錆びた鉄、焼けたゴム、腐った果実、生理的嫌悪感と吐き気を催す吹き溜まりの臭い――。
 百々凪美香はその悪臭をものともせず、路地裏に踏み込んだ。
 イーストエリアの中心部からはやや逸れた位置にあるビルとビルの間、一本道のように伸びた路地には生ゴミが散乱していた。指。腕。目玉。臓物。元は人であった生ゴミが。
 傷口は滑らかだった。凶器は切れ味の鋭い刃物だろうと美香は思い、
「まったく、好きなだけやってくれちゃって」
 それきり死体に目もくれず――死体を道端に転がる砂利か何かのように踏みつけ、跨ぎ、路地を進んでゆく。ヒールが頭蓋を砕いた。脳髄が飛び散るが、美香は気にも留めない。
 やがて路地を抜け、開けた場所に出た。自動車一台が通れる程度の道路だ。そしてそこも例外なく死体が散乱し、悪臭で満ち満ちていた。
「調子はどうー?」
 美香は道路の先へ陽気に手を振った。美香から百メートルほど先に――赤いドレスの少女がいる。
 赤いドレスとポニーテイルが揺れ、少女がゆっくりと美香へ振り向いた。
 少女が口を開き何かを言っているが、距離と声の小ささによって美香には届かない。
 だから美香はぶんぶんと両手を振り、ノーの意思表示をして、
「あー、いいのよいいの。別に何か訊きたい訳じゃないの」
 言いつつ、ずんずんと大股で少女に近づく。
 ――そこでようやく少女は危険に気づき、だらりと下げていた刀を構えた。その構えはどこの流派のものでもなく、ただ適当に少女自身がとりやすい姿勢をしているだけだということを美香は知っている。
 刀は血に塗れていた。刃こぼれや傷みはない。
「ただ、ね」
 美香は近きながら右手を振り上げ、
「あなたみたいな贋物がいると――私の妹の取り分が減っちゃうから」
 少女が刀を振るうよりもなお早く、数十メートル離れた距離から平手を叩き込んだ。
 少女の頭が地面に叩きつけられ、頭蓋が卵のように砕けた。脳髄が飛び散り目玉が転がり綺麗な黒髪がずるりと剥げる。びくびくと両手足が痙攣し――泥のように溶けて消えた。
「……はぁ。鬱になっちゃう」
 美香は血溜まりの中でため息をつき、
「姉が妹を殺すだなんて。――世知辛い世の中だわ」


