――ヴァチカン市国。
 その一角――ヴァチカン図書館の館内に、シスターの姿があった。
 館内とはいっても、一般に知られている部分ではない。図書館の地下に存在する、影の図書館である。
 シスターの年齢は、少女と言ってもよい年頃だ。名は、マスケラ・ニィアーラ。
 彼女は禁忌の書物を収めた本棚に囲まれながら、ひとりページを捲り続ける。
 そう、この図書館に並んでいるのは、教皇庁ヴァチカンが異端とする禁書の数々だ。
 本来ならば焚書にすべき呪われた本のコレクションが、どうして寄りにも寄って教皇の御膝元であるヴァチカン図書館に存在するのか――その答えは、難しい事ではない。
 敵と戦うには、まずは敵を知る事が第一。この本達は、敵である異端を知るための教科書テキストなのだ。
 そして彼女は、禁書蒐集を司るヴァチカン図書館の闇の部門『汚濁図書室』のメンバーである。
「――さてと、そろそろ行こうか」
 マスケラは呼んでいた一冊の本――『死霊秘法ネクロノミコン』を閉じた。
 それを本棚に戻し、彼女は薄暗い部屋から去って行く。



「……おやおや、これは少し困ったな」
 マスケラはまったく困っていなさそうな笑顔で、そう言った。
 彼女は、とある人物を捜していたのだが――目的の少年は、ローマ市内の公園のベンチで寝息を立てている。
「穏やかな日差しの下での眠り……か。とは言え、よい夢を見ている訳ではなさそうだ」
 その言葉は、正しい。
 少年――美榊迅徒が見ている夢は、過去の悲劇の回想である。


ビンボール・ハウス12
〜白昼・夢中の夢幻〜

大根メロン


「はぁ……はぁ……!」
 十二歳の迅徒は、必死で森の中を駆けていた。
 前に見える、美榊家の屋敷。そこからは天に向かって煙が昇っている。
 迅徒は、ちょっとした用事で家から離れていたのだが――その間に、屋敷が襲撃されたのだ。
 火種はあった。美榊家は耶蘇教の家であり、教皇庁と深い繋がりを持つ。それを天皇家が疎ましく思っている事は、幼い迅徒も知っていた。
 迅徒は森を抜け、所々が炎に包まれた屋敷の正面に立つ。
「……ッ」
 迷っている暇は、ない。
「おい、あれは?」
「確か……この家の跡取り息子か」
 早速、迅徒の存在に気付いた襲撃者――黒い和装の者達が迅徒に向かう。
 だが迅徒は即座にその者達を折り紙で斬り刻み、歯牙にもかけず屋敷の中に跳び込んだ。
 近くにいた家人を、まずは助ける。
「――迅徒様ッ!」
「話は後で! 今は眼前の敵に集中しましょう!」
 迅徒は敵を屠り、味方を助けながら、屋敷を進んで行く。
 だが――戦況は、明らかに数で勝る敵が有利。
 いや、と迅徒は首を振る。
 何故ならこの屋敷には、『破邪の聖女』と称えられた迅徒の母がいるのだ。



 道場は、血の海となっていた。
 だがそれは、美榊の血ではない。襲撃者達の血である。
 その海の中心に、一人の女性が悠然と立っていた。数多の敵を血の海に沈めながらも、彼女自身は一滴の返り血とて浴びてはいない。
 胸元に下がっている十字架の輝きは、彼女の強さを物語るかのようだった。
「――母上ッ!」
 迅徒は、女性の元へと向かって行く。
 彼女は迅徒の母。今は亡き美榊家当主の妻にして、迅徒が当主の座に就くまでその代役を担う者である。
 名を――美榊静音しずねという。
「……迅徒? 戻って来たのですか」
「はい、家から昇る煙が見えたので」
「なら、そのまま逃げていればよかったものを。これでは、死にに来たのと同じですよ」
「しかし! 未熟とはいえ、私は美榊の跡取りです! 家の危機に己だけ逃げる事など出来るはずがありません!」
「……そうですね。貴方はそういう子でした」
 静音は一瞬だけ微笑んだが、すぐに武人の顔に戻った。
「それで……母上、この狼藉者達は?」
「皇居陰陽寮の陰陽師ですよ。耶蘇に心酔する家が大和にあるのは我慢ならぬと、天皇家が我々を嫌っているのは知っているでしょう。遂に痺れを切らし、お抱えの陰陽集団を差し向けた訳です」
「……下衆どもめ……!」
 迅徒は怒りを顔に浮かべながら、歯軋りをする。
「落ち着きなさい、迅徒。有象無象の妖術師如き、私の敵ではありません」
「あ……」
 その一言だけで、迅徒は全ての不安も恐れも失った。
 迅徒は知っている。静音はどんな強敵を前にしても、敗れた事などないと。
 そして――彼女はいかなる闘いに挑もうと、傷一つ負った事すらないのだ。



