邂逅輪廻



 バレンタイン。それは、恋人達の為の祭典。由来は、ローマ帝国まで遡ると言われる。当時、二月十四日はローマ神話の女神、ユノの祝日だった。又、翌二月十五日は豊穣祈願の為に行われるルペルカリア祭でもある。祭の前日、未婚の女性は、桶に自分の名前を書いた紙を入れる。祭当日、未婚の男性はその中から一枚を選び、祭のパートナーとしてエスコートするのだ。そこから恋仲となり、結婚に至ったカップルが少なからず居たことは想像に難くなく、現代のバレンタインの雛形が見えると言っても良いだろう。
 さて、時の皇帝、クラウディウス二世は、兵の士気が上がらないことが悩みの種だった。その原因が、故郷に残した家族を思う気持ちであると決め付け、兵士達の婚姻を禁止してしまう。余りに乱暴な話だが、皇帝の命令故にまかり通る。だが、兵士達を哀れに思い、現代のイタリア中部に住む司祭、バレンタインは、密かに若い兵士の結婚式を執り行った。時を待たずしてそれは露見し、バレンタインは捕らえられ、処刑されることとなる。その日付は敢えてルペルカリア祭の前日、二月十四日が選ばれたという。余りに残酷な処置に、人々は聖バレンタインを悼み、この日を恋人達の為のものにしたという。
 これには、余談があるとされる。前述の通り、二月十四日は元々、ローマ神話、或いはギリシャ神話に基づく祭日だ。当時、新興宗教であったローマカトリックは、いわば異教であるこの祭を排除したいと考える。しかし、庶民に根付いた信仰を頭ごなしに抑えつけても反発を招くだけである。それ故、殉教した聖バレンタインを利用し、キリスト教由来の祭日であると摩り替える目的があったと言うのだ。踏み込んだものには、クジで結婚相手を選ぶルペルカリア祭の乱暴性から、これ自体が捏造であるというものまである。
 由来の真実はどうあれ、ローマカトリックの思惑は概ね成ったと言えるだろう。お菓子業界の参入という、意味不明な要素は混じったものの、ほぼ全ての日本人が、純粋にキリスト教由来の伝統だと信じている。カトリック信者が一パーセント程度という比率から見れば、驚異的な浸透率でさえあると言える。この国の住人が、宗教に大らか過ぎるという要素もあるが。
 とは言え、恋する乙女にとっては、こんな成り立ちなどどうでも良いというのも又、真理。これはそんな一人の少女の、ちょっとした思い出である。


