――平日の午後。 1台のクラシック・カーが、星丘市を進んで行く。
さて、今日も魔の時刻がやって来た。バイト帰りである。 まさに逢魔ヶ刻。ノルンから家までの距離、月見匠哉にとっては危険な出遭いが満ち溢れているのだ……! だが毎度毎度、作者の都合で苦難に巻き込まれる訳にはいかぬ。よって、今日はとある手段を使う事にした。 「……よし」 コンビニのトイレで、俺は決意する。 ――バックを開くと、いつかの女装道具。 こいつで再び『月見マナ』にチェンジすれば、『月見匠哉』に降りかかる災難は減るはずだ。そして、家の近くで『月見匠哉』へと戻る。ナイスアイディアだぞ俺。 ……ぶっちゃけ自分でも女装はどうかと思うのだが、それだけ俺の状況が切迫している事をご理解願いたい。 化粧をし、カツラを被り、眼鏡をかけ、声を変えた。『月見マナ』――再臨である。 服は……勿論エプロンドレスではない。とは言え男の学生服のままという訳にもいかないので、家から持って来た服に着替える。男物だが、まぁ大丈夫だろう。 1度、鏡を見てみた。 「…………」 思いっ切り凹みそうになったが、何とか耐える。立て、立つんだ俺……! 俺は覚悟を決め、トイレから出た。幸い、周りの人が俺を怪しむ様子はない。 そして、コンビニから出る。ははは、コンビニでカネを使ったりなんかしねえよ。 「ふぅ――……」 外に出ても、怪しむ視線はない。今の俺に、おかしな所はないようだ。 やった。これで、しばらくはトラブルを避けられる。あとは、家の近くのコンビニで着替え直せば――と、その時。 「な、ぬ……ッ!!?」 目の前の歩道を、白衣に緋袴の少女――即ち巫女さんが、歩いていた。 それだけならよい。いやよくはないが、何とかギリギリで許容出来る。 だが……その巫女さんは、背中に棺桶を背負っていた。 巫女装束とはあまりにもミスマッチな、銀色の西洋風棺桶。それを背負って――と言うか身体に縛り付けて、巫女さんは進んで行く。 俺があまりにもその巫女さんを凝視していたのか、 「……あ、ヤバイ……!?」 どうやら、巫女さんは俺に気付いていたらしい。 彼女は歩きとは思えないペースで、俺に近付いてくる。くっ、逃げられねえ……! 「――其方」 巫女さんが、口を開く。 「先程から某を見ているが、某の顔に何か付いているのか?」 ――『某』ッ!? 今時そんな1人称!!? 「い、いえ、何も。申し訳ありません」 しまった、思わずメイド口調。 「……む、そうか。いや、この風体が注目を集めるものだというのは、自分でも分かっているのだが……」 それでも分かっていたのか。 「まったく、ハロルドの阿呆は何処で油を売っているのだ? この異様な棺桶を、某1人で運ばせる気か?」 ダメだ、分かってねえ。異様なのは棺桶だけじゃないんだよ。 「あの……その棺桶、何が入っているのですか?」 恐る恐る、尋ねてみると。 「あん? 棺桶に入ってるモノなど、死体に決まっておろう」 と、当たり前の答えが帰って来た。 まぁ、そりゃそうか。はは……は、はは……。 「しかしまぁ、其方の視線には妙な迫力があったぞ。蛙を睨む蛇のようであった。あれに射抜かれては、天神地祇とて頭を下げよう」 ククク、と笑う巫女さん。 ……冗談のつもりなのだろうが、元禍津神を睨みで土下座させた前科のある俺にとっては、なかなか笑えない話だ。 最近、韋駄天脚と並んで『月天使の邪眼』などという異名まで囁かれるようになった。恥ずかしいから止めて欲しい。 出所は教皇庁。犯人は迅徒かとも思ったが、こういう話を面白おかしく広めるのは……奴だ。 俺が、腹黒シスターへの怒りを燃やしていると。 