窓から陽光射し込む、静謐な一室。 皇居陰陽寮書庫――幽子はその部屋の1席に就き、大冊の頁を捲っていた。 「……何の用かしら――?」 仮面の奥の鋭い視線が、傍に現れた男を刺す。 ……恐るべき事に、幽子はこの瞬間まで彼の接近を察知出来なかった。永らく人の王として君臨した故、神性が薄まってはいるが――それでも彼女が、神族の末席に名を列ねる者である事は変わらない。 その幽子を相手に、ここまでの気断を可能とする男。その気になれば、悟られぬ内に幽子の首を刎ねる事すら、出来たのかも知れない。 「御初に御目に掛かります、幽子陛下。ここで司書を任されております、鳴羅黒人と申します。恐れながら、陛下に献上致したい物が御座いまして」 「――……」 幽子は、跪いている黒人を観察する。 日本人のようだが、その肌は浅黒い。そして肌の色が濃いにも関わらず、瞳の色素は薄く――毛細血管を流れる血液で、赤く染まっていた。 年齢は、分からない。若くも見えるし、そこそこの歳にも見える。 黒人は美しい――最早魔性とでも呼ぶべき――顔立ちで、幽子を見上げている。 「献上したい物とは、何なのかしら――?」 「こちらで御座います、陛下」 黒人は手品のように和綴じの本を手中に出現させると、恭しくそれを差し出した。 その書のタイトルは―― 「『蟲鳴之書』……っ!?」 「はい、我等皇居陰陽寮が秘蔵する禁書――『蟲鳴之書』。この書が秘めた咒力は、陛下も御存知のはず」 「――……」 「書に記された隠秘を学び、その全てを習得して頂ければ――国に乱なす朝敵など、赤子の手を捻るように征討出来る事でしょう」 黒人が微笑む。 ……幽子にとって、それは魅力的な提案だった。狐を討つためには、猫の手を借りる事すら躊躇うつもりはないのだ。 しかし――そう簡単には受け入れられない事情も、また存在する。 「でも、その本は――」 「かつてこの書を紐解き、未熟故に冥府魔道へと堕ちた愚者もおりましたが……陛下のような貴人ならば、それは杞憂というもの」 黒人は先回りして、幽子が言おうとした言葉を封じ込めた。 ……幽子は、黒人の言葉を否定出来ない。帝というのは、それが赦される立場ではない。 「本日は拝謁の機会を賜り、感謝の極み。いつかまた御遭い出来る事を祈りつつ、失礼させて頂きます――……」 「……え?」 黒人の姿が、闇の中に消える。 太陽の光が満ちたこの場に闇などあるはずがないのだが、幽子の眼にはそう見えたのだ。 「――……」 彼女は、己の手を見る。 いつの間に、受け取ってしまったのか――手中には、呪われた禁書があった。
「いくら囮の役とは言え、異教の僧兵如きに敗北するとは……赦される事ではないよなぁ?」 古の神が言う。 言葉とは裏腹に――その口調と表情には、深い喜悦が感じられた。 ……伏見。社の王座に鎮座する、宇迦之御魂の御姿。 彼女の眼前には、手足を縛られた花音とヘレンが転がされていた。 「ん、ぅふ……はぁんっ、ひぁう……っ!!?」 宇迦之御魂の九尾が、2人の身体に擦り付けられる。孤神の咒力が、否応なしに少女達の感覚を高めてゆく。 ……否、宇迦之御魂だけではない。 花音とヘレンの周囲には、両手の指では数え切れぬ程の妖狐が集まっている。 髪の毛、口の中、脇の下、胸の谷間、太腿の間、尻の谷間、衣服の隙間――彼等は思い思いの場所に己の尻尾を突っ込み、彼女達の身体を楽しんでいた。 「ハァ、ァアア……ッ!!」 興奮した妖孤の1匹が花音の身体に圧し掛かり、その爪と牙で巫女服を破り始める。 だが―― 「――はいはい、そこまで」 その行いは、途中で遮られた。 気配なく現れた晴良が、それを制止したのだ。 「……どうした、晴良? いかに副将の貴様とて、妾の愉しみを邪魔する事は赦されぬぞ?」 「申し訳御座いません。無礼は承知ながら――しかし大神。この2人には、早急にやって貰わねばならない事があるのです」 「そうか……なら仕方ない」 驚くほど素直に、尾を引く宇迦之御魂。 奉ずる神が引いたのなら、引かぬ訳にはいかず――妖孤達の尾が、花音とヘレンから離れてゆく。 ……しかし。 「はァ!? 人間如きが、偉そうに指図してんじゃねえよッ!!」 花音の服を引き千切った妖孤が人化し、晴良に異を唱えた。 ……僧衣を身に纏った男が、苛立ちの烈火を瞳に宿して晴良を睨む。 「指図も何も、僕は叛乱軍の副将――指示を出すのが当たり前の立場なんだよ、白蔵主」 「知った事か。妖狐と人間……その並びにおいて、人間が上に来るだなんて在り得ねえだろうがよ!」 白蔵主が、巨大な数珠を振るう。 ただの人間が受ければ、五体を粉々にされる一撃――しかし、晴良はただの人間ではない。 ……白蔵主の攻撃は、虚しく晴良の身体をすり抜ける。 「何……ッ!?」 「――大神」 短い言葉で、晴良は主の神に問うた。 「構わん、やれ」 それに対する宇迦之御魂の答えも、簡潔極まるものだ。 ……たったそれだけの遣り取りで、1匹の妖孤の運命が決められたのである。 「じゃあさよならだ、白蔵主」 ――血飛沫が舞う。 白蔵主の身体が細切れとなり、四方八方に散らばる。宇迦之御魂の足元に、頭部が転がって来た。 ……妖孤達が、ざわめく。 妖孤の――人外の六感を以ってしても、晴良の攻撃の正体が分からなかったのだ。気が付いた時には、白蔵主は寸断されていた。 ……だが、それも当然だ。 彼等の神である宇迦之御魂でさえ、晴良が何をしたのかまったく理解出来なかった。なのに、九尾も持たぬただの妖孤に分かるはずもない。 「さて、晴良。