――深夜。 「…………」 しぃは旅館の屋根の上で、夜空を眺めていた。 より正確に言うなら――彼女が見ているのは、北斗七星である。 「星の流れが、おかしいのだ」 兵庫県姫路地方では、北斗七星は北極星を追い、喰おうとしているという。 ――故に、ソレを鬼星と呼ぶ。 7つの星は怪しく輝きながら、町を見下ろしていた。
――朝。 「うぅむ、美味い」 昨日の夕食で分かっていた事だが、この旅館の食事はナイスだ。 俺は並ぶ朝食を、次々と口に入れてゆく。 「匠哉、今日はどうするの?」 俺の隣に座っているマナが、尋ねる。ちなみに、逆の隣にはしぃ。 ……と言うかこいつ等、あれだけガバガバ飲んでたくせに二日酔いとかしないのか。さすが神。 「今日も自由行動だなぁ。とは言っても部屋に篭ってるのはアレだし、外でって事になるだろうが」 「……ふぅん」 マナは興味をなくしたかのように、食事に戻った。 一足早く食べ始めていた俺は、一足早く食事を終える。 「――ごちそうさまでした」 さて、どうしようか。 俺は昨日と同じように街を彷徨いながら、考える。 だが、今日の俺は一味違う。今、俺の手には――何と、地図があるのだッ! これで道に迷う心配はない。グッジョブ、俺! ……と、一人芝居で気分を盛り上げながら、ズンズンと進む。 辿り着いたのは、天狗山。 「天狗山か……そうだな、登ってみよう」 俺は登山道を、えっちらおっちら歩いて行く。 どうやらこの山には、あの鈴蘭稲荷神社があるらしいのだ。せっかくだから、見ておこうと思ったのである。 ……見るだけだけど。参拝なんてしないけど。 俺はすっかり、神頼みから縁が遠くなってしまった。昔はよく、お金が欲しいとか願ってたものだが。 星子様、マナ、アルビオン、しぃ。このラインナップを見れば、理由は明白。マジで凹む。 しかしまぁ、こういう山をきっと霊山というのだろう。余計なものを近付かせない迫力とか、そんなのを感じる。 ……その迫力が真っ当なものかどうかは、ともかくとしてだが。祀られてるのは祟り神だしな。 鈴蘭稲荷神社は鈴蘭の御魂を鎮めるために建てられたって話だが、それで鈴蘭が鎮まったとはとても思えない。 歴史上、こういうケースはそれなりにあるが……神社を建てても、祟りは続くのがデフォだし。 ――と、その時。 「ん……?」 背後で、草がガサリという音を立てた。 何か動物でもいるのか? ……うわ、熊だったらどうしよう。 俺はビクビクしながら、相手を刺激しないように振り返る。 「……あ?」 幸いな事に、相手は熊ではなかった。だがそれ以上に最悪なのは、それが俺の知る、いかなる生き物にも合致しないという点だ。 ……いや、狐に見えない事もないが。でも狐っていう動物は、こんな灰色熊みたいなサイズではないはずだしな。 (さて。どうする、俺?) ジャイアント・フォックスは、赤い眼を光らせながら俺を見下ろす。狩る気満々だ。 ……毎度毎度のお約束展開に、笑いさえ出て来そうになる。 でも、今回ばかりはアウトか? いくら俺でも――この距離で、獣の動きから逃げるのは不可能だ。 (くそ、諦めんな……) しかし、無情にも。 狐の化物は、俺に跳びかかって来た。 「くっ、ダメか――!?」 それは、一瞬。 「閉じよ黄泉比良坂、来たれ道反大神――『貧乏バリアー』ッ!」 俺の目の前に誰かが割って入り、狐を弾き飛ばした。 「――マナ!?」 「匠哉、こんな所で何してるの?」 「何してるの、って訊かれてもな……」 狐は体勢を立て直すと、俺達を一瞥する。 そして、木々の向こうへと消えて行った。 「助かった……のか?」 「まぁ、一応はね」 マナは言う。 「とにかく、1度山を降りるよ。ここは危険だからね」 「それで、一体何事なんだ?」 旅館に戻った俺は、部屋でマナに尋ねる。 「昨日、中華料理店に変な僵尸がいたでしょ?」 「ああ、それがどうした?」 「後から思い出したんだけど、彼女ってIEOのメンバーなんだよね」 「IEO……だと?」 何だ、マフィアじゃなかったのか。