「寒っ――」
 二月半ばの風は、頬を切るかの様に冷たい。今は、一年で一番寒い時期だ。天気予報でも、雪が降る可能性があると言っていた。ここのところ、余り見てないし、それもアリかなって思う。
「それにしても、私ってば、何しちゃってんのかなぁ」
 今日、二月十四日は、聖バレンタインデーだ。同時に、私達の学園の入学試験日でもある。何で依りによってこんな日にやるのかとも思うけれど、一学年六百人近く、しかも門戸の広さで知られるだけに、日程的に他の高校と被らないことが優先される。結果として今日になってしまっただけで、他意は無いのだ。納得はしてないけど。
 何をこんなに怒ってるって、ほら、こっちにも事情があったのよ。試験で休みになるのは嬉しいけど、出来れば昨日か明日にして欲しかったかな、って。学園中が盛り上がってる中なら、勢いで渡せるかなって思うでしょ。そのつもりで先週の内にチョコレートを買ったのに、今日が休みだって知らされて……いや、そう言えば、順子がそんなこと言ってた気もするんだけど、舞い上がって忘れちゃってたし。折角、ダミーに千織のも用意したってのに、どうしろって言うのよ。
「はぁ」
 八つ当たりにも似た自分の感情を、何処か他人事の様に思いつつ、私は学園を見詰めた。朝から何もすることが無く、何とはなしに足を運んだけど、当然、入ることは出来ない。誰かと遊びに行こうかとも考えたけど、目ぼしい子は皆、彼氏持ちだ。今日、邪魔をしたら、後で殺されても文句は言えないだろう。かと言って、今日、公康を呼び出すことは――無理、絶対、無理。そんな期待させるみたいなこと、出来る訳が無い。それをやれるくらいなら、こんなに悩んだりしないから。
「あぁ、もぅ!」
 自分でも、受験生に取って大事なこの日に、こんな奇声を上げる女は不謹慎だと思う。何か、門に立ってる先生がこっちを睨んでる気もするし。
「帰ろ……」
 もう、何も考えずコタツに入って、ミカンでも食べようと思う。今日という日を抹殺して、明日、何事も無く登校しよう。そこで一日遅れのバレンタインが行われてる様だったら、流れで渡す機会を探ってみよう。軟弱極まりない自分を、嫌いになりそうになった。
「ん? りぃ、何してるんだ?」
 心臓が爆ぜるんじゃないかって思った。視界に、昔の少女漫画みたいな星が散らばるし、ビックリしたなんてものじゃない。
「き、公康!?」
「僕も居るよ」
 後ろから、ひょっこりと顔を出したのは、千織だった。
「な、何で二人がここに居るの?」
 それは私も同じなんだけど、説明出来るだけの材料が無いので、先に説明を求める道を選んだ。
「学校というものは、休みの日にこそやってきたくなるものなのさ」
 公康のいうことは、かなりの確率で意味が分からない。
「りぃは何してんだ?」
 だから、私には説明出来る様な理由が無いんだってば。
「いや、別に。やること無かったから何となく」
 こんな陳腐な返ししか出来ない自分が、本格的に恨めしい。
「俺と同じだな」
「千織も?」
「僕は、公康に無理矢理連れてこられた感じ」
 折角だから、私も誘ってくれれば良かったのに。
「まあ、何にしても、悪友三人が出会ったのも何かの縁だ。ちょっと歩くか」
「そ、そうだね」
 必要以上にギクシャクするのも不自然だし、ここはいつも通りの私で行こう。うん、そうそう。何事も、自然が一番だよね。
「しかし、俺らが知り合って、もう一年か〜」
「入学式で公康と交わした拳と拳の友情、忘れないよ」
「そんなの、ないない」
 普段通りの、馬鹿な会話だった。
「あと二ヶ月もしない内に、クラス替えだね」
「ま、俺達の場合、クラスが変わったくらいで疎遠になるってことも無いだろうけどな」
「そ、そうだよね」
 本当、だろうか。たしかに、クラスが違うだけだったら、急激に仲が悪くなるということは無いだろう。だけど、間違いなく交わす言葉が減る。お互い、意識的に会おうとしなければ、何日も顔を合わせないことだってあるかも知れない。そんな未来を想像して、血の気が引くのを感じた。
「だったら、今の内に……」
「何か言ったか?」
「う、うぅん、何でも」
 あ、危ない、危ない。独白が漏れるなんて、私も随分、末期的だよね。
「ん?」
 頬に、何か冷たいものが当たった。
「雪?」
 それは、唐突だった。この広い世界を覆い尽くすみたいに、綿毛みたいな牡丹雪が降り注いできたのだ。風は殆ど無いから吹雪じゃないけど、あっという間にそれはピークを迎えて、向かい側の電線さえ見えないほどになってしまう。流石にこれは厳しいから、私達は急いで木の下に潜り込んだ。
「うぅむ。これは雪女が出てくる前触れだな」
「そこなの?」
 やっぱり、公康の言うことは分からない。
「あれ? 千織は?」
 ほんの少し前まで一緒に居たはずなのに、その姿は何処にも見えなかった。
「ちぃ、はぐれたか。あれほど雪山での単独行動は死を招くと言っておいたと言うのにっ!!」
 いつからここは、雪山になったんだろう。
「まあ、あいつのことだ。ふらふらと美人のお姉さんについていって、気付いたら大雪の中で、俺らを見失ったに違いない」
 今時、犬だって、そんな間の抜けたことはしない気がする。
「って――」
 ようやく気付いた。今、私は公康と二人っきりなんだ。鞄の中のチョコレート、渡そうと思えば渡せるんだ。ち、千織が戻ってくるか、電話を掛けて来ない内に――出来ないよぉ。黙って差し出すだけでいいこんなチャンス、来ないかも知れないのに。
「なぁ、りぃ」
「は、はひぃ?」
 既に、日本語であることさえ捨て去ってる気がする。
「傘とか持ってないか? こりゃ、やみそうも無いし、だったら積もる前に駅まで行った方が良いだろう」
 更にチャンスだった。これで、何の違和感も無く、鞄に手を入れられる。そしてそっと手渡すだけで良い。余りの緊張感で意識が朦朧となりつつも、何とか手だけは動かして、中をまさぐる振りをした。
「あー、それとな。さっき言ったことなんだが――」
「さ、さっき?」
 ドクンと鳴り響く心臓の音が聞こえた。えっと、どれだろ。頭の中で漠然としたイメージだけが暴走する感じで、明確な答を掴むことは出来なかった。
「いや、クラスが違っても変わんないみたいなこと言ったけど、やっぱ、一緒になれたら良いよな」
 多分、私の顔はポストやリンゴもビックリなくらい真っ赤になっていたんだと思う。大雪になるくらい寒くて良かった。多分、公康は只の赤ら顔だと思ってるはずだから。
「うん、そうだね。また一緒になろうね」
 言いながら私は、そっと鞄を閉じた。
「ゴメン、傘、もしかしたらあるかもって思ったけど、無かった」
「そっか」
 きっと、これで良かったんだと思う。今はまだ、このままで良いんだ。無理に動いてこの関係を壊すくらいな、きっと――。
「公康〜、莉以〜。こんなところに居たの〜。僕、一人で寂しかったよ〜」
 雪のカーテンの向こう側から、綺麗に雪化粧を施した千織が姿を現した。
「おのれ、現れたな、雪男! 今日こそ雪女さんのメルアドを教えて貰うぞ!」
 雪男と雪女は別の伝承で、何の関係も無いと思う。
「あ……」
 舞い降る雪の切れ目から、ほんの少しだけ、陽が射した。雪はいずれ溶けて、海へと還る。だったら、私達の関係が、変わらずこのままということも無いだろう。また、いつかきっと。そう信じていよう。


 年度は明けて、私達は二年生になった。奇跡的にというか、私達は同じクラスに収まっている。順子曰く、『問題児は纏めて置いた方が、管理が楽』だかららしいんだけど。
「うむ、唐突だが、生徒会長に立候補しようと思う」
「はぁ!?」
 またしても、公康ってば何を言い出すのかなぁ。
「聞こえなかったのか、りぃ。俺は五月期の選挙に立候補する。これは全生徒に認められている権利であり、俺もその例外では無い」
 あー。又、何か良く分からないスイッチが入っちゃってるね。こりゃ、諦めて付き合わなきゃなんないかな。
 だけど、こんな時間は嫌いじゃない。変わらないことを選んだのだから、今を存分に楽しもう。そう、思った。


 了




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