「――ッ!!?」 ブレーキ音――タイヤの悲鳴が聞こえた。 見ると、トラックがこっちに突っ込んで来ている。 ――一瞬の、出来事。 おそらく、何かの原因でタイヤがパンクしている。ブレーキ音が聞こえるのに止まる様子がないのは、そのせいだろう。 ……道路に鋭利なゴミでも落ちていたのか、それとも積載物の重量オーヴァーか。 「く――ッ!?」 難しいタイミングだ。俺だけなら躱せると思うが……それじゃあ、この巫女さんはどうするッ!? その、彼女は―― 「……へ?」 両手に、弓と矢を出現させた。 そして、矢をトラックに向けて放つ。 ――ガンッ!! と、大音が響いた。 弓に矢を番え、引き絞って放つまでの早さもさる事ながら、真に恐るべきはその威力。 矢を射ち込まれたトラックは完全に運動エネルギィを相殺され、俺達の眼前で止まっていた。 ……運転手が、訳が分からないという様子で唖然としている。あんた、シートベルトしてなかったら慣性でブッ飛んでたぞ。 「えー、あー?」 まぁ、訳が分からないのは俺も同じだが。 「……間一髪であったな」 巫女さんは出した時と同じように弓矢を消し、 「少々、長話が過ぎたようだ。某は行かせてもらうとしよう。では――御免」 その場から、歩き去って言った。 しばらくすると、銀の棺桶が視界から消える。 「……俺、女装しても運の悪さは変わってない?」 色々謎だらけであったが、それだけは確かだった。 ……よく考えてみれば、女装したくらいで運がよくなるはずもなく。 そもそも、『月見マナ』とて『月見匠哉』と同じくらい不幸なのではなかったか。この女装、超絶的に意味がない。 だが、ここまでやったら意地だ。当初の計画通り、作戦を遂行する事にする。 俺が、家に向かって歩いていると。 「……?」 車が俺の横を通り過ぎ、少し先で停車した。 「うわ……」 1958年型の、プリマス・フューリー。格好のよいクラシック・カーである。 配色は、赤と白で綺麗に塗り分けられていた。 「……ダメだ、『クリスティーン』にしか見えねえ」 格好よいが、さすがに乗りたいとは思わぬ一品だ。 俺はその横を通る時に、さり気なく車内を覗いてみる。 「…………」 運転席には――こちらを見て微笑む、どこかで見た事があるような御嬢様。 「……幻覚だな」 ハハハ……でも、死ぬ気で逃げろ♪ 俺は、クラウチング・スタート。同時に、隣のクリスティーンがスタンディング・スタート。 クリスティーンはそのままドリフトっぽく歩道に乗り上げ、俺の走路を塞いだ。 「…………」 助手席側のドアが開く。 ……どうやら、乗れという事らしい。 「…………」 道路を走って行く、クリスティーン。 車内は無言。この沈黙が、ギリギリと俺を絞め殺そうとしているかのようだ。 「……お、お久し振りです、御嬢様」 決死の覚悟で、話しかける。 「ええ、久し振りですわね月見さん」 ……普通の言葉が帰って来た。普通過ぎて恐い。 御嬢様が、アクセルを踏む。 それに応え、車が速度を上げた。 「ふふふ……この子も、貴方を気に入ったようですわ」 ひぃぃ、もう人間外の女性に眼を付けられるのは勘弁……ッ! 「お、御嬢様。この車は、どこに向かっているのでしょうか?」 答えは分かっているが、一応尋ねてみる。 「屋敷に決まっていますわ。200万の借金を踏み倒して逃亡し、私の顔に泥を塗った罪……重いですわよ?」 御嬢様は、極上の笑みで一言。 せ、背筋が凍る……!! 「……まぁ、貴方に事情があったのは分かっていますが。清水と茨木は何か知っているようでしたけど、問い詰めるのも無粋ですし」 「…………」 と言う事は、俺の正体はまだバレていない訳か。 