「――……」 土縄町山中、神社の鳥居前。 そこに――鞘に納まった刀を抱えた男が、胡坐を掻いて座っていた。 彼は精神を集中しているのか、瞳を緩く閉じている。 しかし。 「……おい」 「ん、何?」 その集中は、ヘッドスピンを続ける奇人によって妨げられているのであった。 男は、ギロリとロニィを一睨する。鬼も逃げ出すようなその視線を向けても、カポエイリスタの回転は止まらない。 「余所でやれ」 「連れない事言わないでよ、1人でこんな事やっても詰まらないじゃないか」 「精神の練磨はこの場で出来る唯一の修行だ。それを邪魔するとは何事か」 「あー……さすがにこれじゃあ、もう打ち込みの訓練は不可能だからねえ」 ロニィは回りながら、周囲を見る。 生えていた木は残らず折られ、無残な姿を晒していた。男が木を相手に木刀での打ち込みを繰り返し、作り出した惨状である。 「それとも、貴様が私の相手でもしてくれるのか?」 「冗談、桃生のナンバー2と闘う気はありません。少なくとも、君の雲耀の太刀を攻略する術が見付かるまではね」 「……ふん。我が流派の極致、攻略など叶うものか」 そこで、会話が中断した。 響き渡るローター音。1機のヘリコプターが、神社に近付いて来ている。 「あれは……?」 「リンクスだよ。英国陸軍とかが運用してる汎用ヘリ」 「……何だと?」 「そうだ、それを伝えに来たんだった。あいつが、英国から帰って来てるんだってさ」
「瑞枝、前から気になってたんだけど」 「はい、何でしょう?」 俺は瑞枝と一緒にコンヴィニで買い物をしつつ、尋ねる。 旅館のメシは美味いが、朝と夜しか出ないのだ。よって、昼飯は自力で調達せねばならない。 ……や。自力も何も、俺は瑞枝の金で食わせて貰っているだけですが。 「前もその前も、お前ってどこからか桃生の情報を仕入れて来るよな。どういうカラクリなんだ?」 「……話しても良いですけど……後悔、しませんか?」 「え、うぇっ!!?」 「ふふ、冗談ですよ。内調の国内部門に知り合いがいまして。その方から、色々と情報を頂いているんです」 「内調って……内閣情報調査室、だよな?」 「はい」 内閣情報調査室とは、我が国日本の情報機関だ。 アメリカのCIAとか、そういうのと同類だと思えば良い。別に、CIAみたいな派手な事はしてないだろうけど。 「な、何でそんな所に知り合いが……」 「私はこう見えても、格闘技界で最強と謳われていた鳳仙院流空手道場の一人娘にして一番弟子ですよ? それくらいのコネはあります」 「ふぅん……お、焼肉弁当発見」 籠に投げ込み、レジで会計を済ませる。 金を払い――払って貰い――店を出た。 ……瑞枝と並んで歩きながら、呆っと考える。 「――……」 格闘技界で最強と『謳われていた』、鳳仙院流空手道場。 過去形だ。 「……ん? 珍しいな、ロールズ・ロイスだ」 正確な発音はロールスじゃなくてロールズらしいぞ、あれ。 「え!? ロールズって、あの高級車ですかっ!?」 ……釣れた釣れた。面白っ。 キョロキョロと、周囲を見回す瑞枝。そんなに見たいのか。 まぁ、気持ちは分かる。乗るのは無理だから、せめて見るだけでも――そんな、健気な想い。 「……って、こんな田舎にそんな車が走ってる訳ないじゃないですか」 「確かに、走ってはいないな。上、上」 天を指差す。 空を進んで行く、ヘリが1機。ウェストランド・リンクスだ。 「……どう見てもヘリですよ?」 「ヘリ以外に見えるなら病院行きだな。あれ、エンジンはロールズ・ロイス社製なんだよ」 「エ、エンジンだけですか……」 「にしても、本当に珍しいなぁ。こんな所でリンクスだなんて、ロールズの車以上にレアだぞ」 ……と言うか。 珍し過ぎるだろ。日本には輸出されていないし、無論自衛隊に配備されてるなんて事もない。 「……まぁいいや。そんな事よりメシだメシ」 「そろそろ、神社を攻めてみようと思うんですよ」 クーラーの効いた旅館で焼肉弁当と幕の内弁当を体内虚数空間に葬っていると、瑞枝がそう宣った。 「……いくら何でも、無謀ではあるまいか」 「分かってます。まぁ、偵察のようなものですね。戦略的ジャブですよ」 「ふーん……大将兼戦士兼斥候か。瑞枝軍は大変だな」 「軍師は別の方に任せていますから、それ程悪い訳ではありません。で、その軍師の意見としては?」 「まぁ、あんまり深入りしなければ大丈夫か。どうせいつかは行くんだろうから、多少の見聞は必要だよな」 「では、決まりですね。兵糧もお腹に入れましたし、善は急げです」 と言う訳で、出発。 パンフの地図を頼りに――地元の人に尋ねたりもしつつ、件の神社へと向かう。 「つーかこの山、俺がテント張ってた山じゃん」 「ですね。何の偶然だか……」 登山開始。 ヘコヘコと、山道を進軍。 