――気付いた時、俺は真っ暗闇の中にいた。
「あー……」
 俺は確か、倉橋舞緒と闘って……見事に大敗北したんだよな。
「となると、ここは死後の世界か?」
 殺風景としか言いようがない。静かでいいけど。
 月見匠哉、享年17歳。まぁ、長生き出来るとは思ってなかったし、したくもなかったが……。
「――久し振りね」
 そんな黒の中で、声が聞こえた。
「哀れなシンデレラを捜しに来てくれたの? 貧乏な王子様」
 眼を向けると、見覚えのある奴がいた。
「お前は――」
 かつての、十三呪徒第十一位。葉限の魚骨。
「――マロン!」
「違う」
「……メロンだっけ?」
「言う事が霧神匠哉アレと同レヴェルね……マノンよ。マノン・ディアブル」
 ……あ。
「いや、勿論覚えていたぞ。今のは、再会を祝う愉快なジョークさ」
「例えジョークだとしても、女性の名前を間違えるのは紳士失格よ。本当に間違えたのなら、尚更の事」
 フフフと笑みを浮かべる、マロ……じゃなくて、マノン。
「と、とにかく。お前がいるって事は、ここってやっぱりあの世?」
「そんなに、はっきりとした場所ではないけれど。外れの世界であるのは確かね」
「うわー……」
 どうやら、冗談抜きでホントに死んだらしい。
「これからどうしよ、俺」
「別に、どうする必要もないわ。ずっと、ここにいればいいだけ。ここには何もない。ずっと貴方を苛んでいた、現世の四苦八苦もね」
「…………」
 マノンが、俺に近付いて来る。
 つっても、この闇の中に距離という概念が存在するかは微妙だが。
「ここは、私達だけの城。私達だけの陀汗。ふたりきりの舞踏会を――楽しみましょう?」
「……なぁ、お前――」
 ふと、思った事を口にする。
「何で、そんなに悲しそうなんだ?」
「――……」
 マノンが、息を呑んだ。
 少し、俯く。
「だって……貴方は渡辺家のために闘い、こんな事になってしまった。それは、他者のために何もかもを捨てた私と何が違うの?」
「…………」
「自分の幸福を初めに望むべきだと言った貴方が、結局は自分の命を犠牲にした。それを悲しまずに、どうしろと言うのよ?」


貧家外伝・メイド戦記8
〜禍津月夜・前編〜

大根メロン


『いよいよ、サンフォールとの最終決戦アルか……』
「ええ、茨木の治療も済みましたし。今夜、ユズリハ旅館に攻め込みます」
 渡辺家、麗衣の自室。
 麗衣は受話器に耳を当て、向こうの相手に語りかける。
「以前相談した、IEOからの増援に関しては?」
『残念ながら無理アルね。IEOに、サンフォールと真正面から戦おうなんて奇人は存在しないアルよ』
 電話の相手――王飛娘は、溜息をつく。
「そうですか。まぁ、予想はしてましたけど」
『あ、でも私はすぐに日本に向かうアル』
「……あら、奇人がいましたわ」
 微笑む、麗衣。
「感謝します、飛娘」
『礼には及ばないアルよー。それと、前にメイドが1人舞緒にやられたと言ってたアルが……それはどうなったアル?』
「……月見さんは、相変わらず危険な状態ですわ」
 飛娘は、一瞬息を呑んだ。
 麗衣が怪訝に思っていると、
『月見――ああ、前に電話で話した、あの月見マナアルか』
「ええ。……ホントは、侍女メイドではなかったのですが」
『……? どういう意味アル?』
「月見さん、男性だったんですの。女装していただけだったんですわ」
『――……』
 今度こそ。
 飛娘は、息を止めた。
『……麗衣。男だったのなら、「月見マナ」は偽名アルね? 本名は何というアルか?』
「月見匠哉、ですが……?」
『――――』
 電話の向こうで、轟音が響いた。
 麗衣には、知る由もないが――飛娘が拳を壁に叩き付け、打ち砕いたのである。
「フェ、飛娘……?」
『確認するアルが……倉橋舞緒は、匠哉を傷付けたアルね? それも、命に関わるような怪我を』
「え、ええ」
『分かったアル。さっきも言った通り、私も戦いに参加するアルよ』
 電話が、切れる。
「……えっと。月見さんと、知り合いなんですの……?」
 麗衣は受話器を見詰めながら呟くが、当然答えは返って来ない。
 首を傾げながらも、受話器を電話機に置いた。
「…………」
 茨木も清水も、今は出撃の準備をしているはずだ。
 花音にだけは、屋敷に残って貰う事になっている。この前のように、屋敷を襲われた時のためだ。
 ……ここには今、無防備な匠哉がいる。誰かが、傍にいなければならない。
「月見さん……」
 麗衣は椅子から立ち上がり、部屋の外に出る。
 廊下を歩き――匠哉が寝ている、部屋の前に立った。
 一応ノックをした後、扉を開く。
「…………」
 ベッドの上には、死んだように眠っている匠哉。
 ……もう何日も、こんな状態が続いている。
 匠哉の家にもこの事を伝えたのだが、電話の相手は『ふーん、そっか。帰って来ないと思ったら、そんな事になってたんだ』と、別段心配もしていない様子で呟いていた。
「……寝坊が過ぎますわよ、月見さん。一体、いつまで仕事をサボれば気が済みますの?」
 麗衣は茨木に、勝手に眼を醒ますだろうと言った。麗衣自身も、それを信じている。
 ――それでも。
 どうしても、棘のような不安が……麗衣の心を、少しずつ痛め付ける。
「…………」
 匠哉の顔に、自分の顔を近付ける麗衣。
 ……そして、口付けした。
 そうすれば――童話のように、眼を醒ますかと思って。
「……まぁ、そう上手くはいきませんわよね」
 無論、現実は童話のようにはいかない。匠哉は、眠り続けている。
 でも――
「不思議なものですわ。男性は、嫌いだったはずなのですけど」
 少しばかり、気合は入った。
 麗衣は、匠哉に背を向ける。
「――さぁ、決着を付けに行きますか」



