、不思議と何も聞こえない。 ブローロメスは、どうしてここまで静かなのかが分からなかった。 「ボウヤ。今、なんで静かなのか考えてるんじゃない?」 思っていたことを言い当てられ、ブローロメスは狼狽した。 「いいかい、レオス。私は医術士で、魔法使いなのさ。多くの魔法を習得した、天才と呼ばれた魔女さ。あんたが静かじゃないと落ち着かないかと思って、結界を張らせてもらってね・・・・・・だから、どんな音だってこの部屋には届かないよ」 「そうなんですか?」 ブローロメスの瞳は、興味で輝いた。 「魔法って・・・・・・僕、聞いたことしかありません。どんなことが出来るんですか? 是非知りたいですっ」 「あんた、魔法に興味があるんだね? と呼ばれた私に、分からない魔法なんて殆どないよ。それこそ、黒魔術の類しかね」 ケアレンは胸を張る。 「なんなら、傷が癒えてから簡単な魔法を教えてあげてもいいよ。自分の身を、ちょこっと守るくらいの魔法だけどね」 「本当ですかっ?」 ブローロメスの体に、みるみる精気が満ち溢れた。そのマナは、見る人が見れば、確実に圧倒されるだけの後光を湛え、この王子の力の水底を感じさせるものであるものだった。 そして、ケアレンは『見る人』の部類に属した。それは、聡明にして無欠のケアレンすらも圧倒する力の波動だったのだ。 「あんた、きっといい魔法使いになるよ。ボウヤの体中から、大きなマナを感じるよ」 ケアレンは、ブローロメスを見ながら目を細めた。そうしなければ、眩しすぎて見えないほどの明るさだったのだ。 「本当ですかっ?」 「ああ、本当さ」 「約束ですよ、絶対に教えてください!」 今にもベッドから飛び起きそうなブローロメスの額に、ケアレンはそっと手の平を置いた。 「約束するよ。でも、そのためには、今は眠らなきゃね」 ブローロメスの瞳は閉じられ、そして深い眠りについた。 起きた時には、すでに外は明るくなっていた。 部屋には誰もいず、ただ陽の光だけが明るく照っていた。 ブローロメスは、誰かを呼ぼうと思ったが、考え直して出しかけた声を飲み込んだ。魔法で防音されているなら、内側からの声も聞こえないに違いないと考えたのだ。 「誰か・・・・・・来てくれないかな」 汗で体はビショビショだった。ベッド脇の机に、水が置いてあったのでそれを飲んだが、水いっぱいでは空腹などはとても癒えるものではない。そんなことを思っているうちに、用を足したくなってきた。しかし、用を足したくても、ベッドから一歩たりとも動いてはいけない状態だったため、ブローロメスは我慢しきれずに、その場で小便をしてしまった。 「・・・・・・っ!」 小便の生温かい、気持ちの悪い感触が、股の間を這うのを覚悟してブローロメスは目を閉じた。しかし、気持ちの悪い感覚はいつまで経っても訪れなかった。 確かに、尿意は消え失せていた。しかし、どこか気持ち悪いと考えながら、ブローロメスは静かにベッドで横になっていた。 やがて、ケアレンが部屋に入ってきた。 「はいよ、ボウヤ。たんとお食べ、しっかり食って、さっさと治せ」 「あ、ありがとうございます・・・・・・」 どこか嬉しそうな様子のケアレンに対し、少々狼狽しつつも、ブローロメスはありがたく朝食を受け取った。 「はい、んじゃ尿取るねぇ・・・・・・ちょっと腰上げて」 「え?」 殆ど無理やりに腰を上げさせられたブローロメスの下に、木の台座を置く。 「それじゃあ、脱がすよ」 「え? ちょ、待って・・・・・・」 ブローロメスの叫びも虚しく、下半身を覆っている布は脱がされた。 そしてそこには、尿のたまったガラス瓶が一つ。 「それじゃあ、瓶を取り替えるね」 どことなく乙女のような口振りで、ケアレンは優しく瓶を外した。 「ボウヤ、用があったらこれを振れ。すぐに来る」 そう言って、ケアレンは杖のようなものを渡した。 「それじゃあ、ゆっくり休んで早く治せ」 唖然としているブローロメスを置いて、どこか楽しそうにケアレンは去っていった。 ケアレンが去った後、ブローロメスは唖然としていた。 「結局、どういうことだったんだ?」 考えても答えが出ないことは分かっていたので、ブローロメスはとりあえず眠りについた。 翌朝起きると、ケアレンが枕元で何かを書いていた。 「ケアレンさん?」 「ん? ああ、起きたのかい、レオス」 ブローロメスはケアレンの手元を覗こうとして呻いた。 「何、してるんですか?」 「ああ、これはね。紹介状さ」 「紹介状?」 わけが分からない、といった風情で。ブローロメスは小首を傾げた。 「ラギオンが村まで行くからね」 「村まで? でも、この辺りには村なんてありませんよ」 流石に英才教育を受けているブローロメスは、地理に詳しい。その詳しさときたら、シャルセオナ以外の国々の地名までんじるほどだ。 「ここがどの辺りだか、検討がつくのかい?」 「ええ、大体は。でも、詳しい位置までは正直・・・・・・」 そうかい、とケアレンは言って、再び羊皮紙へと向かう。美しい羽飾りの付いたペンは、滑らかに羊皮紙の上を動き回って文字を刻んでいった。 「しかし、驚いたね。僅か数時間で意識を取り戻すなんて」 ふと、ケアレンはペンの動きを止めた。 「シド並みの回復力だね。ラギオンだって、あんなにすぐに意識を取り戻さない。相当なタマだよ、レオス。お前は」 暗闇からケアレンに見つめられ、ブローロメスは顔が赤らむのを感じた。 そして顔を背けて、自分の左手にひどく興味を持つふりをしたが、明るい日差しはブローロメスの赤面を隠すことはなかった。 ケアレンはくすりと笑うと、再び羊皮紙にペンを走らせた。あとはただ、ペン先が羊皮紙を擦る音と、衣擦れの音が時折聞こえるだけだった。 |