「上手くいきましたね、御嬢様」 「ええ、イメージ通りですわ」 助手席に乗り込んだ御嬢様が、俺の言葉に答える。星丘大橋突破作戦は、見事成功だ。 「……それにしても。今更このような事を言っても仕方ないのですけれど……貴方、車の運転が出来ましたのね」 「はい。車があると、色々と便利なので」 逃げる時とか。 「……まぁ、深くは追求しませんわ。ところで月見さん、貴方は何歳なんですの?」 「17歳です」 ノー・ライセンス。 「……失礼ですが、御嬢様はお幾つなのですか?」 「…………」 黙秘権か。同じ穴の狢と見た。 まぁ、大丈夫なのだろう。もの凄い速度で車を走らせているのに、警察が追って来る気配はない。 恐らくは、さっき御嬢様が携帯でどこかにかけた電話がその理由。……まったく、法の通じぬ世界である。 「ところで御嬢様。さっき、あの男を斬ろうとした時に――」 「真言を唱えなかった事が気になる、ですの?」 「……はい」 連中を斬るには、孔雀明王の力を借りないといけないはずなのだが。 「孔雀明王真言なら、髭切の茎に刻み込んでおきましたわ。例えサンフォールの不死者が相手でも、斬るだけで致命傷を与える事が出来ますわよ」 「……なるほど。さすがです、御嬢様」 用意周到だ。 しばらく、そんな話をしながら走った後に―― 「……御嬢様」 「ええ」 棺桶を背負った、巫女さんの後姿が見えた。 車を停め、俺と御嬢様は歩道に降りる。 「……何が鉄壁だ、あの役立たずが」 花音は背を向けたまま、そんな事を口にした。 そして――棺桶を下ろし、こちらに振り向く。 「……ほう、其方は先程の」 「月見マナと申します。不思議な縁ですね」 「まったくだな、マナとやら」 「……お願いがあります、花音様。出来れば、姓の方で呼んで頂きたいのですが」 「む……? よく分からんが、必要ならその通りにしよう」 花音は、御嬢様に眼を向ける。 「初めましてだな、渡辺の娘。一応、用件を聞いておこうか」 「……1度だけ言いますわ。その棺桶を、こちらに渡しなさい」 「断る。これでも某は組織の一員だ、己の責務は果たさなければな」 交渉は、決裂。 とは言え、元より交渉で終わらせるつもりなどなかったのだろう。花音は、すでに周囲の人払いを済ませていた。 「――……」 ……空気が、凍る。 花音の視線を受けると、身体が動かなくなるかのようだ。 邪視の類……いや、違う。これはただ単に、俺が相手の殺気に震え上がっているだけだ。 「――出ろ」 花音が、爪先で棺桶を蹴った。 「やれやれ……まだ日が高いと言うのに。人遣いが荒い女性だ」 ……棺桶が、開く。 死臭が、中から吹き出して来る。 「私が跳梁していた頃の女性は、絹のような悲鳴を上げる弱々しくも可愛らしい存在だったのだが。まったく、世も変わったものだ」 棺桶の中で立ち上がる、顔色の悪い伊達男。赤い裏地の黒マントを纏った、闇の貴族。 「某に淑女の嗜みを期待する方が間違っている。蛇に龍の威厳を期待するのと同じだ」 「ははっ、それは確かに。……さて。少々遅いが、朝食を頂くとしよう」 「目の前の女2人だ。其方の好みに合うかは知らんがな」 「いやいや、十分。いつの時代でも、追い詰められた女性は美しい」 男が、棺桶から足を踏み出す。 ……俺は、この男を知っている。 串刺し公。竜の息子。ヴァラキアの英雄。 「……伯爵」 俺の呟きに、応えるように――伯爵は笑う。 「前に出ろ。某は後ろからやる」 「――御意に」 伯爵が、スッと進んで来る。 同時に、花音の手にはあの弓矢が現れた。 ……迫り来る数トンの鉄塊を一矢にして止めた、神秘の弓矢。 花音は御嬢様に向けて、矢を番え弓を引き絞る。 