しかし事情があると分かっているのなら、この誘拐は何なのだろう? ……アレか。借金を働いて返せとか、そういう話か。 「…………」 一瞬飛び降りて逃げようかとも思ったが、車は道交法の限界を超えた速度で爆走している。 ……飛び降りたら、死ぬなぁ。 そして、結局屋敷に戻って来てしまった。 「御嬢様、お帰りなさいま――」 清水さんが、ぎょっとして俺を見る。 「ふふふ……暇潰しのドライヴでしたけど、面白い拾い物がありましたわ」 「…………」 俺は何も言わない。言えない。 正門から、屋敷の中に入る。 「あ、御嬢様お帰りなさ――ってえええええええッッ!!!?」 茨木が、俺の姿に驚愕。 「さて、月見さん。ここでの正装は分かっていますわね?」 「……はい」 そして、俺に逆らう術などなく。 俺がメイド服に着替え、御嬢様の部屋に向かっていると。 「――月見さんっ!」 茨木が、俺の元に走って来た。 その後ろには、清水さんも控えている。 「ど、どうして見付かっちゃったんですかぁ!? 御嬢様は、月見さんの正体を知らないはずなのに――」 「……ちょっとした理由で女装して街を歩いていたんだが……そしたら捕まった」 清水さんは、息をつく。 「これは、少々困った事になりましたなぁ」 「ご迷惑をおかけします……」 さらに進むと、目の前には御嬢様の部屋のドア。 清水さんと茨木は売られて行く子牛を見る眼で俺を見ながら、廊下の向こうに消えて行った。 「…………」 覚悟を決める。 コンコンとノックをし、御嬢様の答えが返って来た後。 「失礼します……」 部屋に、入室した。 「――その格好、やっぱり似合っていますわよ月見さん」 正面の机には、笑顔の御嬢様。 どうして髭切を持っているのかは、考えない事にする。あとコメカミの青筋についても。 でも……念のため、訊いてみよう。 「御嬢様、もしかして怒ってらっしゃいますか……?」 「ふふふ、面白い事を尋ねるのね、月見さん。――これが、怒っていないように見えるんですの?」 ――ヤバい、本気だ。 御嬢様は俺との間合いを縮め、髭切の柄を握る。 「のわぁ――ッ!?」 俺の首を狙う斬撃。それを、咄嗟にしゃがんで回避する。 銀の刃は俺の頭上を通り過ぎると、次の瞬間には鞘に収まっていた。御嬢様自身も、何事もなかったかの様に椅子に座っている。 「……うぅ。こんな事がしたくて、月見さんを連れて来た訳ではないのに……」 そして、何故か自己嫌悪っぽい。 「……あの、御嬢様?」 「な、何でもありませんわ。貴方を連れ戻したのは――」 御嬢様は視線を逸らしながら、何かを言おうとする。 ……だが、なかなか言葉は出て来ない。 「つ、連れ戻したのは……」 ――と、その時。御嬢様の机の電話が鳴った。 御嬢様は溜息をつくと、受話器を上げる。 「もしもし、渡辺ですが――」 『あ、麗衣アルか? 知らせなければならない事が出来たアルよ』 ……受話器の向こうからは、僅かに聞き覚えのある声が。 「とりあえず、電話をかけたのなら名前くらい名乗りなさい。それで、何ですの?」 御嬢様は一言二言交わした後、急に真剣な表情になり、 「少し待っていなさい。清水と茨木を呼んできますわ」 そう言って、受話器を俺に預けた。 「……え?」 「しばらく、相手をしていてくださる?」 そして、部屋から出て行く。 「あの……もしもし、お電話変わりました。屋敷のメイドの者ですが」 とりあえず、話しかける。 『お、麗衣のメイドアルか。あの御嬢様の相手は疲れるアルねー』 「はぁ……」 こいつ、本人の前でもそれを言えるんだろうか。 