「覗きは犯罪!」 本日の名言:一般人相手に殺戮コンボを決めたオカマの台詞。 朝の日差しが差し込む時刻、豪邸のエントランス大階段下段には使用人たちが集い、整列する。 「おはようございます。お嬢様」 使用人たちがきっちり、四十五度に腰を曲げて挨拶した。その対象は階段を下りながら、 「おはようございます。みなさん」 身なりを整えた桜丘真紀だ。彼女が使用人の前を通りかかったとき、一人の使用人が前へと出て道を塞ぐ。 「お嬢様、お話しが……」 「お父様からでしょう。あの方は娘の機嫌が金で買えるとしか思えないのかしら?」 それだけで終わった。 「ところでお兄様は?」 「誠二様ならば昨夜、仕事の為にと出かけ……」 「また? お兄様もなんど浮気すれば気が止むのかしら? お義姉様に知られたら、また入院することになるのに。……お兄様のヤンデレ嗜好にも困ったものですわ」 呆れ顔で桜丘は色々な事に思いを馳せる。誠二が入院するのは構わないが、その余波を受けるのは御免だ。 どう回避するかを考え始めたとき、また別の使用人が彼女の足を止めた。 「お嬢様。ご学友よりお電話です」 「誰?」 「はい。秋村様です」 「あの男が……? 貸しなさい」 はい。と使用人が携帯電話を渡してくる。 するとすぐに男性の声が受話の向こうから響いてきた。 『お前、携帯電話くらい持てよ。金持ちなんだから』 「それを持ったら最後、使用人たちから一日千通以上のコールが鳴り響くだけですわ。衛星捕捉機能で現在地点も監視されます」 『前者はともかく、後者はいつもの事だろうが』 「くどいですわ。それよりも本日はなんの用件で?」 『ああ、お前も参加するんだろ? 季節はずれの運動会に』 「もちろんですわ」 『だったら止めろ』 「どうして?」 『こっちを手伝って欲しい』 「……成る程」 携帯電話の通話を切る。 「お嬢様」 「くどいですわ」 桜丘真紀に迷いは無い。 蓮井市議会よりプロジェクト中止が勧告され、午後十時、蓮井博士がプロジェクト資料と研究成果の破棄を決断。 研究所西にある人工菜園にて念願の桜の木が開花。私は検体39に名前を与え、私生児として兄さんに検体39を託す。 午前零時をもってルシファープロジェクトを永久凍結。最後の悪あがきとして手元に残ったデータの全てをインターネットに分解流出した。 ≪東雲桜の日記より抜粋≫ 蓮井総合病院の五階、面会謝絶の札が掲げられた一室に二人はいた。一人は丸椅子に座る長躯の青年、一人は寝台に横になる肩まで伸びた黒髪の少女だ。青年は右手に茶色く黄ばんだA4ノートを持っており、そのページを開いて少女に見せている。 「というわけなんだけど?」 「へ〜」 軽く生返事して委員長の言葉を聞き流す。 「おや? 信じないの?」 「いや? 信じてるぜ?」 旧市街での戦いで発見された地下研究施設、その施設内にある東雲桜のデスクに隠されていた一冊のノート。状況からこのノートが母親の日記帳であることは間違いが無い。 だとするなら、 「俺はその超悪魔なんとかの実験体か、末恐ろしい事実だな」 ノートの記述を信じるならば、東雲咲哉は間違いなく検体39である。 「東雲君。そこは動揺したりする箇所だよ?」 「最近気付いたんだが大切なのはポジティブだ。ネガティブなどなんの役にも立たん。泥沼にでも棄ててしまえ」 「そうなのかい」 「そうだ」 重要なのはこれからだというのにこんな事実が何の役に立つという。 だからというように東雲は話題を切り替え、 「何しに来た? まさか、これだけの為じゃないんだろ?」 「もちろん」 長躯の青年はノートをパラパラと捲り、 「つまりは東雲君の中の姫様の使い方かな? ――ほらここ見てよ」 開いたページには超悪魔素子についてと書いてある。 ≪超悪魔素子は個人の成長過程においてその固有能力を変化させる可能性有り≫ さらにページを飛ばし、 ≪検査により超悪魔素子が検体39の遺伝子に馴染んでいない事が判明≫ ≪実験により検体39は本能的な喜怒哀楽で超悪魔素子の能力を引き出している≫ ≪検体39の超悪魔素子は感情の昂ぶりに刺激されている≫ ここから推察するに、と青年が呟き、 「東雲君の姫様は喜怒哀楽の感情に反応している可能性が高い」 「それは推察じゃなくて事実だろうが」 ページにそのまんま書いてあるのだから間違いはない。 「まあまあ、事実を再度確認する作業は重要だよ。知らない事実に気付くときもあれば覚悟を決めたりも出来る。――脱線したけど本題に入ろう」 青年はさらに進めて一つのページを示す。 ≪感情を極めた時、検体39の超悪魔素子は解き放たれる可能性が高い≫ ≪検体39には私こと東雲桜の血が流れている。東雲家の血筋は殺意に応じて実力が発揮される為、予想では殺意が極まった時に検体39の真価が発揮されるだろう≫ 「つまりは殺す気で戦えば覚醒すると?」 いいや、と委員長は否定。 「スカウターからの情報では桜姫が覚醒したのは三度ある。つまり、君の殺意が極まる前から姫様は覚醒している」 それはどういうことだ。いや、答えがあるとすれば一つ。 「単なる読み違いだろ?」 実験においての予測の読み間違いはよくある事だ。 それを委員長は首を振って否定。 「東雲桜は読み違えてないよ。確かに殺意に関係なく桜姫は三度覚醒した。だが報告によると三度とも実力にバラつきがある」 委員長は拳を目の前に突き出し、人差し指を立てる。 「先ずは最初の覚醒、これは夏休み前のラハウン事件の時だね。君は人形君の一撃で意識を失い桜姫が出てきた。このときの桜姫の戦闘能力はお粗末にも強いとは言えない、なにしろ桜丘が余裕勝ちするぐらいだ。まあそれでも一般レベルでは十分に強いんだけど」 中指を立てる。 「次の覚醒は補習講義の時。報告では君は西村の一言が原因で桜姫を表に出した。このときの桜姫の実力はA級の西山が手こずるぐらいだ」 薬指を立てる。 「最後の覚醒は孤島の時。このときの実力がたぶん一番強かった。なにしろA級状態の川相君が苦戦して倒しきれなかった黒鳥を完膚なきまでに倒したぐらいだ」 「――それで? それから何がわかるんだ?」 「つまりは感情の大きさが桜姫の実力を左右している」 立てた指を下ろす。 「いいかい東雲君。もし、もしも君が感情をコントロールする術を身につけた場合、それでちゃんと桜姫の実力が発揮されるのか? それが問題なんだ」 「なに?」 「感情のコントロールはある意味で感情を殺す事に等しい。それで殺意を極めても君の中の桜姫が実力の全てを発揮できると思うかい?」 それは、どうなのだろうか。 確かに感情をコントロールして殺意を極めてもそれは正しく感情が発露した結果とは言い難い。 東雲は難しい顔で悩み始める。それを見て委員長は苦笑、そして告げる。 「だからこれから東雲君には感情をコントロールする術を身につけてもらうよ」 「っておい! なんだよそれは?!」 「? だから東雲君には感情をコントロールする術を……」 「その理由を言え!」 その一喝で委員長は、ああ、と理解する。 「簡単だよ。例え中途半端な覚醒でも今の君よりはるかに強いから。……そして今は強力な戦力を必要としている」 「霊歌様の予言の事か」 「ああ。きっと相手は黒鳥と白鳥の事だろう。……黒鳥は既に君が、いや桜姫が倒した。だが、それでも白鳥とその仲間が残っている」 「その仲間?」 うん? と委員長が僅かに疑問がり、すぐにそうかと納得する。 「君は知らないだろうけど、先日、蓮井銀行に強盗被害にあった。……だが現金は盗まれていない。盗まれたのは地下金庫に封印されていた設計図らしい」 (設計図?) なんだよそれ。と委員長に尋ねれば、彼はノートのページを戻して二十五日のページを見せる。 ≪次代のために検体14の遺伝子構成を設計図に記す。午後九時に蓮井銀行地下金庫に赴き封印を完了する≫ 「話しによると、犯人は赤いツーピースで首に青いチョーカーを巻いた女と青いスーツで首に赤いチョーカーを巻いた男らしい」 「……なんつうか、見たまんまじゃねぇか」 だよね。と委員長ははにかんで笑顔。 