「――死力を尽くせ。さすれば、即死は避けられるであろう……!」 御嬢様が跳ぶ。それは、ほとんど本能的な事だったのだろう。 一瞬後に放たれた光速の矢は、御嬢様が立っていたコンクリの地面を、まるで飴か何かのように穿ち砕く。 「……な」 砕かれたコンクリの破片は、真っ赤に焼けて煙を出している。……少しでも遅ければ、御嬢様がああなっていたのか。 「くっ……その弓矢は――!?」 「――『生弓矢』。大国主神が須佐之男命より得た、神器の1つだ」 伊邪那美命への信仰を体現した巫女は、己の得物の正体を語った。 「余所見をしている余裕があるのか?」 伯爵が、俺に言う。 「……ッ」 緊張で死にそうだ。俺の眼の前に立っている化物は、誰だって知っている恐怖の主なのだから。 伯爵は刃物を取り出し、己の首を掻き切る。 今までに吸った人血の全てを出すかのような勢いで、血が流れてゆく。 しかし、血は地面に落ちる事なく――伯爵の周りの空間を浮遊していた。 「――では、遊戯に耽るとしよう」 血が、俺に向かって飛ぶ。 アルビオンの水剣と同じだ。極限まで収束した水圧は、どんな物であろうと容易く切り裂く。 俺は―― 「そう簡単には、やられません――!」 飛来した血を、持っていた布包みで弾いた。 「ほう……?」 伯爵は興味深そうに、布包みを見る。 俺は、包みを解く。中から現れたのは――草薙剣。 「なっ……草薙だと!!?」 花音が驚愕する。 「――……」 御嬢様も、草薙を見て絶句。 だが……俺に、それを気にしていられる余裕はない。 「――草薙剣、か。卑しい吸血鬼にとって、太陽に奉げられた剣は天敵というべきモノ」 伯爵は、犬歯を見せて笑う。 「とは言え、今の私は太陽堕としの使い魔だ。恐ろしいが、戦わない訳にはゆかぬであろうな」 「……よく言いますね。600年も生きていれば、もはや太陽など恐れはしないでしょう」 「いやいや、600年程度ではまだまだ若造。神代より存在する有象無象の化物どもにとっては、私など赤子同然よ」 伯爵は、こちらに掌を向け―― 「まぁ生きてるだけの年寄りなど、赤子の私にすら劣るであろうが」 血の刃を、俺に向けて放った。 「く……ッ」 こんなモノ、瀬利花の剣に比べれば……! 「はぁ……!」 次々と飛んで来る血を避ける。あるいは、草薙で弾いて防ぐ。 しかし、いくら武器化していても血は元々液体だ。剣などするりと抜けて、俺を切り刻む事も出来るはず。 ……伯爵がそれをしないのは、まだ遊んでいるからか。 ま、それは好都合だ――! 「殺った……ッ!!」 血を弾いてから、次の血が放たれるまでの短い時間。短いが、俺が間合いを詰めるには十分過ぎる。 一気に接近した俺は、その心臓を草薙で貫こうとして―― 「――な!!?」 伯爵を護るように集まった血に、その切っ先を止められた。 攻撃が防がれたとなると……この距離は、まずい。 「――若いな」 血が、俺に襲いかかる。どうにか草薙で受け止めるも、衝撃で元の位置まで弾き戻された。 「……草薙で、貫けない……?」 「この血は今までに私が吸い殺した、星の数の如き人間達そのもの。いくら神剣と言えども、重ね合わせた数多の命を、一息で貫く事など出来まい」 ……そう言えば、聞いた事があるな。『血』は『霊』であると。 そんなモノを、山ほど盾にしているのか。 「私の国は小国であったが、それ故に大国から狙われた。戦ともなれば、数え切れないほど敵を殺し、血を流させた」 「それを全て呑み込んだのですか、貴方は」 「敵を貫くのは武器。それを使うのは兵。だが――敵を殺すのは、王である私の意思だ。