これをどう埋め合わせるつもりだ?」 宇迦之御魂が、玉座から下りた。 白蔵主の頭を踏み潰しつつ、凄絶な威圧感を放って晴良に言う。 詰まらぬ答えが返ろうものなら、その命を刈り取るぞ――苛烈な視線が、そう物語っていた。 その殺気を涼しげに受け流しつつ、晴良は冷艶に微笑む。 「あちらに、おやつを用意して置きました」 「……ぬ!? それは、例の『ぷりん』というヤツかっ!!?」 「はい。以前御好評を賜った、僕の手製洋菓子です。ああ、それと――御所望なされていた、この時代の御召し物も用意出来ていますよ。必ずや、御満足頂けるでしょう」 「おお……そうか、そうか! 良くやった、大儀であるぞ晴良っ!」 頭から狐の耳を生やし、トテトテと走り去る宇迦之御魂。 妖孤達もそれに付き従い、共に去って行く。 「暇潰しにレインから教わった料理が、こんな所で役に立つとはね。いやはや、人生とは何が糧になるか分からない。……それにしても、アレでは九尾と言うよりH尾だな。間違いなく父親似だ」 呟き、転がっている2人に眼をやった。 白蔵主の時と同じく、前触れもなく手足を縛っていた綱が切断される。 「……まったく、狐どもめ」 妖狐の魔力がようやく抜け、正気に戻った花音。 破られた巫女服を縛り直し、胸と腰に巻き付ける。 「おやおや、やけに手馴れているね。服を破られるのは慣れているのかな? やっぱり、月見匠哉に?」 にやにやとしながら、晴良が言う。 だが花音は、ずーんと沈み込み―― 「……麗衣だ」 「へ?」 「だ・か・らッ! 麗衣だッ!!」 「……ああ、それは。何と言うか、訊いてごめん。やはり、慣れない冗談なんて言うものじゃないね――今後は気を付ける」 誠心誠意の込められた、晴良の謝罪。 この男が誠の意を以って語るなど、前代未聞である。花音としては、こういう風に哀れまれると逆に辛い。 「礼を、言うべきなんでしょうかね?」 ヘレンが、のそのそと起き上がる。 己が放った、その問い――しかしその答えは、聞くまでもなく分かっていた。 「いや、感謝の必要はないよ。善意があった訳じゃないからね。さっき言った通り、用事があったから来ただけさ」 「……そうでしょうね。で、その用事とは?」 「うん、これを適当に撒いて来て欲しいんだ」 どんっ――と、分厚い紙の束が置かれた。 花音とヘレンは1枚ずつ手に取り、書かれている内容をまじまじと見詰める。 叛乱軍急募! 皇室を滅ぼし、五穀豊穣の瑞穂国を建てませんか? 和気藹々とした、楽しい職場です! 時給700〜800円。未経験者歓迎。 「…………」 ――絶句。 何かの間違いではないかと、ひっくり返したり、裏から見たりする花音とヘレン。愛らしいデフォルメ狐のイラストが、何だか腹立たしい。 結局、それが間違いでも幻覚でもないと分かると―― 「どの辺が和気藹々としてるんだ……」 「……国を引っ繰り返すにしては、700〜800円って安過ぎません? と言うか、バイト扱いなのですわね」 それぞれ、まず思った事を口にした。 その台詞も少女達の呆れた顔も認識していないかのように、晴良が胸を張る。 「凄いだろう、僕が昨日徹夜で刷ったんだ。服を作る作業と平行で」 「それはそれは、ご苦労サマですわね……って、『服を作る作業』!?」 ヘレンの耳が、聞き過ごせない言葉を捉えた。 彼女の反応に対し――何を驚いているんだ、といった顔を見せる晴良。 「うん、宇迦之御魂の服。さっき、話をしていただろう?」 「た、確かに聞きましたが……まさか、部長の手作りだとは。匠哉並みに家庭的ですわね、貴方」 「それは褒め言葉なのかどうなのか、かなり微妙だね。……まぁとにかく、これは任せた」 ぽんぽんと、平手でチラシの束を叩く晴良。 花音が、晴良に問う。 「我等にそれを任せて、其方は何をするのだ?」 「休むに決まってるだろう。こちとら一晩中、ビラを刷りつつ可愛らしい服を縫い、さらには合間で新プリンのレシピまで考えてたんだよ? もうヘロヘロさ」 「……そ、そうだな。愚問であった」 「分かってくれて何よりだ。じゃあ、お休み」 少女達に背を向け、歩き始める晴良。 立ち去るのかと思いきや――彼はぴたりと足を止め、踵を返して2人の元に戻って来る。 その細く白い指で、チラシを1枚手に取った。 「……叛乱軍急募、か。この叛乱軍っていう味気のない名前も、何とかしたいよなぁ」 いい天気だ。 世間では狐の神サマが復活したりと大変な事になっているようだが、今のところ俺には何の関係もない。この晴天を眺めていると、戦争が起ころうとしている事さえ忘れてしまいそうだ。 ……だと言うのに、今日も部屋に篭って部活である。晴れ晴れとした空は、窓から眺める以外許されない。 つーかマナよ、やる事ないんだったら帰らせてくれ――そう思いながら、部長席に眼をやる。 (ホント、あいつは何をやっとるんだ……?) マナは邪な笑顔を浮かべながら、ノートPCのキィボードを叩いていた。 数日前から、部活中はずっとあの様子である。何つーか訊くのも面倒臭かったので、スルーしていたのだが。 「――……」 ……部員達の視線が、俺に集まっていた。 お前そろそろ特攻しろよ、みたいな感じである。 (……はぁ。仕方ないな……) 俺は席を立ち、マナの元へと向かう。 相変わらず邪悪な笑みを浮かべている貧乏神に、意を決して話し掛けた。 「……なぁ、マナ」 「ん? どうしたの、匠哉?」 「お前、何してるんだ? ここ数日、ずっとPCに向かっているが」 「何って……あれ、説明してなかったっけ? 