「でも、これで白鳥たちの目的は判明したよ。彼らは君の母親がインターネットに分解流出したプロジェクトデータを見つけたんだろう」 「そしてそれを悪用しよう、と。なんというか傍迷惑な連中だ。……まあ、俺の母親が元凶なんだが」 東雲は失笑。 「とにかく君には明日から感情をコントロールの訓練をしてもらう。そしてコントロールした感情で桜姫が発動しない場合は別の手段を考える」 感情のコントロールは一週間もあれば少しは様になるらしい。 「そんなわけでお前は明日から感情のコントロールを修行しろ」 告げたのは蓮井の黒い制服を身に纏う青年、秋村修治だった。 彼は手に数枚のコピー用紙を持っている。 そして告げられた相手は、 「なんで俺がそんな面倒な事を……」 寝台で愚痴を零す少女、マガだった。 「仕方ないだろう? お前の変身能力はイメージが肝心だ。なのに、お前は感情制御が下手だ。それじゃ変身能力は全開にはならない」 秋村は手元のコピー用紙をぱらぱらと捲り、 「ここにも書いている」 ≪狼男の変身能力を発揮するにはイメージ喚起は必要不可欠≫ 「……」 それを見て押し黙る。 「とにかく、一週間もあれば感情コントロールはある程度形になる。そうすればお前のイメージ力もマシになるだろう」 「……分かった。けどどうやって感情コントロールの修行するんだ?」 簡単だ。と秋村は床にあるサックから動物図鑑とスケッチブックを取り出す。 「先ずは四十五分、図鑑に載っている動物を模写しろ。そうすれば集中力が高まる」 秋村はさらにサックから秒読み時計を取り出し、寝台の横にある机に置く。 「四十五分ごとに時計が鳴るから、その都度十五分間休憩しろ。それで消費した精神力は回復する」 いいか十五分だぞ。と秋村が念を押す。 「それを八時から初めて一日四回、朝から昼までやれ。基本的にこれで下地は完成する」 要は学校の授業だな。と秋村は呟いた。 秋村の呟きを聞き取ったマガは嫌な顔で一言。 「そんなんでイメージ力が上がるのかよ?」 「上がるさ。傷の完治というオマケ付きで」 マガは一時、不可思議な表情をした。 「どうして傷が治るんだよ? イメージ力とは関係ねぇじゃん」 「関係あるさ。気付いてないだろうが、お前の治癒能力の高さは変身魔術が発端だ。身体の構成を書き換えるのが変身魔術……、ならお前が無傷の自分をイメージすればそれに合わせて変身する。つまりはイメージ力が高まればそれだけ早くお前の傷は治る」 現実にマガは数日前に背骨が砕けたとは思えないほど元気だ。 じゃあな。と別れの挨拶をして秋村は病室から出ようと立ち上がる。 「どうして俺に協力するんだ?」 立ち上がった秋村に尋ねる。それは当然の疑問だった。 「おかしいだろ? 俺はテメェに協力するとは言ってない。なのにどうしてこんな事をする? ……まさか、礼に俺が協力するとでも思っているのか?」 どうなんだ。と問う。 その問いに対し、秋村は明確に答えた。 「理由は一つだな。お前が俺に協力するからだ」 「だから俺は協力しないと……」 「なら居場所も無く此処に留まるのか?」 秋村は一言でマガを黙らせる。 「お前が拠り所にしていた魔術師組合は既に無い。そして此処にはお前を知るものは一人もいない。……俺とお前を倒した奴を除いて」 それでも、と秋村は告げ。 「お前は此処に留まるのか? まあ俺はそれでも構わない。元々、拾えたらラッキー程度の事だからな。……だが拾えれば俺はお前を確実に必要とする」 必要とする。 その言葉をマガは昔に聞いた事がある。 『貴女は必要です』 かつて魔術師組合に言われた台詞と同じだ。だが響くものは違った。 (俺は……) 物心ついた時から魔術師組合の妖精として仕事を引き受けていた。だが、それはマガという個人を必要としたのではなく、変身魔術という異能を必要としていた。 (こいつだってそうだ) 秋村が目をつけているのは変身魔術だ。だから、マガ個人を必要としているわけではない。 「……お前だってそうだ。どうせ俺の魔術がほしいんだろ?」 