カタギじゃない事に違いはないが。 ……ってか、本当に僵尸だったのかよ。 「そんな奴が来てるなんて穏やかじゃないから、さっき探し出して話を聞いたの。まぁ守秘義務がどうとか言って口を割らなかったから、色々やって無理矢理吐かせたんだけどね」 「…………」 ……何をした、お前。 「んで。彼女の話によると、この街では昔から妙な事件が起きてるみたい」 「妙な事件?」 「うん。天狗山に、人を喰う化物が出るんだって」 「人を喰う、化物?」 俺の頭に、鈍い痛みが走る。 「とは言っても、胸を切り開いて心臓を喰うだけなんだけど……って、匠哉? どうかした?」 「あ、いや、何でもない。気にするな」 心臓を喰うだけ、か。……ま、あいつがいる訳ないよな。 「で、マナ。さっき俺を襲った狐の化物が、その事件の犯人って事か?」 「おそらくはね」 ふぅむ……。 「でも、どうして天狗山だけで事件が起こるんだ? あの狐が町に下りて来ても不思議ではないだろ?」 「多分、離れられないんだと思う。天狗山があるのは正北――北斗七星の方角だから」 「……北斗七星と狐って、何か関係あるのか?」 「大ありだよ。狐は化ける時、北斗七星を拝むの。彼等にとってあの鬼星は、信仰の対象なんだよ」 「しかし……それだけじゃ、理由とするには足りないな」 「じゃあ、これは? 『天狗』という言葉はね、中国から入って来た言葉なの。元々は流れ星を意味していて、その読み方は……『アマキツネ』」 「――!?」 「書き換えれば、『天狐』だね」 ……なるほど。 「『玄中記』によると、狐は千年生きると天に通じて天狐となる。あの山の主――鈴蘭は天狐だし、天狗山の名が狐に由来するのは間違いないね」 「……? まるで、鈴蘭を知っているような喋り方だな?」 「そりゃ、鈴蘭の悪評は私の耳にも届いてたから。そもそも、あいつは『極東七天狐』の一柱。知らない方がおかしいよ」 何か、また変な言葉が出て来たな。 「極東七天狐、ってのは何だ?」 「その名の通り、極東の妖狐族を支配する七柱の九尾ノ妖狐の事。それぞれが北斗の星々に対応していて、鈴蘭は指す方角が不吉とされる北斗の剣先――破軍星」 うわぁ、ヤバそう。 「七天狐のほとんどは辺境の地で大人しくしてるんだけど、中には度々問題を起こして、呪徒にランクインしちゃってる奴もいるね」 「……異端審問部も苦労してんなぁ」 「連中が苦労するのは大歓迎だよ。それにしても……どうして、鈴蘭みたいな悪狐が試験に合格出来たんだか」 「――試験?」 「そ、試験。狐は泰山娘娘っていう神の試験を受けて、合格した者が仙道を修めて仙狐になるの。このレヴェルになると、もうどうしようもないくらいに強いね」 「じゃあ、鈴蘭はその仙狐なのか……」 ――って、ちょっと待て。 「……なら、『お化けにゃ学校も〜試験も何にもない〜♪』っていうのは……」 「大嘘だよ」 「…………」 うわぁ、滅茶苦茶ショック。 「でも、この事件に鈴蘭が関わってるとは限らないけど。あの山の神気を取り込んだ狐が、魔性化しただけかも知れないし」 マナの表情が、一転して真剣なものになる。 「とにかく、あの狐は私が討つよ。匠哉を襲ったからには、生かしてはおけない」 「…………」 ……驚いた。まさかこいつが、こんな事を言うとは。 「神はその信者や民が攻撃された時、報復するのが義務だからね」 「オイ。俺はお前の信者でも民でもねえ」 「という訳で、私は匠哉のために闘う。だから、勝ったら御賽銭を頂戴」 「人の話を聞け!」 ――夜。 「なぁ、マナ。こういう場合、役立たずで足手まといの俺は旅館に残るのが筋じゃないか?」 「自分だけ楽しようと思ったの?」 「……いや、楽だとか楽じゃないとか、そういう問題ではなく」 俺とマナは、月明かりを頼りに天狗山を登って行く。 夜中に登山……よい子は真似しちゃダメ、ってな感じだなぁ。 「じゃあ、どうしてしぃを連れて来なかったんだ?」 あいつはたらふく夕食を食べた後、じっくり温泉に入って、部屋に戻った。 