ここに詔りたまひしく、「上つ瀬は瀬速し。下つ瀬は瀬弱し。」とのりたまひて、初めて中つ瀬に堕り潜きて滌きたまふ時、成りませる神の名は、八十禍津日神。次に大禍津日神。この二神は、その穢繁國に到りし時の汚垢によりて成れる神なり。 ――『古事記』
「…………」 ――逢魔ヶ刻。 月見匠哉は、一人で星丘公園に立っていた。 その眼前に、巨大な石。 公園の中央に存在する、謎の巨石である。 石には、注連縄が何重にも巻かれていた。 ――注連縄とは。 交尾をする蛇の姿を、表したモノだとも聞く。 「……動くとすれば、今夜か」 石に触れている匠哉の手には、脈動が伝わって来ている。 まるで――生きた心臓のように。 「ま、何でもいいや。マナが何をしようと、俺の知った事じゃないしな」 石から離れる。 もう興味が尽きたと言わんばかりの様子で、匠哉は歩き去って行った。 ――夜、満月の下。 数時間前に匠哉が立っていた場所に、マナの姿があった。 「おや、懐かしい神が来たようですね」 石の反対側から、声。 「……こっちから来てあげたんだから、姿を見せなよ」 「フフフ――」 踊るような軽やかさで、石の陰から人影が現れる。 「久し振りです、大禍津日神」 そして、優雅に一礼。 まるで、天女のような少女だった。絹織の衣と羽衣が、風に乗って揺らめく。 ――ただ。 その瞳だけは、獲物を狙う毒蛇の如く。 「そんな御大層な名前で呼ばれるほど、今の私に力がある訳じゃない。貴方が封印されたせいで、半神である私もそれに引き摺られて力を封じられちゃったからね」 マナは毒蛇の瞳と目を合わせ、 「――八十禍津日神」 千数百年振りに、己の半神の名を呼んだ。 「私とて、そのような名で呼ばれるほど力はありません。今の私は、封印の隙間から抜け出た弱小なる分霊に過ぎませんから。本体は、この地の底でとぐろを巻いていますよ」 「……まったく。しぃやら指環やらの影響を受けて封印が弱まってる気はしてたけど、分霊が出て来るほど隙間が広がるなんて」 「おや? その言い様、まるで大禍津日は私の復活を望んでないようにも聞こえますが」 八十禍津日は衣の袂で口元を隠し、クスクスと笑う。 「そう言ってるんだよ」 「フフフ……私が復活すれば、貴方も力を取り戻せるのに」 楽しそうに、毒蛇は眼を細める。 「たった二柱の姉妹であるというのに――何という御無体。この八十禍津日、涙が止まりません」 八十禍津日は袂を翻し、くるりと廻った。 「母上が火神を産んで焼け死んだ際、父上は一目逢いたい想いで黄泉へと下りました。しかし父上は腐り切った死体と化した母上の姿を嫌悪し、黄泉から逃げ出した」 赤い舌をチロチロと出しながら、泣き真似をする。 「今なら、母上の気持ちが分かります。心を許した相手から裏切られるのは、これほどまでに辛い事なのですね」 「何言ってるんだか。そのおかげで生まれて来たくせに」 「フフ、それはお互い様でしょう。私達は黄泉から戻った父上が、その御身を禊し時に、黄泉の穢れより生まれた――禍津神の姉妹」 「……そして、旧き蛇神」 「そう。この国の母神にして八柱の厳蛇を従える母上は、大陸の始母である女禍と同じく――大蛇の神。私達姉妹は、母上より剥がれ落ちた穢れの蛇なのです」 マナは、一つ溜息をつく。 「……何を言いたいのかは、大体分かるけど。さっさと終わらせてよ」 「では遠慮なく。古代では、蛇というのは信仰の対象でした。縄文として描かれた蛇の文様が、何よりの証拠」 「…………」 「しかしある日、この国に朝廷が生まれ――蛇への信仰は弾圧される様になりました。