『で、名前は何ていうアル?』 「…………」 少し悩んだが、 「――月見マナ、と申します」 素直に答えてみた。 『月見……マナ?』 「……私の名前が、何か?」 『い、いや……ちょっと、知り合いの名前と似ているアルよ。……似ていると言うか、何と言うか』 おお、困ってる困ってる。結構面白いなコレ。 「その知り合いとは、どのような方なのですか?」 『そうアルね……一言で言うなら、貧乏人と貧乏神アル』 ……分かり易い評価だな。 「はぁ……貧乏人と貧乏神、ですか?」 『そうアル。まぁ貧乏神はどうでもいいアルが、問題は貧乏人の方アルよ』 「……問題?」 『その貧乏人、とんでもない女誑しアル』 待てコラ。 『眼についた女の子とは仲良くならないと気が済まない、正真正銘の外道アルね』 「…………」 なるほど。お前が俺をどう思っているのか、よく分かった。 『まったく、匠哉も匠哉アルが、それ以上に問題なのは周りの女どもアルよ。どいつもこいつも手強くて、勝つのが難しいアル』 「しかし――」 ここで、ちょっと疑問が。 「その方が女誑しだと、貴方様は何か困る事があるのですか?」 『う……!?』 何故か言葉を詰まらせる、電話の向こうの僵尸。 「それに、どうして女性の方々に勝つ必要が?」 『…………』 完全に沈黙。 ……? はて、何が何やらさっぱり分からんのだが。 『そ、それは――……』 ……まさか。 「あの。今の中国がもうボロボロで、国民の怒りの矛先を日本に向けなければ、国そのものがダメになるというのは理解出来るのですが。だからと言って、攻撃の対象を特定の個人とその関係者に絞るのはどうかと――」 『――反日運動じゃないアルよッ!!』 何だ、違うのか。てっきりそうだと思ったんだかなぁ。 ――すると。 「お待たせしましたわ」 清水さんと茨木を連れて、御嬢様が戻って来た。 御嬢様は俺から受話器を受け取ると、電話機を操作して向こうの声が全員に聞こえるようにする。 「で。もう1度、説明してくださる?」 『いいアルよ。知らせたい事っていうのは、サンフォール絡みアル』 「……っ!?」 部屋に、緊張が走る。 ――サンフォール。この渡辺家と敵対している、国際カルト教団。 『IEOが掴んだ情報アルが、サンフォールが大英博物館からあの棺を強奪したらしいんアルよ』 あの棺……って、まさか。 「伯爵が封印されている棺ですか……!?」 俺は思わず、声を大にして言う。 『……そうアル』 肯定の声が、返って来る。 「……前にも、そのような事がありましたわね」 『あったアルね。まぁその時は、私達がトランシルヴァニアで討ったアルが……』 だが、今回はあの時とは状況が違う。 サンフォールは、死体を遣う事に関してはプロフェッショナルだ。奴等に伯爵が渡ったというのは、剣呑過ぎる。 『伯爵は生ける死体の分際を超え、死者の神へと昇華されているアル。厄介な存在アルよ』 「……ッ」 御嬢様は、不快感を露わにする。 『重要なのはここからアル。今、その棺をサンフォールの信徒が輸送しているアルよ』 ……棺を、輸送。 『現在地は、星丘市の北側。徒歩で運んでるみたいアルね』 「……徒歩?」 御嬢様は訝しげ。 ……でも、ホントに徒歩で運んでたよなぁ。 「運び手は何者ですの?」 『名前は谷川花音。ソフィア・ヴィアーリと同じく、サンフォールによって不死の黒魔術師へと改造された者アル。生前は、大霊神社とかいう社の巫女アルよ』 「……大霊神社?」 『祭神は確か、伊邪那美命、八十禍津日神、大禍津日神、大国主神、荒吐、伊吹大明神……だったアルね』 ……いくつか、不愉快な神名が聞こえたな。 