渡辺麗衣は不機嫌だった。 いつもならば凛と整っている顔が苛立たしげに眉根を寄せ、おまけに右足で地面を忙しなく叩いているのだから誰が見てもそう思うだろう。 「はぁ……」 ため息一つ。 同時、右手の一刀が夜闇を滑るように駆け――腐った身体を斬り裂いた。 「どうして私がこんな雑魚の掃除を……」 「御嬢様、囲まれてますよ〜?」 「退路さえ確保できれば構いませんわ。清水、一般人の避難は?」 「あと半刻ほどあれば」 メイド服にメリケンサックというエキセントリックな格好の少女とボクサー執事がそれぞれ麗衣の言葉に答える。 その返答に満足すると、麗衣は一歩踏み込みゾンビの首を刎ね飛ばした。 生臭すぎる血と肉の臭い。吐き気を催す腐乱臭。 それらを撒き散らす人型が――麗衣達の全方位をびっしりと固めていた。 新鮮な血肉を求め襲い掛かる死人の群れは、しかし麗衣達の射程へ入った途端に塵と化す。ゾンビの腐った脳とはいえど、己の消滅に危機感を覚えない者はいない。そうして生まれた膠着状態を、麗衣は一歩踏み出して文字通り斬って捨てた。膠着状態など作る必要も無い、取るに足らない雑魚だというように。 イースト・エリアの住民に聞いた話によると、ゾンビの群れは『塔』の出現とともに現れたらしい。何処からともなく湧き出し、あっという間にここ一帯を制圧したのだとか。事実、麗衣達が駆けつけたころにはスラム住人を追い詰めていた。住人は応戦するも相手はゾンビ。腕が千切れても歩み寄る姿はB級ホラーのようだった。 予めマナの連絡を聞いていた麗衣は塔に今すぐ駆け寄りたい衝動に駆られていたが、この状況をおいそれと見捨てられるほど冷めてはいない。それにゾンビとは浅からぬ因縁がある。 結果、麗衣達はここ一帯を担当することになったのだった。 だからこその、不機嫌。 「ああもう数が多いですわね! まとめて吹き飛ばせる便利な技とか閃きませんの!? こう、電球がピコーンって!!」 「仕方ありませんよ御嬢様。我々みな個を相手とすることに特化した武装ですから」 「……よくよく考えてみると、バランスの悪いパーティーですね〜」 「そんなことわかっていますわ! 無駄口叩く余裕があるのなら、一匹でも多くこの死人を葬りなさい!!」 「……一番無駄口が多いのは御嬢様ですぅ」 隠れるように告げた茨木の呟きに、麗衣は青筋を立てた笑顔で、 「ナニカイイマシタカ?」 「な、なんでもないでぅ〜!」 途端、脂汗を浮かべた茨木はゾンビを文字通り蹴散らしながら走り去っていった。 これが終わったらお仕置きだ、と麗衣は思った。何で責めようか。この前密輸入したアレなどいいかもしれない。あの小柄な身体には少々効果覿面すぎるかもしれないが、まぁいいだろう。人じゃないし。 そんなどうでもいい思考を繰り広げつつ、ゾンビを縦一文字に切り裂いた。 かつて罪人を髭ごと斬り飛ばした名剣は、今や死人の断首器具となっていた。 「……まったく」 吐息と共にドレスが舞い首が飛ぶ。 麗衣は嘆くように頭を振って、 「脇役というものは徒労のわりに利益が少ないものですわ」 「そんな其方だからこそ、鼠に騙され祭に加われなかった猫の気持ちは分かるまい」 その瞬間。 ――背中が爆発した。かと思った。 突然の衝撃から逃れるように、半ば反射的に前方へ飛ぶ。そうして衝撃を殺しつつ、着地した右足を軸足にして大きくターン。回転中に髭切をスライサーの如く振り回したのは、吹き飛んでくる石つぶてを弾くためだった。 息を整え、前を見た。 そこにはコンクリートに穿たれた大穴と、千切れ吹き飛んだ死人の山という凄惨な光景が。 麗衣は理解する。何者かの攻撃が地面とゾンビを破砕したのだと。それは自分に向けられたものであり、 「……泥棒猫にはお似合いですわ。