ならば、その全てを背負うのは当然である」 「……貴方の国は、もう存在しません。今では、ルーマニアの一地方でしかないのです」 「承知している。私がヴァラキアの貴族達によって暗殺された後、あのオスマン・トルコの属国となった事もな」 「…………」 「しかし、私は今もこうして存在している。人々は、化物としての私を願ったのだ。暴君とは言え王だった身。心が悲鳴を上げようと、民の願いには応えねばならぬであろう?」 ……血が、新たな形へと変化してゆく。 「私に退路はない。この修羅道を、ただ這い進むしかないのだよ」 それは視界を埋め尽くすほどの、大量の杭。 全ての杭の切っ先が……俺へと、向けられる。 「――『トゥルゴヴィシテの処刑場』。大人しく、血塗れとなるがいい」 「吐普加美依身多女、寒言神尊利根陀見、波羅伊玉意喜餘目出玉……!」 放たれる矢。 「く――ッ!」 麗衣はそれを、紙一重で回避する。 躱し、躱し、躱し……躱し切れぬ一矢を、太刀で弾く。 太刀を手放しそうになるほどの衝撃に耐え、麗衣は花音を睨む。 「――頑張るな。だが、その努力は実らぬ。分かっておろう?」 「…………」 「其方は、そうやって逃げる事しか出来ていない。太刀と弓矢の間合いの差は、いかに達人としても埋まらぬ」 「……減らず口を。なら、隙をついて間合いを詰めればよいだけの事ですわ」 「隙を作るほど未熟ではない。それに、例え一間まで詰められようと、某は矢を射る事が出来る」 再び、花音は矢を射る。 花音の矢は、もはや連射と言ってよい速度。八節など知らぬとばかりに、雨霰の如く矢を射ち込んでゆく。 「……ッ!!」 麗衣は、矢を斬り払う。 あの矢に、『残数』という概念は存在しない。花音が闘いを続ける限り尽きる事はないと、麗衣は理解した。 「だが、心意気は見事。進めずとも決して退かぬその気概、愚鈍だが見応えはある」 「はぁ、はぁ――……お褒めに与り、光栄ですわ……お返しに、極上の滅びを差し上げます」 「ふふ、それは楽しみだ」 すでに麗衣は、百に近い矢を避け、防いでいる。蓄積した疲れは、呼吸の乱れとして表れていた。 対して花音は立ち位置すら変えぬまま、涼しげな顔。元より生ける死体である彼女は、体力も人間とは桁が違う。 そして、疲労しているのは麗衣自身だけではない。彼女の手にある髭切も、限界が近い。 髭切は類稀なる霊剣だが、所詮は人の武具。神の武具である生弓矢には、遠く及ばないのだ。 ……これ以上矢を弾けば、いつ折れてもおかしくはない。 (こんな所で、足止めをされる訳には――……!) 今も視界の先では、伯爵と月見マナの闘いが続いている。草薙と逃げ足のおかげでどうにか拮抗しているようだが、それもいつまで持つかは分からない。 麗衣が、月見マナの元に駆け付けるには……眼前の花音を、打倒する事が必要である。 ――矢が風を切りながら、麗衣を襲う。 「……ッ!」 武器の差。そして何より、使い手の実力差。 麗衣と花音の能力には、大きな開きがある。 それでも、敵を斃さねばならないのなら―― 「――髭切、耐えなさい」 麗衣は、前に進んだ。 迎え撃つ、神の矢。 避けるべきそれを、 「――はぁ!!」 麗衣は、迷わず斬り払った。 「ほう……!」 花音が、感心したような声を漏らす。 避ければ、また距離が広がる。それではいつまで経っても勝利は遠い。 玉砕覚悟で進む事を、麗衣は選択したのだ。 「しかし――」 矢継ぎ早、とはまさにこの事か。 機関銃のような、矢の連射。しかし麗衣はそれを上回る数の斬撃で、少しずつ、確実に間合いを縮めてゆく。 ……だが、それはあまりにも無謀。トラックを止めるほどの威力を誇る矢を正面から何発も受け止めるなど、人間に耐えられる事ではない。 