 それは、全てを押し潰す雪崩のようだった。
 静音は廊下を風のように走りながら、陰陽師達を美榊流折形術で蹴散らして行く。
 彼女の武器は、何の変哲もないただの折り紙。だが祈りが込められ、それを静音が操る時――折り紙は、軍勢すら滅ぼす兵器となる。
「まったく。中年間近のひ弱な女に、こんな重労働をさせないでください」
 数の差は倍ほどもあった。だがそれを、彼女はたった一人で埋めてしまったのだ。
「退けぇ、退けぇぇ! くそっ、シンは何をやっている!?」
 恐怖が、戦場を駆け巡る。
 静音は一睨みしただけで、十数人の敵を硬直させた。
 放たれる、手裏剣。
 音速を超えるそれは、生み出された衝撃波だけで敵を残らず虐殺する。
 しかし――味方には少しの傷さえも与えない。まさしく、神業だった。
「う、うわぁぁぁぁっ!!!!」
 もはや、戦いにすらならない。美榊静音が戦場に舞い降りた時点で、勝敗は決まったも同然だった。
「……凄い」
 迅徒は静音の後ろで、その超越的な強さを眼に焼き付けている。
「ぐっ……この鬼人め……!」
 ――鬼人。
 美榊家と敵対する者達は、彼女をそう呼ぶ。対峙した者にとっては、間違いなく人を狩る鬼の類である。
「怯むな、相手はただの女だぞ!!!」
 陰陽師達は、勇敢――あるいは愚鈍――にも、彼女の打倒を諦めなかった。
 勿論、彼等が放つ咒術による攻撃など、静音には届かない。
「尊き主の御加護を、そのような妖術で打ち破れると思いますか?」
 全ての攻撃は、彼女に命中する前に消滅する。
 咒術とは、日本の神々――即ち異神の力を借り、それを行使する事。
 だが静音は、大和の神を名乗る八百万やおよろずの悪霊どもを相手にしても、敗北する事はないのだ。その力を借りただけの技で、どうこう出来るはずがない。
 ダン――と、大地を砕くかのような踏み込み。
 彼女は一瞬にして、陰陽師達の眼前まで跳び込んだ。
 常人には知覚すら出来ぬほどの速さで、静音は敵を斬り刻む。
 時間にすると、ほんの十分の一秒ほどだろうか。
「……え?」
 それはまるで、映像のコマが飛んだように見えただろう。
 瞬きの間に全ては終わっていた。その場にいた二十数人の陰陽師は、自身の死を知る事すらなかったはずだ。
 もうここに、生きている敵はいない。
「……さて、次へ行きましょう」