蛇の王たる大国主命が、天津神にこの国を譲った時のように。あるいは、須佐之男命が八岐大蛇を討った時のように」 「信仰の対象は、蛇から太陽へと移っていった」 「はい。故に私は……下剋上、とでも言えばいいのでしょうか。地の蛇身を集め、日の神である天照大御神を弑し奉り、再び蛇の神国を築こうとしたのですが――」 わざとらしく八十禍津日はよろめき、 「嗚呼、何という事でしょう。大禍津日――私がどれほど頼もうと、貴方は戦いに協力してはくれなかった。結果、私はあの忌々しき建御雷命に討たれ、暗い暗い地の底に封じられてしまったのです」 また、泣き真似。 「だって、どう考えても無謀だったし。蛇の誘惑に乗せられるほど、私は純粋じゃないんだよ。……こっちまで力を封じられるとは、さすがに思ってなかったけど」 「何を弱気な。遥か彼方の砂漠の国には、太陽を呑み込まんとする蛇がいると聞きます。我等姉妹が一丸となれば、日の神の軍勢など敵ではなかったでしょうに」 「……いい事を教えてあげる。どこの国でもね、天に昇ろうとする愚かな蛇は地に叩き落とされるんだよ」 八十禍津日は、外面だけの悲しみを浮かべる。 「余りにも、余りにも酷過ぎるというものではありませんか。涙を流しながら地へと封じられた悲哀なる私を、貴方はどのような想いで眺めていたのです?」 「この怨みはいつか必ず晴らしてやろうぞー、とか絶叫してなかったっけ? 涙とか悲哀とか、そういう綺麗な言葉とは程遠かったと思うんだけど」 「……はて? そのような覚えはありませんが。フフ――さすがの貴方も、永き時を経たせいで記憶が曖昧になっているようですね」 八十禍津日は、毒蛇の眼を細めた。 ふたりの心の狭間にあるのは、大き過ぎる壁。分かり合う事など不可能であり、元より両者にそのつもりはない。 「……仕方ありません。失礼ながらこの場にて貴方を滅ぼし、私の一部として取り込むしかないようです」 「最初っからそのつもりだったんでしょ。ま、別にいいけどね。分霊を殺して八十禍津日本体の力を殺げば、この地の禍も少しは減ると思うし。そうやって分霊を具現化させる事も、数百年は不可能になるだろうしね」 「嗚呼、何という悲劇。何という非運。まさか、姉妹で殺し合わねばならなくなるとは」 「いい加減イライラして来た。吹っ飛べ」 マナは、八十禍津日を蹴り飛ばす。 彼女の身体は木々を薙ぎ倒しながら、彼方に消えた。 「フフフフフフフ――」 ――まず見えたのは、八十禍津日の羽衣。 血脈が巡り、骨肉を得、羽衣は赤い大蛇へと変化した。 赤蛇は空中を奔り、マナに襲いかかる。 「く――っ!?」 紙一重で、マナは赤蛇の毒牙を躱す。 ――しかし。 「さぁ、絞め殺してしまいなさい――」 どこからか声が聞こえて来ると同時に、赤蛇の胴がマナの身体に巻き付いた。 ギリギリと万力のような力で、マナの身体が締め上げられる。 「こ、の……舐めないでよ!」 腕に、渾身の力を込め――マナは赤蛇を千切り飛ばした。 「あらあら、ならばこれでどうです?」 「――っ!!!?」 粉々になった赤蛇の肉が集まり、蛇体が再生する。 ただし、生まれた蛇は二匹。 二匹は絡み合いながら、マナに巻き付いた。 ――林の中から、八十禍津日が現れる。 「これは……!?」 「二匹の蛇――注連縄です。今の貴方は、結界に捕らわれているのと同義」 八十禍津日の身体に、八雷神が召喚された。 頭に大雷、胸に火雷、腹に黒雷、股に拆雷、左手に若雷、右手に土雷、左足に鳴雷、右足に伏雷。 ――そして。 「并八雷神成居、無上霊宝神道加持――『八岐厳蛇』」 八雷神は八頭の大蛇となり、マナに牙を向く。 