「分かりましたわ、知らせてくれてありがとう。私達はこれから、伯爵と谷川花音とやらを滅ぼしに行きます」 『……やっぱりそうなるアルか。今回は直接渡辺家と関わっている訳ではないアルのに……ま、頑張るアルよ』 電話が切れる。 「清水、茨木。先行しなさい」 「了解しました」 「分かりましたですぅ」 シュタッと、ふたりが部屋から出て行く。 「……御嬢様」 俺が言うと、御嬢様がこっちを見る。 「何ですの?」 「実はこの屋敷に来る前、その谷川花音に会ったのです」 「……っ!?」 「御嬢様、地図か何かありますか?」 御嬢様は、机から地図を取り出した。 俺はそれを受け取り、星丘市のページを開く。 「私が棺桶を背負った巫女さんを見たのは、街の南側のここです」 地図の一点を指差す。 「今の話によると、ここから北側に向かったようですね」 「と言う事は……」 「はい。星丘大橋を、通ったという事です」 星丘市は、長い川によって北側と南側に分断されている。少し前に天変地異によって地割れが起こり、そこに海の水が流れ込んで出来た川だ。 星丘大橋は、北側と南側を繋ぐ唯一の橋である。 「そうなれば当然、追いに出た清水さん達もここを通らなければならなくなるでしょう」 この渡辺家は、川の南側にあるのだ。 勿論、迂回出来ない訳ではないが……そのルートだと、時間がかかり過ぎる。 「そして、谷川花音には仲間がいるようでした」 「なら……」 「――恐らく。この橋には、番人が配置されていると思われます」 清水と茨木がその橋に踏み込んだ時、空気が変わった。 周囲から、人や車が去って行く。 「人払いの結界……どうやら、待ち伏せされていたみたいですぅ」 「そのようですね……」 橋の中心には、武蔵坊弁慶のように立ち塞がっている――男の姿があった。 清水は走りながら、大砲で男を狙う。そして、引き金を引いた。 音速を軽く超える速度で、撃ち出される鉄杭。 男は、自分の眉間に向かって飛来するそれを―― 「……な」 手で掴み取って、簡単に止めてしまった。 「ようやく来たか。ったく、退屈だった」 男は、鉄杭を投げ捨てる。 清水と茨木は足を止め、男と向かい合う。清水は大砲を手放した。 だが、何故ふたりは足を止めたのか。相手はひとり。そのまま、突破は不可能ではないはず。 しかし――それでも、ふたりは進めない。 「悪いが、ここは通行止めだ。先に行きたきゃ迂回しな」 男は、軽薄そうな笑い方をする。 「……ッ」 ――通れない。 人数の差。橋の幅。通り抜けるのは簡単なはずなのに、ふたりは男との間合いを計っている。 清水と茨木は分かるのだ。あの男が立っている限り、この橋の突破は容易ではないと。 「オレは番人だからな。そっちから攻めて来ない限りは何もしねえ」 男はまた、軽薄そうに笑い、 「だが、来るなら――攻撃は最大の防御の道理を以って、迎え撃つ」 「――……ッ!!」 男の気迫に、圧倒されながらも―― 「――茨木さんッ!!」 「――はい!」 ふたりは、跳んだ。 清水は橋の左側、茨木は右側から、突破を試みる。 だが―― 「はは、そう来なくっちゃな!!」 男は、速い。 まずは茨木に肉薄し、その身体を蹴り戻す。 男は茨木の相手をした。その隙に、清水は通り抜けようとしたが―― 「――遅えッ!」 茨木の相手をした事による、タイムロス。それをゼロにする勢いで、男は清水に迫る。 「な……ッ!?」 ――それは、異様な光景だった。 男の腕が、清水に向かって延長したのである。 無論、それは幻。男の、突進する速さと腕を突き出す速さ。その2つが合わさった稲妻のようなスピードが、そのような錯覚を生んだのだ。 