 その大部屋には、十四人の陰陽師がいた。
 彼等は数多の家人を殺し、勝利気分で余韻に浸っている。
「フン、我等が陛下に逆らう愚か者ども……弱過ぎて話にならん」
「これなら、あの美榊静音とかいう女もたかが知れるな」
「まったくだ。谷部やべ、お前もそう思うだろう? ……谷部? おい、谷部!?」
 返事はない。
 それも当然。部屋の中にいる陰陽師は、十四人から十三人へと減っているのだから。
「何……!? 一体、どういう……!?」
「待て、衞藤えとうもいないぞ!」
 また一人、減った。
 陰陽師達は嫌な汗をかきながら、周りを見廻す。
 だが、不審な者は――いない。
「……おい。宮山みやまの奴は、どこに行った?」
 いない。いない。いなくなってゆく。
 誰の眼からも離れた者が、一人ずつ消える。
 残るは、三人。
「これは……何の、冗談だ?」
 一人が俯く。再び顔を上げた時、自分以外の二人が消えていた。
「あ……ぁあ……?」
 その時、ポタリと雫が落ちて来た。真っ赤な色の、雫。
 それが何かを知る前に、最後の一人は意識を刈り取られた。



 誰もいなくなった、大部屋。
 だが突然、静音が現れた。彼女は誰の眼にも入らぬよう、部屋の天井に張り付いていたのである。
 その、天井。
 そこには――十四の死体が、磔にされていた。



「……ッ」
 迅徒は思わず、身震いする。
 無論、敵を恐れての事ではない。彼が畏怖したのは――前方を走り迅徒を先導する、母である。
 静音が斃した敵は、既に百を超えていた。しかし彼女には傷どころか、疲労すらないように見える。
 ――まさに、鬼人。
「迅徒……止まりなさい」
 静音のその声が、迅徒の思考と足を止めた。
 何故か迅徒は不安になる。静音の声の様子が、いつもと違う気がしたのだ。
 迅徒は前を見る。
「……な」
 そこには、少年がいた。歳は迅徒とほとんど変わらないであろう、ただの少年。
 あまりにも、場違い。
「――なるほど、こりゃ凄ェな」
 少年は美榊母子を見て、ニヤリと笑った。
 その笑みだけで……迅徒は心臓を掴まれたような、とても冷たいモノを感じた。
「名を、名乗りなさい」
 静音は問う。
「名前、か……そうだな、シンとでも名乗るか」
「シン……?」
「ああ、言霊は『シン』。『シン』でもあり『シン』でもあり『シン』でもあり『シン』でもあり――」
 再び、魂に恐怖を刻む笑み。
「――『シン』でもある」
 シンと名乗った少年は、両の眼を爛々と光らせながら言う。その左眼には――瞳が二つあった。
 それは、重瞳ちょうどう。かつて、東洋の偉人達が持っていた神眼である。
「ならばシン。貴方はここで何を?」
「……はァ? 決まってるだろうが、殺しだよ殺し。皇居陰陽寮に雇われて、この家のゴミ蟲どもを踏み殺しに来たんだよ」
「…………」
「ハッ、眼に殺意が入ったな。いいぜいいぜェ! こういう、背筋を蛇が這い廻るみてェな感覚……たまんねェよなァァァァッ!!」
「迅徒、下がっていなさい」
 迅徒は素直にそれに従った。尋常ではない事が起きようとしていると、感じたのだ。
 そして――
「じゃあ死ね」
 シンの拳が、静音を殴り飛ばした。
「く……っ!」
 壁に激突する前に、静音は体勢を立て直す。
 だが静音は、立て直す以前に手裏剣を放っていた。
 とても吹き飛ばされながら投げたとは思えない、正確で強力な射撃。
 しかしシンは、それすらも軽く躱す。
「……何? もしかして、子供だと思ってナメてんのか? オイオイ勘弁してくれよ、そんなんじゃ次の一手で殺しちまうぞ? ほら気合入れろ、鶏を絞め殺すみてェに俺を殺してみろよォォォ!」
「…………」
「悲鳴が聞きてェんだよ、悲鳴が! 俺でもお前でも誰でもいいッ!! 黒板を思いっ切り引っ掻いた音みてェな、上質な悲鳴が聞きてェェッッ!!!!」
「……いいでしょう。美榊静音、参ります」
 静音の姿が、消えた。
 いや、消えたのではない。シンの背後に廻ったのだ。
「ハ――」
 シンの足元に向けて、手裏剣が撃たれる。
 シンはそれを跳んで躱す。勿論、空中で攻撃されたら避けられない事くらい分かっている。
 故に、追撃など不可能なほどの、瞬間的な跳躍だったのだが――
「――はっ!」
 静音にとっては、十分過ぎる隙だった。
 シンは跳躍の瞬間に、蹴りを七発も叩き込まれる。
 彼は一直線に飛ばされ、壁を突き破って消えた。
 だが――
「ヒャッハハハハハハハァァッッ!!!!」
 シンはまるで跳ね返ったかのように、そのままの勢いで戻ってきた。
 そして、静音に突進する。
 二人が激突。両者とも弾き飛ばされ、それぞれ着地した。
「アハハ! ソレソレ、あんたやれば出来る子じゃんかァ!! その調子その調子、いいカンジにスリル来たぜェェェ!!!」
「…………」
 静音の頬に一筋の赤が描かれる。
 その時、迅徒は初めて知った。
 ――自分の母に他の人間と同じく、血液が流れているのだという事を。