私はね、部費を使って物資の買い占めをしてるんだよ」 フフフ、と得意げに笑うマナ。 ……いや、こちらはまったく言ってる事が分かりません。 「もうじき、この国は戦争になるでしょ? 裏の世界とは言え、戦争は戦争――開戦すれば、必ず物価が高騰する。安い内に買っておいて、高くなったら売り払って大儲けするんだよ」 「――……」 PC画面を、覗き込む。 どうやら、専用の倉庫まで借りているようだ。鉄鋼、原油、保存食――片っ端から運び込まれている。 ……つーか。ヴォラクラの部費、一体いくらあるんだよ。 (しかし――) 思ってたよりも、普通の事だな。 相場の変動を読み、その波を乗りこなして利益を出すのは、取引の基本であるらしい。縁がない世界の話なので、断言は出来んが。 ……やってるのが貧乏神じゃなきゃ、もう少し安心して見てられるんだろうけどなぁ。 「と言うか匠哉、ここ数日と言えば――緋姫は何やってるの?」 「んあ、緋姫ちゃんか」 彼女は最近、ヴォラクラに顔を見せていない。 だが別にサボってる訳ではなく、ちゃんとした理由があるのだ。 「科学クラブに行ってる。西と会っているんだろう」 「……あー、成程ねえ」 あの武闘会で、緋姫ちゃんは西が晴良と同じ技(?)を使っているのを見ている。 晴良を斃さんとする彼女にとっては、是が否でも話を聞きたいはずだ。奴の正体が幽子の言っていたリリアン・ウェストだとするならば、色々と知っているはずだし。 とは言え、素直に教えてくれるとも思えんが。 「……春獄晴良、か」 1度だけ対面した、あの男の事を考える。 あの時――壱丸は、何の理由もなく晴良に襲い掛かった。 ……いや、理由ならあるか。危険で、邪悪――晴良を殺さなきゃならない理由なんて、それだけで充分だ。 でも―― 「……道を歩いてるだけで喧嘩を売られるってのも、可哀想な話だよなぁ」 ま、本人がどう思ってるかは知らんけど。 大して何をする訳でもなく、クラブが終わり。 学校から開放された俺は、我がスウィートホームに向かって歩いていた。 ……逢魔ヶ刻だ。狐とかが出ない事を、俺が今考えた絶対神とかに祈ってみる。 すると―― 「おーっほっほっほっ、おーっほっほっほっ!」 狐なんぞより数億倍は恐ろしい生き物の声が、聞こえた気がした。 幻聴に違いない。ほら、ここってジャパンだしッ! ……横断歩道の上から飛び降りたチャリンコライダーが、俺の眼前に着地する。 と言うか何故、自転車なのに横断歩道の上? 待ち伏せしていたとしか思えん。 サドルに跨っている少女――マリリン・ヴィンセントは、俺を眺めて見下すように笑う。 「また会ったわね、匠哉。高貴な私に幾度も拝謁出来る栄誉を、神に感謝しなさい」 「……あー、そうだな。つーか、その原チャリでアクションすんな」 「減らず口を叩けと命じた覚えはないわ。身の程を弁えなさい、大貧民」 何か、カードゲームみたいな名前で呼ばれた。 ……悔しい事に、否定・反論がまったく出来ないのだが。 「で、何の用だよ?」 「自意識過剰ね。至尊たるこの私が、貴方に対してどんな用事があるというの?」 「……待ち伏せまでしてたくせに、何言ってんだ?」 「う……っ!? ひ、酷い勘違いだわ。偶然見掛けたから、こうして声を聞かせてあげただけよ」 「偶然見掛けたって……俺の記憶が正しければ、お前はアメリカ人のはずだが」 どんな偶然が起こったら、アメリカ大陸から日本列島まで飛んで来る事になるのかね。 マリリンはそんな俺を哀れみながら、偉そうに語る。 「幽子との打ち合わせのために、日本に来ていたの。それで、偶然貴方を見掛けたという訳。いいかしら、本当に偶然よ?」 「はいはい。もう偶然だろうと必然だろうと何でもいいや、起こった事の結果は変わらんし」 幽子と打ち合わせ、か。 まぁ考えるまでもなく、件の戦争だな。マナみたいな個人投資家ですらコソコソと動いてるくらいなのだから、企業や国家は桁違いの金額を運用している事だろう。 ……皆呪われてしまえい。 「つーか、お前が出向くんだな。相手に来させるんじゃないのか」 「普通ならそうなんだけど……岩戸やら鎖国やら、閉じ篭るのが好きな女よね。だから、あんな風に性格が捻じ曲がってしまったんだわ」 ああ、成程。 そしてそれは、逆に言えば幽子にはそれだけの権威があるという事だ。このマリリンを、出向かせるくらいの。 「でさ、マリリン。日本で戦争が起こると、アメリカにも影響が出るのか?」 「当たり前でしょう、頭の弱い猿ね。同盟国だし――物価が高騰するだろうから、それを利用して儲けも出したいし。まぁ、戦争になんてならないだろうけど」 「……ほへ?」 予想外の言葉が聞こえた。 戦になる戦になると、散々言っていたのに? 「私が、幽子に幾つか助言をくれてやったわ。私の言葉は神の言葉、謹んで賜った事でしょう」 「……えーっと、具体的には?」 「此度の戦は、皇室と叛乱軍の争い――つまり、内戦よ。自国内で行う訳だから、勝利しても新たな領地が手に入る事はない」 「まぁ、そうだな」 「戦争は血税を用いて行うのだから、何らかの形で利益を得て、それを国民に還元しなければならないわ。占領した土地の資源を、根こそぎ頂くとかね」 フフン、と笑うマリリン。 何だかんだ言って、こいつも国民は大事なのかねぇ。 「さすがはアメリカ人、考え方がビジネスだ」 「日本人は、お金に対する考えが甘過ぎる。だから借金大国なのよ――閑話休題。とにかく、叛乱軍に勝っても得られる物は何もないわ。