「――やぁ、マノン。調子はいかがかな?」 正道から外れた者が集う、異空間の中。 マスケラが、世界に穴を開けて現出する。 「……あのね。そうひょいひょいと来るの止めてくれる? 三千世界管理局とやらに、ここがバレたらどうするのよ?」 「そんなヘマはしないよ。とにかく、話を聞いてくれるかい?」 「何よ」 ろくでもない事だろうとは思いながらも、マノンは耳を傾けた。 マスケラは嫌らしい笑みを浮かべ、語り出す。 「君が捏造した、異なる可能性の匠哉――霧神匠哉。あれを、ちょっとした手違いで逃がしてしまってね」 「……は?」 「星丘市に遊びに行ったんだが……ジュースが飲みたくてパシリに出したら、そのまま逃げられた」 「…………」 はぁぁ、と大きな溜息を吐くマノン。 あれが野に放たれた事も悩ましいが――マスケラの力なら、すぐさま捕らえる事が可能なはずだ。それをしない不真面目さも悩ましい。 「……それで、どうする気なのかしら?」 「とりあえず、異界に咒封されてる宝刀飛炎は取り出せないようにしておいた。それと、護法四鬼の喚起も出来ないようにしてある」 「能力を制限しても、根本的な問題は解決しないわ」 「無論、その辺も考えてるよ。私の影を創る能力で追っ手を生み出し、霧神匠哉を討たせようと思ってるんだ」 マスケラは、暗闇の中に腕を突っ込んだ。何かを掴んで、一気に引っ張り出す。 ……それは、身悶える赤い毒蛇。 「影の身では、能力は分霊以下。それでも――弱化した霧神匠哉如き、容易く喰い殺せるだろうさ」
――星丘市の、街中。 霧神匠哉は、1人で星丘高校へと向かっていた。 「チッ……やはり、宝刀も四鬼も封じられたか」 舌打ちする。 彼が星丘高校に向かっている理由は、以前と変わらず月見匠哉の抹殺だ。『匠哉』という存在を、自分だけのモノにするために。 しかし――力を制限されると、多少面倒になる。特に、四鬼を封じられたのが痛い。 さすがに単騎で、彼に味方する少女達に勝利するのは不可能だ。 ならば―― 「……剣士たる俺が、暗殺者の真似事か」 匠哉が1人でいる所を襲い、殺すしかない。 霧神匠哉にとってそれはかなり面白くないのだが、己の誇りを重視出来る程に余裕がある訳でもない。 「――……」 不愉快さを押し殺しながら、とにかく星丘高校へと急ぐ。 高校近くの建物を、一気に駆け上がった。 「……六根清浄」 霊感を拡大し、五感の範囲を飛躍的に増大される。 学校の中で起こってる事を、手に取るように知覚出来た。 「さて、連中は――」 今は、クラブ時間のはずだ。 共有している『匠哉』の知識によって、ヴォランティア・クラブ部室の位置は知っている。 霧神匠哉が、その部室を覗き込むと―― 「……は?」 ネコミミブルマ姿の、瀬利花が見えた。 本人は顔を真っ赤にして、プルプルと震えている。 「きゃー! 瀬利花、似合ってるよー!」 「ふざけるな貧乏神ッッ!!!! まさかこの私が、再びこのような格好をする羽目になるとは……ッッ!!!!」 「文化祭でブルマ喫茶をやったって話を聞いた時から、いつか見てみたいと思ってたんだよねえ」 「くッ、美榊迅徒め。本当に余計な事を話してくれたものだ……もういいだろう、そろそろ脱ぐぞ」 「ダメに決まってるじゃん。家に帰るまでその格好って、最初に決めたでしょ? 敗けたんだから、ちゃーんと守らないと」 マナは指で、トントンとテーブルを叩いた。 そこには、ほとんど真っ白に染まったオセロ盤がある。どうやら瀬利花の格好は、罰ゲームのコスプレらしい。 ……もう一方には、雀卓があった。そちらも、既に勝負が付いている。 「ぐー……」 制服姿なのは真。つまり、彼が勝者だ。 ……ゴスロリ服の要芽とスク水ランドセルの緋姫、さらにはメイド服の匠哉が、どこか遠くを見ていた。 「いいよねえ、これ」 「――っ!!? な、何をするぅっ!!?」 瀬利花の背後から、彼女の胸を鷲掴みにするマナ。 10本の指が、瀬利花を責め立てる。 「や、止めろ馬鹿ッ!! 何のつもりだッ!!?」 「連れないなぁ。泉には揉ませてあげたのに、私が揉むのはダメなの?」 「揉ませたのではない、揉まれたんだッ!!」 「でもそんなの関係ねぇー」 「っ、ん……っ!!?」 思わず声を上げてしまい、顔を真っ赤にする瀬利花。 ニヤリ、とマナが笑う。 「声が出すのが嫌なら、出ないようにしてあげる」 「――!!? ふぐ……ッ!!?」 マナは、布を瀬利花の口に詰め込んだ。タオルではない。 ……それは、緋姫が着替える際に脱いだ下着だった。 吐き出さないように、ガムテープで瀬利花の口を塞ぐマナ。 叫びながら襲い掛かって来たスク水ランドセルを、マナは蹴り飛ばす。 「……部活中に何をやってるんだ、あいつ等は」 呆れ果てる、霧神匠哉。観察は止めないのだが。 