貧家偽典・グッドナイトムーン
第六話『血塗れた歿落貴族の恐怖劇』

七桃りお 原作・大根メロン


 塔の内部は極めて異質だった。
 腐臭の漂う港町、石造りの柱が並ぶ山脈、駒形切妻屋根の街並み、無数の書籍が並ぶ図書館――脈絡もなく無数の景色が連なっている。瀬利花と分かれ扉をくぐったマナ達は、その中を真っ直ぐ歩き続けているだけだ。しかし、それだけで次々と風景が変わってゆく。進んでいるのかわからないが、退路が無いため戻ることも出来ない。ただただマナ達は真っ直ぐ歩いている。
 無秩序に生えている針葉樹に天は覆われており、地面は腐っているのか妙にやわらかい。月明かりらしき灯りで辛うじて道は照らされているが、転ばないようしっかりと地面踏み抜かなければならなかった。
「気味が悪いですね……」
「怖いの? プリンセスともあろう者が?」
 マナが振り返り、意地の悪い笑みを浮かべてそういった。ここで殺してしまおうか。緋姫はわりと本気でそう思ったが、無駄な体力を消費するわけにもいかず思いとどまる。
「そりゃあ怖いですよ。ここが無限回廊だとしたら、もう先輩に会えなくなるってことですから」
「存外ピュアなこと言うんだね」
 意外とでも言うようにマナは笑った。緋姫は青筋を浮かべながら無言でFive-SeveNを手に取ろうとし、
「ま、一応何か感じるんだけどねー。この先から」
 マナが指差した方向を見る。その先には森が広がっているだけで、緋姫には何も感じられなかったがマナは神族だ。何かしらの超自然的なエネルギィの波動でも感じているのだろう。
「……適当に歩いてたわけじゃなかったんですね」
「緋姫、私をナメてるでしょ。殺すよ? ……結構おぼろげなんだけどね、凄く遠くにゆらぎみたいなのが感じ取れるんだ。――マスケラが誘ってるんだよ」
「そういうもんですか」
「そういうもんだよ」
「そういうものだ」
 瞬間、マナと緋姫は臨戦態勢をとった。
 男の声。前方からだ。マナは神剣を、緋姫は銃器をそれぞれそちらへ向ける。
「出てきなよ」
 緊張を含んだ声でマナが言うと、森の中に人影が浮かび上がった。
 近づいてくる。木漏れ日のような月光がソレを照らしてゆく。
「驚かせてしまったのなら、すまない」
 ソレは痩身の男だった。黒の外套で身を包み、両肩に金色の眼をした烏を乗せたその男は、
「ヴラド・ツェペシュ・ドラキュラ……驚いた。あなたは私達と縁無いと思っていたけれど」
 悪魔ドラクルを父に持ち、悪魔公と呼ばれた英雄。
 トゥルゴヴィシテの平野に2万の串刺しツェペシュを生み出した魔人。
 元・教皇庁ヴァチカン指定十三呪徒第四位<雷の弟>こと『伯爵』がそこにいた。
ゆかり無い、か。確かに私とえにしがあるのは君達よりも、あの少年だろうな」
「……羨ましい」
「え? 緋姫、何か言った?」
「い、いえいえ何も。……しかし、私の前に現れるなら――台眼だと思ってました」
 緋姫は思い浮かべる。彼と初めて出会い、協力し、障害を排除した日のことを。それだけで胸の鼓動が加速し、顔が熱くなっている気がした。胸に手を当ててみる。小気味いい振動が掌に伝わってくる。この響きこそが私の愛のしるし――
「緋姫、キモいよ?」
「私の純情な感情をブチ壊さないで下さい……!!」
「……あー、もしもしお嬢さん方。そろそろいいかね?」
 伯爵の肩に止まっている烏がくあーと鳴いた。
 沈黙。
「で、どうして伯爵がこんなところに?」
「うむ。――いやなに、強く気高き姫君がいると聞いてな。一度手合わせしたいと願ったのだ」
 ほっほっほ、と伯爵は白銀の顎鬚を撫でながら笑った。まるで好々爺のようだ、と緋姫は思った。
「これがジェントルマンですか……」
「緋姫ー、そろそろシリアス入りたいから黙ってて」
 何故か妙な説得力があったので、緋姫はそれに従った。両手で口を押さえる。
「……それじゃあ、これはあなたの趣味ってわけ?」
 マナの問いに伯爵は――どこか遠くを見るような、哀しみの色を浮かべた表情を作り、
「いやなに、滅してもなおこうして呼び戻され、使役されるのだ。多少の娯楽や享楽があったとしても、非難されることではあるまい? 美しい女性は好きなのでな」
 一転、再び好々爺のような笑みを浮かべていた。
「……?」
 緋姫は首を傾げた。さっきのは見間違いだろうか――
「じゃあ緋姫、ここは任せるから」
 マナはしゅたっと右手を掲げてそう言いやがった。
「ちょ、マナさん!? 私を差し置いて先に先輩に会うなんて許しませんよ!! それに一人でどうやってここから抜ければいいんですか!!」
「まぁ、こっちに歩いてれば何かあると思うよ。たぶん。うん、きっとそうだよ」
 明らかに適当といった様子でマナは森の方向を指差した。
 もしかしたらこの貧乏神、ここで私を殺す気かもしれない。半ば本気で緋姫はそう思った。
「それに、伯爵だって私と戦ってもつまらないでしょう?」
「ああ。私と神との力には雲泥の差があるだろう」
 その言葉に、マナはにやにやと意地の悪い笑みを浮かべた後、
「ま、精々頑張って追いつくんだね〜」
「あっ、マナさぁん!?」
 すたこらさっさーと森の中へ消えていった。残される緋姫と伯爵。
「緋姫と伯爵……何だか響きがいいですね、貴族っぽくて」
「なればここから先は舞踏会――死の舞踏ダンス・マカブルといったところかな?」
プリンセスの名は形だけで、私は嗜みのない箱入り娘ですが」
「そこは私が手を差し伸べようではないか。紳士たるもの、常にレディーファーストだ」
「レディーファーストの原型は、男性が身を守るため女性を盾として先行させたことらしいですけど?」
「……おや、これは一本取られたな」
 そう言いながら、伯爵は胸元の留め具を外す。赤い裏地の外套が風で膨らみ、その拍子に烏は森へ飛び立った。それから彼は仰々しく右手を上げ、下げ、腰を折って言う。
「では、踊ってくれるかねプリンセス?」
 緋姫はリュックを漁り、引き抜いたFive-SeveNを伯爵へと突きつけて、
「いいでしょう、ジェントルマン。――エスコートは不要ですが」
 トリガーを引いた。



