ビンボールハウス・レジェンド17
〜二重螺旋・後編〜

大根メロン


「すいません、古宮さん。お待たせしました」
「…………」
 ゲームセンター以後、1人で匠哉達を追っていた要芽。彼女の元に、いい笑顔を浮かべた緋姫が合流した。
 ……彼女の手には、血で濡れそぼったナイフがある。
 その刃には、布の切れ端のような物が引っ掛かっていた。メイド服だろうか。
「……まぁいいけど。ほら、2人はあそこよ」
 件の二挺拳銃使いに黙祷を捧げる――事もなく、要芽は2人と1箱が落ち着いているベンチを指差した。
 ……匠哉と瀬利花は、何やらシリアスな雰囲気で言葉を交わしている。
「ふ、古宮さん……何かアレ、まずい気がします」
「あら、奇遇ね。私もそう思うわ」
「だったら――」
 けれど、と要芽は緋姫の声を遮った。
 緋姫は仕方なく口を噤み、要芽の言葉を拝聴する。
「これを、罠として利用する手もある。瀬利花と匠哉がいいムードになったら、ストーカーは当然気配を乱すわ。そうなったら、尻尾を出すと思わない?」
「……確かにそうなれば、ストーカーを見付け出して討つ事も可能でしょうけど……でもそれって、霧神さんばかりが得する結果になりません?」
 匠哉とイチャイチャ出来て、かつストーカーが排除される。
 瀬利花に取っては、投げてもいない石が二鳥を撃ち落としたようなものだ。
 ……しかし要芽は冷艶に笑い、それを否定する。
「無論、瀬利花の好き勝手は赦さない。貴方がストーカーを討ちに走ると同時、私は瀬利花を倒す。迦具夜とも相談済みよ」
「……古宮さんが、霧神さんと闘うんですか?」
 瀬利花は古流の家に生まれ、幼い頃から武と咒を教え込まれた人間だ。
 だが要芽は、魔法の力を扱えるだけの少女に過ぎない。戦いの世界に身を置いた時間も、瀬利花と比べれば瞬きの間も同然だろう。
「あら、そう言う緋姫は瀬利花に勝てるの? 人間相手に多対多で戦っていた貴方が、人外相手に1対多で戦っている彼女に」
「う……」
 緋姫は、多くの戦場を潜り抜けて来た。
 しかしその密度が、退魔師である瀬利花より濃いとは、さすがに断言出来ない。
 そしてそれは、要芽に対しても当て嵌まる。彼女は組織の協力も大家の後衛もなく、たった1人で人ならざる者どもと戦って来たのだ。
「――……」
「貴方が瀬利花より弱いとは言わないけれど、面倒なのは事実でしょう。ならば、同じ穴の狢である私が往くのが正解よ」
「……分かりました」
 2人の会話が途絶え、ただ遠くの擬似カップルを注視するのみとなった。
 聴覚を研ぎ澄ませば、盗み聞きも出来ただろうが――彼女達にも良心が一欠片くらいは残っているのか、そこまではしなかった。
「――……」
 ……匠哉と瀬利花の顔が、近付く。
 いや――近付いているのは、顔と言うより唇か。
 その光景を見ても、2人は出来る限り心を乱さず――
「――緋姫ッ!」
「はい、見付けました!」
 ストーカーの気配を、発見した。
 2人は同時に地を蹴り、それぞれの目標へと向かう。
 緋姫は、ストーカーの元へ――要芽は、匠哉と瀬利花の元へ。
「――『アルテミスの矢衾』ッッ!!!!」
 月の武具が、瀬利花を狙って降り注ぐ。
 磨き抜かれた感覚でそれを察し、ベンチから離れる瀬利花。彼女が座っていた部分が武器の嵐に破壊され、傾いたベンチから匠哉が転がり落ちる。
 瀬利花は、初撃を見事躱した――しかし迦具夜の宝蔵は、無尽蔵と言っても過言ではない。攻撃は納まる事なく、武宝の数々が射ち放たれる。
「く……ッ!?」
 未だ事態を呑み込めぬまま、矢の掃射から逃げ続ける瀬利花。
 ふと気付いてみれば――どうやら、匠哉から離れるよう誘導されているらしい。瀬利花とて好き好んで匠哉を巻き込もうとは思わないので、彼女にとっても都合がいい。
「な、何だ!? 迦具夜か!? 一体どういう――ぐぶゥんッッ!!!?」
 要芽は匠哉に一撃叩き込み、手際良く気絶させた。
 そして――瀬利花に、走り寄る。
「……ぬッ!!?」
 いつの間にか、瀬利花の頭上を銀色の円盤が舞っていた。その屋根の上には、迦具夜が立っている。
 ……彼女の背後の空間が水面のように揺らめき、剣を握った巨大な鋼鉄の腕が現れた。それは、プロトイドル・玉兎の腕に他ならない。
「『略式・断解水月』――ッッ!!!!」
「……ッ!!!?」
 瀬利花を中心とした、半径50メートル程度――その円に沿うかのように、剣筋が奔り抜ける。
 ……玉兎の剣は、世界を断つ剣。その斬撃に閉じ込められた瀬利花は、即ち世界から斬り離される事になる。
「どういうつもりだ……?」
 ……だが世界から離れたのは、瀬利花だけではなかった。
 正面には、古宮要芽の姿がある。彼女は瀬利花の問いに答えず、静かに対峙した。
「おい、私の話を聞いて――」
「――変身」
 要芽は、頭にヘッドドレスを装着した。
 衣服が、光の粒子となって分解された後――魔法冥土服マジカル・エプロンドレスが、彼女の身体を包み込む。
 この瞬間より――彼女は、魔法冥土マジカル・メイドカナメとなる。
要芽カナメ、お前……」
「――……」
 カナメは、小さく冷笑した。
 世界から断絶した、このバトルフィールド――どれだけ力を振るおうが、無用な被害を出す心配はない。
 彼女の手の中に光が現れ、それは巨大な鎚の形に変化する。その光を内側から破り捨て、カナメの魔装たるハンマーが顕現した。
「さて、と。辞世があるなら聞くわよ、瀬利花」
「……どうやら、本気で闘るつもりのようだな」
 瀬利花も竹刀袋から、木刀・咒怨桜を抜き放った。
 その切っ先を、流麗な仕草でカナメへと向ける。
「来たければ来い。ただし、五体満足では帰れんぞ」
「あら、優しいのね。私は五体どころか、貴方の命を破砕するつもりなのに」
 瀬利花の木刀には、咒力。
 カナメのハンマーには、魔力。
 ――それぞれ凝集した力が解き放たれ、眼前の敵を猛襲する。