「う……ぁあ……っ!!!」 「――どうして、そこまでする? その賭け、何か勝算があるのか?」 麗衣はその問いに、 「ありません……しかし私は、誇りを賭けて闘っています。ならば、勝算なくとも退きはしませんわ……!!」 そう、叫び返した。 麗衣の手から、血が落ちる。髭切を手放さないためにその柄を強く握り締めた掌は、皮膚が破れて真っ赤になっていた。 「……なるほどな。綱の末裔が私のような死鬼を相手に、退く道理はないという訳か」 手だけではない。身体中の筋肉は、とうに断裂。骨もあちこちが折れており、内臓も怪しい。 解剖学的に見て、動くはずのない身体。そして、もはや折れる寸前の太刀。 それ等を総動員し、血を吐きながら麗衣は進む。 ――それでも。 「残念だ。討つのは惜しいな」 花音には、届かなかった。 「神代、日神・素盞鳴尊、剣玉盟誓ノ時、剣ヲ真名井ニ振濯、サカミニカミテ吹棄気吹ノ狭霧ニ、神霊ノ現レ玉フノ道理・事相ヲ能思奉ベシ――」 弓が、引き絞られる。 「天・地・元・妙・行・神・變・通・力……!」 渾身の力を込め、放たれた一矢。 「ぁ――ッッ!!!?」 ……その一撃は、麗衣の手から髭切を弾き飛ばした。 ――15世紀。 今で言うルーマニアの地に、ヴァラキア公国という小国があった。 当時、この国は侵略の危機に瀕していた。相手は、かのオスマン・トルコ帝国。ヴァラキアがトルコに奉納金を支払わなかったため、攻め込んできたのだ。 トルコを率いる皇帝は、征服王と呼ばれたメフメト2世。ハンガリィは援軍を約束していたが、1人たりとも送られては来ない。 絶望的な状況。ヴァラキアが征服されるのは、時間の問題だと誰もが思っていた。 ……しかし。王は、諦めなかった。 ヴァラキア軍は初戦こそ敗北したが、後は地の利を生かし、互角かそれ以上に戦った。 さらに、トルコ軍をヴァラキアの奥地に誘い込み、夜襲を仕掛けた。 その夜襲によって大打撃を受けたトルコ軍は、首都近郊の都市――トゥルゴヴィシテまで退却する。 ――そこで、トルコ軍が見たモノは。 串刺しにされた、2万人ものトルコ人。それはまさしく、死の平野だった。 この処刑場を見たトルコ軍は、著しく士気を喪失。さらに、追い討ちの夜襲を受け――ついに、トルコは小国ヴァラキアに敗れ去った。 王の心が、大国を討ち破ったのだ。 その偉大なるヴァラキア王の名は――ヴラド・ツェペシュ・ドラキュラ。 ……後に英国を脅かす吸血鬼の、生前の名である。 かつてのヴァラキア王は、無数の杭を俺に向けた。 「私がトゥルゴヴィシテで殺したトルコ人どもの血より作り出した、2万を越える杭。その全て、防げるかな?」 ……これは、防げないと思ってる言い方だ。 「防ぎます。それに、背を見せれば殺されるだけでしょう?」 「……では――」 1本の杭が、動く。 「――串刺しの刑だ!」 杭は、弾丸のような速度で撃ち出された。 人間より作られた処刑の杭は、俺を仲間にしようと一直線に襲いかかる。 ……肉眼で、捉えられる速さではない。俺はほとんど条件反射で、どうにか躱していた。 草薙で弾く、という選択肢は捨てた。あのサイズのモノを剣で受け止めるなんて、俺には出来っこない。 ――2発目が来る。それも、何とか避けた。 「く……ッ!」 ……こんな事が、いつまでも続けられるとは思えない。 1本ずつ来るなら何とかなるかも知れないが、視界に存在する全ての杭が1度に降り注げば、俺に逃れる術はないのだ。 ……いや。例え1本ずつでも、俺の体力は無限じゃない。いつかは殺られるだろう。 まぁ、それよりも。 (どうして俺は、草薙を握り締めている?) 