ああ、そういえばあなたも死人なのでしたわね」 それが、谷川花音が放ったものだということを。 巫女装束に生弓矢。 予想よりも早い到着だと思いながら、麗衣は敵意を束にして睨みつける。よく見れば彼女は肩で息をしていた。全力でここまでやってきたらしい。ご苦労なことだ。 そんな鬼をも射竦める鋭き眼光を向けられつつも、花音は皮肉るように口を歪めて言う。 「だったらどうする?」 「間違えてサクッっと殺っちゃうかもしれませんわ」 その即答に花音はうんうんと頷きながら、 「ふむ。色ボケ激しい御嬢の腐った双眸では見間違うのも無理はない。なに、この場は某に任せて医者へ行け。まぁどちらにせよ――医者へ行くことになるのだ。手元が狂えば黄泉逝きかもしれんがな」 麗衣の額に寸分狂わず狙い定めた弓矢の弦を強く引いた。 さっきのは警告。次は外さないという意味だろう。 それを理解した麗衣は久方ぶりの緊張感に胸を躍らせながら言う。 「……いいですわ。丁度退屈でしたの。あなたのお遊び、付き合ってあげましょう。ただしルールを決めますわ」 「ハンデが欲しいのか?」 花音が口を歪める。 悠長に話しているようだが、二者の殺意はより濃くなる一方だ。 麗衣は今すぐ目の前の小娘を八つ裂きにしたい欲求に駆られながら、 「本格的に死にたいようですわね。――そうではなく、二人無駄に争うのでは効率が悪いですわ。未だこの場は死人で溢れている。だからソレを利用しましょう。ゾンビ一体につき一点でどうですの?」 「ほう、遊戯とは、その拙い頭でよく考えたな。いいだろう」 二人を取り囲んでいたゾンビ群の輪が――ギクリと腐った身を固めた。 彼らは腐った顔を見合わせながら困惑する。 「あなた達は的なんですから、動いてはなりませんのよ?」 生前ならその理不尽に抗議することもできたのだろうが、いかんせん今現在の彼らはただの腐乱死体である。呻くことしかできない腐った喉と口ではどうしようもない。逃げるにしてもこの腐りきった脚では仕方がない。 ようやくゾンビ達は納得した。 ――真実、自分たちがただの的であることを。 絶望するゾンビ達に、花音は嫌味なほど清々しい笑顔を向けて、 「まぁ、同じ死人のよしみだ。――死に物狂いで逃げ回れ」 直後に弓矢を叩き込んだ。 「フライングですわっ!!」 花音は無視した。
「――作戦会議だよ」 そうマナが言ったのは、ボロボロディアブロがあと塔まで数百メートルというところで爆発し、飛鳥が泉を盾にしながら近くの応援団体へ向かうのを見送って、さあ突撃しようとした矢先だった。 出鼻を挫かれた緋姫の抗議をさらりと受け流しつつ、マナは裏路地へと滑り込む。放棄されたビルとビルの間にある狭い空間だ。四人が鼻先を突き合わせるしかない。 そんな状況に苛立ったのか、出鼻を挫かれたのが本当に悔しかったのか。緋姫は青筋を浮かべつつ問いかける。 「……どういうつもりですか? てっきりこのまま突撃するんだと思ってたんですが」 「私も同意見よ。イースト・エリアに蔓延してるらしい恐怖の具現は応援がやっつけてくれてるんでしょう? 空にいる天使たちも迦具夜達に任せておけば大丈夫。だったらあとは私達が正面突破でいいんじゃない?」 緋姫に続いて要芽が言った。緋姫は直情的で感性任せだが、要芽は表面上冷静で計算高い。その二人が同意見なのだから、それは正しいことなのだろう。ふと瀬利花を見れば、彼女は「難しいことはわからん」とでも言うようにそっぽを向いているのだった。 ちぐはぐだがバランスの良いメンバーにマナは苦笑しつつ、 「うん、そうだね。――だけど、状況が変わったんだよ」 声と共に上げたマナの視線の先、裏路地の先を見れば、重なるように連なるビルの向こうに巨大な塔が見えた。ビルや鉄骨やら、ありとあらゆるどうでもいいものがねじくれ繋がり合い形成している不気味な塔だ。