「では、屋敷は某が護る。何者も匠哉には近付けさせんから、安心して戦って来い」
 玄関で、花音は戦いに向かう3人に言う。
「……本当に、ひとりで大丈夫なんですかぁ?」
 不安そうな茨木を花音は鼻で笑い、
「某より、自分達が大丈夫かどうかを考えろ。今夜其方等が対峙するモノは、人間のまま人間を通り過ぎた、正真正銘の外れ者だぞ」
「別に、貴方の事など心配してませんわ。私が心配なのは、敵襲の際に貴方がひとりで月見さんを護れるか、という事です」
 麗衣の歯に衣着せぬ言葉に、清水が苦笑する。
「フン。かと言って、これ以上屋敷の護りを増やす訳にもいくまい。敵は舞緒に加え、ハロルドとヴィンセントも残っている。そして恐らくは、レインも斃れてはいないであろう。とても、3人未満で戦える相手ではない」
「…………」
「まぁ、屋敷が襲われるとは限らん。ほら、さっさと行け。時間を無駄にするな」
「……そうですわね。では、行って来ますわ」
 歩き出す、麗衣。茨木もその後に続いた。
「――御武運を、花音さん」
「そちらもな」
 清水は一言言い残し、屋敷から離れて行く。






 ユズリハ旅館。
「――来ますね」
 舞緒はそう呟いて、閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
「お、ついに来やがるか」
 傍にいたハロルドは、楽しげに笑う。
 ヴィンセントは何も言わなかったが、口元が愉快そうに歪んでいる。
「で、作戦はどうするね?」
「敵は3人、こちらも3人。ならば、一人一殺で行きましょう」
 問いに答えながら、舞緒はヴィンセントを見る。
「それで、例のアレはどうなりましたか?」
「用意出来ている。もしもの事があれば、すぐに使えるはずだ。まぁ、有り得んとは思うがね」
「……何だよ、アレって?」
 不穏な会話に、口を挟むハロルド。
「もし、我々が追い詰められるような事になった場合――日本海の原潜から、この旅館に巡航ミサイルが撃ち込まれる」
「……へ?」
「そうなれば、間違いなく敵は全滅だ」
「いや、オレ達は?」
「蛇殺しでしか滅ぼされない私とお前は、何とか耐えられるだろう。舞緒なら、自身の力で生き残れる」
 ヴィンセントはとんでもない事を、当然のようにスラスラと語る。
「まぁ、そのような状況に追い込まれなければよいだけの事だ」
「……でも、日本海? 日本の領海に、米国籍の原潜が入り込んで大丈夫なのか?」
「日本政府の許可は取っている。北朝鮮のミサイル実験を監視するという、同盟国日本へのささやかな協力だ」
「……ミサイル撃つのはどっちだよ」
「だから、撃たせないように戦ってくれ」
 ハロルドとヴィンセントの遣り取りを、舞緒は面白そうに観察していたが、
「はい、そこまでにしてください」
 パンと手を叩いて、ふたりを止めた。
「彼女には渡辺家に向かって貰いましたし、準備は万全です」
 舞緒が、1歩を踏み出す。ハロルドとヴィンセントも、それに続く。
「――さぁ、行きましょう。御客様を、御迎えしなければ」