 公園の、木立ちの中――1本の枝に、レインコートの男が立っていた。
 彼は細い枝に、完全に体重を預けている。しかしいかなる技法か、枝が折れる事はない。
「……相変わらず、奇怪な連中だ」
 彼は遠くを眺めながら、呆然と呟いた。
 瀬利花と匠哉がいい雰囲気となり――さてどうしたものか、不愉快だが今の俺には関係ないしな、などと彼が考えていた時、突如として要芽と迦具夜が乱入し、闘いを始めてしまったのである。
 今、瀬利花と要芽の姿は見えない。天皇行幸用の隠形結界すら看破出来るであろう彼の眼力を以ってしても、影すら捉えられなかった。
「……無理もないか。隠れているのではなく、この世界から消えているのだからな。いやはや……記憶では知っていたが、実際に見ると莫迦莫迦しい事この上ない」
 瀬利花達の闘いを見物するには、『世界の果てデッド・エンド』を越えなければならない。しかし管理局でもノルニルでもない彼に、そんな技術があるはずもなかった。
 ふぅ、と息をついた――次の瞬間。
「……ッッ!!!?」
 彼は飛来した投げスローイングナイフを、反射的に躱していた。
 恐ろしい一投だった。銃撃とは違い、何の音もない――彼が幼い頃から鍛錬を繰り返して来た達人でなければ、頭蓋を撃ち抜かれて死んでいただろう。
「何者だ……ッ!!?」
 見下ろせば――木々の間を蛇行して通り抜け、小さな影が接近していた。
 彼女はナイフを振り、彼が立っている木を一撃で斬り倒す。
「ぐ……ッ!!?」
 枝から飛び降り、着地する彼。
 体勢を立て直す間は与えまいと、襲撃者は猛獣の如く迫り来る。
 ……そこで彼は、ようやく敵の正体に気付いた。
「緋姫ちゃ――倉元緋姫かッ!」
「見付けましたよ、ストーカーさん! では、面白可笑しく死んじゃってくださいッ!!」
 緋姫はリュックからP90を抜き、ストーカーたる彼に向ける。
 必中必殺の意思を込め、トリガーを引き絞ろうと――した。
「……なっ!!?」
 が、それよりも早く。
 彼の投擲した棒手裏剣が、P90の銃口に突き刺さる。
「さっきの返報だ」
「……っ」
 銃身を破壊されたP90を放り捨て、敵を観察する緋姫。
 顔はレインコートのフードに隠されており、はっきりとは見えない。だが一瞬、知った顔のような気がした。
 しかしそれよりも、気になった点は――
(この人の動き、霧神さんと似ている……?)
 あの丁寧な気断といい、古流の人間なのだろう。
 もしかしたら、瀬利花と同門なのかも知れない。だとすればこのストーキングは単なる犯罪行為ではなく、信濃霧神流の事情が絡んでいる可能性がある――しかし、緋姫の知った事ではなかった。
 彼女が考える事は1つ。この男のせいで、瀬利花に先を越された。
「――……」
 緋姫の脳が、眼球から送られる情報を元に敵を分析する。
 外形から、筋骨臓腑の構成を正確に予測。相手の急所――広く知られている急所だけではなく、現代解剖学では解明されていない秘密の急所さえも、残さず把握する。
 彼女の脳髄に叩き込まれている知識と理論は、眼前の男を無駄なく抹殺するための方法を瞬く間に算出した。
「――『刹那・断末魔』ッッ!!!!」
 緋姫が駆ける。
 ナイフの切っ先が、彼を狙う。飛燕の如き一突きで、その生命を無に還そうとした――が。
「そう来ると、思った」
 彼はひらりと、緋姫の奥義を回避してしまった。
「――なッ!!?」
「お前の型は、大体知っている。読むのは容易い」
 彼は己の人差し指を、親指で押さえ込んだ。
 人差し指に、力を込めてゆく。それを、親指が抑え切れなくなった時――溜め込まれた力が、人差し指に乗って解き放たれた。
 要するに、デコピンである。しかし――
「……がッッ!!!?」
 緋姫の額に直撃したそれは、凄まじい一撃だった。
 彼女の脳が激しく揺さぶられ、身体は何メートルも弾き飛ばされる。とても、指の力とは思えぬ威力だ。
「ぐ……っ!!」
 額から溢れた血が、目に入って視界を奪う。
 血を拭い取り、緋姫は敵を捜すが――時既に遅く、周囲には誰の姿もなかった。