 放たれた銃弾は伯爵の右肩を穿った。
 タンブリングアクションと呼ばれる性質を持つ弾薬――SS190は、傷口を必要以上に抉り貫通した。
 傷口からどろりとした赤黒い液体が流れる。それでも伯爵は動かない・・・・
 緋姫は不審に思い眉根を寄せ、今度は照準伯爵の額に向ける。
 と、そこで伯爵がようやく動いた。彼は左手を右肩まで持ち上げ――傷口に指を突っ込んだ。
 ずぷり、ぐちゅ、ぐりぐりぐり。
「――ッ!!」
 背筋を撫でる怖気に駆られ、反射的にトリガーを引いていた。閃光フラッシュが森を照らす。秒速650メートルの銃弾が再び伯爵へと迫り――金属音が響いた。
 次の瞬間、緋姫は眼を疑った。
「銃弾が……弾かれた?」
 確かに緋姫は見ていた。己の放った銃弾が伯爵へ迫り、しかし着弾の瞬間に防がれ金属音を放ちながらあらぬ方向へ飛んでいったのを。
 そして再び見る。伯爵の領域に浮かぶ血の玉・・・・・・を。
「……そういうことですか」
「二万の血肉より編み上げた『トゥルゴヴィシテの処刑場』を、そう易々と破れるとは思わぬことだ」
 伯爵は笑い両手を広げ、無数に浮く血玉の一つに触れる。
 すると血玉は刃へと形を変え――恐るべき速度で緋姫へ襲い掛かってきた。
 緋姫は咄嗟に横へ飛んで刃を躱す。刃は腐った大地を抉り、盛大に土砂を宙へ飛ばした。
 土砂のカーテンに隠れながら、緋姫は照準を合わせてトリガーを引く。しかし銃弾は血の盾で防がれ、さらにその防いだ盾が槍へと変わり反撃として飛来してきた。緋姫は屈んで躱す。
「さあプリンセス! どのような踊りをご所望かな!?」
「全然温いですよジェントルマン。私はもっとハードなのが好みです!」
「ではテンポを上げようではないか――『二重葬デュオ』!」
 伯爵の両側から、二本の杭が円を描くような軌道で飛来する。
 緋姫は飛ぶでも屈むでもなく、一歩前に踏み出した。左右から飛来してきた杭が背後で衝突したのを背中で感じた。その衝撃をも突進力に変え、半ば飛ぶような前傾姿勢でFive-SeveNのトリガーを引く。
「ぐ――」
 突然の突進に驚いたのか、伯爵は直撃を受けていた。否、伯爵は負傷した右腕で防いだものの、銃弾は貫通したのだ。苦痛に眉根を寄せる伯爵の腹部に、緋姫は蹴りを一撃見舞った。
「こ、の……!!」
 彼の肺から漏れた声とともに、その痩身が宙に浮いた。緋姫はそのまま連撃を叩き込もうとし、
「――『三重葬トリオ』!」
 前方と左右から赤色の杭が飛来してきたことを知る。――躱せない。左右の杭は先の方法で躱せるが、前方から飛来する杭の速度が左右のものより速い。アレならばバックステップを踏み左右の杭を破壊したところで正面からの一撃が来る。躱せない。躱せないなら、壊せばいい。
 緋姫は思考を一刹那で終了させ、バックステップを踏みながらスカートへ左手を突っ込んだ。レッグホルスターに収納されていたソレを引き抜き、トリガーを引く。
 放たれた銃弾と前方から飛来してきた杭が衝突し――双方が砕け散った。
 遅れて左右から飛来してきた二本の杭が伯爵と緋姫の間で砕ける。
 二人はその衝撃に飛ばされるようにして距離を取った。
「それは……」
 伯爵は驚きの表情を浮かべながら、緋姫へ問う。
「それは、対魔術式の弾丸か?」
 問いに、緋姫は手に持った拳銃――金色のゴールドルガーP08を掲げてみせた。
「これはですね、教皇庁ヴァチカンが闇ルートで販売している、神の祝福ゴッド・ブレス洗礼バプティスマを受けた対神用の銃弾ですよ。マナさんにブチ込むつもりで買っておいたのですが……無茶苦茶高いんですよ?」
 ゴールドルガーに込められた32発その全てが緋姫の言った対神弾だ。他者の血を啜り生まれた魔の所業ごとき、神の前では無力でしかない。もっとも、衝突の衝撃に銃弾自体が耐え切れず砕けてしまったが。
 総額を先輩が見たら倒れるだろうなぁ、と他人事のように緋姫は思った。
 伯爵は苦虫を噛み潰したような表情で言う。
「神代の剣でも貫けなかった私の杭が、銃弾一つで砕け散るとは思っても見なかったよ。……ふ、私も肝を冷やした。いや、突いたり貫いたりするのはとても楽しいね?」
「変態ですか、あなたは」
「はは、そうかもしれぬ」
 そう言った伯爵は、目を弓のように細め、どこか遠くを見るようなあの表情を浮かべた。
 それが緋姫には不死の怪物というより、老いた賢人のようなものに見えた。
 伯爵は哀愁を漂わせる表情で、口端の血を拭い宙へ飛ばし、
「人を殺め続けたこの身、正常などとは思わんよ――『四重葬カルテット』!」
 四本の杭が飛来してきた。
 黒く濁った紅の刺突が緋姫へと迫るが、しかし――緋姫は躱さずゴールドルガーで撃ち抜いた。
「ぬ……勿体無くはないか?」
「敵が人の心配してどうするというのです。――伯爵さん、もういいでしょう?」



