「はーい皆さん、テストを返しますよー」
 1学期も終わりに近付いた、今日。
 五月蝿い蝉どもに敗けじと、エリン先生がいつもの笑顔で声を出す。
「月見迦具夜さーん」
 呼ばれ、テストを受け取りにゆくマイ・シスター。
 緊張の面持ちだ。
「じゃあ迦具夜さん。夏休み、この教室でまた会いましょうねー♪」
「うぅ〜……」
 どうやら、補修決定らしい。
 だーっと幅広の涙を流しながら、席に戻る迦具夜。
 次は俺だな。
「月見匠哉さーん」
「はい」



「匠哉、結果はどうだったの?」
 休み時間、級長が俺の席へとやって来た。
 級長自身の成績は……ま、訊くまでもあるまいよ。
 ちなみに。補修の決まった幼馴染が机に突っ伏しているのに、級長は華麗にスルーしています。
 ……ついでに瀬利花も真っ白になっているが、まぁアレはいいや。
「悪かったのなら……その、補修前に、私が少しくらい教えてあげてもいいけど」
「フッフッフッ、残念だったな級長! あんまり舐めるなよ!」
 バッ!! と、誇らしげに答案を見せてやる俺。
 そこには、それなりの点数――少なくとも補修は避けられるレヴェルの数字が、赤字で記されている。
 ふははははは!
「え……嘘!? 貴方、そんなに頭良くないでしょうッ!?」
 酷い言い草だな、級長。
 正直、ちょっと傷付くぞ。
「そ、そんな!? お兄ちゃんが来ないのなら、私は何を楽しみにして補修に来ればいいの!!?」
「安心してください迦具夜さんッ!!! 私も補修ですから、一緒に――」
「どうして今回に限って、そんなに勉強をッ!!?」
 美空を完全シカトして、迦具夜は俺を問い詰める。
 つーか、補修に楽しみもクソもなかろう。
「別に、今回に限った事じゃないぞ。夏休みは忙しくて補修受けてるヒマなんてないから、毎年1学期末は気合入れてやってる」
「忙しい、って……バイトでもやるの?」
「いや、そういう訳じゃないんだが……」
 さて、どう説明したものかな。
 煮え切らない俺の様子に、級長達は訝しげだ。
「そう言えば匠哉って、毎年夏休みになると出掛けるよね。少なくとも、1週間以上は」
 ……チッ、貧乏神め。余計な事を。
「まぁ、そういう事。旅……とは違うけど、ちょっと遠出するのさ」
 無理矢理、話を切る。
 窓の外を見た。
「――……」
 今年も、蕩けるように暑い。


貧家奇聞・サマーヴァケイション

大根メロン


 そして、夏休みとなった。
 俺は寂れた無人駅のホームで、地図と向かい合う。
「……去年はここまで調べたから、今年はこの辺りからだな」
 ちなみに俺は現在、星丘市を離れて青森県にいる。
 ちょっと、捜し物があるのだ。地図に場所は記されていないので、青森県中を虱潰しに捜すしかない。1年2年で終わる事ではないので、毎年こうして遠出しているのである。
 ……しっかし、ちゃんと場所くらい覚えときゃ良かったなー。
 行きはトラックに積まれてたから仕方ないが、帰りは歩いたんだし。まぁ、そんな余裕のある精神状態でもなかったけど。
 とりあえず――最初の目的地は、青森県土縄町つちなわちょうだ。
 ……ガタンゴトン、と線路が鳴る音。1時間に1本しかない電車が、ようやく来たらしい。
 ドアが開き、乗り込もうとした所で――
「あの、済みません。もし宜しければ、手伝って頂けませんか?」
 横から、女性の声が聞こえた。
 見ると――隣のドアの前には、車椅子に座った女の子が。
「ん、ああ」
 地図に夢中で、自分以外に人がいる事に気付かなかった。
 彼女の車椅子には、よくあるような大きな車輪がない。同じ大きさの車輪が、前後に2つずつ――計4輪付いている。
 外見からしても、あれは電動式なのだろう。車椅子の車輪が大きいのは手で動かすためなのだから、電動式には巨大な車輪が必要ないのだ。
 とは言え。いくらハイテクでも、ホームと電車の間の溝は越えられない訳で。
「よいしょ、っと」
 後ろのグリップを掴んで前輪を上げ、溝を跨がせる。
 にしても重っ。やっぱ、電池とかモーターとか積んでると凄いな。
 後輪も同じようにして、無事電車内へ。
「ありがとうございました」
「いや、礼には及ばん」
 車内には、俺達以外に人の姿はなかった。
 よって、遠慮なく座席に座らせて頂く。
「しかしあんた、俺がいなかったらどうするつもりだったんだ?」
 見ての通り、余り多用される路線ではないようだし……俺が来ていなかったら、こいつは電車に乗れなかった。駅員さんもいないし。
「その時は、跳び越えるつもりでした」
 ニコリと微笑む。
 ……跳び越える?
「そちらは、夏休みの旅行ですか?」
 彼女は俺が隣に置いたデカいリュックを眺めながら、尋ねて来た。
 傍目には、そう見えるよな。
「いや、旅行じゃなくて捜し物。長丁場になりそうだから、大荷物なのさ」
「捜し物?」
「そう、杉澤村っていう廃村。どこにあるか、知ってたりする?」
「いえ……私は、この辺りの人間ではないので。そんな都市伝説なら、聞いた事はありますけど」
「都市伝説も何も、行った事があるんだけどね……ま、簡単には見付からないか。そう言うあんたこそ、旅行なのか? この辺りの人間じゃない、と言ったが」
「ふふ……そうですね、旅行と言えば旅行ですか。私は日本全国を回って、見付けた道場を片っ端から破っているんです」
 ……道場破り?
