ラファエル・ベリグリン―即ち『智天使の微笑み』は、深緑の森を恐ろしいほどの速さで疾走していた。 彼女の長い金髪が風に煽(あお)られ、狂った馬のように振り乱されている。整った顔立ちは蒼白とし、痩せ細った小さな体は、傷だらけで、満身(まんしん)創痍(そうい)の様子である。 今にも倒れそうな体を無理やり引きずり、ラファエルはウェプロス山脈の南の麓(ふもと)を目指している。 休憩のようなものを見せるのは、時おり高い木に登り方向を確かめるときのみ。水すらも飲まず、二晩を駆けていた。 ――そろそろ、限界かしら。 ふと、そんな思いが胸を過ぎる。子供のような体躯の彼女には、いくら駆けても目的地へ辿り着けないような気持ちを胸に抱いた。 が、しかし。それは一瞬のこと、すぐその後には、そのような思いを断ち切るかのごとく更なる勢いで駆けるのだった。 そして、ラファエルは駆けに駆け、ウェプロス山脈の北の麓に着いた。 北の麓の森には、飲み水や果物が豊富にあった。豊富にある水を満ち足りるまでむさぼり、ヤコシナ(広葉樹。一年中葉は生え変わり、甘い果実が成る木)の実をお腹が膨れて動けなくなるほどほおばり、皮袋につめられるだけつめこんだ。そして、手馴れた手つきでタナリコの木(枝が密接に絡まりあって絨毯のように広がっている広葉樹。森に住む生き物達の住処となる)に登り、枝の上に横たわった。 ラファエルの着ているチュニックのふところから、栗色の、柔毛を持った小さな生き物が、コソコソと這い出てきた。ラファエルは、それを撫で「おやすみ」と、言うと、そのまま眠り込んでしまった。 生き物は、タナリコの木を器用に下りると、まず水辺へと向かい、手を洗い、水を口に含むとうがいをし、それから水を飲んだ。その後、ヤコシナの実をもいでくると、小さな手で上手に実を洗い、皮を剥いてから口にした。どうやら、その主人よりも綺麗好きの様子である。 そして、森を散策した。三角の耳をつかい、小さな茶色の鼻の両脇についているピンと張ったひげをつかい、四本足で森の中を駆け回り、ラファエルの為に情報を集めた。水辺、住んでいる生き物、果物や樹木の種類、さらには落ち葉の数から、薬草となる草の場所までを調べつくした。 と、森を駆け回っている生き物≠ヘ、危険を感じて咄嗟に左へと飛びのいた。今の今まで、その生き物≠ェいたところに、一羽のフクロウが舞い降りた。フクロウは生き物≠ノ狙いすまして、また飛び掛ろうとしたそのときだ。電光石火、生き物≠ェフクロウに飛び掛り、小さくも鋭い前足で目玉を片方、抉り出した。もう片方を抉り出そうとしたとき、身をよじって生き物≠振り落とすと、またしても襲い掛かろうと身構えた。生き物≠ヘその襲撃をかわして、体に飛びつき、ところかまわず鋭い爪で体中を引っ掻き回した。フクロウは、その生き物≠地面へと叩きつけ、身動きを取れなくした。生き物≠ェいくらもがいても、もはや爪さえ立てることはできなくなった。 そのとき、繁みの中から、ラファエルと同じ頃の少年が現れた。赤茶色の髪に、細身で小柄なところは、ラファエルと酷似(こくじ)している。 少年は、針を一本、フクロウへと投げた。フクロウは、麻痺したかのように、一瞬で動かなくなり、その場に倒れた。 「メルフィア・・・・・・。ふんっ、ラファエルのベグ(ペット)か」 少年は、鼻をならすと、その場を離れた。離れ場所から、少年の声がする。 (ラファエルはこの森にいるはずだ、ベグに捜させればいい、ここで俺達は報告を待っていよう) メルフィアは走り始めた。ラファエルに重大なことを伝えるために。 ―グランバック・ベンシルが・・・・・・『血に飢えし追跡者』が追いついた! 「メルフィア、ありがと」 ラファエルは短く言った。 「しばらくは、ここで安全に過ごせ――」 言いかけた言葉は、メルフィアの必死そうな言葉でかき消された。 メルフィアは、素早くラファエルの首もとまで登ると、耳元に口を近づけた。そして数分後―。 「ええ、なんですってっ!」 百二十五センチ程の体が、勢いよく起き上がった。 「とにかく、荷物をまとめましょう。逃げ続けても、結局は追いつかれるようね・・・・・・。それなら、迎え撃つしかないわ。早く戦いの準備をしなければ」 その言葉に応えるように、メルフィアは高い声で鳴き声をあげた。 「そうか・・・・・・。どうせもはや、袋のネズミだ。今夜はここで野宿しよう」 グランバックが仲間に声をかけた。 「グランバック、また逃げられやしないかい?」 「大丈夫さ、ファリアン」 ファリアン・バータギ。『緋色の両腕』だ。 ファリアンは、グランバックの言葉に満足気に頷いた。彼女にとって、グランバックの言葉は真実であり、ルールであった。 「グランバック、それじゃあ私は、少しばかり食べ物を調達してくるよ」 ファリアンが言った。 「ああ、頼んだ。