 炎は既に、迅徒達の周りにまで燃え広がっていた。
 しかし、彼等がそれを苦にする事はない。この二人の鬼気は、炎すら押さえ込んでいる。
「……って、ふと気付いてみれば、そこにいるのは美榊の次期当主じゃねェか。何てラッキィ、そいつの首を獲れば報酬の値が跳ね上がるぜェ!」
「――ッ!?」
 迅徒は、蛇に睨まれた蛙のように硬直する。
 シンは自分と変わらないように見えても、静音と互角に闘えるほどの猛者。迅徒など、刹那とかからず殺されてしまうだろう。
「迅徒、お逃げなさい」
 静音も同じ事を思ったのか、迅徒にそう指示する。
 だが――
「……いえ、やはりそこで見ていなさい。今から始まる――私の闘いを」
 すぐに言い直し、折り紙を取り出した。
「……母上」
「オイオイ、随分と余裕だなァ。後で後悔しても知らねェぞ?」
「心配無用ですよ。ここにこの美榊静音がいる限り、あなたの攻撃は一切迅徒へは届きません」
「なら、まずはお前を殺せばいい訳――だッ!」
 シンが、静音へと駆ける。
 ――しかし。
「何ィ……!?」
 静音は、するりとシンの攻撃から逃れた。そして、先ほどと同じように天井に張り付き、シンをそこへ引き上げる。
 空中という特異な環境で相手の動きを封じ、静音はそこを殺しの場とする。
 だが相手とて、動けないのは一瞬だけだろう。その間に、完膚なきまでに殺さなければならない。
 ――一斬。
 ――二斬。
 ――三斬。……まだ続く。
 一瞬を三十五に分割し、静音はその一瞬の間に三十五の斬をシンに浴びせる。
 ……だが。
「ヒィ――ヤッハァァァァッッ!!!!」
 驚くべき事に、シンはまったく傷を負っていない。彼は渾身の力を込め拳を振るう。
 天井が爆発したように吹き飛ばされ、静音の身体が床に叩き付けられた。
「か……っは……」
 静音は、血の塊を吐き出す。
「――母上ッ!!」
「来てはなりません!」
 思わず駆け寄ろうとした迅徒を一喝し、敵を睨む。
「いや、今のは凄かった。正直、これなら殺されても悪くねェかと思っちまったぜェ」
「……そんな」
 静音は、手裏剣を投じる。シンは避けようともしない。
 手裏剣が、シンの身体に突き刺さる……否。
「でもなァ……基本性能が違い過ぎるんだよ」
 手裏剣は衣服を貫いたが、シンの肉体にはまったく届いてはいない。
 皮膚に数ミリほど喰い込んだだけで止められ、ボトボトと床に落ちる。
「ウチの一族――田村家の先祖は、人と岩の間に生まれた半人だ。岩っつっても、金剛石の塊だって話だが」
「岩……?」
「そう。ある時自然の悪戯か何かで、とても美しい娘の姿をした岩があったんだそうだ。そして、その岩に一人の男が惚れちまった」
「…………」
「勿論、岩が想いに応えてくれるはずもねェ。だが男は諦めなかった。想って想って想い続けて、最後にはようやく想いが報われたんだよ。きっと、神仏が仲介したんだろうなァ」
「……なるほど、貴方の先祖は岩。それも金剛石だというのなら、私の攻撃が通じないのも当然ですね」
「ま、一族の中でも俺は特別だがなァ。何しろその力を恐れて、両親がまだ腹の中にいた俺に咒いをかけたほどだ。年中俺を眠らせて、力を封じるっていう咒詛をな」
「しかし、今の貴方は眠っているようには見えませんが?」
「たまに、こうやって眼が醒める事もあるんだよ。そん時は悪夢から開放されて、思いっ切り暴れるのさ。ちょうど今みてェになァ!」
 シンが、静音との間合いを詰める。
「させません……!」
 ――だが、彼の攻撃は静音まで到達しない。
 彼女は振り上げた右足の底を、床に打ち下ろす。
 衝撃が地震のように大地を震わせ、シンの動きを妨害した。
 静音はその隙にシンの背後に廻り、手裏剣を放つ。
 人間の二本腕から撃たれているとは思えないほど数は多く、しかも速い。
 しかし――それでも、シンは髪の毛一本すら落とさなかった。
 金剛石の硬さと肉の柔軟さを併せ持つ皮膚は、その凶器の暴風雨ですら傷付かない。
「ハッ! 効かねェっつってんだろが、耳悪ィのかテメエはァァァ!!」
 シンは手裏剣の嵐を平然と突き抜け、静音に迫る。
 彼女は逃れるため後方に跳ぼうとするが……遅い。
「捕まえたァ」
「……!?」
 静音と向かい合ったシンは、その右手で彼女の左前腕を掴んでいた。
 万力のように締め上げられ、あっさりと左腕は壊れてしまう。もう二度と、まともに動くまい。
 さらに、動けない静音をシンの右拳が襲う。
 それこそ金剛力士の如き、怪力の一撃が打ち込まれ――肋骨は砕け散り、内臓は潰れ、背骨までもが歪に曲がる。
「ぁ……っ!!?」
「そーら、もう一発ッッ!」
「……くっ」
 静音の決断は早かった。
 彼女は右手に持った折り紙で、シンに掴まれている左腕を肘から斬り落とす。
「――何だと……ッ!?」
 そうやって静音は拘束を外し、二発目から逃れた。
「ぐ……ぅ……っっ!!!」
 彼女は服の裾を破り、それを右手と口を使って左上腕に巻き、応急の止血をする。
 シンはその予想外の行動に、一瞬だけ唖然とした。しかしそれは、この二人の死合においては大き過ぎる隙だ。
 静音はシンを正面から押し倒し、右手だけでその首を絞めた。彼の両腕は、静音の両足がヨガのような器用さで押さえ込んでいる。
 いくら傷付かない身体でも、これは無効には出来ない。後は、このままシンの意識を落とすだけ――
「ハ……アハハァ……!」
 ――笑った。
 シンが口から、まるで弾丸のように何かを吹き出す。静音の超人的な動体視力は、それを小石だと教えた。
 静音は咄嗟に頭を動かす。おかげで、小石は僅かに頭を掠めただけで済んだ。
 しかしその隙間を突いて、シンは一気に上体を起こした。静音の身体が、勢いで遠くへ放り飛ばされる。
 彼女は、何とかバランスを立て直そうとするが――
「――遅ェよ、このゴキブリ女ァ!」
 シンの右足が鞭のようにしなり、蹴りとなって静音の脇腹に突き刺さった。
 さらに、シンはバク転の要領で両手を床につき……捻りを加えた両足を、静音の顎に蹴り込む。
「ぁ……っかは……!?」
 静音は天井まで弾き飛ばされ、ぶつかって床に落ちた。
「さぁーて、そろそろフィナーレだッ!!」
 シンは子供のように腕をグルグルと廻し、拳に遠心力を乗せる。
閻魔ヤマへの挨拶――考えとけ!」
 そして、それを静音に叩き付けた。
 普段なら楽々躱せるような、大振りの一撃。
「母上ぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッ!!!!」
 ――だが今の静音には、それを避ける力さえ残ってはいなかった。



