「雅人君、悪いね〜。朝早くから化学室の片付け、手伝わせたりして〜」 「いやまあ、先輩にゃいつも世話になってるからな」 ここで問題なのは、その内訳が主として、化学室でお茶していることについてなのだが。 「あ、その薬品、臭いがきついから気を付けてね〜。服とかについたら一週間は取れないよ〜」 「心配するな、そういう時のための精霊だ」 「Hahaha、Boss。カナディアンジョークがきついぜ」 「やかましい、とっとと準備室にに行って洗い流してこい」 「Oh、no」 大仰なリアクションと共に隣室に消えたのは、俺が使役する使い魔の片割れ、トミーだ。本名は富之という完全無欠の日本人なのだが、精霊がその姿を自在に変えられることを利用して、筋肉肥大型の黒人になった変わり者だ。昔は知的なジョークも解し、線の細いお兄様といった感じだったのだが、今では見る影も無い。 「大丈夫かな〜?」 「まあ平気だと思うけどな。いくらあいつが腕力しか能が無いと言っても、この程度の仕事、小間使いにだって――」 「Boss! このガラス瓶にこびり付いた黒いのどうなってるんだい? いくら洗剤をつけても落ちないぜ」 「わ、わ、わ。それは先にアセトンで洗い流さなきゃダメだよ〜」 「そうなのかい? ところであぜとんっていうのは何処のメーカー製なんだい?」 一応解説しておくと、アセトンって言うのは正式名称、ジメチルケトン。有機化学系の研究ではメジャーな溶媒で、試薬を溶かし込む以外に、実験器具を洗い流す際にも用いられる。逆に言えば、それだけ有機物質の溶出力は高い訳で、化学繊維なんかに掛かってしまうと、微量でもボロボロになってしまうことがある。 「お〜ま〜え〜は〜。こんだけ化学室に居座って、何を見て来たんだ!?」 「Hahaha、面白いことを言うぜ。俺が自分の肉体美以外に、何か興味があると思うのかい?」 言い切った。こいつ言い切りやがった。 「もういい! あとは俺と芽依で何とかする」 「Uh、Boss。そういえば言わなきゃならないことがあったぜ」 「何だ。気が立ってるから手短にしろよ」 「メイから何だが、『旅に出ます。探さないで下さい』だそうだ」 「あんにゃろ、逃げやがったな」 芽依というのは、もう一人の使い魔だ。.外見は十二、三歳程度の少女精霊なのだが、空気を操ることが出来、重宝する。この際だから換気扇代わりにしてやろうかと思っていたのだが。 「芽依ちゃん、反抗したいお年頃だもんね〜」 「いや、先輩。それは好意的に解釈し過ぎ」 「Haha。メイも意外と信頼されて無いんだな」 「お前だけはそれをゆうな!!」 ああもう。突っ込み所が多過ぎるわい。己の境遇を呪いつつ、今日もいつも通りの日々が始まるのだった。 「んで、亜沙。とりあえず言い訳くらい聞いてやろうか」 二限終わりの休み時間。俺は感情に任せて暴走したいところを何とか制御して、亜沙を詰問することに精神を向けていた。箍が外れてしまえば、どうなってしまうか保障は出来ないが。 「や、やだなあ、雅兄ぃ。人を更正不可能な不良少年みたいに言わないでよ」 「何が言いたいのかは分からんが、とりあえずその暴力団構成員みたいな呼び方はやめろ」 人間、精神がここまで昂ぶると、逆に冷静な判断で違和を見つけ出すことができるものらしい。 「い、いや〜。まあ、話は簡単なのよ。私、占い師でしょ?」 「小遣い銭稼ぎ程度をそう呼んでいいなら、分類できんことも無いな」 「それで世のお嬢様方が何を占って欲しいかと言えば、やっぱり色恋沙汰な訳じゃない」 「ほうほう。まあそういうものかも知れんな」 「ということは、私の株価は、この学校のラブコメ度や、ゴシップ度に大きく依存すると言っても過言ではない訳で――」 「んで、俺と芽依が出来てるって根も葉もない噂を流した訳か」 「てへ♪」 「一応言っておくが、全く可愛く無い上に、時代錯誤で使い古されたネタだ」 良くもまあ、たかだか二、三文字に対してここまで突っ込ませてくれるものだ。 「でもでも、我ながら良く出来た文章だと思うのよ。『熱愛発覚! 女たらし清水雅人の本命は美少女小学生!!』 もうこのまま新聞部に持ち込もうかと思ったくらいで――」 どうもこいつは、喋れば喋るほど、逆鱗をタワシで磨いていることに気付いていないらしい。 「だぁほぉ! 誰が女たらしだ!? 芽依は精霊で、自称中学生だ! お前は場末の大衆紙記者か!? 熱愛ってどう考えても事実無根だろ! つうか、どんな強引な妄想だ!!」 ちなみに、俺は別にツッコミの日本、ないしは世界記録を狙っている訳では無い。 「あ、そっか。じゃあ、クエスチョンマーク入れとくね」 「……」 ああ……何かもう疲れた。 