落雷を何十倍にしたような、光と音。 神の裁きの具現である雷が、容赦なく大気を焼いた。 その、光の中から―― 「――はっ!」 マナが跳び出し、握った剣を振るう。 斬撃は――退いた八十禍津日の衣を、僅かに掠めた。 「……くっ、避けられたか――!」 「その剣は――」 八十禍津日は、マナの手にある剣を凝視する。 「……なるほど、天羽々斬ですか。その蛇斬りの剣ならば、注連縄だろうが厳蛇だろうが、一刀両断に出来ますね」 「貴方のために、苦労して用意したんだよ」 「それはそれは――感謝の極みです」 束の間に、マナの斬撃が舞う。一太刀でも入れば、『蛇』である八十禍津日にこれを耐える術はない。 摺り足で瞬時に間合いを詰め、岩すら穿つような突き。躱されても、すぐに次の斬撃が続く。 神の名に恥じぬ剣舞を、マナは八十禍津日に見せ付ける。 だが―― 「……っ」 それでも、マナの剣は八十禍津日には届かない。 「……やれやれ。いくら神剣を持とうとも、貴方がそれでは話になりませんよ」 八十禍津日は、歪んだ笑顔を浮かべる。 「天に挑んだ戦の折、私はかの剣神――建御雷命と闘っているのです。あの鬼神の剣技と比べれば、貴方の剣など恐るるに足りません」 ――ぎらり、と。 八十禍津日の毒蛇の眼が、マナを睨む。 本能で危機を感じたマナは、敵の視界から跳び退いた。 「御見事。あと一拍でも遅ければ、貴方は物言わぬ石像と化していた事でしょう」 「……蛇魔の十八番、石化の邪眼……!」 「禍津神としての神格を封じられている貴方とは違い、私は分霊とはいえ八十禍津日神なのです。故に、こういった異能の行使も可能なのですよ」 八十禍津日の口に、血のような舌が見え隠れする。 「嗚呼、可哀想な大禍津日。まさに手も足も出ないといった所ですか。フフフ……」 「ならば――……」 マナは八十禍津日の背後に廻り、 「視界に入らない内に、斬り伏せる!」 その首を、刎ねた。 「……あら?」 間の抜けた声を絞り出しながら、八十禍津日の頭部がぼとりと落ちた。 「殺った――!」 ――しかし。 「いえ、殺れてませんよ」 いかなる不可思議か。 落ちたはずの首は、変わらず八十禍津日の身体に乗っている。 「な……っ!!!?」 「フフフフ――」 八十禍津日の視界に、マナは捕らわれた。 視界内の生命体の『形態』を光と共に眼球に取り込み、それを『生命』から『石』に書き換える。 マナは先程と同じく何とか逃れたが、他は草一本残さず石像へと変わってゆく。 「どうして!? 確かに首を刎ねたのに――!?」 八十禍津日は、嘲るように微笑む。 「驚かれましたか? 私は、この身体に無限の命を持っているのですよ。これは神としての異能ではなく、私が独自に創り出した術法なので、貴方が知らないのも無理はありませんが」 「無限の、命……っ!!?」 何という理不尽。 それでは、マナに八十禍津日を斃す事は出来ない。斃せなければ、勝てはしない。 「――さて。そろそろ、私の剣も御覧にいれましょう」 世界が、揺れた。 「ぁっ……っ!!!?」 マナの背中が、恐怖で冷たくなる。 破滅的な、存在感を放ちながら――その剣は顕現した。 「――『草薙剣』」 失われた神剣。それが、八十禍津日の手に在る。 「草薙の……オリジナル!!? 何で、だってそれは――っ!!!?」 「ええ。源平合戦、最後の戦場――壇ノ浦にて、波の下の都に沈んだはずの一品です」 「そうだよ、もう2度と現世に出ない、出てはならないモノ……そんな剣を、どうして貴方が!!?」 「フフフ……」 「壇ノ浦の戦いの時、貴方は既に封印されていた! 