「破ァァァああああッッ!!!!」
「フ……ッ!!」
 瀬利花の木刀とカナメのハンマーがぶつかり合い、この世ならざる火花が散った。
 2人が激突する度に、空間が歪に捻じ曲がる。このフィールドは、本来の世界から離れた切れ端に過ぎない――信濃霧神流と魔法冥土マジカル・メイドが本気で対決すれば、すぐに崩壊してしまうだろう。
「そう言えばカナメ、あいつはどうした?」
「――? あいつって誰かしら」
「月見迦具夜だよ。私達がここにいるという事は、奴は匠哉と2人切りなのだろう? それは、お前に取ってはまずいんじゃないか?」
 木刀とハンマーが、打ち合わされる。
 世界を砕く程の衝突を繰り返しながらも、2人は軽やかに言葉を交わしていた。
「ああ、問題ないわよ。あれは所詮、ただの妹に過ぎないもの」
「……それはまた、言い切ったな」
「だから、心配する必要はないわ。キスの途中で割り込まれて、気になるのは分かるけど」
「――うにゃッ!!? ち、違う、あれはキスとかそういうのではなくてだな――ッッ!!!!」
 カッと、顔が赤くなる瀬利花。
 自分が何をしようとしていたのかを思い出し、恥ずかしさで頭が一杯になる――が。
「――まぁ何にしても、デートの続きは無理よね。貴方はここで、私が磨り潰して終わらせるから」
 そんなものは、カナメの殺気で吹き飛んだ。
 思わず気圧されてしまい、後退してカナメとの距離を取る瀬利花。
「……凄まじい気合だな。どうした、匠哉を獲られるのはそんなに嫌か?」
「ええ、匠哉は私のモノよ。それを横から掠め取ろうとする賊には、実力行使による制裁が当然だわ」
 少しでも動揺を誘えまいかと、瀬利花が放った問い。しかしカナメは、平然とそれを肯定した。
 好きなものを、素直に好きだと言える――その心の在り方は、瀬利花にとっては余りにも眩しい。
「……そういうのを、世間ではヤンデレというらしいぞ」
「あれって、順番的にはデレヤンよね。デレたからこそ、ヤンじゃう訳だし」
 どうでも良い事をどうでも良さげに呟きながら、カナメは瀬利花に迫る。
 襲い来るハンマーを、瀬利花は紙一重で躱す――しかしカナメは鎚を振り抜いた勢いを足に乗せ、蹴りとして打ち放った。
「ぐぅあ……ッッ!!!?」
 プリティかつファンシィなブーツが、ゴリゴリと鈍い音を立てて瀬利花の胴に喰い込む。
 内臓まで抉ろうとするかのような、鋭く強烈なキック。受けた瀬利花は、苦悶の声を漏らすしかない。
(……ぐッ、今のは効いた……!)
迷いの森の夏至前夜、妖精達は舞い騒ぐ――Fairies dance and sing in a deep forest on the midsummer night――
 カナメのハンマーに、魔力が装填される。
 蹴りのダメージで、動きが遅れる瀬利花。防御も回避も間に合わない。
スペシャル御奉仕!Special service! 『メイド・ハンマー』……ッ!"MAID HAMMER"......!
 ハンマーが、瀬利花の身体に直撃する。
 カナメの鎚は、レニウムの塊だ。ただ振り回すだけでも、殺傷能力は充分――その上魔法冥土マジカル・メイドの膂力と魔力が加われば、その破壊力は天地すら揺るがす。
「ぐぁあが、ッアは……ッッ!!!?」
 殴られた瀬利花は地面と平行に、1度も落ちる事なく飛ばされ――『世界の果てデッド・エンド』に、背中から激突した。
 彼女の骨が、軋みを上げる。内臓の動きが狂い、形容し難い不快感が込み上げて来る。
「ぐッ、う……當願衆生、十方一切、邪魔外道、魍魎鬼神、毒獣毒龍、毒蟲之類、聞錫杖聲、催伏毒害、発菩提心、具修万行、速證菩提……ッ!」
 瀬利花は錫杖を取り出し、その音色を響かせた。
 その音色により、喚び出される前鬼と後鬼。夫婦の鬼神は、それぞれの力を振り翳してカナメを叩き潰さんとする。
 だが――
「――話にならないわね」
 何の前触れもなく、鬼達の身体が吹き飛んだ。
 カナメが、何かをした訳ではない。彼女の呪圏スペルバウンドに踏み込んだ前鬼と後鬼が、その圧力に敗けて弾かれただけだ。
「この程度の小鬼ゴブリンで、私を倒せるとでも――あら?」
 カナメの眼が、フィールドの中を探る。
 何処にも、瀬利花の姿がない。だがこの狭い世界で、身を隠せるはずもない。
「姿を消した、か……?」
 見えはしないが、ここにいるのは確かだ。
 ならば高出力の魔法で片を付けようか、とカナメは考える。区切られたフィールドに、逃げ場などないのだから。
「……そういう訳にもいかないか」
 まさに、瀬利花はそれを狙っているはずだ。
 カナメが大魔法を使うために、魔力をチャージする――その隙に、木刀の一撃を浴びせる腹なのだろう。
「……ホントに、微温いわね」
 カナメは、ふぅと息をついた。
 ハンマーの一振りが、瀬利花に打ち込まれる。
「ぐぅあ……ッ!!!?」
 反射的に防御した瀬利花だったが、威力に敗けて木刀を手放してしまった。
 得物を失った瀬利花は、カナメとの間合いを開いて隠形の術を解く。
「……何故だ? 何故、私の位置が分かった……!?」
 確かに、常人の肉眼には見えまい。
 だが、カナメは魔法冥土マジカル・メイド。常人のレヴェルなど、遥か昔に通り過ぎている。
「勿論、視えたからよ。月の妖精が私に与えた、この魔眼グラム・サイト――貴方の幻惑如き、数秒あれば看破出来る」
「……ッ!!」
 ハンマーを肩に負い、カナメが瀬利花に歩み寄る。
 妖精族フェアリィズから自然の秘術を授けられた、魔法冥土マジカル・メイドの少女――その力は、瀬利花の想像を絶していた。
 それでも降伏はすまいと、瀬利花は気組を崩さなかったが――
「いい加減、諦めなさい。貴方では、純粋な私には敵わないわ」
 カナメの不可解な言葉に、思わず闘いを忘れてしまった。
「……どういう意味だ?」
「女の子は、純粋な方が強いのよ。ほら、貴方が私に勝てる道理なんてない」
 カナメは笑いながら、瀬利花に言う。
 それは、単なる戯言に過ぎない。しかし世の中には、聞き流せない戯言もある。
「……まるで、私が不純であるかのような言い方だな」
「そうでしょう? だって貴方は、二股を掛けようとしているもの。それを、不純と言わずに何と言うのかしら?」
「――……」
「そんな貴方が――演技とは言え、匠哉と同伴するのは赦せない」
 明確な意思の込められた言葉が、瀬利花に浴びせられた。
 ……瀬利花の心の中には、2人の人間が存在する。
 倉元緋姫と、月見匠哉。それを二股だと言われれば、肯定する他ない。
 カナメは、それを不純であると語る。
 けれど――
「――違うな。私は、お前より2倍も純粋なんだ」
 瀬利花は否定の言葉を、ハッキリと返した。
 カナメはそれを受けて、呆れ果てたような――それでいて、妙に晴れ晴れしい顔を見せる。
「……面白くないわ。もう少し、悩み苦しむのを期待したんだけど」
「その問いは、私が幾度も自身に投げ掛けたものだ。貴様がそれを得意げに語るなど、笑止千万と言う他ない」
「で、辿り着いた答えがあれ? 図々しいにも程があるわ」
「気に入らないなら、私を倒してみせろ」
 瀬利花は虚空から、一振りの剣を抜き放った。
 凄まじい理力を纏う日本刀――宝刀破月。その顕現によって、壊れ掛けの世界がさらなる軋みを上げる。
「……信濃霧神家の宝刀レガリアか」
「ん? 何故知っている――……ああ、そう言えば小妖精がコソコソと嗅ぎ回っていたな」
 瀬利花はうんざりしながらも、破月を構えた。
 対するカナメも、ハンマーを構えて相対する。
「さてカナメ、次の一合で決着を付けるとしよう」
「こちらもそのつもりよ」
 闘気が交錯する。
 2人が動き出したのは、まったくの同時。
「信濃霧神流秘伝――」
迷いの森の夏至前夜、妖精達は舞い騒ぐッ!!Fairies dance and sing in a deep forest on the midsummer night!!
 互いに、全身全霊の一撃。
 暴力の化身たる、戦乙女達の相剋。それはまるで、星と星との激突だった。
「第十七番――『六道流転万華鏡』ッッ!!!!」
スペシャル御奉仕ッ!!Special service!! 『メイド・ミョルニル』……ッッ!!!"MAID MJOLNIR"......!!!



