月見匠哉は、いつも通り家にいた。 ……だがそれは、『いる』と言っていい状態なのか。 何故なら彼はその目蓋を下ろし、決して開こうとはしないのだから。 ぴちゃん。 ぴちゃん、ぴちゃん。
午後からは、しとしとと雨が降っていた。 空はどんよりとした暗雲に覆われて灰色となり、ただ落涙を続けている。 その陰湿な世界の中を、幽子は傘を差して歩いていた。 ……今の彼女に、太陽の威光はない。 それはこの曇天のせいなのか、あるいは彼女の心境故なのか。 「――……」 足を止めて見上げるは、1軒の家。 玄関に、表札はない。ただ人によっては、それを月見家と呼ぶだろう。 「……ここに来るのも、久し振りね――」 最後に来たのは、どれだけ前だったか――数えようとして、止めた。 そんな事をしても、何の意味もない。ボロボロになった家が、幽子に時の流れを感じさせた。 玄関の戸に、手を掛ける。 幽子の記憶が正しければ、この戸は力を入れるだけでは駄目だ。入れ過ぎず抜き過ぎず、適度な力で一気に開けなければならない。 「うんしょ、っと――」 ガラガラガラ。 いかにも古めかしい音を立てて、戸は横にスライドした。 幽子は特に挨拶もせず、玄関から上がり込む。挨拶の必要を、感じなかったのだ。 家の中は――時が止まったかのように、静かだった。以前はあった音が、今この時にはなかった。 ぴちゃん。 ぴちゃん、ぴちゃん。 「――……」 この家は、さほど広くはない。 だからすぐに、その光景が目に入った。 「匠哉――……」 居間に敷かれた、布団の中。 ……そこには、1人の男が眠っている。 当然だが――幽子が声を掛けても、何の反応も返って来なかった。 「……過ぎてみれば玉響の如し、人間はすぐに死んでしまう――」 幽子は、石の天皇。 その命は岩石のように永く、その時計は人間とは噛み合わない。 どれだけ深い縁が結ばれた人だろうと、黄泉の女王に誘われてしまう。 「匠哉、匠哉――……」 再び、呼び掛けた。 しかし帝の玉音と言えども、あらゆる事が叶う訳ではない。 ……神のいなくなった、月見家。 幽子の声は、虚しく雨音に呑み込まれてゆく。 「何故かしらね? 貴方だけは、私を置いて逝かない気がしていたのよ――」 そんな訳がない。 自分勝手な妄想が、現実に昇華されるはずがない。 「――……」 幽子は布団の上から、匠哉に覆い被さった。 寄り添えば、もしかしたら体温が感じられるかも知れない――そんな、願いを込めて。 「匠哉、匠哉ったら――」 顔を覗き込みながら、優しく身体を揺さ振っている。 ……それでも、何の反応もありはしない。 「本当は、起きているんでしょう? 私を、からかっているだけなんでしょう――?」 必死に、話し掛ける。 ……けれどもその思いは届かず、彼は目を開かない。 「――……」 認めるしか、なかった。 月見匠哉は――深い深い眠りに、就いてしまったのだ。 ぴちゃん。 ぴちゃん、ぴちゃん。 「ならば私にも、考えがあるわ――」 幽子は己の顔を、匠哉の顔に近付ける。 ……遊びは終わりだ。 遊びと言うよりは、予行だったのかも知れないが。 「くすくす、喰らいなさい――!」 一旦、頭同士の距離を開く。 その距離を利用してスピードを付け、自身の石頭を匠哉に叩き込んだ。 「……何やってんだ、テメェはよぉ〜〜?」 ヘッドバットで夢の世界から強制送還された俺は、下手人にアイアンクローをかましていた。 しかし悲しいかな、この下手人は石頭。しかも仮面越しとあっては、1ポイントのダメージすら期待出来ない。 「くすくす。だって天皇が行幸したのに、眠っているなんて無礼でしょう――?」 「いきなり頭突きかましたくせに、礼儀について語り出すとは……」 何考えてんだ、この天皇。 狐南朝を退けて、ヒマになったのか? まぁだからって、俺の安眠を爆砕して良い理由にはならないが。 「くすくす。そもそも匠哉、どうしてこんな時間から寝ていたのかしら――?」 「ようやく期末テストが終わったんだよ。完徹で勉強した分、ゆっくり寝ようと思ったら――お前が、お前がッ!!」 ぐぐぐぐぐ――と、さらに指に力を入れる。 しかしやはり幽子にクローは通じず、俺の手が痛くなるばかりだった。 