爾に「其の形は如何」と問ひたまへば、答へ白しけらく、「彼の目は赤加賀智の如くして、身一つに八頭八尾有り。亦其の身に蘿ち檜椙と生ひ、其の長は谿八谷岐八尾を度りて、其の腹を見れば、悉に常に血爛れたり」とまをしき。 ――『古事記』
櫛ちゃんはよろけるように後退しながら、老樹の幹へと倒れこんだ。 俺は思わず駆け寄りそうになったが、それを遮るようにマナの背中が立ちはだかる。 「閉じよ黄泉比良坂、来たれ道返大神――」 マナが、名を呼ぶ。 「――チカッ!」 現れる和服姿の少女。 「へ? ま、マナ様!?」 「チカ! 今度何かおごってあげるから、今は何も訊かず力を貸して!」 「りょ、了解でおじゃるっ!」 チカはマナの覇気に気圧されて、前方へと両手を掲げた。 「――『災塞祭』!」 展開される防御結界。 中空に張られた大きな壁に――俺を食い殺さんと迫ってきた水竜の顎が激突すると激しい光が迸った。 「くっ……櫛ちゃん!!」 手を伸ばすも、結界に阻まれてそれ以上進むことが出来ない。櫛ちゃんは八岐大蛇に取り込まれるように、老樹ごと土石流に流されていった。しかしそれきり八岐大蛇は俺達への攻撃を止め、天への咆哮を繰り返すようになった。どういうことだ? 「八岐大蛇は櫛ちゃんを取り込むつもりなんだよ!」 「……櫛ちゃんを取り込まなくてもこれだけの力があるんだろう?」 「うん。だけどこれは悪あがきみたいなもの。溜め込んだ畏怖の力で一時的に黄泉返り、天変地異を引き起こすことでこの地域の畏怖を集める……でも鬼子の巫女たる櫛ちゃんを取り込んでしまえば、こんな力技に出る必要はなくなるんだよ」 「だからって目の前で飲み込まれていく櫛ちゃんを見過ごすわけにはいかないんだ」 「わかってる! けど『八岐厳蛇』じゃ黄泉返ろうとしてるあれには致命傷は与えられないの! ただの雷も出せるけど、神代の雷じゃないと足止め程度にしかならないんだよ!」 「くそ……!」 落ち着け。落ち着くんだ俺。 八岐大蛇は蛇神だ。以前に俺は何度も蛇や竜にまつわる敵と殺り合ってきた。そのたびに、蛇切りの武器を目にしてきたんだ。その中に、今用意できるものはないのか? 考えろ、考えるんだ。 …………。 ちょっと、待て。 経験があるじゃないか。 神代の力を借りたことがあるじゃないか。 その時は俺が勝手に神の力を拝借させてもらった。できたのだ。今ここに神代の武器が存在しなくとも、力だけであれば用意できるんじゃないか? 「……メイドだ」 「匠哉、やっぱりトチ狂ったの!?」 「いや……前に俺、 「何が言いたいでおじゃるか!?」 「その時は天羽々斬のイメージを借りた。そしてマナは神代の雷を扱える」 竜殺しの雷――この場に最も最適なのは 「まさか 雷神にして刀神、武神にして軍神。天羽々斬で 「ま、待ってよ! 建御雷神には後で土下座でもすればいいけど……そんな力で攻撃したら取り込まれようとしてる櫛ちゃんも!」 櫛ちゃんが救えないなんて、それじゃああまりにも意味が無い。 「――だったら、俺が櫛ちゃんを拾ってくればいいんだな?」 「た、匠哉!?」 「お前アホでおじゃるか!? 不幸な チカに思いっきり馬鹿にされてた。初対面なのに言うなぁ。 「確かに俺は不幸を司っているがな――」 俺はずっと不幸だった。 不幸だから、色々な目に遭った。殺しかけたり殺されかけたり。全部、俺が不幸だったから。そういうモノを手繰り寄せる存在だったから。緋姫ちゃんはちょっと怖いし瀬利花はいつも通りだし級長も最近ちょっと怖いししぃは何するかわかんないしマスケラは最悪だし、もうとにかく不幸だ。不幸すぎる。 それでもなお、俺は。 マナや皆やあいつに――出会わなければよかったなんて、絶対に思えないんだよ。 「だけど、不幸だからこそ成せたことがあった」 不幸と不幸せはイコールじゃない。失うものがあって。でも、手に入れたものがあって。 