精々、幽子の自己満足くらいかしらね」 「――……」 「しかも内戦は――自国の民を傷付け、自国の大地を焦土に変える。百害あって一利なしよ」 「そうは言っても、狐どもは止まるまい。と、なると――」 「手段は1つしかないわね。連中は『神』を中心としているが故に、その士気と結束力は想像を絶する。しかし、だからこそ――」 「そこを崩せば、叛乱軍は崩壊する……って訳か」 優秀な指導者がいなくなると、組織ってのは一気に零落れるからな。 ちょっと問題なのは、叛乱軍の支配者は狐の神サマだけじゃないって事だ。 ……あそこには、春獄晴良がいる。 「で、幽子は戦争を止める気になったのか?」 「さぁ? 何だか今日は妙に思い詰めていたし、心の整理にも時間が掛かりそうな感じだったわ」 「……思い詰めてた?」 「ええ。恐い顔――ほとんど見えないけど――で、本を握っていたわよ。確かあれ、『蟲鳴之書』とかいう魔道書よね」 ……俺の背筋を、冷やりとしたモノが撫でていった。 「ここでビラを撒くのが、1番効果的だという事は分かっていますが」 ヘレンは手にしたビラを適当に配布しながら、愚痴る。 ……しかし、その紙切れを手にする者は少ない。ゴスロリと巫女の不審極まるコンビが撒いているのだから、当然だ。 本人達も端から期待していなかったのか、気にしている様子はなかった。 「たかがビラを配るためだけに、伏見から星丘まで来るのは骨ですわね」 「……ああ、そうだな……」 新幹線に乗ったせいで、ほとんどグロッキィの花音が答える。 現代文明と相容れず、乗り物が苦手な彼女ではあるが――さすがに今回ばかりは、乗車しない訳にはいかなかった。 「本当に大丈夫なんですの? 顔と顔色が悪いですわよ」 「顔色はしばらくすれば回復するだろう。顔に関しては、其方に言われる筋合いはない。自身を客観視出来ぬとは愚劣の極致だ」 「いえいえ、そんな謙遜をなさらずに。私など貴方の顔面崩壊っぷりに比べれば、道端の愛らしい野花も同然ですわ」 「客観視出来ぬ、という言葉は少々訂正しよう。どうやら、己が雑草である自覚はあるらしいからな」 不毛な言い争いを続けながらも、律儀にビラを撒き続ける2人。 だが―― 「……ん?」 花音は、不審に思った。 彼女達は割と容赦なくビラを撒布していたはずなのに、地面に落ちている紙切れが妙に少ない。 ……それも、そのはず―― 「のだ〜」 食べられていた。 落ちているビラを長い髪の毛でひょいひょいと拾い、口の中に放り込んでいる。 前代未聞の拾い食いだった。 (――まずい) 硬直する、花音とヘレン。 月見家に出入りした事のある彼女達は、それがどれだけ恐ろしい存在か理解している。 出来る事なら、もう一生関わり合いたくない相手だ。 ……2人の存在に気付いているのかいないのか、しぃはフラフラと接近して来る。 (に、逃げますわよ、花音ッ!) (いや待て、下手に動くと奴を刺激する事に――) 「……のだ?」 見付かってしまった。 しぃは、2人の顔をじーっと眺め―― 「……何処かで、見た事があるような気がするのだ」 唸りながら、呟いた。 ……覚えていないらしい。複雑な感情が、花音とヘレンを呑み込む。 が、その時――花音の頭に、天啓の如き閃きが齎された。 「なぁ、そこのお前。叛乱軍に入ってみる気はないか?」 「ちょ……!? 花音、こんなコズミック・ホラーな生き物を――ッ!!?」 「黙っていろ、敵に回ったら面倒だろうが。だったら、味方に引き入れていた方が良い。それに――」 「……それに?」 「まぁ、その……何だ。こいつがこちらに付けば、その保護者もくっ付いて来るかも知れん」 「――……」 花音の企みに気付き、無言で賛同するヘレン。 2人揃って、ジリジリとしぃににじり寄る。 「ハンラングンって、何なのだ?」 「和気藹々とした、楽しい職場だ」 「未経験者も歓迎しますわ。いえ、むしろ優遇致しますわよ」 んー、と可愛らしく考え込むしぃ。 しかしそんな仕草に和む事もなく、2人は戦場の武士のような心境で対峙を続けている。 「3食は出るのだ?」 肯定する、花音とヘレン。 叛乱軍の副将は意外にも料理が達者であると、2人は知っている。 「じゃあ――」 しぃは、少し間を置いた後。 「匠哉と一緒に行っても、良いのだ?」 と、尋ねて来た。 返答は、既に決まっている。 「――無論だ」 「ええ、まったく問題ありませんわ」 「……で、何で2人は匠哉の事を知っているのだ?」 ハメられたらしい。 ぎょっとする、花音とヘレン。今度は、しぃの方からにじり寄って来る。 2人の頭で、脳内警報がカンカンと鳴り響いた。 「むむむむむ……その顔、思い出して来たのだ。確か、匠哉と敵対している連中なのだ」 確かに敵対していた頃もあったが、それは過去の話だ。 思い出し方が中途半端なせいで、花音とヘレンは急速に危険な立場へと追い込まれて行く。 最早これまでか――と、2人が諦め掛けた時。 「……っ!!?」 びゅう――と風を切りながら、誰かが彼女達の傍を走り抜けて行った。 3人は、思わず顔を見合わせる。 「のだ……?」 「今の、黄泉から逃げる伊邪那岐の如き走りは――」 「……匠哉、ですわね」 花音とヘレンは、匠哉が向かった先に眼を向けた。 数秒前に擦れ違ったにも関わらず、彼の姿はまったく見えない。 「随分と、急いでいるようだったが――」 「また、女の子の危機でも嗅ぎ付けたのでしょうか?」 「…………」 無言で見詰め合う、花音とヘレン。 その表情は、御世辞にも機嫌が良いとは言えない。 「……追ってみるか」 「そうですわね……」 2人が、動き出そうとした――その時だった。 