 ――夜。
「…………」
 麗衣達は、ユズリハ旅館に辿り着いた。
 旅館からは、人の気配がしない。しかし、異界と化している様子もなかった。
 慎重に、旅館の中に踏み込む。
「……私達が今夜攻める事を、知っていたようですな」
 清水の言葉に、麗衣は心中で同意した。
 舞緒は、今夜ここを戦場とするために……宿泊客や従業員を、全て遠ざけたのだろう。
 その、予想を――
「――ええ。貴方達の動きなど、星を見れば手に取るように分かりますから」
 他ならぬ、本人が肯定した。
「……ッ!!?」
 暗い、ロビィ。
 そこに浮かび上がる、着物姿の女。
「いらっしゃいませ。歓迎いたしますよ」
 倉橋舞緒は、麗衣達に頭を下げる。
「倉橋……舞緒っ!!」
 清水と茨木が、麗衣を護るように前に出た。
 麗衣も、太刀の柄に手をかける。
「……しかし、ここに攻め込むのは賢明とは言えませんね。この旅館は、四方に四神、天地に黄龍と麒麟を祀り上げて創り出した六神結界。貴方達に有利な事など、何1つとしてありませんよ?」
「ならその条件で貴方達を斃せば、もう文句は言えませんよねぇ」
 茨木の言葉に、苦笑する舞緒。
「条件は、それだけではありません。1時間後に、この旅館の地下に閉じ込めてある大量のゾンビを解放します。サンフォールの前身――ハイチの異端宗派が、長い年月をかけて溜め込んだモノですよ」
「な……っ!!!?」
「彼等は旅館から溢れ出し、あっと言う間にこの町を覆い尽くす事でしょう。そうなれば、どれほどの被害が出るか……想像も出来ませんね」
「……つまり、それまでに貴方を斃さなければならない、という事ですか」
 麗衣は、不愉快げに呟く。
「卑怯な……!」
「何とでも言ってくださいな」
 茨木の睨みに、舞緒は含み笑いで答えた。
「……なら、時間がありませんね」
 間合いを詰めた清水は、舞緒に蹴りを叩き込む。
 舞緒の身体は――1枚の形代となって、ひらひらと床に舞い落ちた。
「では、2階中央広間――『黄龍の間』にて御待ちしております。御用の御客様は、御手数ですが足を御運びくださいませ」
 その声を発した後、形代は勝手に燃え尽きた。
「行きますわよ、ふたりとも」
 その言葉に、茨木だけは頷いたが――
「御嬢様。残念ですが、私は同行出来ません」
 清水は闇の先を見ながら、そう言った。
「え? 清水さん――」
 茨木が、問う前に。
 闇の中から、何かが飛び出した。
 麗衣に向かって飛ぶソレを、清水は蹴り弾く。
 壁に当たり、地面に転がったソレは――1つの、サッカーボールだった。
「おー、ナイスクリア。アンタ、サッカーの才能があるんじゃねえのか? ほら、サッカーは紳士のスポーツっていうしな」
「いやいや、貴方に比べれば児戯に等しいでしょう」
 麗衣達の元へ歩を進めて来る、ひとりの男。
 鉄の壁アイアン・ウォール――ハロルド・カーライル。
「……清水、ここは任せましたわ」
「はい、御嬢様」
「茨木、行きますわよ!」
「あ、は、はい!」
 麗衣と茨木は、2階への階段を求めて走り出す。
 ハロルドは特に何もせず、それを見送った。
「……よいのですか、止めなくても? 勿論、止めて欲しい訳ではありませんが」
「んー。アンタもあの小鬼も、何か新しい装備があるみたいだからな。さすがに、ふたり以上の相手はキツい」
 ニィっと笑って清水を見る、ハロルド。
 その表情は、まるで喧嘩を楽しむ子供のようだった。
「さて、橋では結局勝敗が決まらなかった。ここで、白黒付けようか」
「橋での闘いは、私の敗けだと思うのですが」
「バッカ、喧嘩の勝敗ってのはな、どっちかが動けなくなるまで決まらねえモンなんだよッ!!」
 ハロルドが、床を蹴った。
 獣の如き獰猛さで、清水へと迫る。
「――はァッ!!!」
「……!」
 打ち出されるハロルドの拳と、振り上げられる清水の足。
 衝突する、両者の攻撃。とても人間の肉から出るとは思えない打撃音が、ロビィを奔り抜ける。
「取ったァ!」
 握られていた拳を開き、清水の足を掴むハロルド。
 もう片手で貫手を作り、清水の顔面を狙う。
「……ッ!!」
 当たれば、死ぬ。
 理屈も何もなく、そう直感した。アレは顔面を貫き、頭蓋の中身を抉る攻撃だ。
 清水は大きく身体を逸らし、貫手を躱す。気付かぬ間に掠ったらしく、額が血を噴いた。
 そのまま両手を床に付き、2本の腕で全体重を支え、掴まれていない方の片足を浮かせる。
「は……っ!!」
 清水の足が――まるで死神の鎌のように、ハロルドの首を落とそうと舞う。
「――ッ!!?」
 ハロルドは反射的に、足を手放して後退する。
「っと、危ねぇ――」
 足が掠めた、自分の首に触れるハロルド。
 手を見ると――そこには、血が付いていた。首から出血しているのだ。
 退くのが少しでも遅ければ、本当にハロルドの首は落ちていたのかも知れない。
「……躱したつもりだったが……それでもコレかよ」
「それは、お互い様でしょう。私も、肝を冷やしましたよ」
 己の額を押さえる、清水。
「……いいねえ。やっぱり、喧嘩ってのはこうでなくっちゃあな」
 極上の生ける死体リヴィング・デッドであるハロルドは、どんな怪我を負っても一瞬で再生させる事が出来る。
 だが今の清水が相手では、その再生能力も役には立たない。いかなる名工の作なのか、ハロルドには分からなかったが……あの靴は、蛇殺しの力を持っているのだ。
「傷付け、傷付く。それが、正しい闘り方ってモンだ」
「同感です」
 笑い合う、清水とハロルド。
「ロンドンの路地裏で、喧嘩に関しては敗け知らずだった俺に――アンタは勝てるか?」
「試合で反則敗けした事はありますが……私とて、喧嘩で敗けた事はありませんよ。腕試しにヤクザの事務所に殴り込んだのも、1度や2度ではありませんし」
 駆ける両者。
 間合いが詰められ、ふたりは再び激突する。



 暗い廊下を、麗衣と茨木は駆け抜ける。
「……清水さん、大丈夫ですよね?」
「何を言っていますの。清水は、御父様と御母様が絶大な信頼を寄せていた執事。あの程度のチンピラ相手に、敗けたりするはずがありませんわ」
 不安そうな茨木に微笑みながら、麗衣は進む。
 ――と、その時。
「――ッ!!!? 御嬢様ッッ!!!!」
 茨木は叫び、麗衣の背後に回り込む。
 両の拳に、メリケンサックが具現化すると同時に。
「くぅ――!!?」
 襲い掛かった鉄の刃を、それで防いだ。斬撃の重さを受け止め切れずに、茨木は一間ほど後退する。
「――茨木っ!!?」
「いきなり、背後から斬りかかるなんて……正々堂々という言葉は、貴方の頭の中にはないんですか?」
 茨木の眼に、ひとりの男が映る。
「陳腐だが、言わせて貰おう。殺し合いにルールなどない」
 ダニエル・ヴィンセントは――鈍く輝く刀を携え、廊下に佇んでいた。
「御嬢様、先へ」
「……分かりましたわ」
 麗衣の姿が、廊下の奥へと消える。
「ふむ、私の相手は君か」
「……不満ですか?」
「いや、そのような事はない」
 ヴィンセントはまるで闘う気がないかのように、刀をだらりと下げたまま。
 それが彼のスタイルである事は、麗衣から教えられている。
 ――それでも。
(何ですか、この人……?)
 その男は、異常だった。
 茨木は、武士の世を生きた鬼である。
 凄腕の剣士は、それぞれが特有の雰囲気を持つ。だが目の前の相手からは、ソレを感じない。ただの一般人が刀を握っているだけだとしか、思えなかった。
 茨木が、戸惑っていると。
「――来ないのなら、こちらから行くぞ」
 ヴィンセントが、動いた。
 詰められる距離。振られた剣を、茨木はメリケンサックで止める。
 すかさず次の斬撃が来る。それを、退いて躱す茨木。
 茨木は拳を叩き込もうとするが、予想以上に速く返った刃によって、再びその場から下がる事になった。
「…………」
 剣の技術に、特別な事はない。修練を積めば、誰でも手が届く程度の技だ。古の武士の剣技とは比べ物にもならない。
「はぁ……ッ!!」
 踏み込む、茨木。
 拳を打つが、届く前に刀で止められた。
 逆の拳を振るうも、ひょいと何でもないかのように避けられる。
「く……っ!?」
 剣の技が凡庸なら、刀も特別な物ではない。茨木達が装備しているような神器ではなく、業物でも名刀でもない。銘も知れぬ、ただの刀だ。
「――斬死しろ」
 刃が迫る。
 茨木は、メリケンサックで防ぐ。斬撃の圧力で、五指が軋んだ。
 咄嗟に離れようとするが、その必要はなかった。
 ヴィンセントの蹴りが――茨木を、反対側の壁まで吹き飛ばしたのだ。
「ぁ……っっ!!?」
 ヴィンセントに、驚嘆すべき事は何もない。腕を治療して力を取り戻した茨木より、実力は下だ。
 ……なのに。
 この男は、茨木と互角か、それ以上の強さを見せている――。
「く……」
「どうした? 羅生門の鬼とやらは、その程度か?」
「…………」
「なら、消えてもらう。我が国民のためにな」
 ただ国を想う、子供のように純粋な心。それが込められた剣は、あまりにも強い。
「……でも。大事なもののために闘ってるのは、私も同じですぅ」
 1つは、仕える主人のため。もう1つは、眠ったままの彼のためだ。
「――っ!?」
 赤い雫が、ぽたぽたと床に落ちた。
 ヴィンセントの頬に――一筋の血が、流れている。
「いつの間に、傷を……?」
 血を拭いながら、彼は茨木を見る。
 彼女は不敵な笑みを浮かべて、ヴィンセントを見返した。