 迦具夜は己の膝枕に匠哉の頭を乗せ、ただ時を待っていた。
 その時とは、言うまでもなく瀬利花と要芽の決着だ。
 要芽が勝てば、匠哉は迦具夜達のものとなる。もっとも、匠哉本人の了承は得ていないが。
 独占出来ないのは心苦しいが、それは後からでも何とか出来る。たった今大事なのは、要芽が瀬利花を打ち倒す事だ。
「――って、うわぁッッ!!!?」
 玉兎の剣で創り出した、バトルフィールド。
 それが、内側が吹き飛んだ。急拵えとはいえ、1つの世界――それをこれ程までに崩壊させるとは、どんな戦闘が行われたのだろうか。
 ……ひゅん、と。
 大きな何かが迦具夜の髪を掠め、後方へと飛んで行く。迦具夜はすぐに、その正体に気付いた。
「か、要芽ちゃんっ!!?」
 肩越しに振り返り、親友の少女に呼び掛ける。
 ……ボロボロの要芽は、それに答えない。死んではいないようだが、意識は確実にオチている。
「私の、勝ちだ」
 声が聞こえた。
 迦具夜は、視線を戻す。そこには要芽に敗けず劣らずボロボロの、瀬利花が立っていた。
 彼女は迦具夜に、宝刀破月の切っ先を向ける。
「――だから、私と代われ」