が、その時―― 「――ところで、覗き見は趣味が悪いと思うよ?」 マナが言った。 霧神匠哉に、向けて。 「チィ……ッッ!!!?」 霊感の拡大を、中止する。 マナは、霧神匠哉の存在に気付いていたのだ。さすがは超越者、といったところか。 この分だと、真も察していたのだろう。学校を包む程に拡大していたのだから、テロリズム・クラブの部長も気付いたはずだ。 「……長居は無用、か」 彼等が相手では、霧神匠哉は勝てない。 かつて彼はシンを撃破したが、あんなモノは本体から零れ落ちた一欠片に過ぎないのだ。 建物から、駆け下りる。 迅速に、この場から逃れようとして―― 「――見付けましたッ!!」 いきなり大声が聞こえて来て、呆気に取られてしまった。 「な――上ッ!!?」 見上げれば、そこには高速で落下してくる少女が1人。 紙一重で、霧神匠哉は彼女の攻撃を躱す。少女が投げ付けて来た野球ボール程の大きさの鉄球が、コンクリートの地面に穴を開ける。 「何者だ――名乗れッ!!!」 「ふふふ、この私にも遂に出世チャンスが回って来ました! 三女神の動向監視だなんて妙な仕事を押し付けられて、こんな辺境世界に飛ばされていましたが――混沌の被造物である貴方を倒せば、かなりの点数稼ぎになるはずッ!!!」 「……名乗れと、言っているんだが」 聞いていなかった。 先の一撃で地面に埋まっていた鉄球が宙に浮かび上がり、少女の手の中に納まる。 ……その少女の姿は、異様だった。 白銀の髪と、白銀の瞳。どう見ても、この世界の人間ではない。 (この世界の、人間ではない……まさか) 「私の発現レヴェルは、貴方より下です――しかし! 今の貴方のオーラからすると、能力をいくらか封じられていますねッ! ならば、私でも勝てる――ぐふぅッッ!!!?」 少女の口上は、最後まで続かなかった。 何故なら――霧神匠哉の膝蹴りが、彼女のボディに打ち込まれたからである。 ばたん、と倒れた。 「ぐは……ッ!!? ま、まさか、三千世界管理局の中でも屈指のエースである、このリリル・ゼムラインを倒すとは……敵ながら天晴れ。ガクッ!」 「…………」 本当にこんなのエースなら、もう終わりである。 それはともかく―― 「三千世界管理局……やはりそんなのか」 とは言っても霧神匠哉は、月見匠哉が美空から得た知識でその名を知っているだけだが。 三女神の動向監視、と言っていた。しかしこんなのに、あの美榊恵鈴をどうにか出来るはずがない。 大方、体の良い左遷なのだろう。 「――二度は赦す。だが、三度目はその首を獲る」 言い残し、その場から去ろうとする霧神匠哉。 しかし―― 「なら、二度目で殺せばOK? よっしゃ、気合入って来ました!! イェイッ!!」 「――馬鹿なのか貴様はッッ!!!? 言外の意味を汲み取れ、この無知蒙昧がッッ!!!!」 反射的に、ツッコミを入れてしまった。 (……付いて来てるな……) 霧神匠哉は道を進みつつ、溜息を落とした。 背後には、コソコソと彼を尾行する1つの気配。 「オン・マリシエイ・ソワカ」 真言を唱え、隠形する。 突如ターゲットの姿が消え、慌てふためくリリル。 「あ、あれれ? どこに――」 「――ここだ」 霧神匠哉はリリルの後頭部を掴むと、地面から持ち上げた。 「い、何時の間に後ろへ――ってイタタッ!!? 痛い、頭割れますってッ!!!」 「このまま割ってもいいんだが……一応、2度目だしな」 どうしようか、と思案したその時。 数個の鉄球が地面を転がって接近し、飛び上がって霧神匠哉へと襲い掛かる。 「……ッッ!!!?」 頭と背中を打ち抜こうとした鉄球を避け、リリルとの距離を開く。 鉄球は地に落ちる事なく、リリルを護るように浮遊していた。 (……あの鉄球、念動か何かで動かしているのか? しかし今の攻撃、下手したら自分に当たっていたぞ……いや、精確なコントロールが可能なのか) 「ええい、とにかく貴方は斃しますッ!!」 両手に持った鉄球を、投擲するリリル。 鉄の塊が、猛スピードで飛来するのだ。命中すれば、無事では済まない。 だが―― 「……舐めるな、小娘……ッ!!」 それは、霧神匠哉に命中するような攻撃ではなかった。 鉄球は彼を狙って、真っ直ぐ飛んで来る。それはつまり、少し動けば躱せるという事。 攻撃を避け、さらに踏み込む。 「この程度――」 「――『波返し』ッッ!!!!」 避けたはずの、2つの鉄球。 それがベクトルを反転させ、背後から霧神匠哉へと襲い掛かった。 「……ッ!!?」 命中すれば背骨を砕き、臓腑を抉るだろう。 彼は―― 「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前・大ッ!!!」 対物理結界を敷き、迫り来る鉄球を防いだ。 「私の投球を弾いた……!? 