「ヒャハハァ! あー、楽しかった」
 シンは顔を上げ、ヘラヘラと笑う。
 ……静音は壊れた人形のように動かない。床が、彼女の血で赤く染まっていた。
「何つーの? 強い奴の力を呑み尽くした満足? 自分がさらに高い領域へと上った快感?」
 ギラギラとした眼が、迅徒を見る。
「さて、次はお前の番だぜ美榊のぼっちゃん。ま、そんなに怖がらなくてもいいぜェ――死ぬまでは生かしておいてやるからなァァァッ!!」
 ゆっくりとした足取りで、シンは動けない迅徒へと近付いて行く。
 迅徒には分からない。一体、眼前のモノは何なのか。
 悪魔――いや、正しき信仰の前では悪魔など無力である。そんなモノに、一騎当千の静音が敗れるはずがない。
 なら、何なのか。いくら考えても分からない。
 正体不明の存在はヒビ割れのような笑みを浮かべながら、迅徒を殺そうとしている。
「オイオイぼっちゃん? 何ぼさーっとしてんだ、少しは抵抗しろよォォ! 根性が足りねェよ、親の顔が見てみてェなァァ!!! ホント根性足りねェよッッ!!!!」
 これが悪い夢ならどれほどいいか、と迅徒は思う。
「ああウゼェ! 大人しくなりやがって、テメェは屠殺前のブタかッ!? そんなにブタがいいならブヒブヒ鳴けよ、すぐに縊ってその声をステキな絶叫にしてやるッッ!!!!」
 シンが、迅徒に手を伸ばす。迅徒は眼をつぶった。
「……?」
 だが――いつまで経っても、迅徒の命が砕かれる事はない。
 迅徒は恐る恐る眼を開く。
 シンは、迅徒ではないどこかを見ていた。すぐに視線の先を追う。
 そこには、亡骸が立っていた。
「は、母上……ッ!!」
 ソレは、亡骸としか表現する術はない。あれほど傷付き出血すれば、人間は死ぬはずだからだ。
 しかし――それでも、美榊静音は立っている。
「……お前、何者だ?」
 その時、ようやくシンの顔から遊びが消えた。
 静音は、血を吐きながら答える。
「……私は奇跡です。子を護り一族を護り、あらゆる敵を滅ぼす――神の奇跡です」
「…………」
「覚悟なさい、異端の者。私はカミり、カミろす――この身は我が神と共にあります。敗北など、あろうはずがありません」
 静音が構えるのは、たった一つきりの折り紙手裏剣。
「……いいぜェ、決着付けようじゃねェかァ!」
 シンは、静音に向かって駆ける。まともにぶつかれば人体など軽々と粉々にする、砲弾のような突撃だった。
 対する、静音は――
「――我が想いに、貫けぬものなし!」
 手裏剣を持った右腕を大きく振り被り、上腕のみの左腕は前に突き出す。
 身体全体を砕けるほど捻り、引き絞られた弓のように力を凝縮させた。
 ――そして。
「美榊流折形術、陽之章其之一――!」
 捻りの反動で身体を廻し、右腕を振る力とする。
 さらには突き出していた左腕を一気に引き戻し、その反動も手裏剣を握る右腕に。
 抉るように腕を廻しながら――静音は、手裏剣を投じた。
「――『天降星』!」
 時間に最小単位があるのなら、手裏剣が奔った間はそれだろう。
 シンの体当たりが静音を弾き飛ばす。彼女の身体からは、肉が潰れる音と骨が砕ける音。
「フハハ、ヒャハハハハァァ――」
 笑うシン。
 彼の胸、ちょうど心臓の辺りには。
「凄ェよ、お前。ホントに凄ェ」
 ――手裏剣によって穿たれた、大きな穴が開いていた。