「どんなに不幸なことがあっても、俺達はそれを悉く打破してきたんだ」 最後には皆で笑い合う。 『大丈夫、貴方なら勝てる。男の子が女の子のために闘う時、敗北なんてあるはずがない』 そういうこった。 「今から俺が走って櫛ちゃんを取り戻してくる。マナ、足止めは出来るんだろう? 大蛇の攻撃が止まっている今なら、一瞬くらい結界を解いたって大丈夫だろ」 「ほ、本気なの!? 今攻撃が止んでいるのは霊力集めと櫛ちゃんを取り込むため――それを邪魔しようとする者にはあの八匹の蛇が牙を剥くんだよ!? そんなの危険すぎるよ!!」 「お前はマジのアホでおじゃるね!!」 「アホでも何でもいい。だが急がないと本当に櫛ちゃんは取り込まれてしまう。そうなったら手が着けられないんだろう。だったら今すぐに行動する必要があるんだ」 ぽん、とマナの頭に手を置く。 「大丈夫だ。約束してやろう――俺は必ず帰ってくる」 敵は八首八尾の大神竜。 上等だぜ。 「『 八つの雷光とともにスタート。ゴールは折り返してもう一度ここに帰ってくること。 走る。 倒れそうになる身体を前へ。 混濁した八岐大蛇の表面は走りにくいことこの上ない。ここが湖であった所為でぬかるみに脚がはまりそうになることもあったが、山が切り崩されて出来た土の足場を跳び跳びで前へと進む。 櫛ちゃんが取り込まれようとしている老樹はここからでも見える。 マナの貧乏サンダーは八首その全てを吹き飛ばしたが、首は即座に再生した。少しずつ大きくなってゆくその首は、走る俺に向かって牙を剥く。 「――――!!」 声無き竜の咆哮。それも二つ。 だが一度消滅した首の大きさは丸太程度。マナのお蔭でずっとやりやすい。 「――二速――三速!」 動きに緩急をつけて、竜同士を激突させる。その衝撃で俺は前に吹き飛ばされたが、受け身をとって転がるように更に前へ。止まっている暇は無い。 誰よりも速く、誰よりも前へ。 速ければ――誰かが傷ついた時、駆けつけることが出来るから。 俺は助けたい、誰かを助けたい。だが俺は正義の味方じゃないからこの世全てを助けることなんて出来ない。俺は、俺が助けたいと思った者だけを助ける。 なんて愚か。 なんてエゴイスト。 だが俺は、俺でしかない。その俺自身は誰かを助けたいと願っている。 それこそが――俺の幸せ。 だから。 そのためには、誰よりも早く駆けなければいけないのだ――!! 「――見えたっ!!」 大きな水溜りのような場所で身体を半分以上埋めている櫛ちゃんがほんの数十メートル先にいた。膝まである水溜りを進み、櫛ちゃんに手を伸ばすが―― 「――阿呆が!!」 逆に手を掴まれ、眼前まで引き寄せられた。 「何故我がこの贄を縊り殺さぬか判らなかったのか!? 我を愚弄した貴様は絶対に許さぬ! この贄が目の前で朽ち果てていく様を見せ付けてやろう!! そして貴様も取り込んでやる――兎に角、貴様は『動くな』!!!」 赤く光る――蛇視。 だが。 「……阿呆はお前だ」 ソレの手を解き、顎を掴んで――俺に目を合わさせた。 「俺には他にも二つ名があるらしい――『月天使の邪眼』なんて名が、な」 「な――」 月は光を撥ね返す鏡である。しかし鏡の語源がカガメ――蛇の目である以上、蛇の瞳も鏡である。 だが、いつだって蛇を滅ぼすのは鏡だった。メドゥーサ然り、バジリスク然り。八岐大蛇だって須佐之男に斃された。須佐之男は海を治める神であり、海は天空を映す巨大な鏡なのだから。 「き、さ、まぁぁぁぁぁぁぁ!!!」 本当に阿呆だ。もったいぶった時点でお前の負けなんだよ。 どんな物語だってそう。悪の親玉は滅びるべきだ。そして皆でハッピィ・エンド。 だからこそ――八岐大蛇では、月見匠哉には勝てない。 「『動くな』よ。俺は櫛ちゃんとマナとの約束を守らなければならないんだ」 驚いた形相のまま固まり――そのまま動かなくなった。同じくして八岐大蛇全体の動きも止まる。だがこれでは櫛ちゃん自身の生命活動も止まっている。