何て咒者ですか、貴方はッ!!」 再び、両手で鉄球を放るリリル。 同時に浮いていた数々の鉄球が、四方八方から霧神匠哉へと突撃した。 「く……ッ!!?」 今度は何らかの理力が込められていたらしく、結界が粉砕される。 だがそれによって、鉄球も減速。霧神匠哉は鉄球と鉄球の隙間を縫うように、その場から離脱した。 「――はッッ!!!!」 リリルに向け、棒手裏剣を投じる。 しかし鉄球がすぐさま彼女の元へ戻り、回転してそれを弾き飛ばした。 「……成る程。第一印象は悪かったが、なかなかの強者じゃないか」 「いえ、私も貴方も――この程度では、『強い』だなんて言えません」 「何だと……?」 「真の力とは、もっと絶大なモノです。私や貴方が振るう程度のモノなんて、稚拙な児戯に過ぎ――ぐふぅッッ!!!?」 喋ってる間に、蹴りがリリルへと叩き込まれた。 吹っ飛び、地面を転がる。 「ひ、酷い……ガクッ」 「さっきも言ったが、次に立ち合えばお前は閻魔の庁へと赴く事になる。良く考えて、己の行動を決するがいい」 霧神匠哉はリリルに背を向け、その場から立ち去ろうとしたが――迷っているかのように足を止め、彼女へと振り返った。 「おい、リリルとやら。さっきのはどういう意味だ」 「……へ? さっきのって何です?」 「言っていただろう。俺やお前の力は、稚拙な児戯に過ぎない――と」 「ああ、その事ですか。言葉通りの意味ですよ」 リリルが、地から立ち上がった。 銀の瞳を霧神匠哉に向け、真正面から相対する。 「いくら私達が技を極めても、所詮それは常人のレヴェル。本物の強者には敵いません」 「――……」 「かつて、私の世界がノルニルに滅ぼされました。それを行ったのは軍でも隊でもなく、たった1人の人間だったんです」 「……待て。世界を滅ぼしただと?」 エリンが一夜で都市を焼滅させた、という話なら彼も知っていた。 しかし世界を1つ滅ぼしたとなると、まったく次元が違う。 「うちの世界は、各国が総力を挙げて反ノルニルを掲げていたんですよ。それが原因で、世界ごと叩き潰された訳ですね。生き残りは、管理局に保護された私だけだと聞きます」 「――……」 「ノルニルの社長と、彼女が操るファースト・プロトイドル――『エンリル』。人類と神族は結束して戦いましたが、まるで相手になりませんでした。私も彼女に挑みましたけど、話になりませんでしたよ」 神族。 人が届かない域に存在するからこそ、彼等は神と呼ばれる。 しかしそれでも、その人間には勝てなかった。 「分かりましたか? それが、真の力です。私達なんて、天から見れば道端の石ころなんですよ」 「……確認するが。ノルニルの社長は、人間なんだよな?」 「ええ。彼女達は神々を名乗ってはいますが、基本的にはヒューマノイドです」 「そうか……ククッ ハハハ!」 声を押し殺しながらも、霧神匠哉は笑い声を上げる。 その異様な様子に、思わず引くリリル。 「あ、あの。私の話、どこかに笑い所がありました?」 「素晴らしいじゃないか! 機人の使い手とはいえ、人の身でありながらそこまでの強さを手に入れるとは! そうだ……そいつに出来て、俺に出来ないはずがないッ!」 「……ええー。そういう結論に達するんですか」 「まだまだ『上』があるというのは、とても幸福な事だ。なかなか、登り甲斐のある道じゃないか……!」 「いいですよねー、武闘の才がある人は。そんな風に、無駄に前向きに考える事が出来て。ケッ!」 「才ならお前も同等だろう。そうだな……せめて、死合の最中に気を抜く癖はどうにかしておけ。次は、殺し合いなのだからな」 今度こそ、霧神匠哉はそこから去る。 リリルが付いて来る気配は、なかった。 「さて、これからどうするか……」 今の彼は、月見匠哉の影に過ぎない。 しかし、影とはいえ人間である。衣食住の確保は、絶対に必要だ。 「……やはり、あそこに潜り込むのが1番だな」 ――イースト・エリア。 その雑多なスラム街を、人々に紛れて霧神匠哉は進む。 油断は出来ない。この街にも、月見匠哉の知り合いが多く存在する。見付かれば厄介だ。 それを考えると、やはりマナに見付かったのが口惜しい。彼女の性格からすると、それを言い広める事はないかも知れないが。 「……ひっ!?」 霧神匠哉は、スリの腕を掴む。 溜息を吐きながら、言ってやった。 「悪いが、財布の類は持ってないんだ」 「そ、そうか……そりゃあ悪い事したなッ!」 「今度から、相手は選べよ」 霧神匠哉は、手を離してやった。 スリの男は、よたよたと走りながら逃げて行く。 「……まぁ、これで当分は何とかなるか」 呟きながら、手中の財布を見る。 さっきのスリから、スッた物だった。 ふと振り向き、さっきのスリを見た時―― 「ひぃ、ぃ、ぎゃああああああ……ッッ!!!?」 