今頃は、スヤスヤと眠っているだろう。 「しぃに頼ってばかりじゃ、いけないと思うの」 「つまり、お前のプライドがしぃを頼る事を許さなかったのか」 「……匠哉。物事を曲解するのはよくないと思うよ?」 「眼を逸らすな」 まったく……これで大丈夫なのか? 「――ストップ」 マナが手を伸ばし、俺を制する。 「……どうした?」 「前をよく見て」 眼を凝らして見ると……前方には、人が倒れていた。 俺達は、その人に歩み寄る。 「死んでるね」 「まぁ、これで死んでなかったらその方が問題だけどな」 倒れている男の胸元には、大きな穴が開いている。さらには、心臓がなかった。 十中八九、例の狐がやったのだろう。 「……マナ」 「うん、近くにいるよ」 嫌な風が木々の間を通り抜け、俺達を撫でる。 「――来る」 それは、どちらの言葉だったか。 次の刹那――巨大な狐が、正面の闇から跳び出した。 マナはそいつを迎え撃つために、一気に前に出る。 だが、それは大きなミス。 俺とマナの距離が離れるという事は、俺はバリアーの範囲内から出てしまう事になるのだ。 「……なっ!?」 気付いた時には、遅い。 俺の背後からも、狐の怪物が現れた。 そうだ――1匹だけだと思い込んでいたが、そうだとは限らなかったんだ。 2匹目の狐は、体当たりで俺を押し倒す。 そして――その爪を、振り下ろした。 「匠哉ぁぁぁッ!!」 マナの悲鳴じみた声。 だが、あいつがどんなに早く自分の相手を斃しても、俺を助けるのはもう無理だ。 (あ、何か昔の事を思い出す) 死ぬ間際に走馬灯を見るというのは、どうやら本当らしい。 高校の頃の記憶。中学の頃の記憶。小学の頃の記憶。その前の記憶。 最後に――生まれるより前の、記憶。 『大丈夫、貴方なら勝てる。男の子が女の子のために闘う時、敗北なんてあるはずがない』 ああ、そうだな。 こんな奴、エリンや魔王に比べれば――! 「それで、これはどういう事だ?」 「……それはこっちが聞きたいんだけど」 俺達の前には、狐の死体が2匹分転がっている。 1匹はマナが斃したんだろうが、もう1匹は…… 「やっぱり、俺がやったのか?」 「少なくとも、私の眼にはそう見えたけどね」 「……全然、覚えてないんだが」 「凄かったよ。左手で振り下ろされた爪を止めて、右手で狐の首を捻じ切ったの」 「…………」 何やら活躍したみたいだな、俺。 「まぁ、いいや」 「――いいの!?」 「本当はよくないんだが、今はやるべき事を優先しよう」 「……あ、そうだね」 俺達は、狐にやられた人の死体を見る。 「しかし、何で心臓だけ……?」 その疑問に、マナはすぐさま答えた。 「匠哉、荼枳尼天って知ってる? 日本では稲荷大明神と同一視される、狐の鬼神」 「ああ」 「なら、分かってるかも知れないけど――荼枳尼天は、人間の心臓を喰べる神なの。まぁ大黒天によって改心させられて、死んだ人間の心臓しか喰べなくなったんだけどね」 「狐の神様に倣ってる、という事か」 「うん。それに、心臓には血が詰まってるから。『霊』と書いて『チ』と読む事があるんだけど、この『霊』は霊格――霊的な力を表しているんだよ」 「……なるほどな。だから、化物は古今東西を問わず人間の『霊』を吸う。そして、己の力を高める訳だ」 「そうだね。他にも『大蛇』の『チ』とか、『蛇』を意味する場合もあるけど。ま、この事件には関係ないね」 マナは人の死体から離れ、狐の死体を調べ始める。 「これは……」 「どうした、何か分かったか?」 「うん。この狐達、分霊みたいなモノだと思う。簡単に言えば、本体の分身だね」 「分身、って事は」 「こいつ等が人の心臓を喰って得た力は、その本体に送られてるって訳だよ」 「…………」 本体とやらが何者なのかは、俺にも想像がつく。 「匠哉。知っての通り、この山には鈴蘭稲荷神社があるの」 「そうらしいな」 「――行くよ。付いて来れる?」 俺は溜息と共に、マナに言ってやった。 「当たり前だ。韋駄天はな、元は追う方が専門なんだぞ」 森の中を、走る。 