 匠哉の頭が、迦具夜の膝から瀬利花の膝へと移った。
 ようやく、本来のデート相手の元へ帰って来たのである。
「――……」
 瀬利花は、匠哉の顔を覗き込む。
 彼は、すやすやと眠っている。陳腐だが、寝ている顔は歳相応だ。
 一緒に住んでいる連中は、毎日これを見る事が出来る。それはとても、卑怯極まりない気がした。
「……そう言えば、キスの途中だったな」
 さすがに、もう1度あれをやり直す勇気はない。
 けれど――匠哉が気を失っている今なら、恥ずかしさにも耐えられるだろう。
「……匠哉」
 唇と唇が、触れ合う。
 ……子供の頃にも、こんな事をした覚えがあった。夜の公園――落とし物を捜してくれたお礼に、匠哉の頬に唇をプレゼントした。
 今は頬ではなく、唇と唇。それだけ、成長したという事なのかも知れない。
 瀬利花は惜しむように、ゆっくりと唇を離す。
 すると――
「うむ、御馳走様」
 匠哉が、ひょいっと瞳を開いた。
「――ッッ!!!? みぎゃ〜〜〜〜ッッ!!!?」



「これで良かったの、要芽ちゃん?」
 星丘公園の片隅で、敗れた少女達が集っていた。
 迦具夜は遠くを見ながら、要芽に問い掛ける。
「何だったら、今から私が倒して来るけど」
「……別に止めはしないけど、止めておいた方がいいと思うわ」
 要芽は疲れ切った様子で、ベンチの上に寝ている。
 あの女傑要芽が、この有様――迦具夜が闘ったとしても、勝てるかどうか。
「うー、私は納得出来ません」
 緋姫が、不満げに言う。
 そんな彼女に、ギロリと鋭い一瞥を向ける要芽。
「黙りなさい、この役立たずめ。ストーカー如きに敗けた女に、発言権なんてないわ」
「なっ、古宮さんだって霧神さんに敗けたじゃないですか!」
「私はいいのよ、接戦だったから。でも、貴方はあっさりと敗けたんでしょう」
「……な、何と言う詭弁……!」
 プルプルと震えながら、要芽を睨む緋姫。
 しかし要芽は緋姫の殺視線を受けても、クールに受け流すのみ。
「あー、空が綺麗ね……」
 ベンチの上から、要芽は空を見上げる。
 空はもう、夕焼けで染まり始めている。オレンジ色の視界を、匠哉が横切って行った。
「…………」
「あ、お兄ちゃんが空飛んでる」
「……何があったのかしら?」
「きっと、狸寝入りがバレて飛ばされたんだよ」
 ははは、と迦具夜は笑う。
 要芽は、気だるげに尋ねた。
「貴方は、気付いていたの?」
「当然。でも、気付いてないフリをするのが優しさだよね。だから、お兄ちゃんの涎が私の内股を濡らしても見逃してあげた。寝てたのなら、涎が垂れても仕方ないからね」
「…………」
「ちょっとドキッとした」
 きゃー、と嬉しそうにする迦具夜。
 ……要芽は本当に面倒臭そうに、緋姫に言った。
「やりなさい」
「はい」
 緋姫のハイキックが、迦具夜の側頭部に直撃。
 迦具夜は悲鳴を上げる間すらなく意識を断たれ、バタリと地面に倒れた。
「……さて、帰りましょうか。ストーカーの気配は、もうしないし」
 要芽は身を起こし、ベンチから降りる。
 ……そこで緋姫は、看過出来ない発言があった事に気付いた。
「古宮さん? 貴方確か、ストーカーの気配は感じられないんじゃ……?」
「出来ないフリをして、他人にやらせる。楽って素敵ね」
「なッ……ふ、古宮さぁぁんッッ!!! 貴方って人はぁぁ――ッッ!!!!」








「……何時から起きてた?」
 霧神流の一撃を喰らって鳥になった俺は、落下地点でさらに尋問されていた。
 瀬利花がプルプル震えながら、俺に木刀を突き付ける。
「えっと、迦具夜に膝枕されてた時から」
 妹とはいえ、女の子の膝枕は貴重である。
 ボケーっとしてたら、思わず涎を零してしまったが――寝たフリの最中だったので、拭いてやる事も謝る事も出来なかった。ゴメンネ迦具夜。
「……つまり、最初から起きてたという事だな……」
 ゴゴゴゴゴ、と恐ろしげな音が聞こえる。
 何やら瀬利花さん、プッツン寸前の御様子。
「い、いや、そんなに恥ずかしがらんでも! デートなんだから、キスの1つや2つは珍しくないしっ!」
「ふふ、ふふふ。お前に取ってはキスなど大した事ではなかろうがな、私に取ってはそうじゃないんだ……ッ!」
 ――地雷踏んだッ!!?
 ええい、何とかして誤魔化さないと……!
「そ、そうだ! アレだ、ストーカーはどうなったんだッ!?」
「……え、ストーカー? あー……そう言えば、気配がないな」
「そう言えば、って……忘れてたのか?」
「――ッ!!? そ、そんな訳ないだろう! そのためにデートをしたのだからなッ!!」
 慌てた様子で、言い訳っぽい事を口にする瀬利花。
 何なんだ、一体。
「……まぁいい。匠哉、そろそろ帰ろう。ストーカーは消えたし、既に夕方だ」
「んあ、もうそんな時間か」
「あ、ニャムエルはお前が運べよ。狸寝入りの罰だ」
「えー……ま、仕方ないか。最初っから、その予定だったんだし」
 2人揃って、歩き出す。
 現在、ニャムエルは放置プレイ中なのだ。回収しなければ。
「つーか今更だけど、お前ボロボロだな。大丈夫なのか?」
「怪我はとっくに治した。それに、ダメージは向こうの方が大きいだろうな」
「そうか……しかし何だったんだ、さっきのは?」
「私達が武を競うのは、いつもの事だ。お前がいちいち気にする程のものではない」
 瀬利花は正面を向いたまま、俺に眼を向けずに語った。
 ……ぬぅ。当の瀬利花が気にするなと言うなら、俺が考えても仕方ないか。