貴方がその神剣を手にしているなんて、あるはずがないっ!!」 「まぁ……普通に考えれば、そうですよね」 楽しくて仕方がないといった様子の、八十禍津日。 「ですが、何事にも例外はあります。地の底――暗闇に封印された私に、ある方が届けてくれたのですよ」 「ある方……? そいつが、草薙を回収したの」 「ええ。よくは存じ上げないのですが、耶蘇教の尼僧のようでした」 「耶蘇教の……尼僧……!?」 マナの記憶が甦る。あの、悪夢のような女の事。 カトリックの宣教師達が、日本にやって来た時代。 それ自体は、何の問題もなかった。神々にとっては些か不愉快な事だったが、民が何を信仰しようと自由である。 ――しかし。 宣教師に混じっていた異端審問官達が、異端審問所を設立しようとした。 その計画を提案したのは、実は宣教師でも異端審問官でもなく――得体の知れない、黒いシスター。 本来なら通るはずのない、無茶な計画。だが、そのシスターが語り出すと……それこそ蛇に騙されたイヴのように、皆がその計画に乗ってしまった。 ――地獄が生まれる。 神々の差し金によってカトリックは弾圧され、異端審問所の設立は潰された。そして、多くの切支丹が命を落とした。 ……だがそこで、マナは信じられないモノを見る。 死んでいく、切支丹達を高みから見下しながら――黒いシスターは笑っていた。 元から、カトリックの布教になど興味はなく。その女は、人々が蜉蝣のように死ぬのを、見たかっただけなのだ。 ――そして。マナは、そのシスターの正体を知った。 「あいつか……!」 あの時代の禍根は、今も残っている。 美榊家は皇居陰陽寮に滅ぼされた。マナは未だに、教皇庁から命を狙われている。 這い寄る混沌が撒いた毒は、どれだけ時が経とうと消えはしない。 「さぁ、そろそろ茶番は終わりにしましょう――……」 八雷神が、草薙剣に纏わり憑く。 草薙剣は、八岐大蛇の尾より出でたモノ。ならば八頭の厳蛇がそれを核とした時、どれほどの力が発揮されるのか。 「并八雷神成居、無上霊宝神道加持――」 今度は、天羽々斬で斬り払う事は出来ない。 何故なら、天羽々斬の刃は草薙剣によって欠けたのだ。同じ神剣といえども、その霊格は違い過ぎる。 「――『八岐厳蛇』!」 それは、在り得ないはずの神代の再現。 ――この夜。星丘公園より放たれた斬撃が大地を割り、星丘市を二つに分断した。 「う……っ!!?」 マナは、全身の痛みで眼を醒ました。 一体、どれだけの時間気を失っていたのか。 身体を起こし、周囲を見る。そこは――薄汚れた街。 「……そんな……」 マナは全ての力を結界に注ぎ、あの斬撃を受け止めた。それでもなお、街の反対側――イースト・エリアまで、弾き飛ばされてしまったらしい。 スラムは慌しい。悲鳴や、助けを求める声が飛び交っている。 元々、過酷な場所ではあるが……このような、地獄の如き場所ではなかった。だが今はいくつもの建物が倒壊し、人々が下敷きになっている。 ――八十禍津日が放った一撃は、これほどまでにも被害を与えたのだ。 「反対側のイースト・エリアがこんなんって事は……街はもっとやられてるはずだよね。公園なんて、消えてなくなってるかも」 匠哉は、とりあえず心配はない。 あの家にはしぃがいる。彼女なら、何が起こっても匠哉を護れるだろう。 「真は……いざとなればあいつが表返って何とかするだろうから、心配ないと思うけど」 要芽とパックや、瀬利花は、分からない。恐らくは無事だと、マナは勝手に考える。 「緋姫と迅徒は、どうでもいいや。むしろ死んでほしい」 ――だが。 