 えっと、冗談なんだよな? 
「信じていない表情をしていますね……皆さん、最初はそのような顔をするのですが」
 彼女は手を口元に当て、クスクスと笑う。
 ……だって、なぁ。
 こう言っちゃ何だが、とても格闘技が出来る身体だとは思えない。車椅子だし。
「そう言えばその車椅子、どうやって動かしてるんだ?」
「これですか? 足元のペダルを傾けて操作するんですよ。歩行困難の身ではありますが、足がまったく動かない訳ではないので」
「へぇー、成る程」
 色んなもんがあるんだなぁ。
 ……電車がスピードを落とし、止まった。窓の外には、『土縄』の文字が見える。
「おっと、着いたな。じゃ、良い旅を」
 荷物を背負い、下車しようとする俺。
 すると、
「それは……奇遇ですね。私もここで降りるんですよ」
 彼女は、そんな事を言った。
 そりゃ、不思議な縁もあるもんだな。
「なら、また手伝った方がいいか?」
「宜しければ……お願いします」
「オーケイ」
 跳び越える、とやらを見たい気持ちもあったが……そんな意地悪をしても仕方ない。
 乗った時と同じようにして、ホームに下りる。
「度々、本当にありがとうございました」
「いやいや。しかし……この土縄町って、格闘技の道場なんてあるのか?」
 道場破りが、本当だとしたらの話だが。
 駅員さんに切符を渡して、改札を通り抜ける。
 出入り口の向こうには、土縄町の街並みが見えた。
「それは、行ってみなければ分かりませんね」
「……行き当たりばったり?」
「はい。特に目的地も定めずに旅を続け、その途中で道場を見付けたら――看板を頂きに行くんです」
「…………」
 凄い話だ。道場の方も災難だなぁ。
 まぁ何度も言う通り、こいつに道場破りなんて出来るとは思えないけど。
「お前は、これからどうすんだ?」
「まずは宿探しですね。そうだ、折角ですから一緒に探しませんか?」
「あー……申し出は嬉しいのだが、金がないのでな。俺は野宿だよ」
「の、野宿ですか。すると、そのリュックの中身は――」
「テントとか、サヴァイヴァル・グッズが色々。食費もないから、山に篭って調達するよ」
「ははは、修験者みたいですね……」
「いや、まったくその通り。じゃあ、ここでお別れだな」
「はい。では、お世話になりました」
 車椅子を走らせ、去って行く彼女。
 ……何と言うか、色々と不思議な娘だなぁ。
「さて、山に行くか」



 とりあえず、近くの山に入った。
 1時間程の登山の末――川辺の広場にテントを張り、とりあえず住居確保。
「しっかし、あれが気になる……」
 あれ、とは――山中にあった、『熊に注意!』という看板である。
 熊は賢い生き物なので、わざわざ人間に襲い掛かる事は少ないのだが……今の俺は、山の生き物達の領域に踏み込んで来た闖入者だ。何があっても文句は言えない。
「……恐い事ばかり考えても仕方ない。食料の確保をせねば」
 道中で山菜を採ったが、やはり肉が欲しい。
 それも考えて、川辺を拠点とした訳なのだが。
「釣り、釣り〜♪」
 川辺は便利だ。飲み水には困らないし、魚も獲れる。
 ま、雨で増水したら死ぬような目に遭うだろうけどな。
 ……が、しかし。
 釣りの道具を準備していた俺は、致命的なミスに気付いた。
「あ、餌がない……」
 1番、肝心なのを忘れていたな。
 仕方ない。来た山道を戻り、土縄町の街中に下りる。
 えぇっと、釣具店は……っと。
「……ん?」
 道路の反対側で、何か騒ぎが起こっていた。
 ガードレールを跨ぎ、車が来ない間に、見に向かってみる。
「……レスリングのジム、か」
 ドアに張られている紙には、そう書かれていた。
 しかし……何故か、壁面には看板を剥ぎ取られたような跡が。
「…………」
 ま、まさかなぁ?
「おい、何があったんだ?」
「道場破りだってさ。いきなり乗り込んで来た車椅子の女が、全員纏めてボッコボコにしたらしいぞ」
「はぁ? 車椅子って……そんな訳ねえだろ。どうせ、『桃生モムノフ』の連中がやったんだよ」
「いや、俺もそう思うが……」
 野次馬さんのトークの中に、『車椅子の女』というフレーズが。
 ……そうだな。聞かなかった事にしよう。
 恐ろしい話を脳裏から追放し、釣具店を捜索。見付けた店で、生き餌を調達。
 再び1時間掛けて、山のテントへと戻る。
「ふんふーん♪」
 釣り開始。
 こういう所の魚は釣り人に慣れてないから、まさに入れ食いだっ。
 火を起こし、釣った魚を塩焼きにしつつ――フィッシングを続ける。
 ははは、釣れる釣れるぅッ!
「――とぉ!」
 食い付いてきた魚を、思いっ切り引き上げる。勢い余って、後ろの方に飛んで行ってしまった。
 魚は、草むらの向こうに消える。
「っと……」
 糸を引っ張り、引き寄せようとしたが――何かに引っ掛かっているらしく、近付いてこない。
 ん? 違うな。引っ掛かっているんじゃなくて、何者かが引っ張っている。野生動物だな。
 しかし、メシを渡して堪るかぁぁああ――ッ!!
「うらぁぁぁあああああッッ!!!!」
 全力で引く。
 そして、草むらの中から現れたのは。
「グォォオオオ……ッッ!!!!」
 …………。
 あるぅ日♪ 山の中♪ 熊さんに♪ 出遭ぁった♪
「く、熊が釣れたぁぁッッ!!!?」
 胸に、三日月の模様――月輪熊かッ!!?