男の手が、清水の身体を掴む。 「く――ッ!?」 「ほぉら、戻れ!」 男は清水を、元の位置まで投げ飛ばす。 「ぐぅ……!」 「――清水さん!」 男はふたりを眺め、 「なかなかいい攻めだったな。たが、完全に同時じゃなかった。そっちの童子の方が、少しだけ速かったからな。そのタイムラグ、一瞬を競う状況じゃ致命傷だぞ」 ケラケラ笑いながら、言った。 「な……ッ!?」 ふたりは絶句する。人間の清水は元より、鬼の茨木でさえ、完全に同時だと思っていたのだ。 「……思い出しましたよ」 清水は、口を開く。 「かつて、イングランド代表にも選ばれたサッカー選手。人間離れしたその動体視力と運動能力から、『鉄の壁』と呼ばれたゴール・キーパー」 男は嬉しそうに、清水を見た。 「名は――ハロルド・カーライルでしたか。数年前に行方不明となり、謎の失踪と騒がれましたね」 「……クク。まだオレも、完全に忘れられてはいないみてえだな」 「…………」 「そ。ダチに付き合って、面白半分でサンフォールの集会に参加したら、気付いた時にはこうなってた。ま、これはこれで楽しいからいいんだがよ」 ハロルドはトントンと、爪先で橋を叩く。 「すみません、御嬢様。お待たせしました」 俺は手に布包みを持って、クリスティーンに乗り込む。 追跡に、向かう途中。俺は無理を言って、家に寄らせてもらったのだ。 「別に構いませんけれど……何を持って来ましたの?」 「……ちょっとした、秘密兵器です」 俺は、意味ありげに微笑む。 「……私、貴方のその顔、苦手ですわ」 「え? しかし、顔が悪いのは両親に文句を言ってもらうしかありませんが――」 「そういう意味ではありません。その、何かを企んでいそうな笑い方。それが、苦手なんですわ」 「はぁ……」 「……ッ、意味のない問答でしたわね。行きますわよ」 星丘大橋。 「……一筋縄ではいかない、という訳ですね」 清水は正中線を隠すように半身を前に出し、肘を曲げて構える。 何かしらの、武術の構え。ハロルドには分からないが。 「……面白え」 ハロルドは重心を下げ、敵の動きを待つ。 清水が、動いた。 素早く間合いを詰め、突き上げるような蹴りをハロルドに放つ。 「……ッ!?」 反射的に躱したハロルドの頬を、清水の靴が掠める。その風圧だけで、頬に切り傷が走った。 「チ――!」 ハロルドは相手の足を掴もうとしたが、足を引くのも恐ろしく速い。手は、虚空を掴む。 危険と判断したハロルドは、清水との距離を取る。 「……その蹴り、喧嘩の相手が使ってた事がある。テコンドー……だな」 「ええ。少し、嗜んでおりまして」 何が少しだ、とハロルドは吐き捨てる。 「まぁ、いいや。オレだってガキの頃は、ポリを何人も血の海に沈めた暴れ者として有名だったんだ。格闘で、敗ける訳にはいかねえ」 ハロルドは体勢を下げ、清水に向かって跳んだ。 テコンドーでは、下段に対する攻撃は反則。故に、体勢の低い相手とは闘い辛いと考えたのである。 ――だが。 「ぐぁ……ッ!?」 清水は当然のように、ハロルドを蹴り飛ばした。 「テメ、ェ――!!」 ハロルドはすぐに体勢を立て直し、清水の下段に蹴りを叩き込もうとするが―― 清水は僅かに屈み、ハロルドの蹴りを手で受け止めた。 「……何!?」 そして、その足を掴み上げる。 足を掴まれたハロルドには、逃げる術も反撃する術もない。 清水は相手の顔面に、次々と突きを打ち込んでゆく。 「が、が、がぁ……ッ!!?」 「――茨木さん」 清水が身体を下げると、それを跳び越えるようにして茨木が迫る。 