 下から響く、2つの音。
 麗衣はそれを聞きながら、階段を登って行く。
「…………」
 暗い旅館。それは、お化け屋敷を連想させた。
 ――無論。この先に待ち構えているのは、作り物の化生などではない。
 相手は、道を踏み外した1人の人間。
 そう、ただの人間だ。いくらかの隠秘を学んでいるとはいえ、人間である事に変わりはないはず。
 だが――それでも麗衣の足は、少しずつ重くなってゆく。
 決戦の舞台である、黄龍の間。
 そこに近付くにつれ、麗衣を不可解な感覚が襲う。
 恐怖ではない。今更そんなモノを感じるほど、麗衣の神経は細くなかった。
 コレは、もっと単純な事。
 危険から逃げろと警告する、生き物として当たり前の機能。
 この先にいるのはそういう存在なのだと、麗衣の深い部分が叫んでいるのだ。
 麗衣の先祖が、まだ哺乳類ですらなかった頃から受け継がれている――捕喰者に対する防衛本能。
 人類にはもはや不要となったはずのそれが、眼を醒まして絶叫している。
「……ッ」
 思わず、止まりそうになる足。
 今の麗衣は、百獣の王に挑む兎同然だ。全力を出すまでもなく、敵は麗衣を屠るだろう。
 なのに、麗衣は足を止めなかった。
 ……眠り続ける匠哉の顔が、頭を過ぎったのだ。
 さらにスピードを上げ――麗衣は、広間に跳び込む。
「――御待ちしておりましたよ」
 にこやかに微笑むのは、倉橋の異端。その身を侵された、人型の禁書。
 舞緒は天烏天兎扇を現出させ、麗衣と対峙する。
「……ようやく出遭えましたわね、元兇」
 鞘から太刀を抜き放つ、麗衣。
「もう、お互いに話す事はありませんね。闘いましょうか」
 邪悪さを滲ませながら、舞緒は言う。
「――参るッ!!!」
 麗衣が跳ぶ。
 獲物と捕喰者の、勝ち目のない闘いが始まる。



「……!」
 2階で、爆音が響いた。
 それぞれの場所で、それぞれの相手と闘っている清水と茨木。彼等は一瞬だけ、それに注意を向けた。
 しかし、すぐに意識から締め出す。
 他の事を考えながら勝てるほど、眼前の敵は甘くない。
 それに――ふたりは、麗衣の勝利を信じている。余計な心配など、必要ないはずだ。






(…………)
 麗衣が始めてサンフォールという言葉を聞いたのは、10歳の時だった。
 当時の麗衣は、まだ修行中の身。今よりもさらに未熟だった彼女は、その組織の恐ろしさを聞かされる事はあっても、体験する事はなかった。
 ――そして、ある日。
 麗衣の両親が、彼等との戦いに出向く事になった。
 ……当主とその伴侶が出撃しなければならないほど、追い詰められていたのだ。
 麗衣に、そんな事情は知らされなかった。ただ――出かける前に、2人が麗衣の頭を撫でていったのを覚えている。
 彼等の力によって、イースト・エリアに根付いていたサンフォールの支部は消滅。
 ……けれど。結局、2人は帰って来なかった。
 清水と2人だけになった屋敷にメイドを雇い始め、茨木が訪れた。
 その数年後、彼女――彼が、渡辺家の屋敷に現れる事となる。
(――……)
 ここでようやく、麗衣は気付いた。
 自分の見ているモノが、死に際の走馬灯であると。