 剣呑な顔付きで、俺を睨み付ける熊。
 きっとここは、奴の餌場なのだろう。そこに人間がいたもんだから、興奮してやがる。
「ヤバい……!!!」
 唸り声を上げ、熊が突っ込んで来る――!
 ――が、その刹那。
 凄まじい衝撃を受け、熊の巨体が吹き飛んだ。
「――無事ですか!?」
 車輪を派手に滑らしつつ、俺と熊に間に割って入る車椅子。
 ……駅で会った、あの女の子だ。
「グゥゥ!」
 熊は闘志を失わず、むしろさらに滾らせて――少女を睨める。
 しかし対する彼女も、怯む様子は見せない。
 彼女はゆっくりと呼吸をしながら、上体で手刀受けの構えを取った。
「鳳仙院流空手、鳳仙院瑞枝ほうせんいんみずえ――いざ、参ります」
「ウゥオオ――!!」
 その名乗りに反応したのか、ただの偶然か――熊が、少女の小さな身体に跳び掛かる。
 ……常識的に、考えれば。
 予測される運命は、悲惨以外の何物でもないだろう。
 が。彼女は振り下ろされた熊の豪腕を、左の手刀で逸らすと――
「――『穿頭一本貫手せんとういっぽんぬきて』ッ!!」
 右の人差し指を、熊の額に突き刺した。
 ……根元まで入り込んだそれを、一気に引き抜く。熊は額から血を噴き出し、地に斃れ伏した。
 広がる、血の水溜り。熊が動く気配はない。
「ふぅ……怪我はありませんか?」
「あ、ああ」
 夢でも見ているような気分で、答えを返す。
 でもこれは、やっぱり夢じゃないんだろうな。
「お前……本当に強かったんだ」
 感心と安心で、深い息をつく俺。
 そんな俺を、女の子――瑞枝は、不思議そうな様子で見ていた。
「……怯えないんですね。見方によっては、私って熊よりも恐ろしい生き物ですよ?」
「いや、それは何つーか……」
 慣れてるんで。
 熊よりも恐ろしい生き物、いっぱい知ってるんで。
「とにかく、助けてくれてありがとな。でも、どうしてここに?」
「旅館で、山には熊が出ると聞いたので。心配になって、煙を頼りに来てみたんです」
 む。そう言えば、魚を焼いてる最中だったな。
 ……あーあ、すっかり焦げてやがる。
「にしても、まさか一撃で亡き者にするとは……」
「空手は、示現流剣術の影響を受けているとされる武術ですから。一撃必殺、二の打ち要らずですよ」
 一撃必殺はあくまでも心構えであって、実際に一撃で斃すのとはまた違うと思うんだが。
 ……いいけどさ。
「とにかく、危険ですから山を下りましょう。宿も紹介しますから」
「……うーん、でもなー……」
「宿泊費も、私が出します。ストリート・ファイトで稼いでますからね。あんまり自慢にならない手段で得たお金ですから、喜捨でもしなければバチが当たるというものです」
「え、マジ!!? いやしかし、そこまでして貰うのは悪い気が――」
「私としては、明日の新聞に貴方の名前が載っている方が、よっぽど悪い気分になるんですよ。……ああ、そう言えば名前を伺っていませんでしたね」
「月見匠哉だ。……じゃあ折角だし、世話になる事にするか。あんたの名は……鳳仙院瑞枝、だったか」
「はい。瑞枝と呼んでくださいね、匠哉さん」
 そうと決まれば、こんな所に長居する理由はない。
 俺はさっさとテントを片付けると、瑞枝と一緒に下山を始める。
「しっかし、銃弾みたいな指だよなぁ。熊の頭蓋を打ち抜くだなんて」
「はは、凄いでしょう?」
 世間話をしながら、1時間半くらい歩く。そして、件の旅館に辿り着いた。
 ユズリハ旅館程には大きくも古くもないが、なかなか趣のある木造旅館だな。
「あらあら、お帰りなさい」
 女将さんらしきオバちゃんが、瑞枝を出迎える。
「ただいまです。あの、飛び入りさんを連れて来たのですが……部屋は空いていますか?」
「ええ、勿論。うちは年中空いておりますからね。御客様と福之神は、いつだって大歓迎ですよ。……そちらの方かしら?」
 こちらを見る、女将さん。
「あ、はい。御厄介になります」
「では、帳面にお名前を」
 宿帳に名前を書き、女将さんに返した。
 ニコニコしながら、彼女は俺を進む。
「では、お部屋に案内致しますね」
 女将さんの背を追い、廊下を進む。
 ……今、俺がとても感激している事は。
「ふ、普通の女将さんだ……ッッ!!!!」
「……あの、匠哉さん? 普通じゃない女将さんって、どんな女将なのですか?」
 瑞枝が、『お前は何を言っているんだ』的な眼で俺を見る。
 フッ、甘ちゃんめ。世の中は広いのだぞ。
「デカい鉄扇振り回して、御客を殴り倒したりすんだよ」
「ひ、酷い旅館があるものですね……」
「まぁ、もう潰れてるけどな」
 女将は死んだし、館は半壊したらしいからね。あの連中が全力で暴れたのに、半壊で済んだのは奇跡的な気もするが。
 でもあそこ、従業員とかどうなったんだろ。サンフォールの関係者ばっかだった訳でもなかろうし。
「こちらですよ」
 畳張りの、部屋に通される。
 今まで散々苦労をさせた巨大リュックを、ぽいと放り落とした。
 ……では。
「ほああァァあああああああ――ッ!!」
 畳にダイヴし、ゴロゴロと回転!