怪しげな気配漂う暗い森を、ただただ真っ直ぐに。 ――すると。 「これは……」 俺達の眼前に、石造りの階段が現れた。 その階段には、朱塗りの鳥居がトンネルのように並んでいる。伏見稲荷大社の千本鳥居を模したものなのだろう。 何も言葉にせず、その階段を駆け登る。 ……徐々に、嫌な圧迫感が増してゆく。 この階段は本家の千本鳥居ほど長くはないらしく、しばらくすると頂が見えてきた。 俺とマナは、最後の鳥居を抜ける。 そこは――鈴蘭稲荷神社の、境内だった。 「――……ッ!?」 夜空からは、柄杓の形をした七つの目玉が、俺達を睨め付けている。 そして……一つの流星が、流れて行った。 「――来たな」 氷のような、声。 俺もマナも、何も言わない。いや、何も言えないんだ。 ――圧倒的な、闇の気配。 ガタガタと、俺の身体が震える。同じように、天地までもが震え始めた。万物が――目の前の存在に恐怖している。 信じられない……この世に、こんなモノが存在していいのか? 「まずは褒めて遣わそう、禍神の片割れに月読の一族の生まれ変わりよ。よくぞ、妾の分霊たる阿吽の狐を滅ぼした」 境内に立っているのは、女房装束――いわゆる十二単を纏い、左手に輝く宝玉を持った女。 だが、そいつは明らかに人間じゃない。頭から生えている耳は獣の耳だし……その背後には、九本の尾が孔雀の羽のように広がっている。 ――ドクン。 俺の心臓が跳ねる。それと同じリズムを刻みながら、七つの星が瞬いた。 女の絶望的とすら言える力が、俺達を威圧する。彼女の手にある宝玉が、月のように光った。 ……くそっ! 何だよ、コレは。まるで、喉元にナイフを当てられてるみたいだ……! 「……ッ」 マナは歯を食い縛りながら、蛇の如き眼で女を睨む。 こいつが、極東七天狐の一柱である祟り神――鈴蘭御前なのか。 「だが、ここへ来たのは無謀としか言えぬ。殺されに来たのか?」 「……笑わせないで。狐一匹を相手に、無謀も何もない」 マナが、鈴蘭に言う。 だが言葉とは裏腹に、その表情に余裕はない。 「ねえ、一つ聞きたいんだけど。どうして、分霊を遣って町の人を襲ったの?」 「妾が再起をするために、力を集めていたに決まっておろう」 「…………」 「何故、そのような分かり切った事を問うのだ? 全ての妖狐は荼枳尼の眷属ぞ、心の臓を喰らう事に何の不思議があろうか!」 鈴蘭は、天に向け笑う。 「……まぁ、何でもいいや。とにかく、貴方は私が殺すから」 「妄言を。いくら其方でも、半神を失ったその様で妾を討てるはずがあるまい」 「粋がらないでよ、小娘の分際で」 「……フフ。ところで、里からは九頭龍の気配がしたのだが……ここには来ておらぬのか?」 「貴方如き、私だけで十分。しぃの力なんて借りる必要はないよ」 「そうか。まぁ妾としても、あの荒ぶる龍神と争わずに済むのは僥倖だがな」 マナは一歩、鈴蘭との距離を縮める。 ――次の瞬間には、鈴蘭の懐に跳び込んでいた。 「は――ッ!」 放たれる拳撃。 それは、無防備な鈴蘭の身体に容赦なく突き刺さる。 だが―― 「――非力な」 鈴蘭に、それが通じた様子はなかった。 彼女は、身体どころか眉一つ動かさない。 「それが全力だとしたら、其方は死ぬしかないぞ」 「――ッ!?」 マナの身体が、弾き飛ばされた。 派手にバウンドし、地面を十数メートルほど抉った後、マナの身体はようやく停止した。 どうやら、鈴蘭は尾の一本を鞭のように使ったみたいだが――ちょっと待て、どういう事だ!? 「マナ! お前、バリアーは!?」 「……何だかよく分からないけど、結界が破られたみたい」 マナはゆっくりと、苦しそうに立ち上がる。 ゲホリと咳き込むと、地面に赤い雫が散った。 ……オイオイ、まだ一発しか喰らってないんだぞ? ライフル弾で撃たれても無事だったマナが、この有様……さっきの一撃、どんな威力だったんだよ? 「だから、無謀と言ったろう。輝ける明星の其方といえども、堕ちた身では仙狐を滅ぼす事など出来ぬ」 「貴方のような、危険な妖狐を放っておくなんて――泰山の女神は何を考えている……!?」 