そのカタチはあまりに出鱈目で、子供の積み木を連想させる。 その後を続けないマナに、痺れをきらした要芽が問う。 「……どういうこと?」 「さっきチカからテレパシィで連絡があったの。街中にドッペルだけでなくゾンビ――サンフォールの残骸まで現れたって。他にも星丘海岸には魚人が現れ、ゴグマゴグの異常発生も確認されている」 それは、と要芽が息を呑んだ。 マスケラは『恐怖の具現化』という変則的な戦力増強手段を持っている。 夕方に戦ったドッペル・ゾンビ・深きものども・ゴグマゴグ。これらはかつてこの街に蔓延った事件の片割れを未だ恐怖していた住人達から発せられたものだ。上空に現れた天使はかつて迦具夜達と襲ったプロトイドルという恐怖でコーティングされたオートワーカーで、他にもファフナーなど強力な単体も存在する。 これら混沌の軍を結びつける点は一つ。 マナは吐息し、言った。 「この街で起こったありとあらゆる出来事――否、匠哉の関わった怪異その全てが星丘市に溢れ出しているんだよ」 全ては匠哉が連れ去られてからだった。 ドッペルゲンガーは住人を媒介にして顕現させたものであり、その力は弱かった。恐らくマスケラ一人の力でもできることとできないことがあるのだろう。否、マスケラの力自体は無尽蔵だろう。だが世界に干渉できる度合いに制限があるのだとマナは思う。 それはあの出鱈目な塔から推測できる。塔というのは祭壇としても使われることもある。バベルの塔のモチーフであるバビロンのジッグラトは神が降りてくるための場所であり、ピラミッドの多くはそのために作られているのだから。同時に、突如として現れた巨大な塔というものは地上人に強い恐怖を植えつける。 祭壇としての塔と、恐怖収集のための塔。 畏怖という名の信仰力は祭壇へと吸収され、崇めるモノへの供物として捧げられる。そうすることでマスケラは効率よくエネルギィを集めているのだ。そしてそのエネルギィで匠哉を媒介に怪異を顕現した。 さしずめ匠哉は神と人を繋げる巫女か、とマナは内心思った。男だというのに巫女という表現は変なのだろうが、彼の女装はそれなりである。女装巫女というのも新鮮だ。 と、マナのくだらない思考を遮るように、 「……しかしマナ、これほどの異常事態を――世界が見逃すのか?」 こう問うた瀬利花を鋭いと思いつつ、マナは答える。 最悪の現状を。 「――IEOは一時間前に星丘市の地上消滅を仮決定、大陸間弾道ミサイルの使用をアメリカに要請したよ。それにIEO独自の人工衛星に搭載されているMIRVも使うみたい。ヴァチカンも対神用消滅術式と虚無結界も準備をしてる。確実に星丘市は地図から消えるね」 全員の呼吸が止まったのが、マナにははっきり分かった。 数秒の沈黙の後、緋姫が「ギャグ……?」と言った。これがコメディ話だったらどれだけ楽だったことか。 全ては匠哉の写真やら使用済み歯ブラシやらをちらつかせ買収したアメリカ合衆国のMさんからのタレコミだった。彼女とて匠哉ごと星丘市を地上から葬り去る気は無いらしく、IEOの核攻撃要請をなんとか食い止めているらしいが、国交問題や今までの傍若無人のツケが効いているようで、彼女としても難しい状況らしい。 Mさん経由の話ではヴァチカンも大騒ぎらしい。極東で突如として観測された巨大な怪異。それらを巡って幾つもの部署が対立しているだとか、術式の行使準備は一部の過激派の勝手な行動だとか、聞いただけでもてんやわんやのようだった。しっかりしろよ。 マナは軽い頭痛に苛まれながら言う。 「タイムリミットは日本時間で午前二時、丑三つ時だよ。あと二時間ってところだね」 「ギリギリじゃないですか……」 「でもやるしかないんだよ、二時間以内に塔の消滅を。