早く戻って八岐大蛇を消滅させなければ。 俺は櫛ちゃんを老樹から取り出し、背中に背負う。 後はゴールまで一直線。こんな距離、邪魔さえなければ一瞬だ。 ……さて、全てはあと少しで終わる。 「Ready, get set――」 帰ろう。心配性の貧乏神の所へ。 「――GO!!!」 匠哉を待つ今のマナには寸分の恐れも無かった。 彼は自らが傷つくことを省みない。誰かが傷つくより自分が傷ついた方がいいと考えている。彼は、人は自分のために生きることが一番だと言ったらしいが―― 「ホント馬鹿なんだから……」 ――月見匠哉はいつだって、誰かのために走っていた。 自分のために生きろというのに、彼は誰かのために生きている。彼は自分は独りだと思っているようだが、いつだって彼の周りには誰かがいて笑っている。 そんな、ねじれた少年だ。 だが、逆を言ってしまえば――これほど心強いことは無い。 匠哉は帰ってくると言った。鳥髪櫛をつれて帰ってくると言ったのだ。匠哉自身が力尽きてしまえば櫛は救えない。他人を救いたいと願う彼は、だからこそ絶対に帰ってくる。 日は沈み、月は空高くに。 たとえ日中は見えずとも月はずっとそこにいる。 「――ゴールだ。後は派手にフィナーレといこう」 ほらね――マナは誰に聞かせるわけでもなく、胸の中で誇るようにそう言った。 最早躊躇するはずもなく、マナは幕引きの祝詞を放つ。 「開け黄泉比良坂、来たれ八雷神――」 閃光とともに、何処からとも無く雷が現れた。黄泉より這い出た蛇、その数八つ。 「穢れの神々の恐ろしさ、千度の死により刻み付けようぞ!」 その八柱はジグザグに蛇の如く身をくねらせながら、展開された巨大な結界を通過する。 「開き給え 瞬間、更に強い光が雷より迸った。同時にマナは全身が砕けるような衝撃に襲われる。力の大半を封じられたマナがその身に余る奇跡を起こそうとした代償。それはマナの身を滅ぼす勢いだが、それをも耐えて言葉を紡ぐ。 「穢れ払いし雷神よ、我は天神地祇の言霊を 結界を通過し、八つから一つとなった雷は瞬く間に巨大化し―― 「天に仇なすまつろわぬ神を気高き剣で討ち滅ぼそうぞ!」 文字通り天地をも切り裂かんとする剣となった。 それは陽へ転化した雷火。それは大極となりし雷霆。 荒ぶる神をも退ける――其の一撃。 「――『 一つとなった神鳴が、八岐大蛇を両断した――。 妖と化した大雪崩は雷剣に斬られ絶命した。 霊力を消し飛ばされた雪崩はただの土砂へと姿を戻す。そこに改めて展開された道返の結界で押し止められ沈静化した。いつの間にかチカは姿を消していたが大丈夫だろう。今頃ヤケ食いでも始めてるだろう。 終わった。やっと終わった。 八岐大蛇の消滅とともに櫛ちゃんの停止は解除され、マナの力で身体は安定した。後は目覚めを待つだけだ。 「匠哉ぁ〜!!」 と、背後からマナの怒鳴り声。やばい、さっき俺が無茶言ったのを怒ってるのか!? 振り返る俺。迫るマナ。俺は衝撃に耐えるために身構え―― …………。 ……痛みは無い。 でも衝撃はあった。腹と胸。 ――マナが、抱きついていやがった。 「よかった、ホントによかったよ……」 「おわ、どうしたんだよ!」 「う、ううううううう〜」 「泣くなってうわ鼻水鼻水!」 ずびばびびーとマナが鼻をかんだ。俺の服で。 「ったく……」 一時の沈黙。 「……匠哉」 と、マナが俺の服から顔を上げ、上目遣いでこっちを見てくる。 「何だ?」 「――私は、匠哉にとりついて正解だったよ」 マナが、いきなりそんな事を言いやがった。 「ほら、私って貧乏神でしょ?」 茶化そうとしたが、何故かそれを躊躇ってしまった。 「だけど匠哉は――」 それはマナがとても真剣だったからか。 「どんな禍わざわいにも、決して屈しない」 頬には涙の痕があり、額には汗で髪が張り付いている。不覚にも俺は、そんなマナにドキリとしてしまった。俺のチキンハートの鼓動がマナに伝わってるんじゃないかとひやひやする。