三限目開始のチャイムが遠くに聞こえる中、俺は憤懣やる方無いといった感じで、自身の机に突っ伏した。 「雅人〜。ご飯一緒に食べない、って、何でそんなに枯れてる訳?」 「いや……人生ってのは本当に波乱に満ちていた方が良いのかどうかを本気で検証してみてるところだ」 風花の語り掛けに、首だけ動かして応えた。何だか、ダメ人間の気分だ。 「ふーん、良く分かんないけど御苦労様。それで今日も学食?」 「まあな。適当にうどんでも食おうかなと。体育とかあった訳じゃないから、そんなに腹減って無いし」 「寂しい食生活してるわね〜。たまには芽依ちゃん辺りに作って貰うとかは無いわけ?」 「いや――トミーの奴が作るとか言い出したことはあったけどな。全力で以って拒否させてもらった」 「それはそれで酷くない?」 常識で考えればそうだろう。好意を無にすると言っても差し支えないかもしれない。 「だけど、トミーだぞ? 筋力増強の為、鳥のササミや温野菜の日々になるかも知れん。逆に、アメリカ風の高脂肪高カロリー食を延々食わされる羽目になるかも――」 『Haha――Boss。それは偏見というものだぜ』 「だぁ! 呼び出しても居ないのに、脳内に語り掛けるな!」 使役型の精霊って奴は、術者からそれほど離れることが出来ない。だから、姿を見せない時でも、それなりに近くに居る訳で、こと会話に関してはプライバシーが皆無だ。 「はぁ、精霊士ってのも大変ね。何だったら、切り裂いてあげようか?」 「そういう独裁者的な発想は極めて危険だと思います」 意味も無く、敬語になってしまう俺だった。 「う〜ん、片瀬さんにも困ったものだよね〜」 学食にて。今ここに居るのは、風花と俺に加えて、途中で合流した純也と、自分に都合の良い時にしか姿を現さない芽依だ。食事内容は、俺は予定通りのキツネうどん。風花は持参の弁当で、純也はAランチだ。そして、芽依は――。 「冷麦、美味しい」 「毎度思うんだが、良く漬け汁無しで食えるよな」 芽依曰く、茹で汁と練り込まれている塩分だけで充分美味らしい。つるつるっと口の中に流し込む食感も醍醐味だと思うのだが、まあ、他人の食べ方に文句を付けるのも大人気ないのでそれ以上は何も言わない。 「ん〜。つまり芽依ちゃんと噂になってる訳だ。良いじゃない。そういう恥は若い頃にしかかけないんだから、良い思い出だよ、うんうん」 何故だろう。風花の発言が、夜店の風船よりも軽く、オブラードよりも薄っぺらいものに感じられた。 「でもまあ、済んだことは仕方ないよ。問題はどうやってその噂の信憑性を下げるか、或いは忘れさせるかといったところだね」 建設的な案だった。流石は哲学者にして、数少ない常識人、宮内純也だ。 「それで、その具体的な方法は?」 「う〜ん、そうだね〜。こういう場合はもっと大きな事件とか噂を流して、カモフラージュする作戦が良く取られるかな。ほら、政治家の人も大事件があった日とか、重要法案が通る日とかにこっそり御都合的な法律提出したりするし」 さりげなく、代議士批判があった気もした。 「だから、さ。トミーって言ったっけ? もう一人の精霊と仲睦まじいって噂を流せば、芽依ちゃんとのなんてすぐに吹き飛ぶと思う、って雅人。何でうどんに顔突っ込んでるの? 熱くない?」 「……気にするな。哲学を志すためには、やはり凡人とは違う感性でなければならないと再認識したところだ」 「ありがとう」 ちなみに、褒めたつもりは全く無かった。 「くぉら、亜沙! ちょっとそこに直れ!」 五限目終了後の休み時間。再び沸いてきた怒りを発散するため、亜沙の机に突撃した。 「誰のことで御座いましょう。私は通りすがりの美少女怪盗アーシャ。片瀬亜沙なぞ、縁も縁も御座いません」 「思いっきりフルネーム喋ってるじゃねえかよ」 「……んで、雅人、何の用?」 あっさり、妙なキャラ入りを解きやがった。 「端的に言えば、噂を掻き消す為に尽力しろ。それが出来るのは、発信源であるお前だけだ」 複雑に生え広がった根っこも、理論上は幹を掴めば全て引き抜ける。経過した時間がやや問題だが、この際こいつに頼る他無い。 「それは無理でしょ。雅人、ネズミ講の被害金、全部回収できると思う?」 何だ、その喩えは。 「常々思うんだけど、マルチ商法考えた人って天才よね〜。指数関数的に増大する会員から中間マージンだけ抜き取ってあとはドロン。詐欺としてはこれ以上は無いってくらい理想的――ってキャー。雅人、痛い痛い」 全力を出せば、亜沙如き力で捻じ伏せることも可能なのだが、それではあまりに世間体が悪い。なので、こうやって両の拳で以ってコメカミをグリグリする、梅干攻撃で我慢してだな――。 『やだー。