「この大和の事にまで、彼女が手を出す理由はあるまい。それに、稲荷の使い狐たる妾をどうにかすれば、それは大明神と争う事にもなりかねんだろうしな」 「……『虎の威を借る狐』、とはまさに貴方の事だねぇ」 マナは慎重に、鈴蘭との間合いを計る。 ……よくない状況だ。俺にだって、どう考えてもマナが不利だと分かる。 何か、何か打開策は……! 「大人しくしておれ、韋駄天脚。よからぬ事を考えなければ、其方の命は助けてやろうぞ」 「……ッ!」 クッ、完全に読まれてる。 だが、そう言われて大人しくなる俺じゃない。考えろ、考えるんだ。 「やれやれ。貴方、それほどの力を手に入れて、一体何をするつもりなの?」 「決まっておろう。現世の支配よ」 「…………」 「我が妹は安倍の陰陽師と武士どもに討たれたが……妾はそうはいかぬぞ。いずれは天津神々を弑し奉り、昼・夜・海の全てを支配し、この世の帝となってくれるわ!」 「……夢を見過ぎだよ。夢見る若者、って歳じゃないでしょ?」 鈴蘭はその皮肉に薄い笑みで答えると、再び尾でマナを打ち飛ばす。しかも、今度は九本全てを用いた連撃だ。 「かぁは……ッッ!!?」 地面に、マナの血が飛び散る。 「調子に乗るな。我等七天狐は、死の星神――北斗星君と契約を結びし妖狐の王。大和の旧き神とはいえ、其方の生死も我が手中にあると知れ」 「……ふん、冗談でしょ。死の穢れより生まれた私の生死が、道教の死神如きに――ましてやその力を借りているだけの子狐に、支配出来るはずがない」 再度、マナは鈴蘭に向かう。 前と思わせて後、左と思わせて右、上と思わせて下。 マナの縦横無尽な攻撃は、人間なら肉体を粉々にされるほどの――猛攻。 だがそれでも、鈴蘭は衣服すら傷付かない。彼女はひらりひらりと、それこそ天狗のように舞いながら、マナの攻撃を躱してゆく。 「なかなか愉快――牛若の稽古に付き合った天狗も、今の妾のような気分だったのであろうな」 「つまらない事を言わないでよ! 大体、義経は貴方の方でしょ!」 「……ふむ、確かに。フフ、これは一本取られたぞ」 鈴蘭の周囲に、狐火が灯る。 「一切、獄炎に付す……!」 狐火が、弾けた。 「――『仙狐花火』!」 鋼鉄ですら一息で融解するかと思うほどの、業火。それを、マナは力を振り絞って防ぐ。 「うああ……!」 炎に焼かれる、その寸前で――マナはどうにか炎を消し去った。 「往生際が悪い……」 鈴蘭は、左手に持った宝玉をマナに向ける。 「荼枳尼天よ。其方の主たる殺戮の神に、取り次ぎを願う――」 ……待て。宝玉に、荼枳尼天。 確か、荼枳尼天が左手に持つ宝玉は……如意宝珠だったよな。 だとしたら――今、鈴蘭が持っている宝玉も。 「――カーリィよ! この者の血を、御供として捧げん!」 凄まじい鬼気が、境内を包んだ。 不可視の斬撃が奔る。 全ては一瞬。マナは悲鳴を上げる事すら出来ず、ズタズタに斬り刻まれた。衝撃の余波が、周囲の木々を薙ぎ倒してゆく。 マナの身体から溢れた大量の血が、池のように地面に広がった。 「――マナ!!?」 「加減はした。そう簡単に死なせはせん」 鈴蘭は、血塗れで弱々しく動くマナに近付いてゆく。 そして――口裂け女のように、笑った。 ……しかし。 「お前の敗けだ、鈴蘭御前」 俺は、はっきりと宣言してやった。 「……何?」 「さっきの一撃で、マナを殺すべきだったな。そうしたら、この闘いはお前の勝ちだった」 一気に、地面を蹴る。 そのまま、鈴蘭の脇を跳び抜けた。 「――!?」 鈴蘭は背後を振り返るが、そこに俺の姿はない。フェイントだ。 刹那で正面に戻って来た俺は、背後に気を取られたままの鈴蘭から―― 「――貰った!」 宝玉を、奪い取った。 「な……ッ!?」 よし、さすがは俺。 十分な間合いを取り、俺は鈴蘭と対峙する。この距離なら、尻尾が飛んで来ても避けられる。 「ま、そうだよな。