「ハハハハハッ! まさかこんな事になるなんてなァ」
 シンは胸から大量の血を流しながら、満身創痍の静音に話しかける。
 凄ェ凄ェと何度も言い、シンは高笑いをした。
「……まったく、凄いのはどちらですか。この私をこんなにボロボロにしたのは、貴方が初めてですよ」
「そいつァ光栄、ヒャハハハハ!」
 シンの姿が薄れてゆく。さながら、蜃気楼か何かのように。
「……? シン、貴方それは――?」
「ああァ? 何だァ、気付いてなかったのか」
 シンはその顔を、年齢に合わぬ残酷な形に歪め――
「お前の眼の前にいる、お前が死に物狂いで闘ったシンは――遠くから投影してるだけの、ただの『映像』だよ」
 ――絶望的な事実を、楽しそうに告げた。
 迅徒はその一言で、心臓が止まりそうになる。
「――……」
 静音はポカンと口を開き、
「……そう。ただの『映像』ですか。だとすると、『本体』は別のどこかで健在なのですね」
 と、呆れたような諦めたような溜息をついた。
「ああ。実際、俺には傷一つねェ」
「『映像』でそれほど強力なら――『本体』の貴方は、一体どれほどの力を持っているのですか?」
「……さぁね」
 シンの重瞳に、静音の姿が映る。
「さて、帰ってまた眠るとするか。じゃあなァ、美榊静音。お前はなかなか強かったぜェ、次に会ったらまた一戦だ。ヒャァハハ、次に会う場はあの世だろうけどなァァッッ!!」
 まるで、一夜の悪夢のように――シンの『映像』は、完全に消え去った。