「って、マナさん!?」 その、緋姫の声がした。 「……あー、生きてたの」 「何ですかその言い方は! いや、今は貴方に構ってる場合じゃありません!」 パジャマ姿の緋姫は周りを見、顔を顰める。 「酷い……」 「やっぱり、この街の事が気になったんだ?」 「当たり前です。ここは私の故郷ですから」 マナは、呆れたように緋姫を見た。 「ここを捨てた貴方に助けられても、誰も感謝しないよ?」 「そんな事はどうでもいいんですよ。ほら、貴方も人命救助してください。仮にもボランティア・クラブの部長でしょう?」 「……悪いけど、それは無理。一秒でも早く、これを放った奴を殺さなきゃいけないから。二発目が飛んで来たら困るでしょ?」 緋姫は、訝しげな表情。 「……何か、知ってるんですね?」 「うん。私は私の仕事をやる。だから、緋姫もさっさと行きなよ」 あ、とマナは思い出したように呟き、 「緋姫がここに来たって事は、匠哉は大丈夫なんだね?」 「当たり前です。私は真っ先に先輩の御宅に向かいました。周りの建物は残らず潰れていましたが、あの家だけはまるで別空間のように無事でしたよ」 「ほほう、さすがはしぃ」 腕を組み、ウムウムと感心するマナ。 「それに……古宮さんとパックさん、あと田村さんも、先輩の様子を見に来ていましたね」 「あ、やっぱり大丈夫だったんだ。瀬利花は?」 「霧神さんは、街中で見かけましたよ。美榊さん……でしたか。あの人も」 「知り合いは全員健在、か。……むぅ、迅徒は死んでもよかったのに。ついでに貴方も」 「……この場で殺してあげましょうか?」 「今は殺す事よりも、助ける事を考えるべきだと思わない?」 「……分かってますよ」 緋姫は、マナに背中を向ける。 しかし、一度だけ振り返り、 「そう言えば、先輩から伝言がありました」 「……伝言?」 「はい。確か、『あれは無限の輪廻。殺されても、また新しく生まれて来る。でもそれは、蛇が己の尾を咥えているだけだと思う』……だそうです。何の事だかは、分かりませんけど」 伝えるべき事を伝え、今度こそ救助に向かって行った。 「……参った」 困ったように、マナは頬をかく。 マナは、常に匠哉の金運を吸収している。つまり、ふたりは霊的に繋がっているのだ。 匠哉はマナを通して今宵起きた全ての事を知り、その解決策まで考えたらしい。 「なるほどね。だから、八十禍津日は殺しても死なないんだ」 そうと分かれば、やる事は一つ。 遠くからは、パトカー、救急車、消防車……ありとあらゆるサイレンの音が聞こえて来る。 この惨状が、禍津神というモノの『機能』。禍という事象の神格化――世界に、災禍を与えるだけの存在。 八十禍津日がやる事は、禍津神としては極めて正しい。 だが――マナは、禍津神ではなく貧乏神。そして、月見家の守護神なのだ。こんな事を、認める訳にはいかない。 地割れに沿って、マナは走る。 進む先は、星丘公園とイースト・エリアの中間点。この街の中心。 少し前まで、星丘高校があった場所である。 「――待ちくたびれましたよ、大禍津日」 だが、高校はもう存在しない。斬撃の直撃を受け、瓦礫の山となっていた。 その山の頂に立ち、八十禍津日はマナを出迎える。 「そりゃどうも。じゃあ、さっさと滅ぼし合おうか」 「ふぅ……まったく。私は、本心では闘いなど望んでいないのですよ。貴方が挑んで来なければ、街にこれほどの被害を与える必要もなかったのですから」 マナを責めるように、八十禍津日が嘲笑する。 「冗談でしょ。あんな神剣を手に入れた貴方が、その力を振り回さない訳がない。