いくら人間の心臓を山ほど喰っても、それほど絶大な力を得られるはずはない」 「…………」 「これ、如意宝珠だろ? どんな願いでも叶えてくれるっていう秘宝。お前はこの宝玉からも、力を引き出していた訳だ」 鈴蘭は、殺気の篭った眼で俺を睨む。 だが、如意宝珠は俺の手にある。こっちの方が圧倒的に有利だ。 「如意宝珠は、一説によると釈迦の遺骨――仏舎利の事らしいな。じゃあ、ここで問題だ」 俺は、ニッと口の端を上げた。 「仏舎利が捷疾鬼に奪われた時、その鬼を追い駆けて仏舎利を取り返したのは誰でしょう?」 「……韋駄天……ッ!!」 「御名答。もう少し早く気付くべきだったな」 俺は手の中で、如意宝珠を転がす。 「では、正解者にビッグ・プレゼントだ。――マナ」 「……うん」 立ち上がったマナが、さっきまでとは違う余裕の笑みで鈴蘭を見る。 「この――ッ!!」 鈴蘭は再び尾で攻撃するが……今度は結界に阻まれ、マナには届かない。 ま、如意宝珠がなければこの程度か。 「さてと。私が受けた痛み、まとめて返してあげるよ」 突如、雷が光った。 「開け黄泉比良坂、来たれ八雷神――」 だがそれは天から地へと降るのではなく、地から湧き出る異形の雷。 「地の底より這い出し八匹の蛇よ、我は黄泉大神の言霊を借りて汝等を使役する!」 マナは言っていた。『チ』は『蛇』を意味する場合もある、と。 ならば――『雷』の『チ』も、『蛇』を意味するのだろう。 「穢れの神々の恐ろしさ、千度の死により刻み付けようぞ!」 雷が奔る。 八匹の蛇は一つの存在のように動き、鈴蘭に牙を向いた。 「き、貴様等ぁぁぁぁぁッッ!!!!」 「――『八岐厳蛇』!」 八頭の大蛇と化した八柱の雷神が、鈴蘭を呑み込む。 「あああぁぁぁあああああああああッッ!!!?」 ――天を貫くような狐の悲鳴は、閃光と轟音に塗り潰された。 「か、勝った……」 俺は、その場に尻餅をつく。 「思ったより苦戦したけど、やっぱり私の敵じゃないね」 この貧乏神、どの口でそんな事言ってやがるんだ。 ……とは言え、さすがは古き蛇の化身。まさか一撃で斃してしまうとは。 「つーかお前、無事なのか? かなり派手にやられてたけど」 「うん。残留してた鈴蘭の力を全部頂いたから、もう傷1つないよ」 「……チッ、面白くねえ」 「匠哉? 何か言った?」 「いや、何も」 ……それはともかく。 「コレ、どうしよう?」 俺は、手の中の如意宝珠を見る。 ……どんな願いでも叶えてくれる、か。何か、前にもそんなキャッチコピィの奴がいたなぁ。 「心配しなくても大丈夫。素人の匠哉に、ソレは使えないから」 「ま、そうだろうな。お前は?」 「無理。私、仏教と縁なんてないし」 「…………」 「でも、それは匠哉のものだよ。匠哉が鈴蘭から奪ったんだから」 「俺のもの……か」 ……売るか? いやいやいや、さすがにそれはダメだな。 「まぁ、後で考えるか。とにかく旅館に戻ろう」 「そだね。温泉に浸かって、疲れを落としたい気分だよ」 「……この時間じゃあ、温泉はもう閉まってるだろうけどな」 悪夢のような一夜が明けて。 俺達が、星丘に帰る日となった。 「では、またの御利用をお待ちしております」 女将さんに見送られ、バス停へと向かう。 ……しかし、今回もロクな事がなかったな。 やはり、どこに行っても俺は俺。『福』とは縁のない人間なのか。 「それで、鈴蘭を私が一方的にボコボコに――」 「おお、それは凄いのだ」 マナはしぃに自分の活躍を語っているが、明らかに事実と違う点がある。 ……もう、ツッコむ気力もないのだが。 「はぁ……」 お土産は、思い出と狐のキィホルダーと――如意宝珠。 結局、如意宝珠をどうするかは決まらなかった。しばらくは家に安置する事になるだろう。 ……家、か。 「ほら、お前等。あんまり喋ってると置いてくぞ」 バス停に辿り着く。ちょうど、バスが来た所だった。 ……さて。寄り道せずに、さっさと我が家に帰るとしよう。
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