「あら、死んでしまいましたか?」
 舞緒は、拍子抜けだと言うように呟く。
 黄龍の間は、酷い有様となっていた。畳が何枚も割れており――凄まじい破壊が行われた事を物語っている。
 その、瓦礫の中に。
 血塗れの麗衣が、沈んでいた。
「練丹を極め三百年以上の時を生きている私と、僅か十数年しか生きていない貴方では、差があって当然ですけれど――」
 1つ、溜息。
 舞緒としては、十分に手加減したつもりだった。それでも、この結果である。
 ……まぁそれも、仕方のない事。
「よかったですね。私の攻撃で死んでしまったという事は、まともな人間である証ですよ」
 舞緒と闘える方が、おかしいのだ。
「……とは言え、さすがに無様が過ぎます。名家の御嬢さんなら、もう少し洒脱でなければ」
 言い残し、その場から立ち去ろうとして――
「……?」
 麗衣の指が、少しだけ動いた気がした。
「…………」
 舞緒は、麗衣を見る。
 生きている様子はない。仮に生きていたとしても、放っておけば死ぬだろう。
「……まぁ一応、しっかりと殺しておきますか」
 二扇を、振る。
「羽撃け天烏、跳ねよ天兎――」
 そして、麗衣の身体に叩き込んだ。
 彼女は大音と共に床を突き破り、黄龍の間の直下――麒麟の間へと落ちて行く。
「…………」
 ふわりと、麒麟の間に降下する舞緒。
 床に叩き付けられた麗衣に、近付いた時――
「……ぁあッッ!!!」
 ずっと握り締められていた髭切の、切っ先が動いた。
 舞緒の身体を両断せんと、刃が奔る。
「――……」
 しかしそれを、舞緒は幽霊のようにぼんやりとした――掴み所のない動きで、躱す。
「……くっ……!」
 飛び起き、舞緒との距離を取る麗衣。
「……驚いた。どういう原理で生きているのです?」
 舞緒の見立てが、間違っていた訳ではない。麗衣が負っている怪我は、確実に致命傷だ。
 だが麗衣は斃れる事なく、劫火のような闘志を向けている。
「この宇宙には、まだまだ私の知らない法則があるのでしょうか。ならば――それを、貴方から学んでみる事にしましょう」
 2つの扇が、開かれる。
 毒蛾の翅のようだと、麗衣は血液の足りない頭で思う。
「は――ぁ……ッ!」
 麗衣は呼吸を整えようとするが――肺に何らかのダメージを受けたらしく、まともな呼吸すらままならない。最も、今の麗衣の身体にまともな部分など1つもないが。
「ほら、来なさい。その身体、そう長くは持ちませんよ?」
 ……それは、麗衣自身も分かっている事。
 麗衣の状態は、完全に死に体だ。それが本当に死体になってしまう前に、舞緒を討たねばならない。
 そう考える間にも、麗衣は死へと近付いている。力を抜けば、そのまま逝く事になるだろう。
「…………」
 ただ――まだ、死ねないのだ。やらなければならない事が、たくさん残っているのだから。
 その気力だけで、麗衣は己の命を支えていた。
 ――床を蹴る。
 髭切と天烏天兎扇がぶつかり合い、火花を散らす。
 それは鉄扇と太刀の火花であり、2人の力の火花であった。
「――15点」
 麗衣の攻めをそう評価し、舞緒は二扇に咒を込める。
「南無蟲鳴之書――南無無貌之大神ッ!」
 扇より迸る力が麗衣を捕らえ、麗衣を軽々と天井まで吹き飛ばす。
 ……舞緒は、『蟲鳴之書』の内容を覚えていない。にも関わらず、書に記されていた咒を無意識の内に行使している。
 つまり――記憶よりも深い部分に、書の内容が根付いているのだ。
 読んだ人間のDNAに、塩基配列として己の記述を刻み込む。それが、かの禁書が『繁殖』の手段として選んだ方法だった。
「ぁ……ッ!!!?」
 無論、麗衣はそれを知らない。けれども、数合打ち合っただけで理解してしまった。
 ――眼前の生き物は、もうどうしようもなく壊れているのだと。
「やはり、話になりませんね……」
 倒れた麗衣に、舞緒は歩み寄る。
 ――が。その時、気付いた。
「……はて? 麗衣さんの斬撃は、問題なく防いだはずなのですが」
 着物の袂が、僅かに斬られている事を。



「オラァァァッ!!!」
「はぁ……!」
 ロビィを走り抜ける、清水とハロルド。
 ふたりの間を、殺人的な威力を持った拳と蹴りが交錯する。今その間に入るなら、どんな物体であろうと数秒もかからず粉砕されるに違いない。
 突き出される、ハロルドの手は槍。繰り出される、清水の足は鎌。
 兇器の領域にまで研ぎ澄まされたお互いの技が、相手を必殺せんと踊り狂う。
「……ッ!!!」
 それぞれの攻撃を紙一重で躱し、あるいは防ぎ続けている両者。
 清水はハロルドの拳を、僅かに退いて避ける。それが功を奏し、ハロルドの拳は清水の身体まで届かない。
 ――なのに。肋骨の砕ける音が、体内で鳴った。
「ぐ……ッッ!!!?」
 一旦、清水はハロルドとの距離を離す。
「……拳を放った圧力だけで、私の肋を折るとは」
「へっ。それが、人間と生ける死体リヴィング・デッドの性能差だ」
 ハロルドは、にやにやと笑う。
「アンタは凄ぇよ。その抜き身の剣みてえに鋭い技なら、どんな達人にだって敗けはしないだろうさ」
 床を、軽く一蹴り。
 それだけで、ハロルドは清水との距離をゼロにする。
「――でもなぁ。どんなに頑張っても、蟻が象に勝つのは不可能だろ?」
 ハロルドの手が、清水の身体を貫こうと飛ぶ。
 清水はとっさに足で蹴り上げ、手を僅かに自身の身体から逸らした。
 ……再び、至近距離での攻防が始まる。
「要はだな、アンタとオレは同じ形をしているだけの違う生き物なんだよ。まともに闘おうってのがそもそも不正解だ」
 両手両足を使った、清水の猛攻。
 それをハロルドは――左手1本だけで、完璧に相殺する。
 ……右手が、動く。
 閃光のように放たれた拳が、清水を打つ。
 当たり方は、浅かった。しかし――清水の身体は、遥か後ろだったはずの壁まで弾き飛ばされる。
「ぐ、ぅ……!!?」
「まぁ、アレだ。オレ達サンフォールと出遭ったのが、アンタにとって最悪だったんだろうな」
「…………」
「さらに原因を辿れば、渡辺家に仕えたのが問題だったのか?」
 立ち上がる、清水。
「そうなのかも知れませんが……この清水政彦、渡辺家に奉公して後悔した事などありませんよ」
「……そっか。どんな結果だろうが、アンタ自身が納得してるならそれで十分だな」
「はい。しかしどんな結果と言いましても、この戦いの結果は私達の勝利しか存在しませんが」
「ハッ、吼えてろ。すぐに、それすら出来ないようにしてやるよッ!」
 清水の元へ、ハロルドが駆ける。
 トドメの一撃を、打ち込もうとしたが――
「――ッッ!!!?」
 それよりも速く、清水は2本の指でハロルドの両眼を潰した。
「――ぐぁぁぁぁッッ!!!?」
 靴による攻撃でないため、再生は可能。
 だが――すぐさま、視力を取り戻せるという訳でもない。
 その隙に、清水の蹴りが放たれる。
 それはハロルドの胴にクリーン・ヒットし、彼を吹き飛ばす。
「ぐ、テメェ……ッ!!」
 ようやく再生した眼球で、ハロルドは清水を睨む。
「まさか、ここまでするとは思わなかったぞ……!」
「いえいえ、本番はこれからですよ」
 清水はロビィにある椅子を拾い、ハロルドへと放り投げる。
「……!?」
 キーパーだった故の習性か――真正面に飛んで来たそれを、ハロルドは両手で受け止めてしまった。
 その間、ハロルドは完全に動きを止めている。その上、椅子のせいで両手が使えない。
 清水のマシンガンのような蹴りが、ハロルドに打ち込まれる。響いた鈍い音は、椅子が砕けた音だけではない。
「がぁぁぁ……!!? クソ、こんなラフ・プレイでやられて堪るか……ッッ!!!」
「――貴方は先ほど、蟻が象に勝つのは不可能だと言いましたが」
 穏やかに、清水は微笑む。
「さすがに、無理があるとは思いませんか? 私達を、蟻と象に例えるのは」
「う――らぁぁぁぁッッ!!!!」
 迫る、ハロルドの貫手。
 先ほどと同じく、清水は少しだけ退いてリーチから離れる。無論、同じように圧力でダメージを受けるが――彼は、それに耐える。
 ……清水を打とうと、伸び切った腕。
 清水はその腕の肘に、蹴りを叩き込む。間接が壊れ、ハロルドの腕は本来とは反対方向へと曲がる。
「ぐ、が……ッッ!!!?」
 清水の間合いから、跳び退くハロルド。
 彼は、折られた肘を押さえる。
 これは、靴による傷。それを治すには、腕を切り落として一から造り直すしかない。
 だが当然、この戦闘においてそんな余裕はない。
 いや、それ以前に――次の清水の攻撃に、対応する余裕すらなかった。
「――覚悟ッ!」
 清水の足が舞う。
 渾身の跳び後ろ廻し蹴りティミョ・パンデ・トルリョ・チャギが、ハロルドを薙ぎ倒す。