そのスリが、断末魔のような絶叫を上げた。 「……何だ!?」 まるで養分を吸われているかのように、スリの身体がミイラ化する。 そして――口から数匹の大蛇を吐き出し、地に伏した。 ……いや、スリだけではない。 周囲の通行人や商人達も、蛇を吐き出しては絶命してゆく。 まさしく無惨。地獄のような光景だった。 「シィ――」 その蛇どもは瞳に敵意を灯し、霧神匠哉を見る。 地をゆっくりと這い、彼を包囲してしまった。 さらに―― 「――御初に御目に掛かります、霧神匠哉さん」 邪念が、渦巻く。 凄まじい重力が時空を歪ませるように、強大な悪意により世界が捻じ曲がろうとしている。 ……災厄の化身が、霧神匠哉の前に現れたのだ。 それは絹の衣と羽衣を纏った、美しき女神。 だがその双眸に宿るモノは、深い闇と純粋なる悪。 「……八十禍津日」 霧神匠哉は、忌むべき者の名を呼ぶ。 八十禍津日は、着物の袂で口元を隠した。その下では、どんな笑みを浮かべているのか。 「マスケラめ……寄りにも寄って、こんなモノを追っ手として喚起するとはな」 「こんなモノ、とは無体な仰り方ですね。とは言っても、私としてもこのような形での顕現は少々不本意なのですが。今の我が身はただの影……嗚呼、何と不自由な身体なのでしょう」 泣き真似をする、八十禍津日。 白々しい演技だった。見る者苛立たせるだけの、不快な芝居。 「文句を言える身分でないとは、解しておりますが……一刻も早くこの器を脱ぎ捨て、地下で眠る本体の元へと還りたいのですよ」 じわじわと、蛇どもは包囲を縮めてゆく。 八十禍津日の合図があれば、すぐに霧神匠哉へと跳び掛かるだろう。 「そのためには、真に恐縮ですが、貴方の御命を奪わねばならないのです」 「――……」 「今の貴方は、宝刀も四鬼も使えない。容易く終わるでしょうね――殺りなさい、お前達」 無数の蛇が、一斉に襲い掛かった。 その牙を剥き、彼の身を噛み砕かんと猛り狂う。 しかし、攻撃の寸前で―― 「――『降雹』ッッ!!!!」 大量の鉄球が降り注ぎ、寸分の狂いなく蛇どもの頭を叩き割った。 蛇を蹴散らし、走り寄って来るリリル。 「……お前か」 「何事ですか、これはッ!!?」 霧神匠哉と背中を合わせつつ、いくつかの鉄球を旋回させて身を護る。 ……八十禍津日は、蛇神の眼でリリルを見た。 リリルも、睨み返そうとする。しかし霧神匠哉が、手を掲げて視線を遮った。 「あいつと眼を合わせるな。今の奴には、相手を石化させる程の咒力はないが……それでも、金縛りくらいには出来るだろう」 「あ、は、はい」 「ところで、被害はどれくらい広がっている? この、人間が蛇の苗床にされる被害だ」 「大体、半径200メートル程ですね」 「そうか。……お前にも、多少は分別があったんだな。もっと広範囲を呑み込んでいると思ったが」 フフフフフ、と八十禍津日が笑う。 その狂笑の妖気を受けてしまい、リリルがビクリと震える。 「街を呑み込むなどと……そのような恐ろしい事は、私にはとてもとても」 「大方、マナカナ辺りに察知されるのが嫌だったんだろうがな。今のお前じゃ、あいつ等には勝てん」 「……おや、御見通しでしたか。その慧眼、恐れ入ります」 リリルが、霧神匠哉の服を引っ張った。 八十禍津日を警戒しつつも、彼は応えてやる。 「何だ?」 「……アレは、一体何なんです?」 「八十禍津日神。災禍の蛇神だよ」 「蛇神って――し、神族ですかっ!!?」 「落ち着け。神族とは言っても、あれは本物じゃない。八十禍津日から剥がれ落ちた、鱗1枚――その程度の存在だ」 「…………」 「――手を貸せ。2人掛かりなら、1人で闘るよりも勝算が立つ」 「いや、しかしですね。神族とまともに激突するというのは……」 リリルは、共闘を渋った。 彼女も霧神匠哉も、所詮はただの人間に過ぎない。完全体でないとはいえ、神族に勝てるとは思えなかったのだ。 ……そして、勝てなければ死ぬ。 かつて幸運にも助かった命を、リリルはこんな事で手放したくはない。 「あいつも俺と同じく、マスケラが創った影法師だ。俺には襲い掛かったくせに、奴は見逃すのか?」 「う。そ、そう言われると……」 「――大丈夫だ。諸仏に誓って、我と我が流派に敗北はない」 「…………」 根拠のない自信に、呆れるリリル。 ……だがその姿は、眩しくもあった。 己の『上』に座す者を知るまでは、彼女もそういう輝きを持っていたはずなのだ。 「……ああもう、どうにでもなれいッッ!!!!」 構える、リリルと霧神匠哉。 だが八十禍津日は、そんな少年少女を嘲弄する。 「威勢が良いのは結構ですが……しかしそれだけでは、世界は変わりませんよ?」 リリルに斃されたはずの、蛇の肉塊。 それが不気味に蠢き、無数の蛇となって再生する。 