匠哉を奪還するだけじゃ、もうこの場は収まらない」 匠哉を奪還しても直後に灰にされたら意味がないのだから。 と、要芽が右手を軽く挙げ、 「塔の物理的な破壊は? 畏怖の対処である塔が倒れるって、結構勇気づくものだと思うけど」 「無理だと思うよ。そもそもアレの内部が本当に塔の形をしているのかすら怪しいんだから。でもあの塔はマスケラを仰ぐものだから、マスケラさえ退ければ塔は存在できなくなる」 「……といっても、私にはアレが斃せるとは思えませんけど」 緋姫の声に、皆が吐息した。 それはこの場にいる全員が分かっていることだ。アレは世界の外側から干渉してくるモノ。根本から違っている。 だがしかし、マナは一つの可能性を思いついていた。 彼女はため息を振り払うかのように力強く、 「消滅はできないけれどこの場から退けることはできると思う。アレがこの世に存在していられるのは、この世の因果を歪めているからなんだよ。だったら――」 そう言いかけたところで。 マナはふと上空に視線を向け、 「――見つけたぞ」 ばっくりと開かれた大口とそこから漏れる紅蓮の炎を見た。 間一髪。 迫る赤色の津波。展開される道返の結界。 炎の濁流は結界に触れると同時に火花を散らし、退けられたように二股に分かれてマナ達の後方へと流れてゆく。結界から漏れた熱が彼女らを炙り、焦がす。それでも炭にならなかっただけマシだろう。 視界いっぱいが赤色に染め上がっている。結界は徐々に後退しており、耐えられるのもあと数秒だ。 ……く、そぉっ!! 不意打ちを怨みつつ、展開を維持し続けるマナ。 そして五秒。 炎が薄れてゆく。 マナは見た。揺らめく陽炎の向こう側に、奇怪な塔とその前に聳える巨大な黒い影を。 巨大な双翼を開き、二十メートルもの位置にある顎から今だローゲの炎を漏らすその姿は、 「――ファフナー」 サタンの如き巨竜が、門番のように立ち塞がっていた。 「傷一つなし。流石に神の結界は破れぬということか」 「温いよ。その程度じゃ、精々暖房代わりだね」 マナは嘲るように鼻で笑ってみせた。 それから視界一杯に広がる赤黒い体躯へ手に持つ神剣を突きつけて、 「緋姫、瀬利花、級長。私がこいつに一撃食らわすから、その隙に塔へ――」 その瞬間。 「スペシャル御奉仕――『メイド・ハンマー』!!」 がぁん、と。 マナの指示をかき消すほどの衝撃が、ファフナーの横っ面に炸裂した。 横殴りの一撃に、頭から吹っ飛ぶファフナー。巨体がビルに突き刺さり、爆音を伴って倒れこんだ。 「……へ?」 呆然とするマナ。 今の一撃は誰のものか。右を見る。緋姫はいる。左を見る。瀬利花はいる。前を見る。空飛ぶメイドがいる。 先ほどまでファフナーが鎮座してた場所に華麗に降り立ったのは、 「き、級長!?」 「今の私は魔法冥土カナメよ。星丘高校の古宮要芽とはまったく関係ないわ」 何を言ってるんだこいつは。内心そう思ったが、もっと重要な問いかけがある。 「本気なの?」 言葉の通り、確かめるようにマナは言った。 ファフナーは古宮要芽から湧き出た恐怖の具現に他ならない。要芽はファフナーに一度追い詰められた。匠哉の助力があったからこそ辛勝することができたが、あのまま戦っていたらどうなっていたかは分からなかったのだ。 彼女は言った。自分が弱いということが怖いと。ファフナー、そしてアルビオン。再戦を申し込むように、過去の敵がもう一度要芽の前に立ちはだかっていた。 マナの持つ天羽々斬ならばファフナーを一刀の下に切り伏せることができる。恐怖の根源が要芽であり、それが祓われない以上ファフナーは生まれ続けるだろうが、それでも塔まで辿り着ければそれで十分なのだ。 だからマナは問うた。 そして要芽はその問いかけに、答える。 「私は弱いのが嫌。私は強くなりたい。