にしても、車椅子で良く登るなぁ。スパイク付きタイヤか。 ……うー、暑い。 「そうだ。訊いてみようと思ってる事があったんだ」 「……? 何です?」 「剣道三倍段ってどうなんだ? お前って、剣道の道場破ったんだよな」 剣道三倍段っていうのは、要は『3倍強くないと刀持った人間には勝てねえぞ』という事だ。 「ははは、何を言ってるんですか。竹刀でペチペチ殴られたって、痛くも痒くもありませんよ。剣道のルールならそれで良いのでしょうが、道場破りはどちらかが倒れるまで終わりませんし」 「でも剣道場って、稽古用の木刀とかあるよな。それで打ち込まれたらさすがにヤバくないか?」 木の種類にもよるだろうが……まぁ、骨くらいは砕けるだろう。面を食らえば、死ぬかも知れない。 星丘市には木刀で俺を殴る奴がいるが、手加減されなかったら本当に死ぬんだろうな。 「……? 竹刀も木刀も、同じ木でしょう?」 そうでした。 金属バットで殴られても、平気な人でしたね。 「とは言え、例外はありますが。昔、とある剣道場を破りに行ったのですが……そこの師範を務めるお爺さんが、竹刀で巻藁を真っ二つにするような達人だったんですよ。いや、さすがに逃げ帰りました」 「……そうか」 世の中広過ぎ。 せめて、俺の眼が届くくらいまで狭くなって欲しい。 「じゃあ、相手が真剣を持ってたら?」 「それはもう、剣道ではありませんね。命を賭したら、スポーツではありませんから」 「む、確かに」 「まぁ、真剣を持ってると仮定するなら……剣道三倍段ならぬ、剣術三倍段は正しいかも知れません」 「ふーん……っと。喜べ瑞枝、どうやらそれを確かめられそうだぞ」 「……え?」 眼前には、古惚けた鳥居。 ……ま、それだけなら良かったんだが。 周囲は、木が折られ捲っている環境破壊風景。 そして。それを為したのであろう、銃刀法違反が1人。 「……来たか。思っていたより、ここに攻め込むのが早いな」 真っ黒いコートを着た、長身の男だ。この気候でその格好はどうなんだよ。 彼は立ち上がると、刀を抜き放つ。 ……キラリと夏の陽光を反射し、鋭気を放つ真剣。 となると、こいつが―― 「……マキさんを一刀両断した、あの袈裟斬りの犯人ですか」 「ああ。流派の東西は違えど――同じ剣士として、まったく嘆かわしい」 男は刀を身体の右上に持ち上げ、柄に左手を添える。 ……あの構えは、蜻蛉か。 長身の剣士が刀を立てて構える姿は、迫力が在り過ぎて踵を返したくなる。 「構えろ。闘いに来たのだろう?」 「……ッ!!」 静かな、威圧感。 何だこいつ。今までの桃生のメンバーとは、何かが違うぞ……? 「示現流兵法、浅倉剣司――一手所望する」 「……鳳仙院流空手、鳳仙院瑞枝。御相手致します」 やっぱり、示現流か。 示現流とは、かつては薩摩藩とその支藩のみに伝わっていた古流剣術だ。 その特徴は――蜻蛉と呼ばれる高い構えから、猿叫と共に振り下ろされる初太刀。 蜻蛉の構えは、防御には向いていない。初撃にて一撃必殺するのが、示現流の理念だからだ。この辺りは、空手に影響を与えているらしい。 ……その剣速は、雲耀といわれる。脈拍1回の、1800分の1の速さ――という意味だ。 そんな稲妻の如き打ち込みを、止められるはずはない。示現流の初太刀を受け切れず、己の刀の峰を頭に喰い込ませて絶命した者も、多々いたそうだ。 攻撃は、最大の防御――彼等は、それを形にしている。 「……ッ」 瑞枝は、攻め込めずにいた。 素人目だが、剣司とやらにはまったく隙がない。下手に挑めば、やられるのは瑞枝の方だろう。 剣司は刀を返し、峰を向けている。峰打ちで済ませ、命は獲らないつもりのようだが――それでも、打ち込まれたら大怪我は免れないはずだ。 「どうした? その逃げ腰、我が波平行安が笑っているぞ」 「く……ッ!」 ……両者の位置関係も、瑞枝にとっては不利だ。 瑞枝が剣司に拳を叩き込むには、彼の元まで山道を駆け登らなくてはならない。加速の悪い車椅子で、だ。 上に陣取っている剣司は、それを迎え撃てば良いだけ。刀は拳より間合いが遠く、確実に先に届く。 ……有利な位置を取るのも、兵法の内だ。しかも剣術三倍段とあっては、もはや勝ち目など微塵もあるまい。 「――……」 状況は動かず。ただ、時間のみが過ぎて行く。 剣司は鉄の塊を持ち上げているのに、まったく疲労している様子がない。鍛えてるな。 「……ッ」 とにかく、このままではいけないと思ったのだろう。瑞枝は剣司に向かって、踏み込もうとする。 が―― 「……そろそろ、リーダーが来る頃か。どうする? このまま粘ると、私とリーダーを纏めて相手にする事になるが」 彼が、不吉な呟きを漏らした。 瑞枝はそれに反応し、突撃を未遂に終わらせる。 「な……!?」 「あれは、2対1を躊躇う性格ではない。