「――母上!」
 迅徒が、床に倒れた静音へと駆け寄る。
「……切ないものですね。聖女だの鬼人だの言われて思い上がっていましたが、世にはまだ上がいるのですか」
「母上……母上」
「……迅徒」
 静音の手が、迅徒の頬を包む。
 彼女の手は温かい。今は――まだ。
「この屋敷から逃げなさい、迅徒」
「――!!? 母上それはッ!」
「私はもう駄目なようですから。まったく……あと十年ほど若ければ、もう少し上手く立ち回れたと思うのですけどね」
「そんな……そんな事を言わないでください! 母上は美榊家の守護者、破邪の聖女じゃないですか! その母上が、そんな、そんな……」
 迅徒の眼から、光るものが落ちた。
 ずっと我慢していた涙は、一度溢れ出したら止まらない。
「私の母さんが……私の誇りである母さんが、敵に敗れて命を落とすなんて、そんな事ある訳が……!」
「……御免なさい、迅徒」
 静音の答えは、その一言が全て。
「強くなって。私などよりも強く。もっともっと、上に」
「母、さん……」
「迅徒。母さんは主の御許へと行くわ。でも、まだ貴方は生きなければ駄目。若い貴方を死なせてしまったら、私はあの人に……貴方の父さんに、どんな顔で会えばいいの?」
「…………」
「多分、とても重い運命を背負わせてしまうと思うわ。だから、ここで枯れるまで泣きなさい。どんな辛い事があっても、もう二度と涙を流さぬように」
 頬に触れる手が、少しずつ温もりを失ってゆく。
「さようなら、私の大切な迅徒。でも大丈夫、貴方の事は……きっと、主が護ってくださるから……」
 手は迅徒の頬から離れ、力なく床に落ちる。
「……母、さん? あ、ああ……ああぁぁああああああああッッ!!!!」



 その後の事は、語るまでもないだろう。
 美榊静音という最大の柱を失った美榊家に、抵抗する力などありはしなかった。
 数百年の歴史を持つ美榊家は、こうして滅びる事になる。生き残った者は、ただ一人。
 美榊家次期当主だった少年――美榊迅徒のみである。