だから私は以前斃せなかった敵を、今は斃せるようになっていたい。一人では勝てなかった相手を、今度は一人で斃す。そうすることで自分が少し強くなったことを確かめたいの。成果が出ていたのなら、次もやるぞって気力が湧いてくると思うから」 一息。 「それに私を誰だと思っているの。魔法冥土カナメよ? 恐怖ごときが正義を阻めるものですか。それでも立ちはだかるというのなら、それは全て悪なのよ。――悪には正義の鉄槌を!」 迷いも憂いも恐れすらなくカナメは声高らかに言ってのけた。 その表情に偽りはない。本心からあの巨竜をブッ飛ばしてやりたいと思っているのだろう。 ……まったく。どうしてこんなにアホばっかりかな。 マナは内心苦笑する。あえて苦を往く必要はないというのに。 だがこれは一つの正しい道ではある。恐怖を打ち破ることができたなら、それはマスケラの力を殺ぐことになるのだから。だが負けてしまっては元も子もない。むしろ打ち勝てない絶対の恐怖としてさらに強力になるだろう。 だがしかし。 「自らの弱さに直面し、それを乗り越えられたなら、あなたはもっと強くなれる」 一息。 「あなたならきっと勝てるよ、級長」 答えを予め予想していたかのようなその反応に、カナメはばつが悪そうに頬を掻いた。照れているのだ。そしてその照れ隠しとでもいように、ぶっきらぼうに彼女は言う。 「……だから私は級長じゃなくてカナメっ」 何を今更とマナは笑い、駆けた。カナメの隣を通り過ぎ、塔の方向へと一直線に走り出す。 瀬利花と緋姫もそれに続いた。すれ違い様にカナメの肩を叩き、 「その勇気、私も見習うことにするよ」 「ま、精々頑張ってください。――待ってますから」 「……待ってます、か」 似合わないことを言ってくれる、とカナメは苦笑した。 吐息を漏らし、ハンマーを改めて握りなおす。汗を掻いていた。掌をエプロンドレスで軽く拭いながら、 「……さてと。もういいわよ。意外と紳士なのね」 「ふむ。終わったか」 声と共に轟音が響いた。 ドミノのように倒れたビルの中心部から、のっそりと巨竜が身を起こす。 巻き上がる粉塵と瓦礫に顔を顰めるカナメの前に、改めて巨大な体躯が立ちはだかった。ばさりと一度羽ばたき、身を震わせて砂を払う。それだけで台風のような豪風が吹き荒れた。なんてダイナミック。眩暈を覚えた。 ……あーあ。マナの刀だったら一発だったのにな。 今更ながらに後悔する。天羽々斬の力を使えば楽に勝てたのに、と。 慌ててカナメはすぐにへたれた自分を叱るようにぴしゃりと自らの頬を引っ叩き、一呼吸を置いてから言う。 「まぁいっか。――どうせ勝つのは私だし」 「粋がるな小娘。過去に助力がなければ勝てなかったのは誰だ?」 重低の声が事実という重みを重ねて降りかかる。 その通りだ。ファフナーだけでなく、アルビオンの時でさえ挫けた。カナメとてそれを忘れているわけではない。 「で、それがどうしたのよ。確かに私は弱かった。過去の私は弱かった、それだけよ」 そう言い放ち、カナメはハンマーの柄を勢い良く地面に突き立てた。 威嚇するようなその行為は意地によるものだ。負けられない、負けるわけにはいかないと。 「……面白い。ならばその虚勢、今度こそ木っ端微塵に粉砕してやろう!!」 その力強くも小さい力を打ち砕かんとばかりに、ファフナーの咆声が夜天に響く。 同時に双翼が大きく膨らんだ。 飛ぶ。カナメは即座にそう理解し、反射的にスカートを抑える。 瞬間、暴風が吹き荒れた。 ファフナーの身が宙に浮く。それは物理的な法則を無視した飛翔だ。瞬く間にトップスピードまで上り詰め、一瞬で遙か上方へと飛びて行く。カナメは吹き飛ばされそうになりながらもそれをしっかりと睨みつけ、 「逃げる気!?」 「舐めるな小娘!!」 