 血を玩んでいた伯爵は、その言葉で指を止めた。
「どういう、意味だ……?」
「わかりませんか? ――もう飽きた・・・・・、って言ってるんですよ」
 緋姫の言葉が、今までの銃弾よりも一番強く伯爵を穿った。
「飽きた、か」
 噛み締めるように、伯爵は言う。
「……私には、こうして闘争を楽しむしか娯楽はなかったのだがな」
「それはあなたの娯楽でしょう。一人よがりは嫌われるんですよ」
「はっ、生娘がよく吠えるではないか」
「生娘だから吠えるんです。いつか来る大事な時のために」
 緋姫は言い――右手のFive-SeveN、左手のルガーを投げ捨てた。
 そして右手を胸元に突っ込み、大振りなナイフを取り出し、カバー投げ捨て逆手に構える。
 空の左手を突き出し、ナイフを持った右手を背中へ回す。
 足を前後に浅く開き、腰を落とした。恐らくそれが、必殺の構えなのだろう。
 彼女の深い吐息が、森を揺らした。
「決着を、つけましょう」
 伯爵は――静かに頷いた。
 彼女は先を急ぐ身だ。足止めを食うわけにいかないのは分かる。
 しかし、伯爵は確かに緋姫との攻防を楽しんでいた。そして緋姫自身も楽しんでいたのだろう。
 ……少しばかり、口惜しい。
 だがそれは伯爵の片思いである。そして伯爵は、それを彼女に押し付けない。
 全ては紳士であるが故に。
「姫君の願い、我が全力を以ってして答えよう」
 血塗れの両手を振り、宙に血の塊を飛ばす。血は空中で結合を繰り返し、五つの巨大な杭となった。
 次に伯爵は、右手を覆う血を固めてレイピアを作った。
 ともなく吹いてきた風が、漆黒の木々を撫でる。どこか遠くで鳥が羽ばたいた。
 十分な沈黙を交わした上で、緋姫が口を開く。
「来なさい。殺してあげます」
「その発言、干乾びてから後悔しろ――『五重葬クインテット』!!」
 五本の杭が纏めて放った。その一拍後に伯爵自身も駆ける。
 しかし緋姫は躱さなかった。動かず、ただナイフを宙へと滑らせ、
「――――」
 驚きで声が出なかった。
 それは如何なる芸当か。視線の先、緋姫は五本の杭その全てをいなしていた・・・・・・
 それぞれあらぬ方向へ杭は飛び、破壊の衝撃を撒き散らす。
 伯爵が見たのは、一秒にして五度の銀弧。
 光となったナイフの軌跡が、同時に飛来した杭の表層を撫でたのだ。
 たった、それだけで。
 ……ああ。
 次の瞬間、その戦姫が眼前の懐でナイフを振り被っていた。レイピアの剣先は虚しく空を突いたのみ。
 ……私のような下賎の刃では、かような戦姫に届かぬか。
 伯爵の視線の先で、音速超過の銀線が再び生まれた。
 古代インドにて信じられていた六十四の末魔マルマン
「『刹那・断末魔』――連斬!!」
 煌き閃く銀の刺突が、その全てを刺し貫いた――。