あと、タイラゴの木のつるがあったら、採ってきてくれ」 「なんに使うんだい?」 グランバックは、ニヤリと笑って答えた。 「それは明日のお楽しみ」 そして、ファリアンにとって、それがすべてであった。 翌朝。 ラファエルは、朝食をとっていた。前日に採取した果物と、乾燥肉だ。一通りの食事を終えると、ラファエルは荷物をまとめ、南の麓へと足を進めることにした。ラファエルのチュニックの胸元には、意思を伝える動物ベガローの、メルフィアが居座っていた。 「大丈夫、後は木々が導いてくれるはずよ」 そう言って、首から下げられているペンダントを、大事そうに、恭しく握り締めた。 「私達には神がついてる。木々と神々の加護により、必ず逃げ延びることができるはずだわ」 ラファエルは、自らに言い聞かせるように言った。 「さあ、行きましょう」 ラファエルは、隣の木へと大きく跳躍した。 ―その瞬間。 タイラゴのつるが、頭上から覆いかぶさってきた。周りは緑一色で、タイラゴの木にラファエルは気付かなかったのだ。 「やあ、ラファエル。魚みたいに網に引っかかるなんて、君は魚よりも馬鹿なんじゃないか?」 「グランバック・・・・・・。血に飢えた猟犬が、網を使うなんて、見当はずれもいいところね」 ラファエルは苦し紛れに言い返した。 「どうでもいいさ、智天使の微笑み。もっとも、大して賢いようには見えないがね」 すかさずグランバックが皮肉を返す。 「私をどうするつもり?」 「もちろん、殺すに決まってるじゃないか」 そう答えたのはファリアンだ。 「私の両腕が、またまた真っ赤に・・・・・・緋色に染まるのさ!」 同じように小柄な体躯をした『追跡者』達は笑い転げた。 笑いが収まると、諭すようにグランバックは言った。 「ファリアン、すまないが、まだこいつは殺さない」 「なんで? なんでよ! 私の両腕が、血を求め―」 続きをファリアンが言うことは、永遠になかった。ノドに二本の針が刺さり、ファリアンの命は永遠にこの世を去ったからだ。 「黙れ、ファリアン。二度と喋るな」 もはや動くことのない屍に、グランバックは言った。首からの血で、ファリアンの両腕は緋色に染まった。 「相変わらずね、グランバック」 「ああ。さて、ラファエル、吐いてもらおうか」 グランバックはラファエルに近づいた。 「死んでも、なにも言わないわ」 「言いたくなるようにしてやろう」 ラファエルの両腕をきつく縛り、網を取り外した。 「言うようなら、自由にしてやろう」 「それじゃ、あなたは私を殺すしかないわ。だって、私もどこにあるか知らないんだもの」 ラファエルは答えた。グランバックは、眉をひそめると、大声で怒鳴った。 「嘘だっ!」 「いいえ、嘘じゃないわ。ウェプロス山脈の南の麓に行けば、なにか分かるとラージーは言ってた」 ラージーとは、彼らの言葉で『師匠』という意味だろう。 「ほう・・・・・・。ならば、南の山脈の麓に行って、俺達の仕事をすませてこい」 「嫌よ」 ラファエルは即答した。 「それならば・・・・・・」グランバックは、メルフィアをラファエルのふところからまさぐりだした。「こいつを預かっておく。三日後にここにきて、『ファスレム』と交換だ」 そして、グランバックはラファエルを解放した。 「シェリア様、これでいいのですか?」 夜明けを直前に、シェリアの幼き頃からの親友、ヘレバート・ユリアン『憂える聖騎士』が、シェリアに訊いた。 「私は、戦いたくありません、『大いなる平安』。平安を求めるならば、戦争をするべきじゃないと思います」 「『憂える聖騎士』よ、騎士ならば民を護らねばならぬ。『憂い』を被らぬように、民の平安を確保するべきなんだよ」 シェリアはこともなげに言った。 「しかし・・・・・・私は賛成できません」 「僕だって、戦争は嫌なんだ!」 シェリアンス・ラーガジンクスは言葉を荒げた。 「できることなら、誰も傷つかぬように収めたいよっ! だけど、言葉で言うほど綺麗なことなわけじゃないんだ、この戦いは。どちらかが勝とうが負けようが、麓までの被害は甚大なるものになるに違いない、民とは木と動物とエルフ達なんだ!」 ヘレバートは、言葉をなくした。 やがて、シェリアは言った。 「迷いはない。必ずや、木々が僕達を導いてくれる。森と山を守り抜き、必ずエルフ達の平安は僕達が護るんだ」 「ええ、シェリアンス・ラーガジンクス。親友『憂える聖騎士』は、命に代えても、民の人々を護り抜きたいと思います」 齢は十八、若きエルフが微笑みあった。 「メルフィア、待ってて」 ラファエルは呟いた。 「絶対、メルフィアも、そしてファスレムも守り抜くんだから」 力強い言葉と同時に、細く儚げな足が力強く山の、森の木々の枝を蹴り、駆けていく。 「木々の導きがある限り、私は『追跡者』なんかに負けてたまるもんですか」
|