「……クソ、身体が動かねえ」
 床に倒れたまま、ハロルドは呟く。
「なら、私の勝ちですね。喧嘩は、動けなくなった方が敗けという話ですし」
 微笑む、清水。
「……で、だ。何で、トドメを刺さないんだ?」
「これが殺し合いなら、無論そうしたのですが……貴方は、喧嘩がしたかっただけのようですので」
「…………」
 アホかテメェは、と言いたそうな眼で、ハロルドは清水を見た。
「ところで、1つ確認したい事があるのですが。先日、屋敷から如意宝珠を奪ったのは貴方でしょう?」
「そうだが……何で分かる?」
「1人も、死者が出ていなかったので」
 ケッ、とハロルドは吐き捨てる。
「……オレは他の連中とは違って、生前から殺し殺されの世界にいた訳じゃねえからな」
「…………」
「ま、どうでもいいや。何にしても急いだ方がいいぞ。時間切れが近い」
「しかし……手負いの私では、御嬢様の加勢は出来そうにありませんね」
「だったらゾンビにでも備えとけ。この旅館から出さないように、精々頑張るんだな」
「ええ、そうしましょうか。では、いずれまた」
 歩き去る清水の背中を、見送るハロルド。
「…………」
 巡航ミサイルの事を話さなかったな、と思い返す。
「……別にいいか、教える義理はねえし。勝手に何とかして貰おう」
 首だけを動かし、ハロルドは廊下の向こうに眼をやった。
「さて、あっちはどうなったかな――?」