あまりに恥ずかしかったので、上目遣いの視線から慌てて視線を逸らした。 「御伽草子の主人公みたいに、匠哉は皆をハッピィにしてくれる」 俺の視界の端で、マナは深呼吸をして、 「匠哉、私は――」 「……お邪魔、みたいですね」 瞬間。マナは俺を突き飛ばした。ぶっとぶ俺。 だが痛みは気にならない。何故なら逆さまになった視界の中に、 「すいません……死人がでしゃばっちゃいけませんね」 稲さんがいたのだから。 …………。 容姿は櫛ちゃんだけど。 「な、何で……」 「えっと、お櫛の身体に割り込んでるんです。私とお櫛は霊的に繋がっていますし、あなた方が蛇神様から開放してくれましたから。蛇神様のお力の余力でこうしてお話させていただいてます」 礼儀正しい、とても十二歳とは思えない口ぶり。間違いなく稲さんだった。 「……そっか」 「ありがとうございました。匠哉さんとマナさんのおかげで、お櫛は死なずにすみました」 だが稲さんは死んだ。死んでしまった。 「匠哉さん……」 俺の考えが顔に出ていたのか、稲さんは俺を安心させるように、微笑みかけながら言う。 「私は自分の死に後悔はしていません。この結果にも大満足です」 「……そうか。だったらいいんだ」 いつだって死は、自分だけの物だ。 そこに他者の介入なんて必要ない。だから俺は、結果のみを訊いておこう。 「稲さん。あんたは今――幸せか?」 「はい」 ――――ああ。 それだけで、十分だ。 稲さんは死んだ。でも稲さんは笑っている。それで俺は満足だ。だったらいいや。俺がゴタゴタ思う必要は無い。今ここで理由を訊いても、多分俺には理解できない。なら、本人が幸せだといっているのなら、それでいいだろう。 「でも、これで稲さんは櫛ちゃんとずっと一緒だね」 と、沈黙をしていたマナが言った。心なしかこっちを見る顔が赤い。何故だ。 「櫛ちゃんはちゃんとした霊力を持った巫女さんだからね。今稲さんがそうしてるように、櫛ちゃんにはやっぱり口寄せの力があるみたい。だったら稲さんは、櫛ちゃんと一緒にいられる」 と、マナは俺の袖の端っこを掴んで、 「――私たちみたいに、ね!」 なんて言いやがった。 「って俺はお前に一生憑かれてるのかよっ!!」 「当然じゃない。私は匠哉の貧乏神なんだから!」 うう、先が思いやられるぜ。 と、俺達の言い合いに、稲さんがくすくす笑っていた。 「……さてと。それではそろそろお別れです」 「ご両親とは話さなくていいのか?」 「さっき会いました」 「そっか」 稲さんは、俺達に向かって深くお辞儀をし、 「さようなら」 笑顔でそう言った。 この上ないくらいの笑み。生前よりもなお明るい笑い。 正真正銘、魂からの笑顔だった。 だから俺も笑みで返そう。 「さようなら」 そこで――糸が切れたように櫛ちゃんが倒れた。 慌てて俺が滑り込み、櫛ちゃんを抱える。すると、俺の腕の中で櫛ちゃんはすぐに目を醒ました。 「あ……」 ぱちぱちと瞬きをし、数秒待ってから状況を理解したかのように櫛ちゃんは声を上げた。 「……終わったんだね」 「ああ、全部終わったよ。俺は――約束を守れたか?」 「……うん。私は、きちんと守られた……」 腕の中の櫛ちゃんは、向日葵のような笑顔を作って、 「ありがとう」 そう、言ってくれた。 それだけで十分。がんばった甲斐があったってもんだ。 「櫛は――私はもう泣かないよ」 笑顔のままそう告げた。しっかりと俺の目を見て。言いよどむことなく。言い切ったのだ。 「私は一人で生きることになるけど、独りじゃない」 ああ、その通りだ櫛ちゃん。 「――おねぇちゃんは、ずっと私の中にいるから」 櫛ちゃんは、強く生きていくだろう。 俺なんかが心配する必要が無いくらい、この少女は強かった。強く成長したのだ。 ぽん、と。俺は櫛ちゃんの頭に手を置いた。そのまま何も言わずグリグリと撫でてやる。