防御に使えないなら、剣なんて重いだけだ。さっさと手放して、身軽になった方がいい。 なのに、俺の手は草薙を放さない。まるで草薙が放すなと言っているかのように、俺は柄を握り続ける。 ……この剣は、俺に何をさせたいんだ? 「ならば、次のステップに移ろう! ――『二重葬』!」 「な……ッ!?」 杭が、2本同時に飛ぶ。 1本だったモノが、2本。単純に、避ける難易度は2倍となる。 「チィ……ッ!」 走ると言うより、ほとんど転げ回ってるみたいなものだ。避けるのに必死で、他の事は何も出来ない。 ……俺が八十禍津日のように草薙を使えれば、これくらいは簡単に防げるのに……! 「――『三重葬』!」 今度は、3本。 もはや、避けるのも不可能。俺は思わず、草薙を盾にして防いでしまった。 「うぁぁッ!!!?」 杭が着弾した衝撃で、俺は地面に叩き付けられる。そのまま数メートルくらいコンクリの上を滑って、ようやく止まった。 「ふむ、ここで限界か。なら終焉だ――『四重葬』」 ……倒れた状態じゃ、何の抵抗も出来ない。 ヒュン、と音がして、俺の頭の横に髭切が突き立った。 眼を向けると……御嬢様は、今にも斃れそうなほどボロボロだった。 しかし、まったく闘志は消えていないようだったが。 髭切も、御嬢様と同じくボロボロだ。だが、それでも……御嬢様の心と同じく、折れてはいない。 ま、そりゃそうか。鬼の腕すら斬り落とした業物が、こんな事くらいで―― (……待てよ?) 髭切、か。草薙が、この太刀と同じだとしたら。 ……何とか、なるかも知れない。 俺に向かって殺到する、4本の杭を―― 「力を貸してください、『天叢雲剣』」 剣で、まとめて斬り払った。 「何……!?」 伯爵の、疑念に満ちた声。 俺が、杭を弾いた事もそうだが――いきなり剣の威圧感が変わった事も、驚きの原因だろう。 「な――ッ!!!?」 御嬢様と花音も、こちらに眼を向けた。 当然だ。今の神剣の神気は、天地全てを包み込むほどに膨れ上がっているのだから。 「……っと」 俺は、その場に立ち上がる。 「……御嬢様の愛剣――髭切は、歴史上何度か名を変えています」 そして、何が起こっているのか分かってない面々に、説明する事にした。 「この太刀の持ち主は、皆その力によって護られていましたが――何故か源為義は伊豆に流されて死んでしまい、その息子であり、太刀を為義から譲られた義朝も、朝敵として追われてしまいました」 さてさて、それはどうしてなのか。 「ある夜、義朝の夢に八幡大菩薩が現れ、こう告げたそうです。その太刀は、何度も名を変えたから力を失ったのだ――と。その御告げによって太刀の名は髭切に戻され、義朝の息子である頼朝は、天下を取る事となったのです」 「……!」 ここまで話すと、どうやら皆気付き始めたっぽいな。 「――この神剣も、1度名を変えています。草薙剣という名は、火攻めに遭った日本武尊が、草を薙いで危機を脱した逸話から付けられた名ですから」 ならば髭切と同じく、この剣にも元の名がある。 「……かの八岐大蛇の頭上には、いつも雲がかかっていたといいます。また、この剣を鍛えた天目一箇命は暴風雨の神だとも。故にこの神剣は――天叢雲剣、という名なのです」 すでに頭上には雲がかかり、雨風が起こり始めている。名は体を表し、元の力が甦ったのだ。 あっという間に、この場は暴風雨に包まれた。天叢雲を持っている俺は、台風の目のように濡れてさえいないが。 ……まったく、たかが名前を戻しただけでこれほどとは。ま、言霊なんてモノの存在が、普通だった時代の産物だからな。 「ぐぅ……!」 伯爵が呻いた。 