 ――刹那の交錯。
 床板を砕く踏み込みと共に、茨木とヴィンセントは敵を仕留めようと得物を振るった。
「く……ッ!!?」
 だが、相手に届いたのはヴィンセントの刀のみ。茨木の拳は、ヴィンセントに掠りさえしない。
「無駄だ。君では、私には届かん」
 狂ったかの如く、刃が次々と茨木を襲う。
 ギリギリのタイミングで、メリケンサックで防ぐ茨木。これがなかったら、とっくに真っ二つになっていただろう。
「……ッ!!」
 確かに、茨木はヴィンセントには届かない。それは、この闘いで嫌というほど理解した。
 しかし――
「だからって、敗ける訳にはいかないんですぅ……ッ!」
 向かって来る刃。
 それを、ヴィンセントの身体ごと殴り飛ばす。
「ぐ……!?」
「――はぁッ!!」
 後退したヴィンセントに、さらに一撃。
 だがそれは――身体を僅かに逸らされた事によって、躱された。
「……攻撃が単調過ぎる。それでは、避けられて当然だ」
 刀が振られる。
「……っ!!」
 茨木はそれを受け止めたが、勢いを殺し切れずボールのように飛ばされた。
「くぅ……!?」
「京の都を恐怖に陥れた、鬼の一柱。力はあるが、それだけでは小賢しい人間には勝てまい」
「……そうですよ。だから私達は滅ぼされたんですぅ」
 痛む身体に無理を強いて、どうにか立ち上がる茨木。
「……貴方は、御嬢様の御両親を殺した人だそうですけど……ホントですか?」
「ああ。憎いのかね?」
「いえ、ちっとも。私は、今の代から仕え始めた身ですから」
「…………」
「一騎当千と謳われた、渡辺夫婦。それすらも破った貴方から見て……御嬢様は、倉橋舞緒に勝てると思いますか?」
 少しの間、ヴィンセントは黙る。
「舞緒の力は、渡辺麗衣を遥かに上回る。私に言える事はそれだけだ」
「……ふふ。勝てない、とは言いませんでしたねぇ」
 ヴィンセントは、前に斬り落とされた腕を撫でた。
「力の差は歴然。勝算はゼロ。それでも――舞緒側の貴方ですら、御嬢様が勝利する可能性を考えてしまっている」
「…………」
「さて、何故だと思いますか?」
「……何が言いたい?」
「簡単な、事ですよ――」
 茨木の姿が、消える。
「今の、御嬢様は強いです。力の差とか勝算とか、そういう事とは関係のない部分で」
「――ッッ!!!?」
 背後から聞こえて来た声に、ヴィンセントは素早く刀を向けた。
 しかし――茨木の拳が突き刺さる方が、早い。
「が……ッ!!?」
「魂が強いのですよ。どっかの誰かさんのせいで、そうなったんですぅ」
 茨木はヴィンセントの顔を掴み、後頭部を床に打ち付ける。
「ぐ、何……!?」
「そしてそれは、多分私も同じなんでしょうねぇ」
 腕を引き剥がし、茨木との距離を取るヴィンセント。
「……攻撃のレヴェルが、つい先程と比べても2段階は上がっている。何だ?」
「別に。ただ、つまらない事に気付いたんですよ」
 茨木が、ヴィンセントに歩み寄る。
「御嬢様は、倉橋舞緒を斃します。異議は認めません。これは絶対です」
「…………」
「でも私は――そんな御嬢様をやっつけて、月見さんを奪い取らないといけないんですぅ」
 ――瞬間。
 茨木は眼にも留まらぬスピードで間合いを詰め、ヴィンセントの身体に一発打ち込んだ。
「だから、貴方如きに敗けてる場合じゃないんですよ」
「が、ぁぐッッ!!!?」
「不思議なもので……それを考えると、力が湧くんですぅ」
 逃げるように、茨木から離れるヴィンセント。
 茨木は、再び追い詰めようとするが――
「――っ!?」
 放たれた斬撃によって、足を止めた。
「…………」
 茨木の衣服が、僅かに斬れる。まだ、ヴィンセントの間合いには入っていなかったにも関わらず。
「敗けられん。私は、敗けられんのだ……ッ!!」
「……国のため、でしたっけ。自国を、得体の知れない新興宗教の教祖に任せるのはどうかと思うんですが」
「好きなように言うがいい。私には、力がないのだよ。どんな政策を立てても、国民全てを満たす事が出来ない」
「…………」
 そんな事、この世の誰にも出来ないですよ――と茨木は言いそうになったが、結局は言わなかった。そんな事は、恐らくヴィンセント自身が1番よく分かっている。
 ……分かっていても、譲れないのだろう。
「だが、私もいい大人だ。出来ないからと言って、己の役目を投げ出す訳にはいかない。悪魔に魂を売り渡してでも――出来る事をしなければならないのだよ!」
 振り下ろされる、刀。
 茨木は――それを、避けなかった。
「……っ!!」
 刃が、腕に喰い込む。
「――くッ!!?」
 ヴィンセントは、あえて攻撃を受けた茨木の狙いに気付いた。
 ……茨木の腕は、鬼の腕。
 いくらヴィンセントでも、一息で落とせる物ではない。そしてそれは、大きな隙となる。
 刀が肉を斬り、骨を断つ。斬撃が、茨木の腕を落とした瞬間。
「――はぁぁぁぁぁッッ!!!!」
 茨木の、もう片方の拳が――ヴィンセントの身体を、貫いた。



「……私は、敗けたのか」
 壁に背中を預け、ヴィンセントは言った。
 しばらくすると立っていられなくなったのか、その場に座り込む。
 ……壁には、べっとりと血の跡。
「ええ、貴方は敗けました」
「……そうか」
 返事は、端的な一言だけ。
「未練が、ありますか?」
「ない訳がない。だが……仕方ないな」
 ヴィンセントは天井を見上げ、弱く長く、息を吐く。
「君の腕を、かの渡辺綱のように斬り落としたのだ。武人の端くれとしてこれ以上の冥土の土産はあるまい。地獄の悪鬼羅刹どもに、自慢するとしよう」
 そして、瞳を閉じた。
「ああ……久し振りに、ゆっくりと眠れるな――……」
 ヴィンセントの身体が、塵となって消える。『SunFall No.13』と刻まれたプレートが、床に落ちた。
「…………」
 茨木は踵を返し、走り去って行く。



 ――麒麟の間。
「あぁ……あッッ!!!?」
 舞緒の攻撃を受け、麗衣は悲鳴を上げた。
 弾き飛ばされ、畳の上を転がるが――その回転を逆に利用し、起き上がる。
「……不可解ですね」
 力の差は埋まらない。それは、血塗れの麗衣と無傷の舞緒が、何よりも証明している。
 ――なのに。何故未だ、麗衣は斃れていないのか。
 舞緒が手を抜いている訳ではない。彼女は、本気で麗衣を殺そうとしている。
「…………」
 考えても、答えは出ない。
「宣言しましょう――」
 なので、出力を上げて粉々にする事にした。
「――この一撃は、『必殺』です」
 日の烏と月の兎を表す、2枚の鉄扇。
 森羅万象を司るそれに、凶暴な力が渦巻く。
「奇一奇一たちまち雲霞を結ぶ、宇内八方ごほうちょうなん、たちまちきゅうせんを貫き、玄都に達し、太一真君に感ず、奇一奇一たちまち感通、如律令――」
 舞緒が見せるは、至極優美なる扇踊り。神々に奉納する舞である。
「……あ」
 麗衣さえも全てを忘れ、それに見入ってしまう。
 そして――
「天烏天兎扇――『日月輪不易の雅』」
 舞が終曲。
 さらに麗衣の命をも終曲させようと、恐るべき咒の奔流が麗衣を包む。
「……っ!!!?」
 それはさながら、雪崩か洪水か。人如きでは対抗する術のない天災が、ちっぽけな麗衣の命を呑み込んでゆく。
 しかし、暴力の塊でありながら――舞緒を中心として破壊が広がって行く様は、まるで巨大な花が開くかのようだった。
 ……余りにも美しい、絶望の形。
 麒麟の間は崩壊。それだけでは治まらず、周囲の廊下や小部屋を粉砕し、上の黄龍の間をも消滅させた。
 残ったのは瓦礫の山と、その只中にありながらも傷1つない舞緒。
「――……」
 顔を上げる。屋根がなくなったため、夜空を見る事が出来た。
 月が隠れた、暗い空。
「……さて。タイム・アップですね」