清水ってば、また亜沙苛めてるわよ』 『所詮、小学生に手を出した奴ってことよ。人間関係を構築できないのね』 ……もしかして、現時点で十二分に悪人扱いなのか? 居た堪れなくなって、その場から逃げ出す俺なのであった。 「それで六限目とホームルーム、サボっちゃったの〜?」 「まあ、な。人間、逃げるってのは割と簡単だが、元の鞘に収まるのはその何倍も大変だと実感させられたよ」 放課後。俺は化学室でのんびりお茶を楽しんでいた。果凛先輩が淹れるのは主としてパックの紅茶であり、カフェテラスなどで出されるものに比べれば味は劣る。だけど、雰囲気が良いのでついつい入り浸ってしまう。まあ、素人さんには500mlビーカーとガスバーナー、それに純水を用いて煮出される映像はそれなりにショッキングなものの様だが。 「今度、氷と食塩使って、アイスクリーム作ってみようと思うんだけど〜。凝固点降下現象で、−20℃まで下げられるんだよ〜」 「たしか、ドライアイスにアルコール加えれば、−70℃くらいになるんじゃなかったか?」 「あ、そうだね。冷えてた方が良いもんね〜」 軽い冗談のつもりだったのだが、真に受けてしまったらしい。まあ、食うのが俺じゃなければ良いか。 「でも雅人君、これからどうするの〜? まさか明日もここに篭もるなんて言わないよね〜?」 「いや、対策を立てたから大丈夫だ。何だかんだで純也の奴、良い方向性を示してくれたよ」 「ふ〜ん。なら良いんだけどね〜」 細工は流々。あとは仕上げを御覧あれといった感じだ。時間的にもそろそろ――。 「くぉうら、雅人ぉ!! わりゃ、何の真似じゃぁい!」 予想通りの反応で、こちらとしては実に嬉しかったり、拍子抜けだったり。 「よう、亜沙。思ったより早かったな」 扉を開けて乱入してきたのは、自称美少女怪盗――もとい、美少女占い師、片瀬亜沙だった。普段はお調子者と言っていい性格なのだが、本気で頭に血が昇ると、一昔前の借金取り並に凄みが増す。これが面白くて、こいつとの付き合いはやめられない。 「あ〜、雅人! ちょっと、大変なのよ」 次いで飛び込んできたのは、時代錯誤の帯刀娘、一ノ瀬風花だ。その右手には、一枚の紙片が握られており、それが元凶であることを推察させてくれる。 「あ、これ、新聞部の号外だ〜。え〜っと、『禁断の愛!? 占い師アーシャ、恋に焦がれるお相手は学園最凶の生物、一ノ瀬風花様』だって〜。へ〜、そうだったんだ〜」 何故か素直に納得する先輩であった。 「ん〜。学園最凶ってことは、どう考えても褒めてないけど、様付けってことは敬意を表してるってことでいいのかな?」 風花の方はと言えば、何だかどうでも良い部分を気にしている。本文はどうでもいいんかい。 「むぁすぁとぉ〜〜。この情報、流したのワレやろがぁ」 最早、原型を留めていない俺の本名。ああ……この名前を一生懸命考えてくれた親父とお袋。正直、済まんかった。 「まあ、落ち着け」 指を軽く鳴らしてトミーを呼び出すと、亜沙を羽交い絞めにさせる。何やらジタバタもがいている様にも見えるが、関節は完全に極まっているので、激痛に耐えかねてすぐ大人しくなるだろう。 問題なのは、変な脳内麻薬でも出て、痛覚等が麻痺している可能性だが、ま、その時はその時だ。 「やー、亜沙、良かったな〜。これでゴシップ好きのお嬢様方が盛り上がって、間接的にお前の利潤も上がるって寸法だ。いや、礼には及ばないぞ。友人として出来ることはしてやらないとな」 「って、その話題の中心が私じゃ、お客なんて来る訳無いでしょうが〜!!」 少し冷静になってきたのか、口調が激昂程度に下がってきていた。 「え、何々? これって雅人が流した訳? ちょ、ちょっと何の真似よ!?」 「良かったじゃないか、風花君。この様な恥は若い内にしかかけないのだから、良い経験だよ」 器の小さい男と思う人も居るだろうが、事実、俺が溜め込める分量は、お猪口の裏側がせいぜいだ。 「雅人、ビラ撒き終わった」 「御苦労さん、芽依。報酬は何が良い?」 「冷麦食べたい」 ――まあ、個人の嗜好にケチを付けるのはやめておこう。 「こら、雅人! こっち向け! 目を合わせろ! ○凹×凸! \♪$∬!!」 とりあえず、日本語では無い言語で、何かを喚き散らす亜沙のことは無視しておく。きっとあれだな。占い師には独自の公用語があって、明日の運勢でも調べてるんだ。間違い無い。 「ん〜、まいっか。悪名なれどそれは名声ってどっかのお偉いさんも言ってたし」 「……」 大物過ぎます、風花さん。 西日が差し込むことの無い、夕暮れ時の研究室。俺は底の無い恐怖を覚えつつ、そんなことを思っていた。 ってな訳で、今日も今日とて俺の一日は、いつも通りに幕を閉じた。 |