私がいようといまいと、結果はどうせ同じだよ」 「まぁ、貴方が結界で威力を殺いだからこそ、『この程度』の被害で済んだのですしね。……ああ、結界と言えば、道反大神は貴方と共にいるのですか」 「そうだよ。八雷神はそっちに取られちゃったけどね」 「フフ――道反大神によって創り出される結界といえども、この草薙の斬撃を防ぐのは無理でしょうね。しかし……ならば、私は母上に似ており、貴方は父上に似ているのでしょうか?」 「……む」 それは、マナとしては面白くない。 以前、どこかの誰かに『私のお父さんに似てるよねぇ』と言った事があるからである。 「……ねえ。そろそろこの会話にも飽きたから、もう殺していい?」 「御自由に」 「なら、死んじゃってよ」 マナは天羽々斬を振る。 しかし――八十禍津日は先程と同じく、それをいとも容易く躱してゆく。 「何度やっても、同じですよ」 八十禍津日は嘲弄する。 だが、チャンスはあるのだ。マナの剣を躱すほどの技量を持ちながらも、一度は首を落とした。それに、意味がなかったと言えども。 「フフフフフ……」 八十禍津日は、反撃すらしてこない。無限の命を持つが故の過信。 つまり、マナを見縊っているのだ。 ――そこを、衝く。 「はぁぁ――っっ!!!!」 己の力の全てを速さに変え、マナは神速で斬撃を放つ。 速さだけで、威力も技もない一撃。本来なら、避けられるはずのモノ。 とは言え、八十禍津日は不意を衝かれた。さらに、油断もあった。 ――天羽々斬が、八十禍津日の身体を袈裟斬りにする。 「ほぅ……」 八十禍津日は感心した。ただ、それだけ。いくら殺されようと、自分はすぐに転生するが故に。 古来、蛇とは不死の象徴。 脱皮を繰り返すその生態が、新たなる肉体を得、永遠に生きる生き物だと誤解されたのだろう。 錬金術おいて無限は、自らの尾を咥えて環となった蛇――ウロボロスによって象徴される。 八十禍津日の術法も、それと同じ。魂は蛇の環を輪廻し、すぐさま蘇生する。 ――故に、その命は無限。 だが、『蛇』であるのならば――天羽々斬は、形のないモノであろうと斬断する。 「――なっ!!!?」 ようやく、八十禍津日は事態に気付いた。 マナが斬ったのは八十禍津日の身体ではなく、輪廻の環――無限の命。 「私を甘く見た報いだよ!」 「アァ、ア――!!?」 八十禍津日は後退し、マナと距離を取る。 これで、無限の命は失われた。今度こそ天羽々斬の斬撃が一太刀でも入れば、八十禍津日は滅びる事になる。 「シ、シャ、シシ、シ――」 追い詰められた八十禍津日は、あっさりと慇懃の皮を脱ぎ捨て―― 「シャアアアアアアアアアアアッッッ!!!!」 怒濤の勢いで、マナに襲いかかった。 ――草薙剣が、咆える。戦の歓喜を謳うように。 眼にも留まらぬ連斬。剣が打ち合う度に火花が散り、天羽々斬の刃が悲鳴を上げた。 「く……っ!!」 打ち合っただけで、身体がバラバラになるかと思うほどの衝撃。マナは、それを必死で受け流してゆく。 「――いイいぃぃィィいいイいいアアあ嗚呼ッッッ!!!!」 八十禍津日の御魂が、人型の器から溢れ出す。全身に赤い鱗が浮かび上がり、腕や足が間接を無視して動き回る。 そして、石化の邪眼を開眼。 「……っ!!」 マナは、上方に跳んだ。八十禍津日の視線から逃れる。 無論、そう簡単に逃してくれるものではない。八十禍津日の視線は、マナを追う。 夜空に飛び上がった、マナ。 ――その背には、静かに輝く満月があった。 欧州では、邪眼から身を護るには――大天使サリエルの名を記した護符を持てばよいとされている。 