夜天に声が響いた。上空のファフナーはもはやこぶし程度の大きさでしかない。さらに小さくなってゆく。天上で煌々と輝く月へ届くほどの飛翔だ。 と、飛翔が止まった。月をバックに豆粒大のシルエットが形を変え、数秒後に下降を開始し始めた。 カナメは理解する。身を反転させてこちらへ向かって降りてきているのだと。 そしてその行動が意味するものは、 「体当たり……!!」 「あんな巨体のダイヴなんて、衝撃波だけでも死ぬのさ!?」 ぴょこんと胸元から現れるパック。いい具合にカナメの胸に挟まっていた。 カナメは三秒の間をおいた後、 「……パック、いたの?」 「いや、とんでもないことになってたからカナメの胸元に避難したのさって前! 前方不注意ー!!」 言われた通りに目線を向けた。 いつの間にかシルエットはこぶし大からメロン大まで変化していた。下降の速度が早い。巨体が迫る。あれの直撃を受ければ間違いなく死ぬ。巨体が迫る。躱しても衝撃波だけで死ぬ。巨体が迫る。巨体が迫る。竜の顎はもう目前。 絶体絶命。 「それがどうした――パック、空間転移!!」 「待ってましたなのさ!!」 巨竜と衝突するその刹那、声とともに眩い光が迸った。 この程度で死にはしない。 半ば確信的にファフナーは思っていた。この程度で潰れる相手ではないと。 以前ファフナーはあの少女に言った。汝は神々と並ぶような存在になっていたかも知れぬ、と。 まさしくその通り。あの時はまだ早過ぎたのだ。だから一人では勝てなかった。 ……やはり、な。 地上に激突させた巨体を再度空へと持ち上げる途中、押しつぶされた地上を見るが何も無い。たとえ吹き飛んだのだとしても、何らかの痕跡があるはずだ。それがないということは。 「――――」 身が震えたのは歓喜が故か。巨竜の体躯が空へと飛翔する。 ファフナーは思う。あの時は早過ぎた。では今ではどうだろうかと。 指環の護り手としてのファフナーが消滅してからそこそこの時間が流れた筈だ。その間で彼女は成長しただろうか。 ……それを今から確かめるのだったな。 巨大な双眸に景色と捉える。写ったのは街だ。スラムとひと目で分かる混雑した街並みが目下にあり、遠くには公園や学校、住宅街などがある。だがファフナーにはそれが何かは理解できていなかった。単純な防衛機能としか存在を許されていなかったから知識が無いのだ。 目下の街には光が灯っている。ところかしこで音が響いているので賑やかだ。 だがそこに少女の姿は無い。 ……さあ、どこにいる英雄よ。我を切り裂く英雄よ! 地上にはいない。 ならば、 「上か……!!!」 力任せに身を回した。視界が高速で流れ、一瞬で夜天を映す。 そこに。 ――月を背にして槌を構える英雄がいた。 身が分解されてゆくような感覚の後、カナメは夜闇に放り投げられた。 転移が不完全だったのだろう。視界は何故か上を向いている。 ふと月を見た。 豆粒のような星の輝きを打ち消すように光る丸いそれ。孤独に生きる夜空の岩塊。 ……そこで見ていなさい。私の活躍を。 誰かに向けた言葉を胸のうちで呟きながら、カナメは意識を集中させた。 と、緩やかに下降していたカナメの身体が停滞した。まるで見えない足場でもあるかのように、両足にしっかりと力を込めて立っている。魔法冥土の飛行能力だ。 眼下には上昇するファフナーの身があり――ぐるりとこちらへ振り向いた。 気づかれた。だがそれでいい。元より不意を討つ気などなかったのだから。 「一撃で決めてあげるわ!!」 答えるかのように咆声が来た。相手もそのつもりらしい。 カナメはハンマーを大きく振り上げながら、必殺の祝詞を口にする。 「――迷いの森の夏至前夜、妖精達は舞い騒ぐ」 以前のような一撃では、あの強固な鱗は貫けない。 だから前よりも強く、前よりも大きな雷が欲しい。 