私のように優しくもない。……退け。死にたくなければな」 「――……」 逡巡は数秒。 その後に――瑞枝は、構えを解いた。 「……分かりましたよ」 それを見届け、剣司が納刀する。 ……張り詰めていた空気が、ようやく緩んだ。 「では、この勝負は引き分けで」 「ふん、そういう事にしておいてやろう」 身を返し、来た道を戻り始める瑞枝。 俺は剣士を一瞥した後、瑞枝の背中を追う。 「……まぁ何だ、敗けたな」 下山中、俺は瑞枝に言った。 彼女は俯きながらも、コクン頷く。 ……う。な、何か重傷ムード。 「はい、敗けちゃいました」 「で、でも、そんなに凹む事でもないんだろ? さっきだって、剣道の達人から逃げ帰ったって話だったし――」 「相手が違いますよ。剣の道を何十年も歩み、道場の師範になる程の達人なら、私みたいな若輩が敗れるのも当然ですが……彼は、そうじゃない」 ……確かに。 瑞枝と剣司は、そんなに歳が離れているとは思えない。 つまりそれは――彼我の実力差を、はっきりと表している。言い訳は通用しない。 ……生まれ持った才能の差か、重ねた努力の差か。あるいはその両方か。 「あの時も今も、私は敗けてばかりじゃないですか……どうしよう、鳳仙院は最強じゃないといけないのに。もう私しか、それを示せる人間がいないのに」 「――……」 何かこいつも、色々と大変みたいだな。 ま、今はそっとしとこう。俺は他人だし。 「優しいねえ」 瑞枝達が去った後の、鳥居。 木陰から、ひょいとロニィが現れる。 「……いたのか。私やあの娘に気配を勘付かせぬとは、貴様も食えん男だ」 「んー。でも、匠哉は気付いてたっぽいけど。気配云々ではなく、『どうせ見てるんだろうな』的な予想で」 「…………」 「話は戻るけど、君は優しいねえ」 「……あれは鳳仙院の娘だろう。ならば、うちのリーダーと遭わせる訳にはいかん」 「でも、それって一時凌ぎだよ」 くすくす、と微笑するロニィ。 剣司は不愉快げな眼で、カポエイリスタを睨み付ける。 「彼女は、桃生との闘いを止めはしないでしょ。ならば必ず出遭う」 「――……」 「そもそも――今でこそ大人しいけど、リーダーが彼女を放って置くとは思えないよ」 「かと言って、今すぐに闘わせる必要はあるまい。大将戦には、まだ早いと思うが」 「ああ……成る程。確かに、もう少し舞台を温めとかないとね。うん、納得した」 ロニィが、ヘッドスピンを始めた。 見るのも面白くないのか、剣司は回転人間に背を向ける。 「そう言えば、あいつはどうした?」 「あいつ? ああ、彼女なら街に下りてるよ。何しろ、久し振りの日本だからね」 「……そうか。面倒事を、起こさなければ良いがな」 俺は瑞枝と共に旅館に戻った後、街に出掛けていた。 桃生との戦いは、瑞枝が復活しないとどうにもならない。それまでの時間、適当に有効利用させて貰おう。 「……フッ」 俺は、とあるラーメン屋の前に立つ。 そこの張り紙には、こう書いてあった。 『超激辛☆超特盛☆羅刹ラーメン、30分以内に完食出来たら1万円贈呈!』、と。 1万円贈呈と聞いたら、黙ってはいられない。 「往くぞ――」 入店する。 星丘市のメシ屋を狩り付くし、賞金稼ぎとして恐れられていた俺の胃袋――その恐怖、とくと教えてやろう! ……え、相方が凹んでるんだから空気読め? 読めますよ、カラケでしょ? 「羅刹ラーメン1つ」 俺はどっしりと席に就くと、堂々と店員さんに注文する。 ざわ、と色めき立つ店内。俺の正気を疑うコメントが飛び交う。 「あ、あの御客様……」 「ん、何? 正気なんて、とっくの昔に置いて来たよ?」 「いえ……実は羅刹ラーメンは、1日1杯限定となっておりまして」 ぬ、そうなのか。 まぁ、そう何杯も注文されるもんでもないだろうしな。1万円贈呈も、何度もあったら困るだろうし。 「まさかもう、誰か食べちゃったとか?」 「それはまだなのですが……既に注文された方が」 店員さんが、ひょいと店の一角を見た。視線を追う俺。 ……そこには、ツインテイルのチビっ娘が。 チビっ娘はこちらを見ると、 「あん? こっちが先に注文したんだよ、とっとと失せろノロマ野郎」 毒舌を吐いた。 ……何だ、あの893みたいな眼。ありゃカタギじゃねえぞ。 しかし、金が掛かってるとなるとこっちも退けぬ。 「そっちこそ帰ったらどうだ? そのミニサイズじゃ、どう考えても超特盛は収まらないだろうしな」 「なッ、人が気にしている事をッ!! テメェ、表出ろやッッ!!!」 「あー、嫌だ嫌だ。身体が小さいと、器まで小さくなるんだなぁー」 「ぬぅあ……ブチ、ブチ殺すッッ!!!!」 一触即発。 しかし、店員さんが割って入る。 結局――2人同時に食べ始め、先に完食した方か勝者という事になった。 ……しばらくの後。 