 3回目ともなると、我ながら慣れた動きだッ!
「…………」
 ……例の如く、すぐに飽きるが。



 夕食時、食堂に顔を出した。
 宿泊客達が、正座をして食事を摂っている。その中に、瑞枝の姿が。
 ……正座がかなり崩れているが、それは仕方ないのだろう。
「よう」
 隣の席に座って、箸を手に取る。
 和食だ。白米美味そう。
「あ、匠哉さん」
 米を、口に運ぶ瑞枝。
 こうして見ていると、とても熊を抹殺するような人間だとは思えん。
「……なぁ。街で、レスリング・ジムがやられてるのを見たんだが……あれ、お前の仕業か?」
「ええ、そうですよ。あと、剣道の道場も1つ潰しました」
「そうか……」
 頑張ってるなー。
 いきなり襲撃されてブッ倒された人々の事を思うと、目頭が熱くなるが。
「でも、あんまり歯応えがないんですよね……あ、そうだ匠哉さん、知っていますか? この街には桃生っていう、少年少女の不良グループがあるらしいんですよ」
「桃生……そう言えば、そんな話を聞いたな」
「ふふ……どれ程の腕前なんでしょうね」
 思わず、かき込んでいたメシを吹き掛けた。
 瑞枝は静かに食事をしながらも、沸々と闘気を湧かせている。
「待て待て待て! 格闘を習っている連中ならともかく、ただの不良グループ相手じゃイジメだろうがッ!」
「そうでしょうか? なかなかの喧嘩自慢が揃っているらしいですよ。他の不良グループや武闘派の893さんを、いくつも潰してるって話ですし」
「いやだから、そいつ等は喧嘩でお前は武術だろ。そこには、大きな隔たりが存在するんだよ」
「私はか弱い少女の身で、しかも障害者ですよ? ほら、丁度良いじゃないですか」
「黙れ熊殺しッ!! 少女だろうが障害者だろうが、もはやお前には関係ないだろッ!! 頼むから、お前みたいな達人に狙われる不良グループの気持ちも考えてやってくださいッッ!!」
「むぅ、そうですか……」
 残念そうにする、瑞枝。
 しかしすぐに何か閃いたらしく、笑顔になった。
「なら実際に、どの程度の実力なのか見聞に行きましょう! 今夜の8時、桃生は敵対グループと激突するらしいですから」
「うお、マジか」
「それをこっそり覗いて、我が拳に相応しい使い手達だと確認出来れば――潰す。それに値しなければ、見逃す。それでどうでしょう?」
「……分かった、もう勝手にしてくださいな。でも、俺も付いて行くぞ。お前が今の言葉を違えないように、ちゃんと見張っておきたい」
「し、信用されてませんね、私……」
 別に、信用していない訳でもないのだが。
 戦闘好きな人間は、放っとくと何をしでかすか分からない。常識人が、1人はいないとな。



 ――夜。
 俺と瑞枝は橋の上から、下を眺めていた。
 ……眼下の、河原。
 鉄パイプや角材持ってたりとか、ヘルメットを被ってたりとか、そういう分かり易い連中がいっぱいいる。
 ちなみに、見学は俺達だけではないようだ。土手には、観客らしき者が何人か見える。物好きめ。
「不良グループ、『アイアン・クロウ』。昔、とある政治家の息子がそのバックを盾にして、この近辺で好き勝手やってたそうで……多くの人間を傘下として呑み込み、一大グループとして発展したんだそうです」
「……グループ同士の抗争ってのは、どこにでもあるんだな」
「何やら、経験がありそうな口振りですね」
「まぁね」
 もっとも、不良グループの抗争だなんて平和なもんではなかったが。
 ……8時を過ぎた。下の奴等が、眼に見えて苛々し始める。
「あ、来たようですよ」
 瑞枝が言った。
 確かに言葉通り、不良の群れに向かって歩を進める1人の男が。
「……って、1人だと?」
 あの人数を相手に……?
 見た感じでは、普通の人間にしか見えない。体格は、喧嘩に向いてない訳でもなさそうだが。
 下の連中が、さらに五月蝿くなった。たった1人で現れた男に対して、色々吠えているのだろう。
 が、刹那――
「……なっ!!?」
 いきなり、集団の1人が吹っ飛んだ。
 瞬時で間合いを詰めた男が、その拳で殴り飛ばしたのだ……!
 仲間がやられたのを見て、一斉に襲い掛かる集団。
 男は前傾姿勢で構えると、次々と敵を殴り飛ばしてゆく――!
「……軽快な足運びフットワークに、鋭い速打ジャブ。ボクシングですね」
「みたいだな……」
 ボクシングは正面から相手と闘う格闘技だが、あの男には関係ないようだ。四方八方から来る敵を、左のジャブで迎撃する。
 ジャブは腰の回転を加えず、腕の力だけで放つ打撃だ。威力は軽いが、その分速い。武器という重量物を持っているアイアン・クロウの連中は、相手のスピードにまったく追い付けていなかった。
「……強い。強過ぎる」
 前に述べた通り、ジャブは速いが軽い。なのに男は、それで怒涛のように相手を殴り飛ばし続けている。何て膂力だ。
 ……少し遠くで、大きな音がした。
 見れば、バイクが男に向かって走っている。轢き殺すつもりかよ。
 しかし男に、逃げる様子は見えない。
 それどころか――右のストレートを、真正面からバイクに叩き込む!