「我が名はカナメ、恋する乙女! 我が心で燃える炎は、神々さえも魅了する!!」 雷光が迸る。何処からともなく現れた雷がハンマーを包み、必殺の雷霆へと変化する。 だがこれでは足りない。力の一端などではあの竜は斃せない。 だから、カナメは願った。 「偉大なる雷神よ! その力の全てを、我に貸し与えたまえ!!」 瞬間、カナメの握るハンマーが――爆発的に膨張した。 広がる。広がる。月、塔、街、カナメにファフナー。全てを染め上げる閃光が瞬く間に広がってゆく。 ファフナーは驚愕の表情を作る。ここまで成長していたのかと。 だからファフナーは翼を閉じ、今できる最大の防御姿勢をとった。でなければ確実に吹き飛んでしまう。 ……上等よ!! もはや槌の形を成していない荒れ狂う雷を必死で制御しながら、カナメは胸の内で吼えた。 今できる全ての力で己の恐怖を打ち破る。あのファフナーを討ち滅ぼしてこそ意味があるのだ。 剣とも、槍とも、槌とも見えるその雷霆を手にしながら、カナメは必殺の名を告げる。 巨人殺しの大鉄槌、その一撃の名を。 「スペシャル御奉仕――『メイド・ミョルニル・マキシマム』!!! 放たれた神の一撃が、紅き竜へと炸裂する――。 月が、見える。 身体が熱い。背中が燃えるようだ。否、真実燃えているのかもしれない。 ゆっくりと下降していた。その感覚から人型に戻っていることを知る。変身する力すらもう残っていないのだろう。 一撃。たった一撃でファフナーは粉砕された。 翼は蒸発している。腹部には大きな穴が開いていた。傷口から血は零れない。ただサラサラと砂のような灰が舞うだけだ。灰は夜空へと昇ってゆき、己の身は落ちてゆく。 「……負けたか」 きちんと発声できていたかすら怪しい。咽喉も耳も焼け落ちているのだから。 ファフナーにとって、己の命はさほど重要なものではなかった。ただ、滅びてしまえば護るべきものが護れなくなるというだけ。己に課せられた役目を果たせないのは残念だったが、真実己が護らなければいけなかったのはとうに塵と化している。他でもない、あの少女の手によって。 「これで我も終わりか。いや、長き時であった」 そもそもファフナーは幻影でしかない。本体はとうの昔に英雄によって滅ぼされた。いまあるのは竜の怨恨だけ。 だが全ての根源は砕かれた。 だから――感謝しているのかもしれない。 呪われた運命を打ち破ってくれたことを。己を解き放ってくれたことを。 と、 「――はは」 思わずファフナーは笑っていた。 何故なら――上方から、その少女が落ちてきたのだから。 気を失っている。力を使いすぎたのかもしれない。 灰となったファフナーよりも肉体のある少女の方が重い。少女の身体はぐんぐんと近づいてきていた。このままでは地上に衝突してしまう。その程度で死ぬなどとは思わないが、それでも負傷者に鞭を打つ必要は無い。 だから、ファフナーはぼろぼろの手を伸ばした。その代わりに脚が砕けた。構うものか。 首と脚を支え、抱えるようにして下降を防ぐ。胸の妖精ものびていた。 少女の重みがある分身体は早く崩れてゆく。だがどうせ消えるのだ。 「眠るといい。次の戦いに備えて」 今はただ、この勇気ある戦乙女に安寧を。 「――Gute Nacht」 愛とは毒だ こんなに胸の内をかき乱すもの 毒でなければなんだというのだ だがそれでも捨て去ることはできない それは私の甘さだろうか それは私の弱さだろうか 苦悩の辛さ、迷いの苦さ それらすらもまた愛の一部だと私は思う 次回グッドナイトムーン第五話――『迷う剣は幽姫の手により導かれ』 だから私は、どちらの想いも手放さない
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