サリエル自身が邪眼を持つので、その力に頼るという事だ。 だが、それだけではあるまい。 サリエルは、月の運行を司る天使。 ――月とは即ち、太陽の光を反射する『鏡』である。 「アぁ……っ!!?」 八十禍津日は、石化の邪眼を閉じた。邪眼を使えば、その咒は月鏡で反射し、自分自身にも降りかかる事となってしまう。 躊躇をする間にも、マナが迫る。天羽々斬に込められた力が、白い光となって溢れ出す。 八十禍津日に、躱すという選択肢はもはや存在しない。草薙剣に、八雷神が宿る。 刹那にも満たない時間。それで、勝敗は決した。 ――天のマナと地の八十禍津日。白き蛇と赤き蛇が、交差する。 零時を越え、日付が変わった。 衝突によって、爆心地のようになったその場に――二柱の姿がある。 「……月の神である『月読』は、『月黄泉』とも書く」 語るのは、マナ。 「ならば、月は黄泉に通じる。黄泉の底より生まれた八雷神を、月に向かって放てるはずがない」 月を背にした時点で、マナの勝利は決まっていたのだ。 ……八十禍津日は、夜空の月を見上げたまま止まっている。 「残念だったね。月は、私の味方だった」 折れた草薙剣が、地面に落ちた。 剣の霊格差を気合いで埋め、マナは天羽々斬で草薙剣を叩き折ったのである。 マナが、己の神剣を鞘に収めた。 すると、ようやく―― 「あ……ああぁァアああアあああッッ!!!?」 斬られた事を、思い出したかのように。 八十禍津日の身体が――頭から、真っ二つとなった。 「ふぃ〜……」 八十禍津日の分霊が消滅するのを見届けた後、マナはやっと一息つく。 「……さて、帰って休もうかな」 緋姫は人命救助をしろと言っていたが、そんな余力はなかった。フラフラと歩くのが精一杯である。 「でも、帰ったら匠哉にお礼を言わないといけないのかぁ。それはそれで苦行だね……」 マナは、歩きながら思い返す。 禍津神の姉妹にも、仲良く生きていた頃があった。八十禍津日は、どうしてあのように歪んでしまったのか。 「……ううん、違う」 大国主命、八岐大蛇。 エキドナ、セト、ミドガルズオルム、ティアマト、そしてサタン。 蛇は、いつの時代も神々の敵対者だった。初めから、敵対者として生まれて来たのだから。 ならば、八十禍津日の方向性は正しい。歪んでいるのは、マナの方なのだ。 「あれ? よく考えてみれば、どうして私はこんなんになったんだろ?」 人類と敵対する意志も、神々と敵対する意志もない蛇神。 はて、とマナは頭を悩ませる。今まで考えもしなかっただけに、答えは遠そうだった。 ――しかし。 「あ、そうか」 唐突に、答えに辿り着いた。いや――思い出した。 それは、遠い遠い昔。父親から聞かされた、旧い物語。 何の変哲もない平凡な少年が、大切な人のために月の魔王を地に落とした御伽噺。 マナが生まれる以前の話で、本当にあった事なのかも分からない。おそらくは作り話だろうと、マナは考えていた。 だが――それでも、マナは少年に憧れた。少年に護られた少女を、何度も羨ましいと思った。 「……ヤバい。これじゃあ緋姫と同レヴェルだ」 敵対者としての己を歪ませるほど、マナは伝説に恋したのだ。 「ま、まぁ、そんな事はどうでもいいか。うん」 所詮、その少年は作り話の上にしか存在しない。仮に実在したとしても、とっくの昔に死んでしまっている。もう、この世には跡形も残っていない。 マナは気を取り直し、 「さ、帰ろーっと」 月見家に向かって、歩を進めていった。
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