 緋姫は、ゆっくりと後ろ向きにブッ倒れた。
「……っつ」
 全身が軋む。無茶な動きの反動だけではない。伯爵の放った五重の杭は、その方向を逸らすことはできたものの衝撃までは殺せなかった。顔横を通りぬけていった一本のおかげで、緋姫は脳震盪寸前だ。
 緋姫のとった戦法は、ただのカウンターである。ルガーの弾丸が無尽蔵でない以上、長期戦での不利は明らかだった。だから緋姫は伯爵を挑発し、彼自身に攻撃させた。
 彼さえ斃せてしまえば、後のことはどうでもいい。こうして全身が軋んだとしても。
 見れば、右手のナイフは砕け散っていた。
「でも、私の……かちです」
「……そうだな」
 声がした。男の声だ。緋姫は首だけを声の方向へ傾ける。
 すると、そこには同じく倒れこんでいる伯爵の姿があった。
 全身から煙が立ち上っており、傷口は灰となって広がりつつある。末魔を断たれたモノは例外なく死に至るのだ。吸血鬼である彼は灰となって散るらしい。
「――何故、私を挑発した?」
 伯爵が問いかけてきた。そんなものは簡単だ。
「決まってるじゃないですか。私は、一刻も早く先輩の下へ行きたいだけです」
 それは確かに本心だった。嘘偽りはない。
「そうだろうか。――私には、君が私を早く楽にしてくれたとしか思えんのだが」
 すかさず緋姫は用意していた答えを告げる。
「自惚れ、ですよ」
「そうかもしれぬ。だが、そう信じることは悪か?」
 緋姫は答えられなかった。
 風が頬を撫でた。痛い。切れているのだろう。
 数秒後、沈黙に耐えかねた緋姫は言う。
「……私は、愛情も友情もなく戦い続けることがどんなに辛いか知っていますから」
「そうか」
 伯爵は短く答えた。構わず緋姫は続ける。
「あなたはね、もう死んでるんですよ。だから早く楽になって――来世でも迎えるといいんです」
 末魔を断たれたモノは文字通り断末魔を上げ、現世と別れを告げる。その後は、死出の山、三途の川、そして七人の裁判官を越え、その先に六道輪廻に則った来世を迎えるのだそうだ。
 無論緋姫は仏教徒ではない。これらは全てとある先輩からの受け売りだ。
 だが、輪廻転生にはロマンを感じた。終わりの先にある始まりに。
 例え死んでしまっても、幾度の輪廻の果てでまた愛しい人と出会えるかもしれないから。
 強く願っていれば、愛は消えないと信じているから。
 輪廻の車輪は巡り廻り、流転の果てにて邂逅す。
 それは、すごく、
「……ロマンがあるじゃないか」
 伯爵が、笑いを堪えるように言った。言った後で噴出していた。殺してやりたいが身体は動かない。
「くく、冗談だよ。年頃の女性とあらば、ロマンチシズムは欠かせぬであろう?」
「むむ……」
 ……立て、立つんだ私!
 必死で体を動かそうとする緋姫。その姿に滅び行く身の伯爵は、笑みを浮かべ、
「ああ、まったく――素晴らしき幻想の一夜であった」
 満足そうにそう言った。
 そこにあるのは凄惨な吸血鬼ものでも、老いた賢人のものでもなく、一人の老紳士の笑顔だった。
 そんな表情にすっかり毒気を抜かれた緋姫は、そっぽを向きながら言う。
「ええ……私も楽しかったですよ。久しぶりに全力を出せる相手でした」
 再びくつくつと笑う伯爵。来世で出会ったら絶対刺してやる。緋姫はそう思った。
「では、さらばだ姫君よ。――君の往く先に、恋の喜びと苦しみDog-roseがあることを願う」
「余計なお世話です」
「そうか。いやはや、私の手には負えぬお転婆な姫君だ――」
 ざああ、と風が吹いた。
 それからしばらくして、ようやく動けるようになった緋姫は、よろよろと身を起こした。
 傍には誰もいない。灰の一握りも残っていなかった。
 痺れるような痛みを堪えながら、緋姫は捨て去っていた銃を拾う。
「さて、行きましょうか」
 目指すは塔の頂上、愛しの人が捕らわれた場所へ。
 と、緋姫は一歩踏み出す前に足を止め、
「……って、ここどこですか?」
 どこかで烏が一鳴きした。



―次回予告―

法律は日常を歩く人が守っていればいい
倫理はそれを上回れる感情があればいい
私には、法も倫理も関係ない
伊邪那岐と伊邪那美だって
ゼウスとヘラだって
兄妹だけど夫婦だもん
だから私とお兄ちゃんだって
きっと結ばれるはずだから

次回グッドナイトムーン第七話――『アビエイターは叶わぬ願いの夢を見る』

私とお兄ちゃんは、ずっと一緒なんだから!





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