「あー、そこのお2人さん! このビラ配ってるの、貴方達だよね?」 背後から、声を掛けられた。 警察にでも見付かったか、と思った2人だったが――陽気な声色からは、そんな気配は感じ取れない。 ……振り返る。 そこにいたのは、ふたりの女性。まずは声の主であろう、花咲くような笑顔の美人。 彼女は女性としてはかなり背が高く、花音とヘレンを見下ろしながら笑っている。その体格もあってか、軽そうな言動とは相反した、重い雰囲気を感じさせた。 そして、もうひとり。 「……西日射し込む庭園は、愚鈍なる群青どもが躍り狂うキャンパスとなるに違いない……」 陽気な女性の背後に立っているその彼女は、ブツブツと何かを呟いていた。 衣服は、上下共に真っ黒。髪の毛は伸び放題の上にボサボサで、まったく手入れがされていない。 眼は焦点が合っておらず、その下には濃いクマが出来ている。両腕や首は、だらりと力なく下がっていた。 「――……」 余りにも、ミスマッチな2人組である。 思わず、警戒心が湧く花音とヘレン。隠したつもりではあったが、恐らくは見抜かれただろう。 しかし陽気な女性はまったく気にする様子もなく、暖かい笑みを浮かべ続けている。陰気な方は、そもそも花音達に気付いているかすら怪しい。 「あ、ああ。そう、だが……」 思い出したように、問いに答える花音。 相手の笑顔が、さらに輝いた。 「そっか。私達、この叛乱軍に入りたいんだよね」 「……え?」 間の抜けた声を出す、花音とヘレン。 こんなビラを見て志願する者がいるとは、まったく予想していなかったのだ。 「私は政木。んで、この子は葛葉」 まずは自分、次に相方の紹介を済ませる、笑顔の女性。 その後に――まるで世間話でもするかのように、政木は言い放った。 「でさ――私達って極東七天狐なんだけど、それって面接とかで有利になったりする?」 星丘公園のベンチには、幽子の姿があった。 夜となれば魔物で溢れるこの場も、日中は平和そのものだ。それはまさしく、太陽の威に他ならない。 ……しかしその象徴たる彼女の顔は、世辞でも明るいとは言えなかった。 「――……」 幽子の手には、黒人から渡された禁書がある。 倉橋舞緒に異界の叡智を与え、あれ程の魔人へと変貌させた――『蟲鳴之書』。 幽子がそれを一読すれば、黒人の言う通り叛乱軍など瞬く間に壊滅させられるだろう。 だが―― 「……その私は、果たして私なのかしら?」 『蟲鳴之書』を読み、倉橋舞緒は人としての心を失った。 幽子がそうならないという保証は、何もない。黒人は心配ないと言っていたが、あんな夷人の語る事など一抹とて信用ならない。 この魔道の本を読破した時、既に幽子は今までの彼女ではなくなっているかも知れないのだ。 「けれど――」 ……それで、護国が果たせるのなら。 魔書が齎す絶対的な力で、未来永劫この日ノ本を鎮護出来るのなら。 幽子は自身の魂など、粉々に散っても構わない。彼女の一族はそのために天降ったのだから、その成就のためなら何を差し出す事も厭わない。 「……ああ、そうね――」 幽子は先程、己が己でなくなる事を心配した。 だが彼女は人でもなく神でもなく、護国というただの『機能』であるべきだ。『己』などという概念は、とっと捨て去ってしまえば良いのである。 「――……」 幽子は、『蟲鳴之書』の開いた。 そして、最初の1文字を眼にしようとしたところで―― 「――え?」 幽子の手の中から、書が消えた。 黒人の手中に現れた時とは正反対に、まるで夢幻だったかのように見えなくなった。 しかしそれは、消え去った訳ではなく―― 「危ない危ない……いつもながらギリギリだな」 スリ盗られた、だけの話だ。 背後から聞こえて来たその声を、幽子は知っている。彼はベンチの背凭れに反対側から背中を預け、地面に座り込んでいる。 「……月見、匠哉――!?」 「どーも、陛下。現代のヘルメス、この月見匠哉が馳せ参じましたよー」 どっと疲れた。 走るのが得意とはいえ、疲労する事に変わりはないのだ。 「……それを返しなさい、俊足と窃盗の王」 背中合わせの幽子が、恐い声で俺に言う。 いや、マジで恐い。 「貴方が持っていても、仕方のない物よ」 「そうだな。まぁ、お前が持ってても仕方ないけど」 「――……」 「冷静になれよ、今上天皇。倉橋舞緒と同じ道を辿る気か?」 「別に、それでも構わないわ。この国を護れるのなら――」 「いい気になんな。どんなに力を得ようと、たった1人で国が護れる訳ないだろ」 「仕方ないのよ、私は1人だもの。皇とは最上であり、最上とは1つしかないものでしょう――?」 「…………」 うーむ。相当テンパってるなぁ、こいつ。 こりゃ言葉を選んで話さないと、殺されるかも知れん。 「自分の事ばっか考えてんな、この馬鹿女」 ――轟ッッ!!!! ベンチが真っ二つになり、木片が空高く舞い上がった。 ……幽子のその攻撃を、ギリギリで避ける俺。 「不敬罪って、知っているかしら――?」 「あー、あー……その言葉通り、敬わずの罪だろ? 1947年の改正で廃止されてるがな!」 パラパラと木片が降る中、振り返った彼女と対峙する。 内心ではドッキンドッキンしながらも、余裕のハッタリは忘れずに。 「……私が自分の事ばかり考えてるって、どういう意味よ――?」 「そのまんまの意味だが」 「ふざけないで、私はこの国全てのために――」 「それは、『お前』の願望だ。ほら、自分の事ばかり考えてる」 「……え?」 