 今上天皇幽子は、街中で夕焼けを眺めていた。
 ビルの屋上――その縁に腰を下ろし、世界を眺める。遠くでは、太陽が刻一刻と地の底へ沈んでゆく。
 本来、この時間は幽子に取って忌むべきモノだ。太陽の威光が消えてゆき、人ならざるモノどもが跋扈を始める。
 ……なのに今の幽子は、それを憎み切る事が出来ない。
 自分でも、どうかしているとは思う。陽光なき世界に、彼女は何を期待しているのか。
 夜の暗闇の中で美しいと言えるものは、太陽の光の欠片である月くらいだ。
 あるいは、それこそが望みなのか。天照と月読は袂を分けたが、本来は表裏一体であるべきなのかも知れない。
「莫迦莫迦しい――」
 下らない事を考えているという、自覚はあった。
 そしてその原因に関しても、何となく心当たりはある。認め難い事ではあったが。
「……彼は今、何をしているのかしら――?」
 月見匠哉。
 思い返せば、何かと助けられている。壱丸の時も、『蟲鳴之書』の時も。
 無論、幽子に仕え助力した人間は山程いた。そうでなければ、とうにこの国は滅びている。
 ……だが月見匠哉は、日本の事などどうでも良いはずだ。
 幽子が勝とうが宇迦之御魂が勝とうが、変わらず明日は来る。彼は、国の支配者が誰であろうと知った事ではないだろう。
 なのに、彼は幽子に力を貸した。それが単なる偶然でしかない事は、彼女も分かっている。
 ……分かっては、いるのだが。
「本当に、莫迦莫迦しい――」
 胸の中に蟠る、不可解な感覚。
 その扱い方に、幽子が頭を悩ませていた――その時。
「……あら?」
 眼下に、問題の月見匠哉が見えた。
 彼の隣には、霧神瀬利花がいる。彼女の抑え切れぬ喜楽が、幽子には感じ取れた。
「……くすくす、くすくす。何だか、楽しそうじゃない――」








「雨だぁぁぁぁあああああああッッ!!!?」
「そんな馬鹿な、1秒前までは晴れていたぞッッ!!!?」
 大粒の雨に打たれ、疾走する俺達。周りでも、急な雨に慌てた人々が右往左往している。
 瀬利花の言う通り、1秒前までは綺麗な夕焼けが見えたのに……今の空は黒雲に覆われ、ザアザアと豪雨を降らせていた。
 ……まるで、太陽が機嫌を損ねたかのようである。
「瀬利花、どうする!?」
「とりあえずは私の家に避難だ!」
「わ、分かったッ!」
 って言っても、俺は瀬利花の家を知らんが。
 仕方ないので、彼女の後を追うように走る。チッ、全速力で走れないと不満が溜まるぜ。
「ここだ、匠哉!」
 瀬利花が、とある家屋の玄関先に跳び込む。俺も続いた。
 2人揃って、ドアに背を預けてへたり込む。ニャムエルは……俺達と同じくビショビショだが、梱包してあったのが不幸中の幸いか。
 ……瀬利花はボロボロの服がさらに濡れて、色々と凄い事になっている。しかし、指摘しない方がいいだろう。
「――……」
 玄関先から、見える範囲で家を観察してみる。
 瀬利花の家なんていうから、田村家みたいに純和風かと思ってたのに……普通極まりない家だ。実家は凄いのになぁ。
 ……ん? 俺、瀬利花の実家なんて知らんぞ? 知っているとしたら、それは俺ではなく別の誰かだ。
 ま、まぁいいや。良く分からん事は、良く分からんままにしておこう。
「どうすっかな……帰れんぞ、これは」
 デートが終わった以上俺は家に帰りたいのだが、これでは動けない。
 この盛大な豪雨の中を走って帰る程の度胸は、さすがにありはしなかった。
「とりあえず、家に上がれ。お互い、このままでは風邪を引く」
「そうだな……って、いいのか?」
「仕方あるまいよ」
 じゃあ、遠慮なく。
 瀬利花が鍵を突っ込み、ドアを開ける。恐る恐る、俺は瀬利花の家に入って行くのであった。
 ……鬼が出るか、蛇が出るか。いや、鬼は住んでいるだろうけど。