俺の力任せの行為に、しかし櫛ちゃんは嫌がらずただただ笑顔でいてくれた。 それは、俺達が見たことがなかった笑み。 俺の腕の中から櫛ちゃんはするりと抜け出し、傍に立つ両親へと抱きついた。あ、鳥髪村長は脚怪我してるのに。案の定、大の男の叫び声が響き渡った。 その姿をマナと見ながらしみじみ言う。 「……終わったんだな」 「終わったね、匠哉」 この鳥髪村に眠っていた狂気――八岐大蛇伝説が。 そう自覚した、瞬間。 ぐにゃり、と――視界が歪んだ。 「え……?」 マナを見る。その身体は景色を透かしていた。半透明になってる。 「匠哉も透けてる……」 「……もしや元の時代に戻るのか……?」 イキナリだな、オイ。 だが俺達がこの時代でやることは全て終わった。 と、櫛ちゃんは段々希薄になっていく俺達を見ながら、 「……何だか神様みたいだったね」 それはおしいな、櫛ちゃん。 「俺は神様じゃない。しかもこっちは、神は神でも貧乏神だ」 「貧乏人がよく言うよ」 ぷっと一斉に笑い合う。最後の最後に大きく笑い合って―― 「――さようなら」 「ぶらぼーぶらぼー」 ぱちぱちぱち。 ヴァチカン地下の図書館、そこで一人の巫が哂いながら手を打っている。 その光景はあまりにも奇怪。十字教の暗部に神道の者がいるのだから。だがその者の色は黒く、その雰囲気は人のものでは無い。化け物のそれだ。 「なかなか上手くやったじゃないか。しかし、私は巫女服も似合うな!」 彼女の声を聞いている者は誰もいない。 「ノルニルから『じくーてんいそーち』を奪った甲斐があったってもんだよ。最近、悪役の座をエリンとかいう小娘に奪われていたからねぇ……」 声は愉快そのもので、貌に張り付いた笑みは取れることが無い。 「嗚呼、本当に面白いよ月見匠哉。殺戮を撒き散らす最低最悪の害悪存在。そんな君の活躍を見るたびに私は胸が張り裂けそうな想いを抱いてしまう。……ふふ、これが恋というヤツだね」 彼女――彼とも、何かとも言えるソレは、ただただ哂って世界を掻き雑ぜる。 「次は、何をしようか――」 這い寄る混沌は、未だ世界に満足していない。 晩飯の材料を買った帰り道。 「正しくは百年と二十年前――明治と大正のあたりだったよ」 俺とマナはあの出来事について語っている。 結局あの後俺達は今で眼が覚めた。夢だったのでは、なんて甘い考えは抱かない。 とはいうものの、アレが本当にあった出来事なのかは確かめておくことにした。一応過去の出来事だ。調べれば何かわかるかもしれない、ということでマナにそれを頼んでおいたのだ。 「百二十年前か。マナ、お前の予想は外れてたな」 「それは仕方ないよ。空気でしか判断できなかったんだから。それでも百年代ってのは正解でしょ?」 「はいはい、そういうことにしといてやるよ」 うー、とマナが睨んでくる。 「で、他は?」 「……えーっと、原因不明の大地震があって、土砂崩れなんかが起きたけど被害はそんなに出なかった〜みたいな感じかな。陰陽寮では原因不明の巨大な霊力を観測したってんで大慌てだったみたいだけど」 意地悪そうにマナは笑う。 八岐大蛇の分霊は消滅したが、本体は黄泉で未だとぐろを巻いていることだろう。だがマスケラのような悪意ある者がこの世に手招きしない限り、これまで通り現れることもない。 悪は滅びたわけだ。 「んで、こっちは某市にある神社の伝説」 「神社? 何でそんなのが関係あるんだよ」 「まぁまぁ聞きなって」 マナはビニール袋から百円のアイスバーを取り出し勝手に食い始める。俺の分は? 「――むかーしむかし、あるところに村がありました。その村は豊かでしたが、それ故に山に住む竜に目をつけられてしまいました。ある日、竜は豊かな村を滅ぼそうとしました。しかし、そこに天神様が現れて竜を退治してくれました。めでたしめでたし」 なんだその昔話。無茶苦茶嘘っぽいぞ。 「……もしかして、その村が鳥髪村で、竜が八岐大蛇のことか?」 「うん。