「おいおい、マジか……」
 宙を舞ったバイクは運転手を振り落とすと、川辺で数回バウンドし、鉄橋の柱に激突。グニャグニャに潰れ、炎を噴いた。
 今のでようやく、自分達の敵う相手ではないと悟ったらしい。蜘蛛の子を散らすように、不良達が逃げ出す。
 ……最後に残ったのは、あのボクサーだけ。
 凄い、としか言い様がない。まさか、本当に1人でやってしまうとは。
 ……男は、倒れている不良にガムを吐き捨てる。
 その時、チラリとこっちを見た。
「……ッッ!!!?」
 視線がぶつかる。
 懐かしい――忌まわしい程に懐かしい感覚が、俺を襲う。

『匠哉君が、好きって言ってくれたから……私、壊れちゃったのかなぁ』

「……何だ?」
 どうして今、麻弥の事を思い出した?
「ふふ……なかなか、倒し甲斐のありそうな人じゃないですか」
 隣で嬉しそうに、瑞枝が呟く。
 ……男は俺達から眼を逸らし、ゆっくりと歩き去る。



「なぁ、マジであいつと闘う気か?」
 衝撃の夜が明けて。
 俺は瑞枝の部屋に、説得のために訪れていた。
 彼女は今、逆立ちで腕立て伏せをやっている。何十キロもありそうな電動車椅子を、ベルトで身体に固定したままで。
 足を使えない分、腕を強くしなければならないのだろうが……これは、どうなんだ。
「勿論です。私と死合うに相応しい、なかなかの武人だったじゃないですか」
『しあう』が『試合う』でない事を何となく感じつつも、俺は説得を諦めない。
「止めとけって。ありゃあ絶対にヤバいぞ」
「匠哉さんは武侠を分かっていませんね。敵が強ければ強い程、一戦交えたくなるものなんですよ?」
「それは知ってる。理解はしてないが、知ってはいる。でも、問題はそういうレヴェルじゃないんだよ……多分、アレは人間じゃない」
 あのボクサーと眼が合った瞬間、麻弥と対峙した時と同じような感じがした。
 つまり――麻弥と同種のモノ、という事だろう。
「人間じゃない、とは……強さが人間離れしている、という事ですか? でもそれは、私も似たようなものでしょう」
「自分で言うな。……そうじゃなくてだ……うーん」
 本当に人間じゃないっぽい事を、どうやったら分かって貰えるのか。
 ……それに。
 分かって貰えたとしても、それでこいつが手合わせを諦めるだろうか。
「ああもう、馬鹿馬鹿しくなって来た。闘うにしてもだな、お前は連中の居場所を知っているのか?」
「山奥の神社を、溜まり場にしていると聞きましたよ」
 逆立ちのままひょいひょいと歩き、町のパンフレットらしき物を持って来る。
 そして、ページを開いた。
 ……そこに載っていたのは、いかにも古惚けた神社。
「ほら、ここです」
「――……ん?」
 手に取り、ばっと眼を通して――何か、違和感を感じた。
 今度は1文ずつ、丁寧に読み直す。
「……祭神が荒吐アラハバキ、だと?」
「どうかしました?」
「いや、この神サマはな……昔、この辺りにいた民族が信じていた神なんだけど」
「昔、という事は、今は違うのですか?」
「鋭いな、その通りだ。大和朝廷に征服された時、その信仰は廃れた。まったく祭られていない訳じゃないが……別の神の神社で、客人神まれびとがみとしてひっそり祭られている程度だ」
「……しかし、この神社は」
「ばっちり、荒吐が主祭神。多少、気にはなる」
 瑞枝は逆立ちを止め、俺の手元のパンフを覗き込んだ。
 ページの1箇所を指差す。
「ずっと気になっていたんですが……どうしてこのページ、隅っこに土偶のイラストが載っているんです?」
 瑞枝の言う通り、そこにはデフォルメされた遮光器土偶のイラストが描かれている。
 遮光器とは眼鏡の事だ。顔にそんなのを嵌めた土偶を、皆1度は見た事があるだろう。土偶と聞いて真っ先に思い浮かぶアレだ。
 ツチダマだよ、ツチダマ。
「遮光器土偶は、荒吐の姿を模した物らしいぞ。俗説だけど」
「そうなんですか……私は昔、土偶って宇宙人だと思っていましたよ。ほら、まるで宇宙服みたいじゃありませんか」
「まぁ、そういう話もあるな」
「だとしたら、荒吐は宇宙から来た神様なのかも知れませんね」
 クスクスと笑いながら、そんな事を言う瑞枝。
 宇宙から来た神……か。
 この近辺には――天から降って来た宇宙生物を、神として祭る村があったのだ。
「でも、ようやく分かったぞ。だから桃生なのか」
「……? どういう事です?」
「桃生ってのは、荒吐の配下である神の名前なんだ。きっと連中は、神社縁の名前にしたかったんだろうよ」
「成る程……」
「ちなみに桃生は、武士もののふの語源でもある」
「敵は武士、ですか。ますます手合わせ願いたくなってきましたね」
 シュッ――と、正拳を打ち出す瑞枝。風圧で、俺の髪が揺れる。
 ……止めるつもりだったのに、油を注いでどうすんだ俺。
 こいつはずっと、こんな調子で闘い続けて来たのだろうか?
「……なぁ。答えたくなければ答えなくてもいいし、気分を害したら土下座して謝るけど」
「何です、急に?」
「どうして、足を悪くしたんだ? お前の事だから、事故に遭ったとかそういう話ではないんだろ?」
「……ああ、その事ですか。大凡は、貴方の想像通りでしょう」
「やっぱり、闘いが原因なんだな」
「ええ。とある武術家と闘った時に、脊椎せなかをやられたんですよ。その後遺症です」
 ……背中をやられた?