雨は、彼の武器である血を、容赦なく洗い流してゆく。 「……なるほど、これは素晴らしい」 武器を失った伯爵は、楽しげに笑い―― 「――決着を突けよう」 俺に向かって、突っ込んで来た。 ありがたい。一般人である俺が伯爵とまともに闘って、勝ち目などあるはずなかったのだ。 だが――向かって来るなら、それを迎え撃つだけでよい。 「日本武尊はこの剣を持たずに戦ったために、伊吹山の蛇神に敗れました」 それは、逆に言えば。 「つまり……剣が手に在る限り、私の勝利は必定なのです」 伯爵の一撃。 それを躱し――カウンターで、天叢雲を伯爵の心臓に突き刺した。 「……フフ。私の、敗けか」 伯爵が、俺から離れる。 ……身体が灰となり、サラサラと崩れてゆく。 何も語らず。人に仇なす化物として、伯爵は消滅する。 ただ、最後に見えた顔は――全てに疲れ果てた、老王の顔だった。 「……チッ」 舌打ちと共に、花音は俺達に背を向ける。 「……貴方?」 「某の仕事は、伯爵を運ぶ事だ。それが果たせなくなった以上、其方等と闘う理由はない」 花音は顔だけで振り返り、 「それとも、まだ続けるか? その首、獲って帰ってもよいのだぞ?」 ゾッとするような声で、そう言った。 「……っ」 俺と御嬢様は、気圧されて何も出来ない。 「……その草薙剣は、我が神社の祭神――八岐大蛇の体内より奪われたモノだ」 花音が『草薙剣』と口にしただけで、名前が再び変更され、剣の力が封じられる。くそっ、剣の持ち主でもないのに……何て言霊だよ。 「大明神は伊吹山で日本武尊を殺し、さらには安徳天皇に転生する事によって、壇ノ浦にてついに剣を取り返した」 「…………」 「それが何故、其方の手にあるのかは問わん」 花音は冷たい眼で俺を見て、 「だがいずれ、この谷川花音が――其方から剣を取り返し、大明神に奉納する」 同じくらい冷たい言葉を残し、去って行った。 ――退くぞ、役立たず。 「……ッ!?」 ハロルドの頭の中に、花音の声が響き渡る。 「退くって……カノンの奴、敗けやがった……!」 ハロルドは舌打ちし、 「だから徒歩は止めろと、車を使えと言ったんだ! 自動車に乗れば車酔い、テレヴィを見れば混乱する、電子レンジには猫を入れる……文明の機器と相性が悪いにもほどがあるぞ、原始人かあの女はッ!!」 一通りの、文句を叫んだ。 そして、清水と茨木に眼を向ける。 「……どうやらオレ達の敗けみてえだ。もう闘う理由はなくなったから、帰らせてもらうぞ」 「な……」 当然、ふたりがそれを認めるはずはない。 「行かせはしません……!」 「逃がしませんですぅッ!!」 ふたりは、ハロルドを追おうとするが、 「――ッ!!?」 川の中から橋の上に、数体のゾンビが跳び上がって来た。ゾンビ達は、清水と茨木の前に立ち塞がる。 ふたりが、それ等を全滅させた時には。 「……逃がして、しまいましたか」 「はい……」 ハロルドの姿は、どこにもなかった。 「……ところで御嬢様、御身体は大丈夫なのですか?」 「ええ、大した怪我ではありませんわ」 いや、俺の眼には瀕死の重傷にしか見えないんだが。 「これくらい、呼吸を整えて安静にしていれば、すぐに治りますもの」 ……当たり前のように言っている辺り、ホントの事っぽい。 「問題は私の身体より、こちらですわね……」 御嬢様は、髭切を手に取る。 あちこちで刃が欠け、刀身には何本もヒビが入っている。よく折れなかったよなぁ。 「これはもう、研ぎ直せばよいレヴェルではありませんわ……」 御嬢様は、困ったように溜息。 「あの、御嬢様。よければ、腕のいい職人を紹介しますが」 「……え?」 俺はクリスティーンから地図を持って来ると、星丘市のページを開く。 