「……おい、砕いた分だけ増えたぞ」 「こ、これは想定外……そう言えば、こういう生き物がこの世界にはいるんですよね。プラナリアっていうんでしたっけ?」 再び襲撃する、蛇の群れ。 リリルが鉄球で迎撃するが、数の差がどうしても埋まらない。数匹が鉄球の防御陣を突破し、霧神匠哉へと牙を向けた。 ……今の彼には、宝刀もなければ四鬼もいない。 「フフフ、死になさい――!」 だから。 ――彼はその指で、蛇の身体を引き裂いた。 「何……ッッ!!!?」 「――『断指』」 次々と襲い来る蛇を、霧神匠哉は素手で叩き潰してゆく。 八十禍津日だけでなく、味方のリリルまでもが、その光景に唖然としていた。 「こんな話を知っているか? 棒術のある流派では、通常の棒術の次に半棒術を教える。銃の世界でも――敵として恐ろしいのは、大威力ながらも長大なライフルより、どこに隠し持ってるか分からない小型の銃だそうだ」 素手の剣士が、不敵に微笑む。 「武人は熟練すると、武器が小さくなるんだよ。まぁ勿論、個人の好みはあるだろうがな」 「――……」 「武器の小型化。その究極の形が、素手だ」 身体に巻き付こうとした蛇を引き剥がし、握り潰す霧神匠哉。 510キロという桁外れの重量を持つ、宝刀飛炎。それを自由自在に扱えるまでに鍛え上げられた、彼の腕力と握力。 その膂力は、例え刀がなくとも――敵を叩き潰すに足る、圧倒的な『力』だった。 「あ、貴方……もしかして、素手の方が強いんですかぁッ!!?」 「当然だ。あんな無駄に重たい物を持ったまま、十全の闘いなど出来る訳なかろう」 リリルの問いを、あっさりと肯定する霧神匠哉。 ショックが大き過ぎたのか、リリルは口をパクパクさせている。 「い、いや、しかし……貴方はこの世界に何度か喚起されていますが、その全てにおいて宝刀を使った戦闘を行っているでしょう!? 管理局の記録に、ちゃんと残ってますよっ!?」 「一応、剣術家としての誇りがあるんでね。……それにしても、宝刀宝刀と五月蝿いな。あんな物が、一体何の役に立つと言うのだ? あれの原型を携えて月の魔王に挑んだ勇者一行は、1人残らず殺されたのだぞ? そんなに、大した物ではあるまいよ」 「は、はあ……」 もはや絶句する、リルル。 信濃霧神流免許皆伝者の中でも、特に優れた6人が賜る至宝――信濃霧神六宝刀。 ……だが彼はそれを、大した物ではないと言い切った。 親に育てられた子は、いずれ親を必要としなくなる。それと同じように――剣を極めた武人は、もはや剣を必要としない域に立っていた。 霧神匠哉は、霧神御三家において最も武闘の才を持つ剣士。 無論そんなモノは、マノンが捏造した偽の肩書きに過ぎないが――しかし彼が現世で受肉した以上、それは『真実』となって敵に振るわれる。 「――ハッ!!」 霧神匠哉の猛攻が、リリルの鉄球と共に蛇どもを撃砕する。 が、状況は覆らない。先程と同じく、斃した分だけ増えてしまうのだ。 「こ、これじゃあキリがありませんよ……ッ!」 「……ふん。おい、八十禍津日!」 霧神匠哉は、八十禍津日に呼び掛けた。 彼女は、僅かに反応する。 「こんな蛇どもに襲わせ、自分は高みの見物か。余程、己の能力に自信がないと見える」 「……何ですって?」 「太古の蛇神も落ちたものだ。いくら欠片のような存在だとしても、人間相手に逃げ腰とはな!」 「嗚呼、そうですか……そんなに、私自らの手で葬られたいと。ならば、その願いに添いましょうか」 乗った、と彼はほくそ笑んだ。 神族故の矜持により、八十禍津日はあっさりと挑発に乗ってしまった。 蛇をコントロールしている、八十禍津日の撃破。この状況を打破する、唯一の手だ。 「リリル。蛇どもの相手は、しばらくお前1人に任せる」 「え、うぇぇッ!!? む、無理ですよそんなの!! 全力で闘っても、5分くらいしか持ちませんッ!!」 「5分か――」 近くの建物の中を、横目で覗く霧神匠哉。 時計を見る。 「ならばその間に、八十禍津日の首を落としてやる――!」 自らが生み出した蛇を蹴散らし、突撃して来る八十禍津日。 ……彼女の左腕が、不気味に蠢いた。 まるで脱皮のように、その腕が内側から破ける。中から飛び出したのは、多頭の蛇。 衣の袖より伸びた赤い大蛇は、邪気を撒きながら霧神匠哉を強襲した。 「我が牙で、骨まで砕いて差し上げましょう……!!」 四方八方から襲撃する、蛇の頭。 霧神匠哉はそれを、片っ端から両手で握り潰す。足を噛み砕こうとした蛇は、靴底で地面に叩き付ける。 彼を討てる程の、鋭い攻撃ではない。 「ふん、地味な攻撃法だ。やはりその身体では、マナから八雷神の支配権を奪取する事は叶わないのか」 「嗚呼……まったく、この不満足な身が嘆かわしい。とは言え、貴方如きを黄泉に送るには充分なのですが」 「……ッッ!!!?」 