「徹夜で勉強? 貴方が――?」 「うるしゃい、文句あるか。……まぁ、色々とあるんだよ。夏休みは、補習なんか受けてらんないんだ」 「それって――きゃっ!?」 ぴちゃん。 ぴちゃん、ぴちゃん。 幽子の言葉を遮るように、彼女の頭に水滴が落ちた。 「あーあ、こっちからも雨漏りが……」 俺は幽子の顔面から手を離すと、洗面所に直行。 バケツを1個持って居間に帰還し、漏っている所の下に設置した。 「……来た時から思っていたけど、バケツや洗面器だらけで異様な居間ね――」 「仕方ないだろ、この家ボロいんだから。築何年かも分からんし」 まぁ、俺より年寄りなのは確かだが。 ちなみにマナとしぃは、ボロ家の雨漏りを嫌って、カナの店にエスケープしている。 「…………」 寝直す気も起こらなかったので、ぼーっと雨漏りを眺めてみた。 何が楽しいのか――幽子も、バケツや洗面器の編隊を観察している。 ぴちゃん。 ぴちゃん、ぴちゃん。 「……ねえ。貴方、病院に行っていないみたいだけど――」 「病院って、緋姫ちゃんのお見舞いか? 行かんよ、と言うか行けんよ」 俺は飛鳥に、緋姫ちゃんを護ると約束した。 けれど、結果はあのザマだ。こんな俺が、緋姫ちゃんに会いに行けるはずがない。 「……そう――」 話が途切れ、ゆったりとした時間が流れる。 俺はふと思った事を、特に意識せず口にしていた。 「そういや何だったんだろ、あの変な夢」 「……変な、夢――?」 ありゃ。独り言だったが、幽子に反応されてしまった。 誤魔化すのも面倒臭いし、そこまでする必要性も感じなかったので、素直に話してやる。 「ん。どうやら、俺が死んだ後らしくてな」 「――……」 「誰かが、俺の死を悼んでいる夢だ。……いや縁起でもないな、ホント」 それが誰かは分からなかった。 何しろ、こちとら死んでいたのである。 「……くすくす、いいじゃない。死を悼んでくれる誰かがいるのは、とても幸せな事だと思うわ――」 「そりゃそうだけどさ。でも何つーか、俺が死んだくらいで……まぁいいや、所詮ただの夢だし」 夢は夢に過ぎない。 現実の俺がこうして生きているのだから、大した意味など在りはしないだろう。 「ただいまー」 「ただいまなのだー」 ……およ? 玄関の方から、聞き慣れた声が聞こえた。 「何だ、戻って来たのか?」 ドタドタと、こちらに近付く足音。 この家に鎮座する神々――マナとしぃが、帰って来たのだ。 「よう、お帰り。しかしお前等、カナの店に行ったんじゃ?」 「いやぁ、騒いだら追い出されちゃってねえ。まったく、カナは心が狭い――って、幽子ぉッ!!?」 「くすくす。お邪魔しているわ、大禍津日神――」 「うん……何と言うか、本当に邪魔……」 ……早速険悪ムードですか。 まぁこの狭い居間に、俺達とバケツと洗面器がギッシリ詰め込まれているのだ。具体的に誰がと言うより、全体的に邪魔である。 「匠哉〜、今日のオヤツなのだ〜」 「はいはい、分かってるよ」 グルメ妖神の催促を受け、俺は台所に向かう。 俺がいたスペースには、ちゃっかりとマナが納まっていた。 「まったく、何で貴方がここにいるのさ?」 「くすくす、私がここにいたらおかしいかしら――?」 「おかしいでしょ、普通に考えて。と言うか、狭いんだよ……!」 「くすくす、くすくす――ならば、敗けた方がここから出て行けば良いと思うわ――」 「……上等。相手になってやるッッ!!!!」 何やら、物騒な会話。 直後に、ドッタンバッタンと乱闘サウンド。 「騒ぐな、バケツを蹴っ飛ばすなッッ!!! 洗面器を武器にすんなぁぁああああッッ!!!!」 台所からツッコミを入れるが、お馬鹿さんどもは聞く耳持たず。 それどころか―― 「――みぎぶぎゃらッッ!!!?」 飛来した洗面器が、顔面に直撃。どったーんと、俺の身体が床に倒れた。 しぃが明日のオヤツにまで手を伸ばしたのが見えたが、消え逝く意識では止める事など叶わない。 ……お前等、こんな時くらいは大人しくしてろよ……うぅ、ガクリ。
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