 降雨のリズムが響く街の中を、レインコートの男が歩いていた。
 元々は正体を隠すための変装だったが、こうなるとコートは本来の恩恵を彼に齎してくれる。
 雨に降られた人々が駆け足で行き来する只中、彼だけはのんびりと歩を進めていた。
「……あれ、キリタクさん?」
 彼は声に反応し、横に振り向いた。
 バス停の中で、良く知る少女が雨宿りしている。
 彼――霧神匠哉は、面白くなさそうに口を開いた。
「その、キリタクというのは止めろ」
「えー」
 バス停に座すリリル・ゼムラインは、不服で口を尖らせる。
「だって、霧神さんと呼ぶのも匠哉さんと呼ぶのも不便ですし。何か、スペシャル画期的な渾名を考えるしかないじゃないですか」
「お前は、『スペシャル』という言葉の意味を理解しているか?」
「それで、キリタクさんです。こんな素敵な渾名を、容易く考案しちまう自分の才能が恐ろしいぜ! ベイベェ!」
「…………」
 何やら今日は、いつも以上に頭のネジが緩んでいた。
 大方、バス停から動けなくて退屈していたのだろう。
「それより、この雨は何なんでしょう? 予報では晴れだったのに……」
「天気予報などという現代科学の欺瞞に頼るから、そんな目に遭うのだ。空の動きは龍王の随意、人に予測出来るものではあるまいよ」
「はぁ、そうですか。とりあえず、そのレインコートを私に貸してください」
 会話の繋がり方が、霧神匠哉には理解不能だった。
 このリリルという少女は、ただ言いたい事を言っているだけのように思える。
「……一体、どんなメリットがあると言うんだ?」
 リリルにコートを貸せば、霧神匠哉は雨を凌げなくなる。
 その末路は、走って帰るか、あるいは今のリリルのように晴れるまで雨宿りするかだ。何にしても、彼に得などありはしない。
「へ? そんなの、言うまでもないじゃないですか。私が、萌芽荘まで濡れずに帰れます」
「分かった、言葉が足りてなかった。お前の莫迦さを甘く見ていた俺の落ち度だ。言い直そう――お前にコートを貸して、俺にどんなメリットがあるんだ?」
「だから、私が萌芽荘まで濡れずに帰れます」
「それは、一切合切俺のメリットではない」
 憮然と言い放つ、霧神匠哉。
 リリルは手足をバタバタと動かしながら、彼に不満をアピールする。
「いいじゃないですか、このリリル・ゼムラインが何事もなく帰れるんですよ? まさに、世界平和の第1歩です」
「その世界平和からは、俺の幸福が抜け落ちているな」
 ふぅ――と、霧神匠哉は疲れた息を漏らす。
 会話を続けても、労力の無駄にしかなるまい。リリルを放置し、彼は再び歩き出した。
「ちょ、待ってくださいよ! と言うかキリタクさん、こんな時間まで何してたんですか?」
「俺は俺なりに、未練があったんだよ。まぁ、それも今日までだ。あの阿婆擦れどもとは、金輪際関わり合いたくないからな」
「はぁ……えっと、会話の繋がり方が理解不能なんですが。って、だから待ってくださいってば!」








 結局、夕食まで頂いた。
 理由は簡単だ。瀬利花の家に逃げ込んでから数時間経ったが、未だに雨が止む気配はまったくない。
 マナが傘でも持って迎えに来てくれれば、問題なく家に帰れるのだが……奴は電話の向こうで『初デートでお泊りだなんて、さすがは匠哉ッ!』とか妄言を吐くばかりで、ちっともこちらの話を聞こうとはしなかった。
 あ、夕食は美味しかったです。作ったのは、瀬利花じゃなくて前鬼後鬼だけど。
「じゃあ、大人しくしてろよ」
「お前は俺を何だと思っとるんだ」
 瀬利花は俺に一言残し、食器を持って台所へと向かった。どうやら、片付けはするらしい。
 ……ボケーっとしながら、テレヴィを眺める。
 ちなみに、服は瀬利花から借りた物だ。さすがに、濡れた服を着続ける訳にはいかない。
 あの瀬利花が着るような服なので、男の俺でも特に不自然さはなかった。まぁメイド服まで着ている俺に、似合わん服などないのかも知れんが。
 ……俺の頭には、兎が1羽乗っかっている。
 俺がケージから出して、頭に乗せてみたのだ。ここは噂通りの動物王国である。
「……ん?」
 視界の隅を黒い何かが横切り、俺は反射的に眼で追った。
 その正体は、1匹の黒猫――通称みぃちゃん。本名、みぃ・桜吹雪・デストロイヤーだ。
 ……こうしてまみえるのは、地下暗黒帝国以来か。
 奴はこちらを一瞥すると、プイっと顔を逸らして走り去ってしまった。
「相変わらず、愛想のない猫だな……」
 デストロイヤー九織め、お前が呪徒だってバラしたろか。
 俺が、そんな出来もしない事を考えていると――
「……お」
 前鬼が、居間に戻って来た。
 奴は居間の隅にドーンと鎮座しているニャムエルの箱を、開封するつもりのようだ。
「おや、開けるのか」
「ええ。開封して、瀬利花様の御部屋に運んでおくのです」
 ……そんな雑用までするのか、護法童子。
 箱は大変な事になっているが、中身に被害はなかった。ゲーセンで取った時と変わらぬ等身大ニャムエルが、居間に出現する。
 ううむ、何度見てもデカいぜ。凄いプレッシャーだ。
「そう言や、気になってたんだけどさ――」
 俺は兎をケージに戻すと、ニャムエルに背中を向けさせる。
 ……そこには、何故か1本のファスナーが取り付けられていた。
「よいしょ、っと」
 俺は、そのファスナーを下ろす。
 両手を入れて、中身を引き出した。綿の詰まった人形型の袋が、俺達の目の前に晒される。
「これは……?」
「こいつをニャムエルの中に入れて――いや違うな。これにニャムエルを被せて、人形にしていたんだ。枕と枕カヴァーみたいなもんか」
 枕は本来はただの袋だが、カヴァーによって色鮮やかになる。
 それと同じだ。このヴードゥードールみたいな人形にニャムエルの外装を被せ、等身大ニャムエル人形へと変身させていたのである。
「何故このような様式に? 洗濯し易いからでしょうか?」
「洗濯し易いのも確かだが、多分それだけじゃなくて――」
 中身を抜かれ、ヘロヘロになったニャムエル。
 俺は開いたファスナーから、その中に入り込み――
「――着ぐるみとしても、使えるのではないか?」
 でん! と、立ち上がってみた。
 おお、思った通りだ。外見からは分からなかったが、ちゃんと外を見るための穴もある。
「成程、そういう事だったのですね」
 前鬼が、俺の背中のファスナーを上げた。
 ふふ……今まさに、俺は猫天使ニャムエルと化している! 奥義キャッツブレイザーも撃てそうな気分!
 さぁ来いや、土星からの猫ども! 今宵、月の裏側にて貴様等を待つッ!
「……って、おや?」
 大事な事に気付いた。
 この肉球ハンドでは、ファスナーを下げる事が出来ない。つーか、そもそも手が届かない。
「おーい、前鬼。ファスナー下げてくれー」
 さすがに、いつまでも着てはいられない。
 何しろ前鬼は、これからニャムエルを瀬利花の部屋に運ぶのだ。俺が入っている訳にはいくまい。
「いえ、その必要はありませんね」
 なのに、前鬼はそんな答えを返して来た。
 訝しむ俺だったが、その真意を問う間もなく――
「――しばらく、眠っていてください」
 前鬼は着ぐるみを覗き込み、俺と目を合わせた。
 炯々と光る、奴の双眸を見た途端――俺の意識が、深い所に沈み始める。
「な……前鬼、何、を――……」
「御安心を、何時間かすれば目覚めますよ。それまでは、ゆっくりと御休み下さい」