並んで座った俺とチビっ娘の前に、ドンと巨大なラーメンが置かれる。 ……赤い。とにかく赤い。 地獄の業火とて、ここまで凄惨な赤色はしていまい。 臭いも強烈だ。辛さとは即ち舌の痛みだと聞くが、こいつの臭いは鼻から入って頭蓋を貫通。この世のモノとは思えない激痛が、脳を崩壊させようとする。 何より恐るべきは、そのサイズだ。 ここまで来ると、もはや畏怖の対象として礼拝すべきかも知れない。そんな霊峰じみた、超弩級の物体だ。 ……興味本位で覗き込んだ客が、悲鳴を上げて転げ回る。 「あ、あぁぐ、ひぎゃああああああッッ!!!?」 「……ッ!? 馬鹿め、恐い物見たさで視界に入れるから……!!」 「や、止めろ、勘弁してくれ、こ、この悪魔め、俺の脳に入って来るなァァあアああッッ!!!!」 「御客様、御客様ッ!! 気をしっかりッッ!!!!」 「は、ハはは……? そうか、これがあの男が言っていた内側への鍵か……ッ!! 見たか、異次元の節足動物めッッ!!! 俺は木星の知られざる衛星に辿り着き、三千世界の隠匿されし秘密を知る事になるだろう……ッッ!!!!」 「ボケっとしてんなッッ!!! さっさと救急車を呼べぇぇッッ!!!!」 「フハハハハ、愚かな月人どもッ!!! 私はお前達が探し求めていた境界に辿り着くぞッッ!!!! 滅び去った貴様等の代わりに、この私が、スコルネーレのエリ・セレントゥスに拝謁するのだ……ッッ!!!!」 その御客さんは精神が壊れたのか、意味の分からない事を口走るばかり。 ……で。そんなグレートオールドワンズじみた食物を前にした、俺達は。 「――……ッッ!!!!」 ソレの放つ絶望的なエナジィを、どうにか耐え切っていた。 とは言え、テーブルの相手側は見ない。アレが2つも視界に入ったら、さすがに魂がブッ飛んでしまう。 「えー、制限時間は30分です。完食して頂ければ1万円を贈呈致しますが……もしスープの1滴でも残ってしまった場合、代金の5000円を払って頂きます。宜しいですね?」 「応よ」 「分かってるから、さっさと始めろっての」 「……では、構えて」 割り箸を手に取る、俺とチビっ娘。 店員さんのストップウォッチを、注視する。 「――始めッッ!!!!」 「頂きます……!」 「頂きまっすッッ!!!!」 パキン、と。 箸の割れる音が、店内に響いた。 「捕まえてみてよ、タクヤく〜ん♪」 「ははは、待てよカグヤぁ〜♪ っと、捕まえたぞぉ♪」 「ふふ、捕まっちゃった〜♪ ――と見せ掛けて、六宝剣レプリカ全弾発射ッッ!!!!」 「――ふんもっふッッ!!!?」 「……はッ!!?」 現世へと帰還する。 どうやらラーメンを口に入れた時のショックが強烈過ぎて、意識が飛んでいたらしい。 時計を見る。どうやら、飛んでたのはほんの数秒だ。 しかし、早食いではその数秒が大きい。急がなくては。 「何が恐怖を克服する訓練だ、ふざけんなよ教官ッ!!! 止めろ止めろ銃を向けるな、抗弾ベストを着ててもライフルは防げねえだろ……はッッ!!!?」 どうやら向こうも、こっちの世界に帰って来たようだ。 俺達は一気に、地獄から来たラーメンを掻き込む。今度は飛ばされないように、意識をしっかりと持って。 「うぉぉおおおおお……ッッ!!!!」 ……死ぬ。 これは、死ぬ。 血管や神経を通って辛味が全身に回り、細胞を1つ残さず陵辱した。 脳が限界を軽く突破し、荘厳な天使の音楽を響かせる。 ……諦めるな。 お前は、何のためにこれを食っている? そう、忘れるな。辛味に全ての脳細胞を殺されても、大切なものだけは忘れるな。 ……いや。忘れるはずなんてないのだ。 1万円が、欲しい。それは脳が生み出した目的ではなく、魂が突き動かす衝動なのだから――! 「……やぁああぁぁああああああッッ!!!!」 丼を持ち上げ、丸呑みに掛かる俺。どうせスープも消化しなくてはならないのだから、こっちの方が手っ取り早い。 しかし、敵も然る者。同じようにして、丸呑みしようとする。 ……頭蓋骨の内側で七色の妖精がダンスを踊っているが、気にしている場合ではない。 「ぶはぁっ!!!」 ドン、と丼をテーブルに置く。 月見匠哉、完食。 しかし――同時に、相手のチビっ娘も食べ切っていた。 ……早い方が勝ち、というルールだ。これでは困る。 「ど、どうしましょうかね……?」 「おいコラ店員、テメェの眼は節穴かッ!!? オレの方がちょっとだけ早かっただろうがッッ!!!」 「しかし、そう言われましても……!」 店員さんに、食って掛かるチビっ娘。 やれやれ、困った客だな。 「チビっ娘、俺の勝ちだよ」 「んだと、テメェ――」 「だって、お前はまだ完食してない」 「……は?」 俺は、チビっ娘の丼を指差す。 その中には、麺が1本だけ残っていた。 「な――そ、そんな訳ねえッ!!! オレは確かに全部食べたッッ!!!」 