天神様ってのは菅原道真じゃなくて、天津神の方ね」 「でも大禍津日神って天津神じゃないだろ」 「そこはツッコんじゃだめなんだよ。それに建御雷神に力を借りたんだから」 とりあえず、実際に俺達は過去にタイムスリップして村を救ったようだ。その過去を俺達は全く知らなかったのでパラドックスは無し。平行世界論やら多世界解釈やらはこの際置いておこう。 「で、話は戻すんだけど」 「まだあるのか」 「ここからが重要なんだよ」 まったく、こいつの話は回りくどい。 「その伝説では。天神様が現れたのは――巫女様が舞を踊ったかららしいんだよ」 危うく両手のビニール袋を落としかけた。 「それって――」 マナを見れば、食べきったアイスバーの棒にペンで『あたれ』と書いていた。虚しい。そして俺の疑問なんて聞いていないらしく、勝手に話を進めだす。 「その巫女様は――さっき言った神社で祀られてるんだよ。巫女様が天神様を呼んだ後、生き神様として」 やっぱりその巫女様ってのは彼女のことか。ちゃんと強く生きたみたいだな。 しかしこれで本当に終わったのだ。結局マスケラが何がしたかったのかは分からなかったが――いや、分かってはいるのだが理解はできない。あれからマスケラは現れないし。現れたらニ、三発蹴り倒してやるが。 だがとりあえず双子と蛇の物語は終わったのだ。 果たしてハッピィエンドだったのか――それは俺が決めることじゃない。 「さて、今日の晩御飯は何かな〜?」 「今日はインド料理だッ!」 「ただのカレーでしょ。昨日はイタリア料理とか言って普通のたらこスパだったしー」 「ばっか、ただのカレーじゃないぞ。月見家特性の月見カレーだ」 「おお、それは豪華そう」 「ただ卵が入ってるだけだがな……っ!」 見上げれば空は青く。心晴れやかに足を進める。 腕によりをかけた料理を作るため、俺は月見宅へと急ぐのだった。 「――私は狂気と混乱をもたらすために暗躍しているわけだが、その理由を教えてあげようじゃないか。私は恐怖を喰らい糧とする――といっても本当に恐怖という概念そのものを腹の満たしにしているわけじゃないぞ? 私の力――そう、私の活力源となる対象こそが恐怖、そして恐怖する者達なのだ。私は恐怖する君達を見て、心を満たしているんだよ。まぁ、私に心というものが存在すればの話だがね……おっと話が脱線してしまった。つまり私は、ヒトを恐怖に貶めないと生きてはいけないのだ。例えるならそう――寂しいと死んでしまう兎、かな?」 星丘市に、いくつかの噂話があった。 曰く――願いを叶えてくれる女の子が現れる。 曰く――夜の街にドッペルゲンガーが現れる。 曰く――財宝を守る空飛ぶ竜が現れる。 曰く――生き血を啜る吸血鬼が現れる。 曰く――巨大な人型ロボットが現れる。 曰く――人食い少女が現れる。 それはかつての過去。拭えない恐怖。終わったはずの物語。 しかし『怒りの日』を境に――現実は、侵食されることになる。 「さあ創めよう! 新たな混沌の物語を!!」 再来する強敵。幕を開ける神聖なる喜劇。 実と虚が入り混じり、ありえなかった交差が誕生する。 「こんばんわ、匠哉君。今夜は月が綺麗だね」 「所詮この身は幻想だ。駒でも狗でも道化でも、存分に演じて見せようじゃないか」 「殺しましょう。私がこの手で殺しましょう」 「私には――お前なんて必要ない!!」 「この程度じゃ、私を止めることなんて出来ないんだから!」 「最っ高のタクシーだろ?」 「お前じゃ俺は斃せない」 「答えなさい――匠哉は何処!?」 物語は加速する。 「いや、月には太陽ありきだろ。陽の光があってこそ月は輝いていられるんだ」 「匠哉君にとっての太陽って――誰?」 「殺しあおう――匠哉を賭けて」 そして―― 「俺の願いは――」 『貧家偽典・グッドナイトムーン』――近日公開予定。
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