「月見匠哉は帰りました。先程、少し雨が弱くなった際に。服は洗濯して返す、だそうです」
 瀬利花が夕食の片付けと動物達へのエサ遣りを終えて居間に戻ると、前鬼がそう語った。
 確かに、家の中に匠哉の姿はない。だとすれば、前鬼の言う通り帰宅したのだろう。
「……そうか」
 むぅ、と不満げに唸る瀬利花。
 これは私に何も言わずに帰った事に対する不満であって、帰ってしまった事自体に不満はない――と、瀬利花は自分に言い聞かせる。
 匠哉は、雨が弱くなったタイミングを見て帰ったのだ。いつ強くなるか分からない以上、瀬利花に声を掛ける暇はなかったのだろう。
 しかし、と瀬利花は思う。彼女は、ずっと外に気を配っていたのだが――雨が弱くなった時など、果たしてあっただろうか?
「……まぁ、いいか」
 瀬利花は不満に思う反面、安心もしていた。
 いくら匠哉とは言え、いや匠哉だからこそ――同じ屋根の下で夜を越すというのは、精神的に辛いものがある。
 ……そんな彼が、いなくなった。これで、平穏な夜になるのは確かだろう。
 就寝時間が訪れ、瀬利花は前鬼後鬼の喚起を解除。彼女自身も、己の部屋に赴く。
 様々な動物の人形で埋め尽くされた、瀬利花の部屋。その中には、匠哉から貰った人形もいくつかある。
 そして今日、新たな1体が加わった。前鬼が運び込んだニャムエルが、壁に背を預けて座っている。
「――……」
 瀬利花は、机に猫のキィホルダーを置いた。
 果たされた、数年越しの約束。改めて考えると、ロマンティック過ぎて恥ずかしい。
 ……匠哉は以前、このキィホルダーの落とし主に対する恋慕を、瀬利花に語った。
 その落とし主が瀬利花本人だと分かっても、彼は彼女にキィホルダーを返した。心の中で、匠哉は何を想っていたのだろうか。
「……今夜は、少し暑いな」
 夏が近付き、気温が上がっている。
 瀬利花の顔が赤い理由は、それだけではなかろうが。
「……止めた止めた。あいつの事で考え込むだなんて、莫迦莫迦しいにも程がある」
 デートの影響か、今日は妙に匠哉について考えてしまう。
 瀬利花は頭を振り、脳内から匠哉を追い払うと――パジャマのボタンに指を掛け、服を脱いだ。
 暑さに、耐えかねたのだ。誰かに見られる訳でもないので、問題はない。
 するするとズボンを下ろし、遂に瀬利花の身を包む物は下着のみになる。そして彼女は、ニャムエルを抱え上げた。
「む……?」
 さすがは等身大と言うべきか、人間のように重い。
 これを運んでいたのなら、匠哉が疲れ果てたのも無理はない。
「……っと」
 瀬利花はニャムエルを、ベッドに寝せた。その隣に、彼女自身が寝る。
 ……瀬利花の五体が、愛おしむようにニャムエルを抱き締めた。
「――……」
 匠哉の、プレゼント。
 触れ合っていると、彼が傍にいるかのような錯覚まで感じる。
「匠哉――……」
 畢竟、考えるのは匠哉の事のみ。
 それでもいいか、と瀬利花は瞳を閉じる。彼女は幸せな気分で、眠りに落ちていった。



 ……数時間後。
 ニャムエルの中で、眠っていた匠哉が覚醒した。
 その結果として、何が起きたか――それは当人達以外、神でさえ知りはしない。






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