 と言う事は、つまり――
「あ、不名誉な想像をしていますね? 違いますよ、敵に背を向けた訳じゃありません」
「……まぁお前は、強者を前にして逃げ出すような事はないか。美食家が極上料理から逃げるようなものだ」
「ふふ、そうですね。で、その時の相手ですが……いきなり私の頭上を飛び越えて、背中に蹴りを入れたんですよ」
「それはまた、随分とアクロバティックだな」
「金属バットで叩いてもビクともしない私の背骨を、足場のない空中からの蹴りで傷付けるなんて……今でも信じられません。あの鳥人は、私に敗北を味わわせた唯一の武術家です」
「……いや待て、金属バット?」
 木のバッドを身体で折るパフォーマンスなら知っているが……金属バット?
 そのパフォーマンスだって、背骨を叩いたりはしないだろうし。
「……おや? 匠哉さん、誰かいます」
 話をぶった切って、瑞枝が呟く。
 誰かいるって……どこに?
「退きました。どうやら、気付かれたのを察したみたいです」
「……外か?」
「ええ。あの気は……例のボクサーですね」
「向こうから来たのか? どうしてまた?」
「彼も、強者と闘いたいんでしょう。そして私に眼を付けたと。彼のような達人ならば、見ただけで相手の力をある程度読み取れるでしょうし」
「……相死相合そうしそうあいだな」
 車椅子を動かし、部屋から出る瑞枝。
 もはや止められまい。せめて、見物するか。
 車椅子を走らせながら、瑞枝は街を行く。広めの路地に入り、通りから見えなくなるまで進む。
 ……停車すると同時に、背後で足音が。
「昨夜振りですね」
「……そーだな」
 振り返ると、そこにはあのボクサーが立っていた。
 目元は眠そうに下がり、口はモゴモゴと動いている。ガムを噛んでいるのだろう。
 どうにもやる気を感じないが……しかしその手には、しっかりとバンテージが巻かれていた。
「貴方、強いんですね?」
「そー言うあんたは強いのか?」
「無論」
 構えを取る両者。空手の手刀受けと、ボクシングのオーソドックス・スタイルだ。
 ……こいつ等には、闘う理由というものがない。何しろ、1度遠目に見ただけの関係なのだから。
 それでも闘う。闘いたいから、闘う。
 何と言うか、狂気的だ。
「後ろのそいつは?」
「見物人です。手は出しませんし、出す必要もありません」
「りょーかい」
「……鳳仙院流空手、鳳仙院瑞枝。いざ参ります」
林原犬彦はやしばらいぬひこ。行くぞ」
 犬彦と名乗ったその男が、地を蹴った。
 間合いを詰め、マシンガンのようなジャブを瑞枝に見舞う――!
「――フッ!!」
 だが、食らう瑞枝ではない。
 彼女は犬彦の拳を、次々と手刀で受ける。
「……メンドーだな。あんたは姿勢が低過ぎる」
 距離を取り、呟く犬彦。
 さすがに、車椅子の人間とは闘った事がないのだろう。ボクシングでは直立した2人が上体を殴り合う訳だから、ボクサーが下方を狙うのは難儀なはずだ。
 が、しかし――
「なら、こいつはどーだ!」
 犬彦は何と、ローキックで車椅子を打つ――!
「な――」
 拳闘と呼ばれる通り、ボクシングには蹴り技などないはず。まさか、キックボクシングか?
 ……そう思った、束の間。
「よっとぉ!!」
 いきなりの蹴りで、瑞枝が戸惑った隙を狙ったのだろう。
 犬彦は車椅子の下に足を入れて持ち上げると、腕で掴んで思い切り放り投げる――!
「く――ッッ!!?」
 車椅子では、受身など取れるはずもない。
 瑞枝は、両手で地面に着地。腕立て伏せのように、自重を支える。
「……はぁああッ!!」
 腕の力だけで跳躍し、空中で身を翻して――今度は、車輪で着地した。
「……すげー腕力だな、オイ」
「抜かりました……まさか、シュートボクシングだとは」
 そうか、シュートか。
 シュートボクシングとは――キックボクシングに、投げ技や間接技を加えた格闘技の事だ。
 ここまで来ると、何だか原形留めてない気がするな。
「――シュッ!!」
 素早いフットワークで瑞枝に近付き、ジャブとローキックを連打する犬彦。
 それを手刀で捌く瑞枝だったが、スピードは犬彦の方が速い。少しずつ押されている。
「はははっ、やっぱりな。自動車とかバイクとか、タイヤ付きの乗り物ってのは――最高速は凄いが、加速までに時間が掛かる。人間の足とは違って、すぐに最速を叩き出せねー!」
「……ッ!」
「あんたの車椅子も同じだろ。それじゃー、ボクサーのフットワークには追い付けねーぞ!」
「見縊られては、困りますね……ッ!」
 図星だったのか、表情が強張る瑞枝。
 口は達者だが、それでどうにかなる訳では――
「――キェエエイッッ!!!!」
 突如、瑞枝が奇声を上げた。
 離れていた俺でさえ、竦み上がる程の声量。
 その大声を、犬彦は真正面から受けた。彼は気圧され、反射的に攻撃を止めてしまう。
 ほんの、一瞬だけの停止だったが――瑞枝は叫びと同時に、正拳突きを何発も放っていた。
「――ッぐ!!!?」
 拳の連打を受け、吹っ飛ぶ犬彦。
 今のは……示現流の猿叫か。甲高い声で、相手を怯ませるっていう。
「チィ……!! いきなり吠えるとはな。犬はこっちだってーのに!」
「2度は通じなさそうですから、もっと温存しておきたかったんですが……」
「おーけー、あんたの強さは確認出来た。今から、ストレート解禁だ」
 相変わらずの瞬間移動かと思う程の速さで、距離を詰める犬彦。
 ジャブを連打。顔面を狙ったそれを、瑞枝はしっかりと防いだが――
「――くぁぁッッ!!!?」
 直後、悲鳴を上げた。
 顔面を防御すると、どうしても視界が狭まってしまう。その隙に放たれた右のストレートが、瑞枝の胴に入ったのだ。
 ストレートはジャブとは違い、腰の回転を加えられたパンチ。威力も段違いだ。
 100キロ以上あるであろう瑞枝の身体が、昨夜のバイクみたいに殴り飛ばされる――!