今にも跳び掛からんとする程の幽子の勢いが、消えてなくなった。 考えてもいなかった事実にブチ当たったかのような、そんな顔をしている。 「最上は1人かも知れんが、それ以外が無価値って訳でもない。だからこそ国が、下々の民が大事なんだろうに」 「…………」 「もう少し足元を見るべきだな。それが無理なら、せめて手元くらいは見るべきだ」 「何を、言って――」 「お前が『蟲鳴之書』を使えば――お前自身はいいだろうさ、覚悟の上だろうから。けれどほら、明雅が可哀想だろう?」 「……あ」 幽子が、絶句した。 やっぱりこいつ、そこまで考えてなかったか。 「あいつは、『蟲鳴之書』に母親を奪われた。それと同じモノを、また見せ付けるつもりなのか?」 「……く、国のためだもの、明雅も分かって――」 「そうだなぁ。あれは、顔で笑って心で泣くタイプだ。しかし――無意味に臣下を悲しませるような奴に、国を治めて欲しくはないな」 「多くを護るには、1人の犠牲も――」 「お前は、何のために神の血を引いているんだ。そんな、凡人みたいな事を口にするためか?」 「……あ、ああ――」 幽子の身体から、力が抜けた。 公園の地面に両手両膝を突いて、がっくりと項垂れる。 「私は一体、何を考えて――」 「正気に戻ったか? まったく、疲れるから勘弁してくれよな」 ふぅ、と息をつく俺。 ま、最悪の事態を避けられて良かった。 「…………」 幽子は気を取り直したらしく、地から立ち上がった。 若干むくれた顔で、俺を見る。 「……仕方ないじゃない。私は、神族が率いる軍勢と戦った事なんて1度もないんだから」 「ああ、そうか。神が戦を起こすのは、中津国平定までだもんな」 件の狐の大将は、平定された怨みで戦を起こそうとしているんだろうなぁ。 ……平定された国を、今度は平定し返すつもりなのだ。 「さて、匠哉――」 早くも調子を取り戻したっぽい幽子が、俺に言う。 「今回の事、感謝はするわ。けれど貴方が、我々から武器の1つを取り上げた事に変わりはないのよね――」 「……つまり?」 「くすくす、その埋め合わせをして貰わないと。ヴォランティア・クラブに、皇軍への参陣を命じるわ――」 「ぬ――」 遂に、その話が来たか。 しかし―― 「俺は言い出しっ屁だから拒否権ないけど、他の連中はそうじゃないぞ? あいつ等、勅令とか言っても気にしないだろうし」 「くすくす。でも、倉元緋姫は参じるのではないかしら――?」 「……ふむ、確かに。緋姫ちゃんも、端っからそのつもりだろうしな」 「まぁ、貴方1人だけでも構わないわ。貴方が加わってくれれば、運がこちらに傾く」 「……言霊って、そんなに重要なのか?」 「忘れたの? サンフォール事件では、倉橋舞緒が自ら出陣してまで貴方を討ち取ろうとした。くすくす、とても大事な要素なのよ――」 「そういうもんかねぇ……?」 なら俺は、自分の不運を何とかしたい。 「しかし幽子――強者が何人か加わったところで、戦を左右する事は難しいぞ?」 宮本武蔵は関ヶ原の戦いに参戦していたが、それで戦自体がどうにかなった訳ではない。 シモ・ヘイヘはどうしようもなく強かっただろうが、かと言って1人でフィンランドを護り切った訳でもない。 「ええ。だから私が貴方達に任せるのは、戦ではないわ――」 「……ほう」 どうやら幽子は、マリリンの提案を受け入れる事にしたらしい。 となると、クシャナールを倒しに行った時と同じか。そういや、あれを指揮してたのもマリリンだったよなぁ。 ……俺と幽子は同時に口を開き、声を揃えて言い放った。 「宇迦之御魂神と、春獄晴良――この両名の、速やかなる暗殺」 とりあえず、話が纏まって。 「しっかし、神族が敵かー。嫌になるな」 この地球上で、俺程に神族の力を知っている者がいるだろうか? ……いやまぁ、いるかも知れないけど。 「くすくす、そう悲観する必要はないわ。いかに神族とて、完全無欠の存在ではないもの。貴方の御友達――古宮要芽は、英国の海神を討ち滅ぼしたのでしょう――?」 「……ん? ああ、アルビオンの事か。それはそうなんだが……」 後々パックから聞いた話では、奴は巨人の王として君臨し続けたせいで、属性が巨人に近付いていたらしい。つまり、神性が薄まっていたという事だ。 大昔に、マナも言ってたな。人前にぽんぽん現れてたら、ありがたみが薄くなる――そんな事を。 ……あれ? となると、今の幽子は―― 「陛下ぁぁ、何処にいらっしゃるのですかぁぁっっ!!!?」 …………。 俺は、半眼で幽子を見る。眼を逸らす今上天皇。 「お前、また逃げて来たのか……」 「……いえ、今回は正当な理由があるのよ? 私は『蟲鳴之書』を読もうとしていたのだから、誰にも邪魔をされないようにする必要があった訳で――」 ブツブツと、言い訳臭い事を呟く幽子。 そうこうしている間に、明雅が公園に滑り込んで来る。 始めて見る、洋服姿だ。けれど相変わらず八握剣を佩いているので、ある意味いつもの狩衣より異様。 「……ッッ!!!? おのれ、また貴様か月見匠哉ァッッ!!!!」 「ちょ――ッ!? 俺の姿を見ただけで剣を抜くなッ! ええい、お前は過保護なオトーサンかッ!!」 「――問答無用ッ!!! 陛下を誑かす天魔め、今日こそは叩ッ斬ってくれるッッ!!!」 「『今日こそは』って、俺お前に何かしたっけ!!?」 抜いた剣を、明雅が振り被ろうとした時。 ドドドドドド……と、地響きのような音が聞こえて来た。 「……何だ!?」 明雅は幽子を護るように立ち位置を変え、周囲を警戒する。 