身体の各所に巻き付く、蛇の胴体。 ……急激な、スピード・アップ。さっきまでの甘い攻撃は、霧神匠哉を油断させるためのものだったのだ。 蛇と化したとは言え、それが八十禍津日の腕である事は変わらない。八十禍津日は彼の身体を軽々と持ち上げると、渾身の力で地面に打ち付ける。 「くァ……ッッ!!!?」 「フフフフフ――なかなか愉快ですね、偽者さん!」 五体を拘束された状態では、受身など取れるはずもない。 霧神匠哉はまともにコンクリートと激突し、全身から血を噴き出させる。 しかし、終わらない。何度も何度も、八十禍津日は彼を地に叩き付けた。 「フフフ――ハハハハハハハ……ッ!!!」 ……コンクリート・ブロックで、複数回殴打されるのと同じだ。 いくら霧神匠哉が武の天才であろうと、所詮は人間。耐えられるはずもない。 彼を、建物に放り投げる八十禍津日。激突し、壁にべっとりと血が付着した。 「――死になさい。我等が母上の、供物となるのです」 多頭の蛇が絡み合い、右腕へと戻る。八十禍津日はその掌を、動かない霧神匠哉へと向けた。 彼を撃つ、禍々しい神力の波動。凄まじい衝撃を受け、彼は壁を突き破って建物の中に転がり込む。 ……残ったのは、赤々とした血飛沫のみ。 「な……ちょっと、やられないでくださいよッ!!?」 絶叫する、リリル。 この状況で霧神匠哉が斃れれば、残る彼女の運命は死しかない。 「そん、な……ッ」 「リリルさん、と仰いましたか? まさか貴方、本当に2対1なら私に敵うと思っていたのですか? 嗚呼……だとしたら、何と愚かしい。人猿は、数千年を経ても身の程を弁えようとしないのですね。人が、神に敵うはずがないでしょう?」 ――神。 人を掌中に収め、支配する絶対者。 彼等が振るうのは、掛け値なしの『力』。 ……力なき者は、力ある者には届かない。リリルはそれを、誰よりも知っている。 「まぁ、良いでしょう。目的であった、霧神匠哉さんは討ち果たしました。貴方は――どうでも良い。人猿など、道端の石ころと変わりませんからね。寛容な心で、見なかった事にして差し上げましょう」 「…………」 撤収しようとする、八十禍津日。 リリルは見逃された。お前など、殺す必要もない――と。 ……つまり、彼女は助かったのだ。 絶対者には敵わない。故郷の世界を滅ぼされ、リリルはそれを学んだ。 学んだ事は、己の人生に生かすべきだ。それが出来ない者は、ただの馬鹿でしかない。 「……そう、ですよね」 元々、リリルとは何の関係もない事だ。 霧神匠哉と八十禍津日のくだらない共喰いに、巻き込まれたに過ぎないのだから。 ここで八十禍津日を見送り、今まで通りの生活に戻ればよい。適当に仕事して、適当に出世をする。 そんな、温かい幸せを掴めば良いのだ。 「――……ッ」 なのに彼女の心には、閃光のような痛みが奔る。 八十禍津日を見逃して、暖かい幸せを掴んで。 その末に寿命を終え、故郷の仲間や神々の元に旅立った時――戦いから逃げたリリルは、その戦士達を前にどんな顔をすれば良いのか。 ……そして。 八十禍津日を相手に1歩も退かず闘った剣士は、リリルにどんな顔を向けるのか。 「ああ。だから私って、『お前は一生出世が出来ない』とか言われるんですか」 鉄球を振り被る、リリル。 八十禍津日を狙い、渾身の力で投球する。 「……っ!?」 飛来した鉄球を、腕の一振りで弾く八十禍津日。 瞳に凄絶な殺意を宿して、リリルを睥睨した。 「……何のつもりです?」 「あーあ、私ってば駄目ですねー。勝てないと分かってても、結局は闘っちゃうんですねー」 リリルは次々と、八十禍津日に向け鉄球を放つ。 それを尽く、防いでしまう八十禍津日。不完全とはいえ、神族の力はリリルを遥かに上回る。 「嗚呼、そうですか……そんなに、死にたいのですね」 「……ッ」 「しかし、死にたい者をただ殺すというのも、味気のない話です。そうですね――」 八十禍津日が、にやりと笑った。 正視に堪えない、邪悪なる笑み。リリルの精神が砕けそうになる。 「ぐ……ッッ!!!?」 「貴方は、殺して差し上げません。生きたまま、この世界が終わる時まで……死よりも辛く何よりも甘い、そんな苦しみを味わい続けて貰いましょうか」 蛇どもが、リリルに跳び掛かった。 鉄球を操り、迎え撃つリリルだったが――八十禍津日の掌が向けられ、先程の霧神匠哉のように吹き飛ばされる。 「が、は……ッ!!?」 「落ちなさい――奈落の底に」 紡がれる、邪神の声。 リリルの心が、闇の中に呑み込まれそうになった時―― 「――落ちるのは貴様の方だ、外道」 手刀が、八十禍津日の首を刎ね飛ばした。 ゴロリと、彼女の首が地を転がる。その双眸は驚愕で見開かれ、彼を見詰めていた。 徒手空拳の剣士――霧神匠哉を。 ……リリルを囲んでいた蛇が、全て塵となって消える。 