「ぐッ……ッ!!!」
「……うーん、さすがだな。反射的に急所から外したか」
「見事な、虚々実々ですね……」
「拳闘とはチェスだよ。いくつかのパンチを使い捨ててでも、デカい一撃を当てる。ま、それはボクシングに限った話じゃねーだろーけど」
「……フェイントだけでは私には通じませんが、貴方はとにかく速い。困ったものです」
「で、どーする気だ?」
「ふふ……知りたければ、攻めて来てください」
 瑞枝は、不敵な微笑みを見せた。
 余裕があるな。何か策でも出て来たか?
「――上等ォッ!!」
 突撃する犬彦。
 放たれた拳を――瑞枝は、くるりと躱した。
「……何!?」
 成る程……車椅子の機動力に眼を付けたか。
 車椅子ってのは、かなり縦横無尽に動く。左右のタイヤを逆方向に動かせば、その場での高速回転すら出来る。人間の2足では、なかなかそうはいくまい。
 犬彦の指摘通り加速は悪いが、機動力を生かした最小限の回避ならば――それ程、スピードも必要ないだろう。
「感謝しますよ。貴方のお陰で、また1つ闘い方に気付きました」
「……ッ、逃げてるばっかじゃ勝てねーぞッッ!!!」
 それは違うな、犬彦。
 瑞枝の空手は、まさしく一撃必殺。ならば、本気の打撃を1発叩き込むだけで終わるのだ。
 無論、それは簡単ではない。大振りの一撃を打ち込める、隙を探さなければならないのだが。
 ……本気で瑞枝を捉えようとしている犬彦と、小さな動きで攻撃を回避するだけの瑞枝。
 さて――疲労して隙を見せ易くなるのは、一体どっちでしょうか?
「――ぐぁぁああッッ!!!?」
 早速、答えが出たようだ。
 瑞枝は、犬彦のストレートを潜って避けた。すぐに拳を引いて構え直されれば、瑞枝に攻撃の機会などなかったろう。
 しかし疲労が原因か、犬彦はそれが遅れた。
 瑞枝は車輪をロックして、自身を大地に固定。そして、強烈な正拳突きを打ち込んだのだ――!
「――決まりですね」
 地面を跳ね、壁に激突する犬彦。凄まじい衝撃を物語るように、路地の彼方此方にヒビが入る。
 構えを解こうとする、瑞枝だったが――
「――解くな。まだ終わってないぞ」
 俺は、それを止めた。
 瑞枝は訝しげにしながらも、言われた通りに構え直す。
「どういう事です? あの正拳を受けて、立ち上がれる人間などいませんよ?」
「言っただろ。アレは人間じゃない」
 そしてやはり、犬彦は立ち上がった。
 驚愕する瑞枝の前で――さらに、驚くべき事が起こる。
「ぐ、ァあ、あああアア嗚呼……敗け、敗ケて堪るカああアア……ッッ!!!!」
 犬彦の身体から、軋む音がした。
 最も大きな変化が現れたのは、両足だ。肥大化し、変形し――爪先だけで、立つようになる。
 ……眼を見開く。
 それはもう人間の瞳ではなく、爛々と赤色に光っていた。
「な――い、一体何が……!?」
「落ち着け、慌てるな。相手を良く観察しろ」
 パニクる瑞枝を、ペチンと叩く。人間を落ち着かせるには、落ち着いた人間が話し掛けるのが1番だ。
 2人の勝負に、口を挟むのはどうかとも思ったが……ま、相手もズルしようとしてるし。
「これが落ち着いていられますか!? ば、化物に変わったんですよ!?」
「だから、人間じゃないと何度か言ったろうに。……恐いのは、理解出来ていないからだ。恐怖を克服するためにも、まずは相手を観察しろ」
「観、察……?」
「あの爪先立ちの足、何かに似ていると思わないか?」
「そう言えば……犬や猫の足って、あんな風ですよね」
「狼やライオン、って言った方が現状には近いかね。まぁ、その通り。素早く獲物に跳び掛からないといけないのに、いちいち踵を持ち上げてたら時間が掛かり過ぎる」
「……その時間を短縮するために、肉食獣の足は踵を上げた形に進化した」
「そう。で、訊くが――それは、ボクサーが踵を上げて立つのと何が違う?」
「――……」
 一気に、瑞枝が静かになった。
 どうやら、俺が言いたい事に気付いたらしい。
「化物になったからって、いきなり怪光線をブッ放したりはしない。あいつはただ、よりボクシングに適した形に変態しただけさ。そりゃレヴェルは跳ね上がるだろうが、基本は何も変わらないはずだ」
「……そうですね。ありがとうございます、匠哉さん」
 犬彦との間合いを、測り始める瑞枝。完全に調子を取り戻したようだ。
 さ、離れてよ。巻き込まれたら、一溜まりもなさそうだし。
「アルゥララララ、ラぁぁぁぁアアアアアアアッッ!!!!」
 奇声を上げ、突っ込んで来る犬彦。段違いのスピードだ。
 どうやら、腕の構造も変化しているらしく――人間の腕では有り得ない程の回転コークスクリューが、パンチに加えられている。
 ……しかし、当たらなければ意味はない。瑞枝は巧みに車椅子を動かし、それを回避した。
「この人……速くなってはいますが、その分小回りが利かなくなってますね」