どうやら、俺の斬殺は後回しにしたらしい。良かった。 「――見付けたわよ、匠哉ッッ!!!!」 ズバン、と公園の林を切り裂いて、チャリンコが突っ込んで来る。 その乗り手は……ああもう、面倒臭いので略。 「私を放って、幽子の元に往くとは良い度胸じゃない。何て素敵、これ程までの侮辱を受けたのは生まれて初めてよ。思わず、日本に向けているミサイルを発射しようかと思っちゃったくらい」 ……今、爆弾発言があったな。何つーか、文字通りの意味で。 そして、幽子がそれを聞き逃すはずもなく。 「……何やら今、国防上聞き捨てならない言葉があったわね――」 「安心なさい。物質をプラズマ分解するタイプの弾頭だから、核汚染はないわ。精々、小さな島国が地球儀から消えてなくなる程度。まったくの些事ね」 笑い合う、幽子とマリリン。 マズい、このままじゃ内戦じゃない方の戦争が! 「ほら明雅、何とかしろ!」 「――貴様が原因だろうがッッ!!!!」 「え、そうなの?」 「く……ッ!」 明雅が駆け出す。 何だかんだ言いつつも、この地球レヴェルの喧嘩を止める気でいるらしい。 「陛下、マリリン女史! ここは納めて――」 「黙りなさい、小役人がッ! 私に話し掛ける事を許した覚えはないわよッ!!」 「――がはァッッ!!!?」 マリリンは原チャリの後輪を浮かすと、それで明雅を薙ぎ払った。 顔面にタイヤの跡を付けられた明雅が、吹っ飛んで戻って来る。起き上がらないところを見ると、気を失っているらしい。 「…………」 明雅って、やられ役だよな。 つまりこいつが傍にいると、俺はやられ役じゃなくなる訳で――うむ、善哉善哉。 「じゃ、帰るか」 幽子とマリリンの睨み合いは続いているが、ぶっちゃけどうでも良い。 そんな事より―― 「さて、これはどうしようかね……」 俺の手には、幽子から没収した『蟲鳴之書』がある。 迅徒達に渡すか? 確かあいつ等、この本が目当てで来日したはずだし。 いやでも、そうするとマスケラの手に渡るんだよな。それもどうかと思う。 ……ちなみに、心配事はもう1つ。 どうやら、戦争にはならないらしい。その事自体は、実に結構なのだが―― 「……戦争が起こらないなら、物価は高騰しないよなぁ」 「おお――久しいな、政木に葛葉」 宇迦之御魂が、嬉しそうに言う。 彼女に拝謁しているのは――叛乱軍へと馳せ参じた、ふたりの天狐。 「久し振りだねぇ、我等が女神。こうして会うのは……えっと……あー、忘れた」 政木が、陽気に答える。 知己の変わらぬ様子に、宇迦之御魂は楽しげにケラケラと笑った。 「と言うか大神、何か可愛い格好をしてるね」 「ん? ああ、これか」 今の宇迦之御魂は、豪奢なロリータドレスに身を包んでいた。 まるでビスクドールのようだ、と政木は思う。とても、日本の古き神には見えない。 「妾は金毛白面ゆえ、洋装の方が似合うらしい」 「ふぅん……まぁ、眼福だから文句はないけど」 うんうん、と頷く政木。 宇迦之御魂は、政木から葛葉へと視線を移す。その眼には、嗜虐の気配が色濃くあった。 「さて葛葉、いくつか問う事がある」 「……ああ、地の底に眠る時計の砂が逆流してゆく……それは墓場の犬の鳴き声にも似た……」 「其方の末裔たる一族は、愚かにも幽子の軍勢に加わり、妾に刃向かうつもりのようだぞ? その責任、どう取るつもり――」 「ああ、ああぁぁあああッッ!!!! 宇宙より飛来した色なき単細胞生物が、地球の手足を縦横無尽に食い荒らしているぅぅッッ!!!!」 「……おーい、葛葉ー?」 まったく、話が通じていなかった。 宇迦之御魂は、困ったように政木を見る。政木は苦笑しながら、適当に相槌を打って葛葉を宥めている。 「……のう、政木や。妾の記憶が正しければ、葛葉はこのような狐ではなかったはずだが」 「葛葉ちゃん、千年くらい前に育児ノイローゼになっちゃってね。その後の千年間、止まる所を知らずに悪化し続けて――今では、こんな面白過ぎる有様に」 「そ、そうか……」 「で、どうするの? 責任云々とやらは」 「不問に付すしかあるまい、これではなぁ……」 宇迦之御魂は、葛葉に視線を戻した。 相変わらず、尋常では理解し難い事を呟き続けている。そして、それに相槌を打つ政木。 「……カンブリア紀の生き残りたる、高速で空を飛ぶ生き物……それはきっと、私にしか見えていない……」 「うんうん、そうだねー」 「――黙れ老婆ッッ!!!! このペテン師め、お前の言っている事は物理的に在り得ないッッ!!!!」 「うんうん、そうだねー」 「……ああ、あれさえあれば……かつて私が、非物質的世界に置いて来た黒きカーテン……あれなら、さながら鬼灯の如く確かなのに……」 「うんうん、そうだねー……つーかテメェ、今私に老婆って言ったか?」 政木は己の拳で、葛葉のコメカミをグリグリとする。 ぎぃやああああああああ――と、葛葉が哀れな悲鳴を上げた。 政木は葛葉への折檻を続けつつ、宇迦之御魂との問答を再開する。 「でさぁ、大神。これからの予定は?」 「ふん?」 「だから、叛乱軍の予定だよ。これこれこうして、連中の陣を切り崩すとか――」 「ああ、違うぞ政木。最早、我々は叛乱軍ではない――『狐南朝』だ」 威風堂々と言い放つ、宇迦之御魂。 ……政木はそれを聞いて、しばらく考え込んだ。 「こなんちょう、狐南朝……ああ、後南朝が名の由来か。大神にしては良く考えたね、この政木が褒めてあげよう」 「……余計な言葉が多いな。それに、その名を考えたのは妾ではない」 「うん? じゃあ、一体誰が――」 「――僕が考えたんだよ」 声は、予期せぬ方向から聞こえて来た。 