「え……? 何で、生きてるん、ですか?」 「どうして死んだ事になっているのだ? あの程度の攻撃、内気を練って弾けば致命傷にはならん。まぁ身体の外側からは流血したし、ショックでしばらく意識を失ってしまったがな」 「うぇぇ……」 「……何で涙ぐむんだ。そんなに俺が生きているのは嫌なのか」 「い、いえ、そういう訳では――」 と、その時。 首のない八十禍津日の肉体が躍動し、2人に襲い掛かる。 「ひゃあッ!!?」 「何だと……ッ!!?」 それと、同時に。 もがき苦しむように転がりながら、八十禍津日の首が絶叫した。 「この、このこのこの……人猿が、たかが人猿がッ!! 災禍の神たる私に、傷をぉぉ……ッッ!!!!」 憤怒を原動力とし、八十禍津日の身体は凄まじい荒々しさで手足を振るう。 その風圧だけでリリルと霧神匠哉は宙を舞い、コンクリートに身体を打ち付ける。 「痛……ッ」 「ど、どういう事ですか……!? 首を斬られたのに、まだ生きてますよッ!!?」 「……蛇は、不死や無限を象徴する種族だからな。再生の環を断たない限り、滅ぶ事はないんだろう」 「そんなの――!」 「落ち着け。我が流派――信濃霧神流には、輪廻の環を断つ禁法が存在する。それを使って、今度こそ奴に三途の川を見せてやるさ」 「……でもそれって、刀がなくても使えるんですか?」 「自明の理だ。刀に込められる咒力を、己の手に込められないはずなかろう。一瞬でいい――奴に隙を作れ!」 「ッ……分かりました! 少々危険な技を使いますから、気を付けてくださいねッ!!」 浮遊していたいくつもの鉄球が、一斉に八十禍津日の胴体へと向かう。 が、八十禍津日は意に介さない。リリルの投球など、彼女には通じない。 「ハッ、莫迦の1つ覚えですね――」 「――『球電』ッッ!!!!」 高速回転する鉄球。 それは、空気との摩擦で凄まじい熱を発生させる。 プラズマ現象を引き起こし――輝く球体となった鉄球が、八十禍津日を狙い撃つ。 「――ッ!!?」 腕で攻撃を弾こうとする八十禍津日だったが、まったく意味を成さなかった。 物質である以上は、高熱による気化から逃れる事は出来ない。鉄球に触れようとした瞬間、八十禍津日の腕が蒸発した。 「く……ッッ!!!?」 大きく跳び、鉄球との距離を取る八十禍津日の胴体。 蠢く傷口。腕を、一瞬で再生させる。 「……成る程、感服致しましたよ。私とした事が、少々驚いてしまいました」 リリルの『球電』は、絶対に防げない攻撃だ。 ……ならば、躱せば良い。 避けるまでもない攻撃だからこそ、八十禍津日は鉄球を手で防いでいたのだから。 見れば、リリルはかなり息を荒くしている。あれだけの熱量を発生させる運動を鉄球に加え続けるのは、並大抵の事ではないのだろう。 ……八十禍津日は、邪な笑みを浮かべた。 胴体を、リリルに突撃させる。神に挑んだ愚か者に、死という罰を与えねばならない。 「フフフハハハハハッ!!! その身体を八つ裂きに――」 が、それを成す前に。 八十禍津日は、頭を掴まれ持ち上げられた。 「――油断したな、禍津神」 「霧神、匠哉……ッ!!?」 愚者の誅殺に気を取られ、八十禍津日は彼の行動を失念していた。 ……要は、逆上して判断を誤ったのだ。 「くあ……ッ!!?」 八十禍津日の頭部に、霧神匠哉の掌から咒が流し込まれた。魂が分解されるような、不可解な理力。 受けてはいけない。もし受けてしまったら、自分はもう本体へは戻れない――そんな直感が、八十禍津日を急き立てた。 胴体を呼び戻し、霧神匠哉を殺そうとする。死んでしまえば、施術も止まるのだから。 しかし―― 「させません……ッ!!」 輝く鉄球が、それを阻んだ。 胴体の両足が蒸発し、転倒。さらに鉄球が撃ち込まれ、彼女の身体を破壊した。 「――終わりだ、八十禍津日」 「人猿が……人猿如きがァァアアッッ!!!!」 「信濃霧神流禁法、第一番之改――『無空・輪廻断絶』」 八十禍津日の頭が、崩れ始めた。 霧神匠哉の手から放れ、地に落ち――少しずつ塵となり、風に呑まれてゆく。 彼は再び、時計を見た。 「――ちょうど、5分だな」 「……これは、少々予想外の展開だなあ」 顎に手を当てながら、マスケラは闇の中で呟いた。 正面には、灰塵と化してゆく八十禍津日の姿が映し出されている。 「失敗作とはいえ、仮にもアレは私が飼育した踊り手よ? 私のシステムを甘く見積もったわね、這い寄る混沌」 当然のように、言い放つマノン。 ふむ、とマスケラは1度だけ頷いた。そして、微かに笑う。 マノンはそれを直視しない。直視すべきではない。 「――素敵じゃないか。思わぬ所から逸材が発掘されるというのは、なかなか愉快だ。こういう趣向は嫌いじゃないね」 「逸材、ね。まぁ今まで通り、貴方がアレをどうしようと口出しはしないわ。