「高速道路には急カーブがない。移動体ってのは速くなればなる程、曲がるのが難しくなるもんだ。そいつの場合は……人外の脚力に、フットワークの技術が追い付いていないな」
「成る程……」
 犬彦は、憎々しげに瑞枝を見ると――口から、何かを吹き出した。
 それは――
「……風船?」
 ガムで作ったのだろう。空中をふよふよと漂いながら、重力に引かれて落ちて行く。
 嫌な予感を感じたらしく、下がる瑞枝。
 風船が、地面に触れた瞬間――
「――きゃああッッ!!?」
 勢い良く、爆発した。
 コンクリの地面が、砕ける程の威力。人間が受けたら無事では済まない。
「風船に圧縮空気が込められていて、割れると中の空気が爆発的に膨張する……そんなところですか」
 空中機雷のつもりなのか、さらに風船を吹き出す犬彦。
 瑞枝は――
「……匠哉さん」
「何だ?」
「犬彦さんは、もう元には戻れないんですか?」
「元に戻ると言うのなら、たった今元に戻ったんだと思うが。本来の、化物の姿に」
「意地悪を言わないでください」
「人間に戻れるかどうかは……俺には分からん。本人に訊いてくれ」
 犬彦に注意を向ける、俺と瑞枝。
「∀G$4I←ォォオオ6]#=<:ァァアアアアッッ!!!!」
 今の会話が、聞こえていなかった訳ではあるまい。
 なのに、犬彦は――狂った発声器官で、聞き取れない叫びを上げるだけ。
「……ならば、私が引導を渡しましょう」
 瑞枝は静かに、闘気を発散する。
「冥府魔道に堕ちた今の貴方は……武人ではなく、ただの拳鬼。私は武人同士の死合で、貴方に討ち勝ちたかった」
 瑞枝は掌底の打撃で空気を押し、風船を全て犬彦に返す……!
「▼⇔∪%)+♀@5E&ォォォォォォォッッ!!!?」
 爆発に巻き込まれ、悲鳴を上げる犬彦。
 間合いを詰めた瑞枝は、拳を握らず――人差し指から小指までの4本指を、揃えて伸ばした。
 貫手か。熊を斃したのも、一本貫手だったっけな。
 苦し紛れのコークスクリューパンチを、ひらりと躱す4輪の空手家。
「――キェエエイッッ!!!!」
 猿叫と共に突き出された4本指が、まるでナイフのように――犬彦の胸に突き刺さった。
 そして――
「『人心掌握之法』……ッッ!!!!」
 指は内臓にまで届き、犬彦の心臓を体外へと引っ張り出す――!
「――今度こそ、これで決まりです……ッ!!」
 血飛沫が上がる。
 犬彦は――胸から骨肉を散らしながら、断末魔の悲鳴を上げた。



「…………」
 俺は、犬彦の死体を眺める。
 人から、化物への変貌。呪われた血脈は、犬塚家だけではなかったという事だ。
 杉澤村の、出身なのか? あるいは――杉澤村以外にも、あんな事が行われている場所があるのか?
「……匠哉さん。この人は、何者だったんです?」
 血の付いた上着を脱ぎ捨てながら、瑞枝が俺に問う。
 教えない方が良い気もしたが……ここまで見てしまった以上、誤魔化すのは無理だろう。
 それに、騙すのも面倒臭いしな。
「分かり易く言えば、人間と人外の混血だよ。何かの弾みでスウィッチが入ると、化物に変わっちまうらしい」
 あいつは、言っていた。
 好きと言ってくれたから、壊れてしまった――と。
「あの……どうして匠哉さんは、そんな事を知っているんです? 戦闘中も、凄く冷静でしたし」
「別に知ってる訳じゃない。単なる推測だ。冷静だったのは……人生、18年も生きてると色々あるからな。今更、この程度の事じゃ驚かない」
「そ、壮絶な人生ですね……」
「とにかく、こっから逃げるぞ。表通りから離れてるとはいえ、人が来ないとは限らないし」
「遺体はどうするんです?」
「たった2人で、死体を1つ片付けるのは難易度が高いな。まぁ、放っといても大丈夫だろ。こんな異様な死体だ、表沙汰にはならん。どっかの組織が揉み消しくれるさ」
「どこの組織が揉み消すのか気になりますが、聞かない方が精神衛生上良さそうですね。では、行きますか」
 来た道を逆行し、通りに戻る俺達。
 あー……人がいっぱいいる所に来ると、何だか安心するなぁ。
「お前は、桃生との戦いを続ける気か?」
「ええ。良い修行になりそうですし……そもそも犬彦さんを斃した私を、向こうが見逃すとも思えません」
「…………」
 修行には、『行く』という文字が含まれている。
 武道だか修羅道だか知らないが、その道をどこまで行くつもりなのだろうか。
「匠哉さんは、どうするのです?」
「そうだな……しばらくは、この街に留まりたい」
 ……霊止と異神の、混ざり者。
 もしかしたら――杉澤村を見付ける、手掛かりになるかも知れない。
「まぁどっかの誰かの援助がないと、また山に入らなければならない訳だが……」
「アドヴァイスの恩もありますし、出来る限りお助けしますよ」
「サンクス。じゃあ、旅館に戻るか」
 炎天を、見上げた。
 今年こそは――あの岩戸に、辿り着いてやる。






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