それを聞いた秋村は、 「当たり前だろ?」 平然と答えた。 「……は?」 「俺が欲しいのはお前の魔術だよ。……まあ戦闘能力も欲しい。が、やはり一番は変身魔術だな。修行次第で融通の利く便利な力になる」 「テメェ。……それを本人の前で言うか」 呆れた風にマガは呟く。 「ん? 俺は言うぜ? へんな期待持たせても意味ないからな。……それに俺につけば裏切られる心配はなくなる」 「なんでだよ?」 「見れば分かるだろ? 俺にはお前らのような力が無い。だからどう頑張ってもお前らを裏切る事は出来ない。なにしろ裏切った瞬間に命の危機が来るし、切り抜けても戦力が無ければ何も出来ない」 ならば俺から裏切る理由は無い。と秋村は括る。 それはマガにとって理解できる範疇ではなかった。 そして秋村は病室の入り口を開き、 「とにかく明日から精神力の修行を始めろ。そうすりゃお前自身の心も鍛えられて答えも出るだろう?」 それだけを言い残して秋村は病室を出た。 青年が去った病室では少女が悩んでいた。 「こんなことで本当にあいつを引きずり出せるのかよ……」 その悩みは一つ、委員長が言った感情コントロールの訓練法だ。しかし、今は言われたことをやるしかない。 『いいかい? 感情コントロールの第一歩は呼吸だ。意識して呼吸を行い、それを繰り返す。そのためには先ず呼吸法を確立しないといけない。そのためにも君には呼吸を四回に分けて行ってもらう。最初に十秒かけて息を吸う、次に十秒間精神統一、そして十秒かけて息を吐いて、もう一度十秒間の精神統一。基本はこれだけ』 大きく呼吸をする。 『精神統一は桜姫が完全に出てきたと思われる孤島での黒鳥戦を思い出すといい』 精神統一の為に孤島での戦いを思い出す。 あの時は鉄野も犬飼も役に立たなかった。連れてくるんじゃなかったと後悔した。その後、黒鳥と遭遇した。そして、 「!」 来る。底知れぬ嫌な感じだ。 まるで体中に得も知れぬ粘液が纏わり付くような感じ、そうして思い出しただけで背中に冷や汗が浮かんだ。 『それっぽいのが来たら、精神統一を止めて息を全て吐く』 ネトネトとした心の感触を振り払う様に吸った息をゆっくりと吐く。 『息を吐いたら今度は良い思い出を思い出して』 良い思い出。 初めてゲームセンターに入ったとき、自分の知らない世界が広がった感覚を思い出す。 『それを繰り返せば、意識して呼吸した時に反射で嫌な事を思い出せる様になる。そのとき相手へ殺意を向ければ、君の中の姫様が顔を出す筈だよ』 だが、今は殺意を向ける相手がいない。 とにかく繰り返す。 ただ呼吸をしているだけなのに体中に疲労が蓄積されていく。だが留まらずにさらに繰り返す。そうしなければいけない理由があるからだ。 この蓮井市で何かが起こりつつある。それが母親の遺したものが原因だというならば、 (それの尻拭いは娘である俺の仕事だ) 呼吸を続ける。 (呼吸すんのがこんなに辛いのかよ) 何十回と繰り返す内に吐き気を催し始め、心に感じる苦しみが増していった。 苦しい。 去年の風紀委員強化合宿でもここまで苦しくは無かった。いや、あの時は肉体苦痛が酷すぎて苦心に気付かなかっただけかもしれない。 今は違う。 肉体的疲労が無い以上、苦心を感じる感覚はより鋭くなる。そうすれば現在の状況に違和感を覚えるのが人の性だ。 (どうして俺が苦しむ必要がある?) (本当に桜姫は俺の中にいるのか?) (どうして俺が親の尻拭いをする?) (本当に超悪魔素子の検体なのか?) 複数の悩み。それが一気に思考に押し寄せてくる。それは呼吸法の邪魔となる。東雲は一度頭を振って精神を統一、そして僅かに思考がクリアになった。 刹那。 『貴女は勘違いしています』 (……あ?) 耳元に囁くように響いた女性の声、それが誰の声かは分からなかった。 それが誰の声かは分からない。しかし、 「ッ?!」 攻撃されたのは確かだ。 斉藤は暗闇の中、意識を馳せる。いきなり景色が見えなくなった。それも視界が遮られているわけではなく、視界そのものが消失した感覚に近い。