「見苦しいぞ、大人しく敗けを認めろ」 俺は店長さんから1万円を受け取ると、逃げるように店を出る。 ……チビっ娘は、最後まで不満を叫んでいた。 ま、そりゃそうか。だってあの1本、俺があいつの丼に放り込んだんだし。 「〜〜♪」 鼻歌なんぞを歌いながら、旅館に向かう俺。1万円最高。 良く考えると、あんなラーメン型化学兵器を処理して1万円ってのは安過ぎるんだが……まぁいいや。 「おい、そこのお前」 ……そんな上機嫌の俺に、誰かが話し掛けて来た。 「ん? 誰かと思えば……鳳仙院瑞枝と一緒にいた男か。確か、月見匠哉とかいう」 それは、あの浅倉剣司。 彼の手には、中身の入った竹刀袋が握られていた。真剣持ち歩くなよ。 「あ、さっきの侍」 「……侍か。そう呼ばれるのは、悪い気はしないが……やはり、恥ずかしいから止めてくれ」 視線を逸らす。 ……もしかして、照れているのか。 「分かった、剣司。で、何の用だ?」 こんな街中だ。いきなり、日本刀でスパーン! という事はあるまい。 ……ないよな? 「人を捜している。小柄で、髪を2箇所で纏めた女を見なかったか?」 「もしかして、物凄く口が悪かったりする?」 「……ああ、果てなく悪い。知っているのだな?」 「向こうのラーメン屋にいたよ。俺に大食いで敗けたのが悔しくて、暴れ回ってるぞ」 「チッ――早速問題を起こしているのか。感謝する、月見匠哉」 店に向かおうとする、剣司。 俺はその背中に、1つ問うてみる。 「なぁあんた、あいつとどういう関係なんだ?」 足を止める剣司。 少しの沈黙の後に、言った。 「……妹だ」 「そりゃあ……随分と似てない兄妹だな」 「……分かっている。人が気にしている事を言うな」 再び、歩を進める。 剣司は振り返る事なく、ラーメン屋へと向かって行く。 「やっぱり、まだ凹んでますか」 「……分かってるなら、放って置いてくださいよ」 俺が瑞枝の部屋に入ると、相変わらず暗い雰囲気の瑞枝がいた。 カビが生えそうである。 「いやね。このままお前がヘバってると、2人纏めて戦死しそうだからさ」 「――……」 「という訳で、こんな物を持って来た」 バッと、1万円を掲げる。 頭上に、クエスチョンが浮かぶ瑞枝。 「こいつで、何か美味いものでも食べるがいい」 「……え? 匠哉さん、そんなお金をどこから?」 「街を歩いていたら、ひらひらと天から降って来たんだ。きっと、神サマからの贈り物だろう」 「神サマとか、信じる人には見えませんけど」 「いや、そうでもないんだが……まぁとにかく、こいつを使って気分転換するんだ。別に食事じゃなくてもいいし」 「――……」 はぁ、と瑞枝は息を吐く。 顔を上げた時、少しはマシな表情になっていた。 「分かりました。何でしたら、一緒に行きます?」 「2人で行くと絶対に気を使って5000円ずつになるから、1人で行って来い。……それに正直な話、もう何かが食える状態じゃないんだ。色々な意味で胃袋限界」 「は、はぁ……? じゃあ、1人で行きますね」 「おう、そうしとけ」 部屋から出る、俺と瑞枝。 出掛けて行く、彼女を見送る。 ……ふう。お金のままプレゼントってのは、ちょっと無粋かとも思ったが……ま、自由に使えるってのは魅力だよな。 良い気分で、自分の部屋に戻る俺。 その油断が、原因だったのか―― 「……にゃんだと?」 部屋で待ち構えていた武装集団に、あっさり拉致られてしまったのであった。 「――……」 瑞枝は、駅前のラーメン屋にいた。 そこの張り紙には、こう書いてある。 『超激辛☆超特盛☆羅刹ラーメン、30分以内に間食出来たら1万円贈呈!』と。 「……頑張り過ぎですよ、あの人」 この店の恐るべきラーメンについては、瑞枝も噂に聞いている。死人が出ている、という話もあるくらいだ。 しかも、店員に話を聞いて愕然とした。今日挑戦した少年は、競争でアレを食べたらしい。つまり――30分の時間すら、与えられなかったのだ。 ……そこまでして得た1万円は、瑞枝の手中にある。 1万円程度、瑞枝が彼に施した金額と比べれば、少額だが。 ――それでも、そこに込められているものは違うのだろう。 「やっぱり、2人で使いたいですよね……」 とは言え、それも気の利かない話だ。 瑞枝は悩み、せめてずっと残る物に使おうと決める。 「ありがとうございましたー」 「――……」 9800円の、ペンダントを購入。シルヴァーの十字架だ。 首から掛けたままは何だか恥ずかしかったので、服の内側に隠す。 旅館に戻り――礼を言おうと、匠哉の部屋の扉を開いて。 「……これは」 その惨状を、目撃した。 『ツキミタクヤを返して欲しければ、13番地の廃ビルまで来い』 壁に大きく書かれている、禍々しい血文字。 ……そして。 その文字を書く際に、ペンとして使ったのであろう――人間の指が、数本。 