そして、首が千切れるかと思うほどの勢いで、ハロルドの頭を殴り付けた。 その衝撃で足は清水の手から放れ、ハロルドの身体が吹き飛ぶ。 「ハッ、ぐ……オイ、お前。下段への攻撃も、相手の身体を掴むのも、顔面への攻撃も、テコンドーでは反則じゃなかったっけか……!?」 「ええ。ですが、これは試合ではありませんので。それに元々、私のテコンドーは正法ではないのです」 「清水さんは、テコンドー界から追放された人ですからねぇ。テコンドーの試合でプロレス技を使って反則敗けしたという、信じられないエピソードもあるですぅ」 「はは、懐かしい話ですな」 清水は、ハロルドに微笑む。 「とは言え、恐れるほどの事ではありませんよ。私の試合成績は、90%が黒星。とても弱いですから」 「……まぁ、反則技で相手を病院送りにして敗けたのは、確かに黒星ですけどねぇ……」 ハロルドはふたりを見ながら、 「……なるほど、確かにお前達は強えな」 ニッと、笑った。 「だが、正法でないと分かれば受けるのは容易い。お前の動きも、もう見切った。――掌握したぞ」 「何ですと……?」 虚勢には見えない。 清水と茨木はそれを確かめるように、ハロルドへと向かって行く。 繰り出される、茨木の拳と清水の蹴り。 ハロルドは―― 「ハァ……!!」 両手を使い、当然のようにそれぞれの攻撃を受け止めてしまった。 「……ッ!!?」 清水と茨木は、ハロルドとの距離を離す。 「……ゴールに向かって飛んで来るサッカーボールは、どれくらいのスピードだと思う?」 ハロルドが、言う。 「勿論個人差はあるが、総じて時速100キロ以上だ。つまり、1秒で28メートル。ゴール際ってのはな、刹那の世界なんだよ」 「――……」 「それに、ボールには重量も硬度もある。シュートの威力は格闘選手のパンチに匹敵するって聞いた事があるが、その通りだ。下手に喰らえば、確実にKOだな」 ハロルドは不敵に笑い、 「分かるか? 鉄の壁という名は――そんな戦場に身を置いて、それでもなお不落だった故に与えられた称号だ」 清水と茨木を、見据える。 「しかも今のオレは、人間を越えた生ける死体。その程度の攻撃を、受け切れないはずがねえ」 迸る、鬼気。 「……ッ」 清水と茨木はそれに圧されて、無意識の内に数歩だけ下がった。 橋の向こうは、遠い。 だが――変化は、突然訪れた。 橋に、1台の車が突っ込んで来る。清水と茨木は、慌てて橋の隅へと跳び退いた。 プリマス・フューリー。とあるホラー映画を思い出させるその車が、ハロルドへと向かって行く。 それ自体は、何も問題はない。自動車が突っ込んで来ようと、ハロルドは受け止める自信がある。 よって、問題は――その車のボンネットに乗った渡辺麗衣が、太刀を構えている事。 「……ッ!!?」 受け止めるためには、車の正面で待たねばならない。しかしそうすれば、麗衣に斬り捨てられるのは明白だ。 不死性とて、役には立たない。彼女は蛇斬りの魔剣の持ち主。それは、ソフィアの敗北が証明している。 結果―― 「チィ……ッッ!!!」 ハロルドは車を止める事を放棄し、道を開けた。 擦れ違った、瞬間。ハロルドは、運転席のメイドと眼が合った。 車が通り過ぎる。麗衣は器用に、助手席へと滑り込んだ。 「……クソ、カノンの奴に文句言われるな」 車が見えなくなった後、嫌そうに呟く。 「ま、仕方ねえ。突破した2人はカノンと伯爵に任せて、オレは地味にここを守りますかね」 向かって来る清水と茨木を止めながら、ハロルドは笑った。
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