 戦闘開始より、1時間が経過。
 ……旅館の奥底から、死者が溢れ出す。



 旅館の庭へと、ゾンビの群れが進行する。
 ……その数は、まさしく雲霞の如く。
「は……っ!!」
 清水は残る力を振り絞り、ゾンビを蹴り砕く。
「――清水さん!」
 庭に跳び出し、走り寄って来る茨木。
「お互い、無事だったみたいですねぇ」
「そのようですね。……しかし、その腕は……?」
 茨木は苦笑しながら、頬をかく。
「さっき、斬り落とされちゃいまして。何とかくっ付けたんですけど……力は、治療前のものに戻ってしまいました」
「そうですか……」
 ふたりは話しながらも、ゾンビを潰す。
 だが……数が、多過ぎる。
「く……茨木さん、反対側に回ってください。あちらも、押さえなければなりません」
「でも、お互い手負いの身でこの数を相手するのは……」
「ええ、厳しいでしょう。ですが、そんな事は言ってられません」
「……分かりましたですぅ」
 茨木が、走り去る。
 清水はそれを見送ると、
「……御嬢様、急いでくださいよ」
 ゾンビの群れの中に、跳び込んだ。



 ――同時刻。
「くそ、数が多い……ッ!」
 渡辺家の屋敷にも、大量のゾンビが現れていた。
 武装メイドはいない。彼女達は強力だが、もはやこれは彼女達の手に負える闘いではない。
 よって、屋敷を護っているのは花音ひとり。
 ……彼女にとっては、屋敷などどうでもいいのだが。花音にとって護るべきものは、背後の扉の奥で眠っている匠哉である。
 窓を開き、玄関から進入しようとするゾンビを生弓矢で狙撃。数体をまとめて吹き飛ばす。
「……信じられんな。これだけの数のゾンビを、舞緒は1人で操っているのか」
 そしてそれは、未だに舞緒が斃れていない事も意味している。
「く、あの無能が……ッッ!!」
 麗衣に毒づきながら、花音は絶え間なく矢を放つ。
 舞緒が斃れれば、彼女が操っているこのゾンビどもも消滅する。ソフィアを斃した時、彼女が引き連れていたゾンビが残らず塵と化したように。
 だが……花音も、舞緒によって甦った死者である事は変わらない。なら舞緒が斃れた時、ゾンビと同じように花音も――
「……ッ!!」
 想像を、頭の中から振り払う。
「幽世の大神、憐れみ給い恵み給え、幸魂奇魂、守り給い幸い給え……!」
 休む事なく、玄関のゾンビどもを射る。
 ……しかし敵は、玄関から入るだけではない。ある者は裏口から、またある者は壁を登り窓から入り込んで来る。
(――窓ッ!!?)
 花音は、後ろの扉を蹴り破った。
 部屋の中には、眠っている匠哉。そして――窓を破り、部屋に入ろうとしている1体のゾンビ。
「チィッ!!」
 舌打ちと共に窓に矢を射ち、そのゾンビを下に落とす。
 ……減る様子のない、ゾンビの群れ。
 そして、さらに――
「――ほう、なかなか頑張っているではないか」
 最悪の存在が、姿を現した。
「……馬鹿な」
 振り返った花音は、己の眼を疑う。
「其方は死んだはずだ、とでも言うつもりか? やれやれ、所詮死を越えても人間は人間。その程度の浅知恵が精々よな」
 そこに立っていたのは、極東七天狐の一柱――鈴蘭御前。
「……死を越えても。そうか、其方は」
「元より、サンフォールは死者を甦らせるのが生業であろう? 肉体が不可欠のようだが、我が肉体などとうの昔に滅んでいる故、何の関係もない」
「…………」
 花音は、鈴蘭に矢を向ける。
「ほう、闘うか。如意宝珠などなくとも、其方に遅れを取る妾ではないぞ?」
「やってみなければ分かるまい」
「よく言った。地獄で後悔するがいい」
 花音が、弓を引き絞る。
 だが、矢が放たれるよりも速く――鈴蘭の尾の1本が、花音の手から生弓矢を弾き飛ばした。
 さらに、別の尾が花音の身体を薙ぎ倒す。
「ぐぁ……ッッ!!!?」
「ふははははははッッ!! どうしたどうした、倒れるのが早いではないか下等生物! その程度では、敗けてやる事すら出来んぞ?」
 複数の尾が花音の身体に巻き付き、彼女の身動きが奪う。
「く……!!?」
「しばらく大人しくしておれ。さすがの妾も、其方を滅ぼす事は出来ぬからな。まずは――そこの小僧からだ」
「……ッ!!!?」
 いつの間に入って来たのか、数体のゾンビがのろのろと匠哉へ近付いて行く。
「この小僧には世話になった。褒美に、妾に必要な心臓以外はこの死体どもの餌にしてくれよう」
「……な……ッ!! 止めろ、それだけは……ッ!!」
「ん? ああ、それはさすがに無慈悲が過ぎるか。よし、首だけは残しておいてやる。感謝しろ、ははははははは……ッッ!!!!」
「貴様ぁぁぁぁ……ッッ!!!!」
「やれやれ、喧しいな。其方、他人の事を心配出来る立場ではあるまい?」
 尾が花音の口を抉じ開け、中に入り込む。
「っう……ッッ!!?」
「静かにしていろ。そこで、小僧が喰われるのを見物するがよい」
 ゾンビが――匠哉の寝ているベッドに、腐った手をかけた。






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