誰の指かは、考えるまでもない。 瑞枝の頭から、一気に血の気が引き――冷めた脳が、静かに言葉を紡ぎ出す。 「……殺す。殺してやる」 部屋から、走り出した。 旅館を飛び出し、街を駆け抜けて敵地に急ぐ。 ……ビルを、見付けた。 迷いなく突入しようとした瑞枝は、しかし進行を止める事となった。 物陰から、ビルの入り口を観察する。 (銃で武装してる……?) 入り口の両脇には、アサルト・ベストを纏い、突撃銃を持った黒い戦闘服が2人。 突撃銃――コルトM4カービン。世界的に用いられるM16A2の銃身長を詰め、取り回しを良くしたモデルである。 (妙ですね……ただの不良集団の桃生に、どうしてあんな装備が……?) とは言え、問題はない。レイピアを帯剣していた連中と五十歩百歩だ。 雑魚は雑魚。例え、核ミサイルを持っていても――瑞枝に敵う道理はないのだから。 「――キェエエエイッッ!!!!」 猿叫を上げ、吶喊する瑞枝。 突然の怪音に竦んだ2人の兵士を、容赦なく殴り倒す。 ……ビルに突入。 すぐさま手近な部屋の中に隠れ、壁の向こうで足音が聞こえると―― 「いゃぁああああああッッ!!!!」 正拳突きの連打で壁を破り、纏めて兵士達も殴り飛ばした。 増援が現れ、遮蔽物に隠れたままMP5短機関銃のトリガーを引くが――瑞枝は倒した兵士を盾にして防ぐと、その盾を投げ付けて遮蔽物ごと敵を吹き飛ばす。 ……次々と現れる、黒服の兵士。 瑞枝は―― 「――『千手正拳突き』ッッ!!!!」 千の残像が映る程の速度で正拳を打ち、全員をあっと言う間に床に伏せさせた。 「…………」 行くべき道を、考える。 どうせ、待ち伏せはされているだろう。 ならば―― 「……やぁッッ!!!」 傍の壁を、破壊した。 わざわざ、敵の待つルートを通る事はない。 「――……」 瑞枝が最上階まで上り詰めると、そこには少女が待ち構えていた。 小柄な、ツインテイルの娘。他の兵士達と同じく黒い戦闘服を着ていたが、アサルト・ベストは身に付けていなかった。 銃器も持っていない。武器と呼べるような装備は、太腿のベルトに差された数本のナイフだけ。 ……あるいは。 その肉体こそが、無上の武器であるのか。 「チッ、役立たずどもめ。まぁでも、壁を破って後ろや側面を突く敵は初めてだろうからな……」 「……匠哉さんはどこですか、桃生」 「屋上に転がしてある。ふはは、見るに堪えない姿だけどなぁー!」 「――……」 怒りを、呑み込む。 そして、瑞枝は構えを取った。 「……鳳仙院流空手、鳳仙院瑞枝。参ります」 「フェアバーン・システム、浅倉撫子――戦闘開始!」 撫子は床を蹴り、髪をなびかせながら接敵する。 凄まじい速度で繰り出される、掌底の連打。瑞枝はそれを、手刀で防いでゆく。 ……否、防がなければならない。 何故なら、撫子の掌底は全てが急所である顎を狙ったものだからだ。打たれれば衝撃は脳まで届き、脳震盪を引き起こしてしまう。 しかもその掌底は、通常の掌底とは違い指を曲げている。顎を打つと同時に、眼を突いて潰すためだ。 ……1打でも受けてしまえば、それは敗北に直結する。 (けれど常に急所を狙って来るなら、逆に防ぎ易い――) 「うらァァァァッッ!!!!」 「――なッ!!?」 放たれた膝蹴りを、間一髪で後退して躱す。 膝には、間接を護るための皿――膝蓋骨がある。それを人間の体重を支える足の筋力で打ち出せば、必殺の武器となるのだ。 ……後退した瑞枝に、間断なく攻撃が続く。 間合いの長い、手刀や横蹴り。その全てが、人体の急所を狙って来る。 (この子、強い……!) 突出した何かがある訳ではないが――強い。 小さな身体を生かした素早い動きの中から、急所への攻撃が繰り出されて来るのだ。堪ったものではない。 「オラオラ、どうしたッ!!? やっぱ、お遊びの格闘技ってのはそんなモンなのかッッ!!?」 かつて英国海兵隊に、ウィリアム・エワート・フェアバーンという男がいた。 彼は上海租界の自治警察に勤めるため、1907年に上海へと渡った。フェアバーンはそこで、古流柔術と中国拳法を学んだという。 さらに彼は柔道も修め、帰国後は陸軍大尉として軍隊格闘術を指導した。 その格闘術こそ、フェアバーン・システム。現在の近接戦闘にも受け継がれている、軍隊格闘の源流武術である。 「――らァァ!!」 「ぐ……ッッ!!?」 肘打ちを、ガードする瑞枝。 しかし撫子は曲げていた肘を伸ばし、腕を鞭のようにして瑞枝を打つ。 「うぁ……ッ!?」 「――死ねよ」 そして瑞枝が怯んだ隙に放たれる、変形掌底による打顎。 アッパーのように打たれたそれを、躱そうとした瑞枝。 しかし、避け切る事が出来ず――顎と眼に掠られてしまった。 「ぅ――くッ!!?」 