反射的に、葛葉を抱えたまま跳び退く政木。声の発生源を、獣の殺気を込めた眼光で睨む。 ……その視線の先には、白い男が立っていた。 「貴方、いつからそこに……!?」 「おかしな事を言う、最初っからいたじゃないか。もしかして、気付いてなかったのかい?」 「――……ッ」 言葉を詰まらせる、政木。 天狐の彼女でさえ、声を掛けられるまで彼を認識する事が出来なかった。これ程の気断は、既に人の業とは言い難い。 「……そうか。貴方が、噂に聞く春獄晴良ね?」 「その通り。初めましてだね――狐龍政木、白狐葛葉」 政木に抱えられていた葛葉が、名を呼ばれて反応した。 晴良の姿を、その眼に映して―― 「う、うぁ……うあああああああッッ!!!?」 「――っ!!? ダメ、葛葉ちゃんっ!!!」 「あああああああ――狂った宇宙の中心に在る白痴の神、その飛沫の1滴がこの私にぃぃいいい――ッッ!!!!」 政木の制止も聞かず、葛葉は腕を振り解く。 床を蹴り、弾丸のように晴良へと突撃する。指の爪が伸びて武器となり、名刀の如き鋭気を晴良に浴びせた。 「……やれやれ」 晴良は、静かに武器を抜く。 両者が激突する、その寸前―― 「はーい、ストップストップ……ッ!」 政木が間に割って入り、ふたりの攻撃を阻止した。 彼女は葛葉の腕を掴んで爪を止め、同時に晴良の愛銃をその手で押さえ込んだのだ。 ……先に動き出した葛葉を追い抜き、ふたりの闘いに乱入する。 千の善行を重ね、狐龍となった妖狐政木――彼女以外に、この神業は不可能であろう。 政木は、晴良に笑い掛ける。 「悪いねー、晴良ちゃん。お願いだから、ここは納めてくれない?」 「……僕の本意ではないし、別に構わないけれど。しかし、ちゃん付けは勘弁して欲しいかな。外見よりは長く生きてるけど、そんな風に呼ばれたのは初めてだよ」 晴良は、銃をホルスターに仕舞った。 葛葉はまだ暴れようとしていたが、政木がしっかりと抱き締めたために動けない。 ふたりの天狐を眼中から外し、晴良は宇迦之御魂と向かい合う。 「さて大神、僕はそろそろ不眠不休に終止符を打たせて貰います。これ以上働かせるつもりなら、いい加減労働基準局に訴えますよ」 「……服やビラはともかく、新しい組織名は其方が勝手に考えたのではないか。妾が働かせた訳ではないぞ? まぁいい、さっさと休め」 「はい。では、失礼致します」 晴良が、宇迦之御魂の前から立ち去った。 彼が消えた事により、葛葉もようやく落ち着きを取り戻す。 「……ねえ、大神」 「何だ、政木よ」 「あの子、絶対に良くないモノだと思う」 政木から、笑顔が消えた。 真剣そのものの顔で、彼女は己の主神に申し立てる。 「そのような事、其方に言われずとも分かっている」 「なら――」 「だが、奴は強い。圧倒的に、絶対的に」 「――……」 「少し前、白蔵主の奴が悶着を起こしてな。晴良の力量を見極める、良い機会だと思ったのだが――結局、量り切る事は叶わなかったわ」 「……大神、強過ぎる力はただでさえ禍を招き易い。しかも、その担い手が邪悪な存在なら――」 宇迦之御魂は、首を横に振った。 思わず、政木は言葉を詰まらせる。 「政木よ。其方がどう思っているかは知らぬが、所詮妾は敗残の者に過ぎぬのだよ」 「大神……」 「だから勝てぬ。妾だけでは、妾達だけでは――この戦い、決して勝てぬのだ」 「……それ故に、あの男を招き入れたと?」 「ああ。ま、奴がどういうつもりかは知らんがな。何、晴良が問題を起こしたら、その時に始末をすれば良いだけの話だ。どれだけ強かろうと人間は人間、妾に勝てる道理はない」 「ならいいけど……あ、人間と言えば」 政木の顔に、笑顔が戻って来た。 それを見て、宇迦之御魂も湿っぽい話を止める。 「どうした、政木?」 「津軽の方に、国津神の力を継ぐ人間の一派がある、って話を聞いたよ」 「津軽――我等の系統ではないな」 「それは、あの花音とかいう子も同じでしょ。天の一族を滅ぼす――その理想に共感する者なら、どんな系統でも同志だよ」 「確かに。それで、どうするのだ? 其方の事だから、既に手を打ってはいるのだろう?」 「うん。とりあえず、桂蔵坊に頼んで津軽に行って貰った。あの子、足速いから」 「鳥取から江戸までを3日で駆ける、飛脚の桂蔵坊か」 「最近はもっと速いよ。新幹線に化けられるようになった、って言ってたし」 「……偽汽車ならぬ、偽新幹線という訳だな。やれやれ、本物の新幹線に轢かれたらどうするのだ」 肩を竦める、宇迦之御魂。 政木は、それを眺めて苦笑した。 「でも大神、戦をするなとは言わないけど……派手な戦火は関心しないな。豊穣の神たる貴方が、瑞穂国を焦土にするのは本末転倒だよ」 宇迦之御魂に、進言する政木。 しかし返って来た主の言葉は、政木が思っていたものとは大きく違った。 「……くく、幽子もそう考えるはずだ。少なくとも、誰かが助言するだろう」 「へ……?」 宇迦之御魂は、押し殺しつつも楽しげに笑う。 ……本当に、子供のようだった。それは、彼女が父親から受け継いだ気質なのかも知れない。 恐らくは、箸が転ぶだけでも愉快なのだ。ならば己の命の危機とて、この鬼神にとっては窮極の歓喜となる。 「連中が狙うは、妾と晴良の首のみよ。政木、葛葉――闘いに備えておけ。いずれ奴等は、この狐南朝本陣に忍び込むであろうからな」
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