そして攻撃された。 目前、何者かがいる。気配では分からないが、剣士の直感が悟らせていた。 「なにものですか!」 言葉を放って敵を探るも、一向に見える気配は無い。 「覚えてないか。……まあどちらにせよ長くは持たないからいいがな」 声が聞こえた。 それがどういうことかは分からない。分かるのは相手に戦う闘志があり、自分の視界が囚われているという現実。そして敵が強敵だと告げる剣士の直感だ。 抜刀する必要がある。 背に佩びるは草薙級一番刀紅丸。触れればそこに紅丸の鞘の感触が手に返る。見えぬ剣の柄を握りながら、思うことはただ一つ。 (持たないかもしれない……) 心金が限界に近づいている。錆びや刃こぼれではなく心金、それは刀そのものの寿命が尽きかけている証だ。 (でも抜かないと……) 勝機が生まれない。いや、勝機を作り出せない。 相手はそう感じずにはいられないほどの猛者だ。だとしたら抜刀するしかない。 (もって紅丸!) 霊歌の予言は着実に近づいている現状、もし紅丸の寿命が尽きれば自分は戦線に参加する事は出来ない。それは剣士の矜持が赦さない。 「!」 勢い任せに鞘から刃を弾き抜き、見えぬ相手に切っ先を向ける。 「赤い刀か」 やはり視界が見えていないのはこちらだけだ。だとすればこの暗闇は相手の能力に関係している可能性が高い。 腰を引いて下段を構える。 見えない以上、不利は確実。だが斉藤は低く笑い。 「テメェをぶった切ればこの暗闇を晴れるんだろ?」 思いを吠えるのが言葉の務めだ。 (見えないのは不利だが攻撃してくれば場所は判明する) 相手が見えずとも攻撃を受ければ、それは見えた事と同義だ。相手の攻撃を受けたときこそが自分の攻撃を繰り出す時だ。 (さあ来い) 若干の嬉々を感じながら斉藤は戦いの坩堝に嵌っていく。手にした愛刀がもはや風前の灯だと知りながらも。 「来ましたね」 気付いたとき東雲は真っ白の中にいた。 真っ白。 まさにその表現が似合う空間だ。 (どこだ……?) 東雲は今まで病室の寝台で感情コントロールの訓練をしていたはずだ。それにも関わらず今は知らぬ場所にいる。 大空を見上げれば遠く見た事のない黒い太陽が浮かんでおり、その隣には線だけの満月が黒い太陽の衛星として周回している。 大地を見下げれば白と黒の百花繚乱が散りばめられており、正面を向けば淡い色の桜の大木がその蕾を咲かせようとしていた。 そして大木の下に一人、 「久しぶりですね」 東雲より頭一つ高い女性が優美に微笑んでいる。 その女性を東雲は知っている。とても近くそして遠い存在。しかし、その名前だけがどうしても思い出せない。 (誰だよ、お前?) だから東雲は必然の疑問を尋ねる。だが、女性は横に首を振った。 「それは貴女も知っていますわ」 女性はそう答えて桜の大木を見上げ、その樹木の表皮に手のひらを当てる。 (?) 手のひらが触れた箇所が硫酸でも浴びせたかのように溶けていき、ものの数分で桜の木は灰色へと枯れてしまった。 女性は失笑し、 「これが私の嘘、貴女が私に押し付けた本質、私が貴女に返すべき事実」 女性が手のひらを桜の木から離す。 しかし、枯れた樹木が枝に付けた桜の蕾を花咲かすことは永遠にないだろう。それを自覚すれば胸にモヤを感じた。 「貴女は私を偽っています」 女性は枝にある蕾に触れて、その枝ごと蕾を剥ぎ取る。そして剥ぎ取った命の息吹を女性は躊躇いなく白い地面に捨て去った。 「貴女が私を偽らなくなったとき、私は貴女に服従できます」 (なんのことだ?) 女性は眉尻を下げて寂しそうに微笑む。 突如。 真っ白な世界が終わりを告げた。 今まで大地に芽吹いていた百花の輝きは失われ、黒の太陽は白い斜線にひび割れ、周回する衛星の月は太陽へと呑み込まれる。 終息する世界は留まる事無く枯れ果てていく。その中心、桜の木と女性も一緒に。 (! 待ってくれ! 俺はまだアンタに聞きたい事が……!) 「私と貴方はコインの裏表ではありません。何故なら私が■■の■■■■なのですから」 女性の最後の声はか細く、聞き取れないほどに小さかった。 (待ってくれよ!) だが、世界は終わる。 「待って! 待ってよ! 私には紅丸が……!」 必要。という台詞は間に合わなかった。 その前に赤みの刃はその刃先から横に砕けたからだ。 折れた刃はまるで流砂のように赤い飛沫を散らせていく。 その情景の下、少女が一人。 少女は泣き伏すでもなく、ただ呆然と立ち尽くす。 少女は長髪をそよ風になびかせながら立ち尽くす。 少女は目前で過ぎ行く事実に抗えずに立ち尽くす。 そして少女の足下には青年が倒れていた。 伏す青年は傷ついており、その肩には両腕が無かった。 そして、呼吸もしていなかった。 だが、少女は青年を気にも留めない。 眼前で崩れいく愛刀の末路を見つめ続けて、 「あ、あぁあぁぁああっぁあぁぁぁあっぁぁぁぁあぁぁぁっぁあぁああっあぁ!!!」 悲鳴とも発狂とも取れる叫び声を夕暮れ空に木霊させた。 「!」 東雲が現実に回帰したとき。 「お帰り。姫様はどうだった?」 声を掛けてきたのは丸椅子に座る風紀委員会委員長だ。 彼は左手の果物ナイフで右手に持った紅い林檎の皮をスルスルと剥いている。その手つきは慣れたもののそれだ。 「……」 東雲は事態についていけずに押し黙り、すぐに強い視線で委員長を睨みつける。 その視線を受けた委員長は苦笑、 「そう怒らないで。君のためを思ったら、ね?」 だが、東雲は睨むのを止めはしない。 「黙っていたのは謝るよ。どうしても確かめたくてね?」 剥き終えた林檎を紙皿に置き、綺麗に等分し切り分けていく。 「君の中には姫君が居る、にも関わらず君は君だ。これが引っ掛かっていた。どうして君の中の桜姫は君の中に居ることよしとするのか」 等分された林檎のカケラは紙皿に並べていく。 「いいかい? 桜姫は明らかに君より強く、生命の危機には必ず出現している。君の上位人格と言っていいだろう。……だが、その上位人格は君を押しつぶす事もなければ、君の心を壊す事も無い」 何が言いたい、と東雲は双眸の視線だけで尋ねる。 委員長は林檎のカケラを頬張りつつ、 「簡単に言うなら、どうして君が今のままでいられるのか? だよ。……君が君であることは誰の目にも正しい。そして桜姫が表に出る事が出来ないとは考え難い。だとすればどうして桜姫は表に出てこない?」 その理由を東雲は考えない。 何故なら既に答えは胸の内に秘めているからだ。ならば必要となった時にだけ思い起こせばいい。だから、東雲は沈黙する。 「うん。やっぱりそうだったのか」 東雲の取る態度に納得した様に委員長は頷き、林檎の並んだ紙皿を少女の前に置く。 先ほどまでとはうって変わって真剣な表情を浮かべて、 「さて君にはもう一つ報告がある。……先ほど霊歌様の予言が確定した。それで季節はずれの運動会が十日後の八月二十日に旧市街で開催される。競うべき相手組織の名は網羅、……間違いなく奴らだろう」 それでは、と委員長は丸椅子から立ち上がり、威圧的な目つきで東雲を見下す。 「風紀委員会委員長の権限において、今より風紀委員会書記官東雲咲哉の自由行動を認める。そして今より九日後の八月十九日、旧市街にある旧蓮井学園木造校舎前に集合。そこで対網羅大規模戦闘行為についての概要を説明。同日、網羅が到着次第、対網羅大規模戦闘行為許可が生徒会執行部より下される。以上だ」 「了解」 素っ気無くそれだけを返して、東雲は目の前の紙皿から林檎のカケラを摘んだ口に運ぶ。 シャリシャリ、と咀嚼しながら眼光に力を籠めていく。 その眼差しを見た委員長は口元を綻ばせて、 「それじゃ僕はやるべき用事があるんで。……開会式の時間には遅れないように」 「了解」 やはり、素っ気無く返してから次の林檎のカケラを摘んだ。 通達:八月二十日、旧市街にて季節はずれの運動会が行われます。 参加希望者は開催日時までに蓮井旧校舎に集合してください。 また当日の闖入も可、ジャンジャンバリバリ参加しましょう。 (蓮井学園体育祭実行委員会より) ≪桜咲き誇る真夏の夜まで残り十日≫
|