「オイオイ、弱ぇなぁ」 クリーン・ヒットしなかったため、気絶はしなかったが――それでも脳を揺さぶられ、平衡感覚に支障が出る。 眼もだ。潰されてはいないものの、一時的に視力が落ちてしまっている。 「英国帰りの、記念すべき初戦だぜ? もう少し楽しませろよ」 「……ッ」 「ま、所詮その程度か。最強最強吠えときながら、あっさりと根絶やしにされた鳳仙院流だもんなぁッ!!!」 「……黙れッッ!!!!」 瑞枝の心に、火が入る。 ペダルを踏み、撫子に向かって突っ込んで行く。 「ククッ、そう来ないとなッッ!!!」 撫子は右足で強く踏み込みつつ、右手の変形掌底を打ち出す。 踏み出した足と同じ側の手を攻撃に使う事によって、重心移動や体勢を沈める動きを、無駄なく打撃力とする事が出来るのだ。 その強力なカウンターを、瑞枝は―― 「――ッッ!!!?」 まともに、顎に受けてしまった。 深く瞼を下ろして眼潰しは防いだが、脳への衝撃はどうにもならない。 にやり、と笑う撫子。 「ハッ、これで意識が飛ん――」 直後。 瑞枝の正拳が、撫子の胴に突き刺さる。 まるで自動車と正面衝突したかのように、弾き飛ばされる撫子。 「か、はがァ……ッッ!!? ん、だと、馬鹿なッッ!!?」 「貴方に、良い事を教えてあげましょう……」 ゆっくりと、撫子に近付いて行く瑞枝。 撫子は立ち上がり、ふら付きながらも半身で構える。 「鳳仙院流の道場にいた頃、私はよく百人組手をやりました」 百人組手はその名の通り、1人の空手家が100人の相手と連続して闘う修行だ。 その過酷さ故に、達人でなければ挑む事すら考えないだろう。そして達人と言えども途中で倒れる場合もあるし、完遂してもすぐに病院に運ばれる事が多い。 「その最中、何度急所への攻撃を受けた事か。……分かりますか? 1発2発急所に喰らったくらいで、倒れる訳にはいかないんですよ。何発も喰らえば、さすがに慣れますしね」 「な――」 「まぁ、今の掌底はかなり効きましたけど――」 「ふ……ざけんなッ!!! 急所ってのは、鍛えられないから急所って言うんだぞッッ!!!?」 「肉体は日本刀と同じですよ。叩かれた分だけ、鍛え上げられるんです」 「……このッッ!!!!」 撫子は間合いを詰め、強烈な膝蹴りを放つ。 ダメージの残る身では回避が間に合わず、瑞枝は両の掌でそれを受け止める。 それしか防ぐ手段がなかったとは言え――やはり、その防御はミスであった。 「――死ねッッ!!!!」 撫子の腕が、舞う。 カップ状に丸められた両の掌が、瑞枝の両耳に襲い掛かった。 手中に溜めた空気を相手の耳に押し込み、鼓膜を破る技である。威力が強ければ、脳を揺らし致命傷を与える事も可能だろう。 しかし―― 「……ッ!!」 瑞枝は頭を退いて、インパクトを外した。 同時に止めた膝を押し、撫子を突き飛ばす。 そして―― 「キェエエイ……ッッ!!!!」 体勢を崩した撫子の額に、瑞枝の正拳が激突した。 彼女は床に後頭部から叩き付けられ、そのまま沈黙する。 「匠哉さん――!」 倒れた撫子の横を抜け、瑞枝は廊下を駆けた。 階段を腕力で上り、屋上への扉の前に立つ。 『屋上に転がしてある。ふはは、見るに堪えない姿だけどなぁー!』 「――……」 ……十字架を、握り締める。 瑞枝は覚悟を決め、扉を開いた。 そこには―― 「ふははは、2LDKだ〜……むにゃむにゃ」 「……へ?」 ダンボールと新聞紙に包まり、グースカと眠る匠哉が。 ……確かに、見るに堪えない姿ではあった。 「……あんな悪戯用の血糊とゴム玩具に、あそこまで騙されるか普通? 一体何に浮ついてたんだか」 ビル内部。 撫子は倒れたまま、呆れた様子で呟いた。 身体を動かそうとするが……思った通りには、動いてくれない。 「情けねえ……このオレが、たった2発でノック・アウトかよ」 「――それはどうかな? 一撃必殺の鉄拳を2度受けても生きてるんだから、大したものだと思うけど」 突如、屋内に現出する気配。 ロニィは微笑みながら、撫子に歩み寄る。 「テメェか。何しに来た?」 「リーダーから、君を拾って来いと命じられたんでね」 「……下の連中は?」 「あの兵士達は、僕の傘下のチームが運び出してるよ。……しかし、君の師も親馬鹿だよねえ。日本に帰る弟子に、ヘリと兵隊を貸してくれるなんて」 「……まあな。とは言え、その優しさが修行中に発揮される事はなかったが。ライフルで撃たれたし」 「修行とはそういうものだよ。分かってるだろうけど」 撫子を、ひょいっと肩に担ぐロニィ。 不服そうにする撫子。 「……荷物扱いか、この奴隷野郎」 「御姫様抱っこの方が良いかい?」 「そんな真似しやがったら、刺し違えてでもテメェを殺す」 「おー、恐い恐い。さ、戻るよ。シスコン侍が限界に達する前に」 「……鬱になるワードを出すんじゃねえよ……」 ロニィが、歩き始める。 