「イースト・エリアの……この辺りに、『タルタロスの工房』という店がありまして。そこの店主の鍛冶の腕は、天下一品。髭切も、元以上の出来にまで直す事が出来るでしょう」 何しろ、鍛冶の女神だし。 「タルタロスの工房、って……一つ眼の巨人でも住んでますの?」 「ええ、まぁ。残念ながら巨人ではありませんが」 惜しいよなぁ。巨人だったら、級長に退治してもらうのに。 「……一つ眼である事は否定しませんのね。確認しますけど、腕は確かなんですの?」 「はい。一本ダタラのような方ですから」 つーか、俺にとっては一本ダタラそのものだが。 「……そ、それは、褒め言葉なのかどうなのか……微妙ですわね」 「何度も言うようですが、腕は確かです。腕だけは」 「…………」 何故か、御嬢様はどんどん不安になっている御様子。 「……あ、それと、私の名前は絶対に出さないでください」 あいつに『月見マナ』という名称を知られるのは、色々とまずい気がする。 「……本当に大丈夫なんですの、その方は?」 「ハッキリ言って大丈夫ではありません。しかし彼女以上の凄腕は、この世にはほとんど存在しないでしょう」 御嬢様は嫌そうな顔をしたが、ふと何かに気付いたように、 「……『彼女』? 女性なのですわね……金屋子神は同姓を嫌いますから、鍛冶は男性の仕事だと思っていましたが」 と、呟いた。 ……ま、知らぬが何とやらである。 「御嬢様!」 「御嬢様ぁー!!」 遠くから、清水さんと茨木の声が聞こえた。 どうやら、ふたりも無事だったらしい。 屋敷に帰って。 「どうにか、目的は果たせましたけれども」 御嬢様は苦い顔で、俺達に言う。 「しかしそれは月見さんのおかげであって、私自身は谷川花音に敗けたも同然ですわ」 俺はそうは思わないのだが、そこはプライドとかがあるんだろう。 「私達も、最後まで足止めされてしまいました……」 「……面目ないですぅ」 清水さんと茨木も、申し訳なさそうだ。 ……ハロルド・カーライルか。清水さんと茨木を相手にして、最後まで橋を突破させなかった魔人。何と言うか、俺の想像を絶している。 「まぁ、それはともかく……月見さん」 俺を見て、何故か恥ずかしそうにする御嬢様。 「貴方を、この家に連れ戻したのは……その、お礼を言いたかったからなんですの」 「……え?」 「前の時、お礼を言う間もなく貴方は消えてしまいましたから」 御嬢様は、 「ありがとう。助かりましたわ、月見さん。前回の事も……今回の事も。200万の借金は、帳消しにして差し上げます」 顔を真っ赤にして、言った。 清水さんと茨木が驚いたように、おぉ……と声を漏らす。 ……俺は停止した思考を、必死で再起動させる。 「え、あ、いや……どういたしまして、御嬢様」 俺は、ペコリと頭を下げた。 「……それより、月見さん。花音が、草薙を取り返すと言ってましたけど……」 「ふふ、大丈夫です。御心配には及びません」 例え花音が我が家に攻めて来たとしても、草薙の奪還は絶対に無理なのだ。何故なら――この剣の本当の持ち主は、彼女が祀る神の一柱なのだから。 「……貴方がそう言うのなら、本当に大丈夫なのでしょうね」 御嬢様は、微笑む。 「清水、月見さんを車で送って差し上げなさい」 「はい、御嬢様」 清水さんが、部屋の扉を開く。 ……あ、そっか。俺って今は客人なんだな。こんな服着てるけど。 「では御嬢様、また会う日まで」 「ええ。御機嫌よう、月見さん」 俺は、部屋から出る。 こうして俺と渡辺家の事件は、2度目の終わりを迎えたのだった。 ……2度ある事は3度ある、と言うが。さて、どうなる事やら。
|