勝手になさい」 「恐縮だよ、葉限の魚骨。彼にもそれなりの芸があるようだから、より相応しい台本を用意してあげなくては。無論――あの、管理局の小娘にもね」 押し殺した声で、笑い続けるマスケラ。 溜息を吐きながら、マノンは問い掛ける。 「ねえ、八十禍津日はどうなるの? 霧神匠哉の禁技を受けて、己の一部をクラックされたのでしょう? その欠損は、どうやっても埋まらないと思うのだけど」 「だろうねえ。今頃は、地の底で怒り狂ってるんじゃないかな。精密な機械は、歯車が1つでもなくなったら正常には動かない。八十禍津日も同じだ。一部とはいえ、自身の存在を損失した以上――以前と同じ性能は発揮出来ないだろう」 「なら――」 「同じ性能は発揮出来ない――それが良い方に向くか悪い方に向くかは、私にも分からないけどね?」 「――……」 「けれど私に取っては、どちらでも同じだ。彼女が撒き散らす災禍を、心行くまで味わうだけさ」 余りにも、不吉な言葉。 マノンは世界の行く末を思い、気を重くする。 ……とは言っても、あの少年を心配しているに過ぎないが。 「不協和音だわ」 「不協は私の好物さ。知らなかったのかい?」 「ああ、ァァあああ……ッ!!?」 禍津神が、悲鳴を上げる。 霧神匠哉は、それを冷ややかに見下ろしていた。 「八十禍津日の断片よ。もう、お前に『次』はない。己の身体を再生させる事も出来ぬし、地で眠る本体へと戻る事も出来ん。闇に還れ――貴様等の故郷にな」 「こ、この私が、人間に、しかも偽者如きに……ッ!!!」 「それは違う。俺が自身の存在を信じる限り、偽者は月見匠哉の方だ」 霧神匠哉が、その言葉を口にした時。 八十禍津日が、笑った。崩れ掛けの顔に、嗜虐の表情を作る。 「……フフフ。ハハハハハ――詭弁ですね。確かに貴方は自己を確立してはいますが、根底に月見匠哉という人物が在る事は変えられない」 「――……」 「結局貴方は、月見匠哉を飾り付けた程度の存在に過ぎないのです。見栄えを良くしただけの、嘲笑されるべき贋作に過ぎない。貴方には、何の、価値……も――」 崩れ去る、八十禍津日の頭部。 呪いの言葉を遺し、禍津神は消えてなくなった。 「…………」 霧神匠哉は、八十禍津日の言を思う。 しかし、すぐに首を振った。敗け犬の捨て台詞など、律儀に聞いてやる必要はない。 「リリル、無事か?」 彼女は地面に座り込み、壁に凭れて息を整えていた。 傷は霧神匠哉よりも少ないが、しかし彼よりも苦しそうに見える。 「……神族モドキとあれだけ闘り合って、息1つ乱さないんですか。私はこの様だというのに」 「お前とは、鍛え方が違うからな」 「そうですね……強いですね、貴方は」 リリルは、天を見上げた。 どこまでも高く、どこまでも遠い。 「強者には勝てないと、戦いを諦め――鍛錬を怠った結果が、今の私の体たらくという訳ですか」 「ああ」 「……ハッキリ言いますね」 「それで、3回目の勝負はどうするんだ?」 「止めておきますよ。能力を制限されているからこそ勝機があると思ったのに、そっち方が強いんじゃ話になりません」 「そうか、賢明だな」 リリルに背を向け、歩き出す。 その背中に、活発な声が投げ付けられた。 「……でも、いつか絶対に倒しますからね!」 「勝手にしろ。生きてる間くらいは、待っててやる」 イースト・エリアを、進む。 猥雑な街を進む最中、何故かリリルの事を思い返した。 「妙な娘だったな……」 今後、会う機会があるかどうかは分からないが。 もしその機会があるとすれば、それは3度目の決闘――2人が雌雄を決する時になるはずだ。 きっと、強くなっている事だろう。 「――……」 それはともかく、まずは住む所を見付けなければならない。 各地を回り――比較的治安の良い区域で、アパートメント・ハウスを見付けた。古めかしい、木造の建物だ。 看板には、『萌芽荘』と書かれている。草冠が多過ぎだろう――と、意味のない事を思う。 管理人はイースト・エリアにしては珍しく、情が深そうな人物だった。この街では、逆に信用し難い人柄である。 とんとん拍子で話が進み――居住者名簿に、名前を書く事となった。『霧神匠哉』、と記す。 部屋に案内される、霧神匠哉。 ……不覚にも、彼は気付いていなかった。 己の名を記した、居住者名簿。しかし霧神匠哉は、そこに載っている他の住人の名に意識を向けなかったのだ。 倉元詩泉。 三山音彦。 四方堂木蓮。 ハロルド・カーライル。 冥土山萌絵。 ……そして、リリル・ゼムライン。 かくして2人は、時を置かずに再会する事を運命付けられた。 勿論――雌雄を決する時に、なるはずもない。
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