と、そこで。フフフと笑って、こう口にした。 「ところで、撫子。君、どうして敗けたのか分かってる?」 「戦闘能力は大して変わらなかった。運の天秤が、少し奴に傾いただけだ」 撫子にとっては、当然の結論。 しかしロニィは、それを聞いて苦笑する。 「うーん、やっぱり理解してなかったか」 「……何だと?」 「君の武術は軍隊格闘術だろう。軍とは、民を護るものだ。それが建前と化しても、初めにその願いがあった事は変わらない」 「――……」 「なのに今日の君は、人質を取って敵を誘き出した。まるでテロリストの行いじゃないか。己の流派を裏切った者に、勝利なんて在り得ないよ」 「……その通りだな……クソが」 「以後、気を付けるようにね。じゃあ行くよ」 ロニィは、窓枠に足を掛けた。 撫子を担いだまま、窓から飛び出し――外へと脱出する。 「匠哉さぁぁああああああんッッ!!!!」 「――な、何だッッ!!!? 遂に日本スクラップ計画が動き出したのかッッ!!!?」 突然の大音響。 テロ攻撃かと思い、夢の世界から大至急帰還する俺。 「……って、瑞枝?」 「一体、何をしてるんですか……?」 「え? そんな事訊かれても……ん、何だっけか?」 「…………」 「あ、そうそう。あのチビっ娘、撫子とか言うんだっけ? 兵隊連れたあいつに捕まって、ここに転がされたんだけど」 兄は侍、妹は軍人。 ……恐過ぎだろ、浅倉兄妹。 「それで、どうして快眠してるんです……?」 「はっはっはっ、何を言ってるんだ。人が寝る理由なんて、睡眠欲しかないじゃないか」 「一応確認しますけど……指はあるんですよね?」 「……? 生まれた時からあるぞ」 「そうですか……釣られましたか、私は……」 「未だに何が何だか分からないが、お前がとても釣られ易いというのは分かった」 「…………」 ガックリ、と項垂れる瑞枝。 本当にどうしたんだ。俺を助けに来てくれた……というのは分かるのだが。 「とりあえず、救助感謝するよ」 「礼には及びません……とほほ。まぁ、無事で良かったです」 瑞枝に、笑みが戻った。 ……ん? 「お、凹みレヴェルが下がってるな」 「それどころじゃありませんでしたし……匠哉さんのお陰で、気晴らしも出来ましたしね」 「むぅ……その様子だと、1万円で余程オトクな買い物をしたと見た」 「そ、そういう訳ではありませんけど……ずっと、大事にしようとは思います」 「そんな事を言われると、何を買ったのかが非常に気になるのだが」 「私が頑張ってる時に、爆睡してるようなセコンドには教えてあげませんよ。さ、旅館に戻りましょう」 「……う〜ん、気になるなぁ……」 瑞枝が扉に向かい、進み始める。 その後姿に、俺は話し掛けた。 「なぁ瑞枝、お前は何回敗けてもいいんじゃないか?」 「……え?」 振り返る瑞枝。 その不思議そうな顔に、思い付いた事を言ってみる。 「最強は無敗とは違う。最強は結果だが、無敗は過程だ。一緒にして考えるのは間違ってる」 「つまり……今度は勝てばいい、と言う事ですか?」 「そう。どれだけ敗けようが、1番最後にお前が立ってればそれでいいんだよ」 「…………」 「勝利しか知らない強者は、勝利と敗北を知る強者には勝てない。単純に、知識・経験の差だ。簡単な事だろう?」 「……そうかも、知れません。そんな道理、考えた事もなかった」 1度、眼を閉じる。 再び開かれた時――その中には、強い輝きがあった。 「良し――ありがとうございます、匠哉さん。次は、あの侍をボコボコにしますからね!」 「ヒューヒュー、その意気だッ!」 どうやら、吹っ切れたらしい。 良かった。 「……しかし私としては、一般人の匠哉さんがどうして、そんな武闘の哲学を持っているのかが気になるのですが」 「ぐ……そ、その辺はツッコミ無用で。説明すると長くなりそうだし」 「本当に謎が多いですよね、匠哉さんって……」 苦笑いしながら、瑞枝は呟く。 何か、ミステリアス属性が追加されちゃってる俺。色々、黙ってる俺が悪いんだろうが。 ……だって瑞枝が星丘市に興味を持つと、取り返しの付かない事になる気がするんだもん。 「俺の事はいいから、とにかく帰ろう」 「納得いきませんが……まぁ、さすがの私もちょっと疲れました。部屋で休みたいです」 撫子さんも逃げたでしょうし、と瑞枝は付け加える。 ……む、また逃亡を許してしまったか。仕方ないけど。 「そうだな、帰って寝たい」 「ま、まだ寝る気なんですか……?」 「あんな粗雑な寝具での睡眠なんて、睡眠の内には入らん」 俺達は、屋上の扉を潜る。 ……そう言えば、今日の夕飯は食えそうにないな。 うぅ、美味しいのに。俺哀れ。
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