「…………」
 迅徒は眼を醒ました途端、気力とかをごっそり持って行かれそうになった。
 何故なら、ニヤニヤ笑いのマスケラと眼が合ってしまったからである。
 迅徒は再び瞼を下ろして夢の世界に逃げ込もうかとも思ったが、あんな悪夢を見た直後である。それは気が進まなかった。
 仕方なく瞳を開き、現実を直視する事にする。
「……マスケラ。他人の寝顔を観察するのは楽しいですか?」
「ああ、楽しいね。それが悪夢にうなされる顔なら尚更だ」
「…………」
 迅徒は1つ舌打ち。正直言って、この女は大嫌いだった。
「それで、どんな夢を見ていたんだい?」
「貴方には関係ありませんよ」
「おやおや、それはそれは。まぁ、予想くらいは出来るけどね」
 迅徒は心の中で七転八倒した後、自ら口を開いた。マスケラにこれ以上喋らせるよりはマシだと判断したのである。
「……美榊家が、皇居陰陽寮に滅ぼされた時の事です」
「フフ、やはりね。しかし……皇居陰陽寮に滅ぼされた、というのは少し違うだろう? 聞いた話でしかないが、アレは田村家の鬼子に滅ぼされたようなものじゃないか」
 勿論、それは迅徒も分かっている。あの男さえいなければ、美榊家が敗れる事はなかった。
「それで、マスケラ。貴方は何の用があって現れたんです? まさか、私をからかいに来ただけではないでしょうね?」
「それこそまさかだ。私はそれほどヒマじゃないよ」
 なら、どうして私を起こして用を済ませなかったんですか――と迅徒は思ったが、声にはしなかった。どうせ無駄だからだ。
「いつも通り、本の蒐集の依頼だ」
「……異端審問部は――と言うより私は、貴方のパシリではないのですよ?」
 迅徒は確信している。この女は仕事とか関係なく、趣味で本を集めていると。
「外聞の悪い事を言っちゃあいけない。これは、汚濁図書室から異端審問部天草隊への、正式な依頼だよ。まぁ天草隊とは言っても、メンバーは隊長である君しかいないがね」
「…………」
 迅徒は諦めた。色々と。
「私に来るという事は、目的の本は日本にある訳ですね」
「ああ。君にとっては……一応、仇敵との戦いという事になるのかな? 入手して欲しい本は、皇居陰陽寮が所持している『蟲鳴之書ちゅうめいのしょ』という咒術書だ。役行者えんのぎょうじゃが著したモノとされているが、大陸から渡って来た書物を訳しただけ――という説もある」
「――……」
「まぁ、今回はそう簡単に片付くとはこちらも思っていないよ。長期戦を想定し、正規の方法で入国してもらう事になるね」
「……いつもそうすればいいじゃないですか」
 以前、迅徒がリヴェンジャーズというテロ組織絡みで日本に密航した時……海上保安庁と繰り広げた死闘は、記憶に新しい。
「そんな面倒な事、毎回してられるはずないじゃないか。まぁとにかく、君は星丘市の日本支部に行ってもらうよ」
「……分かりました」
 星丘市と言えば、迅徒にとっても馴染み深い街だ。1年前まで、彼は星丘高校に通っていたのだから。
「そういえば私、もう1年もクラブをほったらかしにしてるんですよね」
「怖い後輩に見付かったら、間違いなく殺されるね」
「……そうならないよう、気を付けますよ」
 迅徒は、マスケラに背を向ける。
「ああ、最後に訊きたいんだが」
「……何です?」
「君は、あの男――田村シンと出遭ってしまったら、どうするんだい?」
 スッと、迅徒は眼を細めた。
「――殺します」
「今の君じゃあ、彼を殺す事は不可能だと思うけどね」
「ならば、私が殺されるまで闘います。奴は――家の仇ですから」
「フフ……素直に、母の仇と言えばいいものを」
「…………」
 迅徒はマスケラとの問答を止め、その場から歩き去って行く。
 向かうは――因果の街、星丘市。
「さて、行きますか。『彼女達』との交戦も、考えておかなければいけませんね――」





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