「ぬを!? これがバリトンボイスの威力か!?」 本日の名言:コーラス部と決闘中の剣道部主将の台詞。 誰もが口にした。何故僕らは此処にいるのかと。 誰もが口にした。僕らには自由があるべきだと。 誰もが口にした。夏休みとは自由であるべきだ。 「ふふ? 補習組みに自由などありませんよ?」 教師は残酷な事実のみを告げてくる。しかし、事実は決して覆る事がなかった。 何故に赤点を取ったのか。 何故に補習に甘んじるか。 何故に夏休み登校なのか。 感動超大作「夏休みに吠えた少年と叫んだ少女」夏季公開予定。 「ではコレを今日中に提出してくださいね?」 落書きしていたら教師に追加プリントを出されてしまった。 太陽は高く昇天し、その威圧を燦々と地上に撒き散らしている。窓の外を覗けば、その日差しを真正面に受けた野球部や各運動部はボルテージを沸かせている。 「相変わらず元気だよな体育会系。どうせ負けんのに」 そして窓の中には堕落した学生が一名。 黒板に書かれた文字群の板書を諦め、肘をついている。 「たく、ありえねーよ。なんだよこの数字の羅列、俺はアルバートやアイザックじゃねえってのに。覚えてろ教育省」 天才と自分を比較しながら国家権力に喧嘩を売るのは東雲咲哉だ。また教室には彼女のほかにも数名の生徒が単位不足の補習組として参加しており、彼らの補習を担当しているのは美女と評判の教師、柊麻耶である。 「センセー、サっちゃんがまた意味不明の独り言です。憂さ晴らしに殴って良いですか?」 「センセー、コイツの頭のほうがやばいと思います。世界平和の為に殴って良いですか?」 「そうですね。二人とも顔が先生の好みじゃないんで二人で殴り合ってください」 「センセー、相変わらずひどいです心が傷つきます。でもそれが大好きだぁぁぁ!!」 うぉぉぉ! と叫びながら男二人が取っ組み合いの喧嘩を始めた。 心底どうでもいい。 無様な争いから目を逸らすと、教卓に立つ柊女史と目が合い、 「先生はサっちゃんのことは大好きですよ? 女なのに男らしい所もポイント高いです」 「先生、そっちの方は桜丘とかで間に合ってます。そういう訳で止めてください、いや、むしろ教師辞めろ」 「それは違うわサっちゃん。わたしの方はテクニックも凄いのよ?」 「先生、セクハラはなんとなく犯罪です。もう人生やめてください」 ウブね。と柊女史が笑って告げる。 「でも授業は進めましょう。何しろ皆、寝ていても取れる単位しか取ってないから、夏休みがどれだけあっても足りないわ」 いやな真実だ。 『ピンポンパンポーン?』 語尾が疑問符の校内放送が響き渡った。しかも電子音ではなく女子による擬音である。 『はじめましてさようなら。皆のアイドルかもしれない音沢です。本日は用件も無く、館内放送に踏み切りました。おめでとう音沢、ありがとう音沢、がんばりなさい塩原』 「センセー、ちょっと野暮用で放送室に喧嘩しに行って良いですか?」 告げてきたのは、ぼさぼさ髪の書道部男子塩原龍一だ。 「う〜ん、それは困るわ。音姫様には三十万の借金があるから」 「なにしてんですか」 『ピンポンパンポーン♪』 さらに楽しげな音符付きの校内放送が響いてきた。今度は男子の声である。 『こんにちはこんばんは。科学部の羽沢による懺悔の時間です♪ では早速ですが雛菊ごめん。雛菊の単車を改造したら、戻せなくなっちゃった♪』 「センセー、私も野暮用で放送室に喧嘩しに行って良いですか?」 こめかみに青筋を浮かせながらショートヘアの女子、自動車部エースの佐々波雛菊も吠える。 「う〜ん、それも困るわ。羽沢君には前に三十万投入して媚薬を量産してもらったから」 「そんなことに借金使うな」 柊女史はそれよりも、と話題をシフト。教卓から大量のプリントを取り出す。 「今日は私が色気を使って男の先生たちに作らせた宿題プリントもあります」 東雲はプリントを見る。そして少し下を向いてから目を見開き、上を見上げて叫ぶ。 「絶望した! 俺の胸より厚みのあるプリントに絶望した!!」 すぐさまに脱獄を決意、机を蹴り飛ばしながら立ち上がる。 「待て、サっちゃん! ここで逃げてはいけない!!」 「やかましい! 俺は逃げるぞ! 何故なら、たったいまそう決めたからだ!!」 東雲は全力で止めに掛かる補習仲間を回避、一目散に出口を目指す。 だが、 「逃しませんよ?」 扉が破裂した。 まさかの事態に東雲は緊急停止、驚きに身を縮めながら全力で後方を向く。 「全く、サっちゃんたら」 見れば柊女史が指を鳴らしていた。 「いまのは……!?」 「そういえば、サっちゃんは初見でしたね?」 嬉しそうに柊女史が距離を詰めてくる。 「いきなり答えを教えるのはアレですから、その体に教え込んであげます」 「って欲求駄々漏れだな!?」 柊女史の能力が不明とはいえ捕まるわけにはいかない。 「ここは……!」 発想が機転を編み出す。すなわち加速による前進、東雲は柊女史に向かって突進した。 「サっちゃん?!」 他生徒が動揺する。本来なら逃げるべき獲物が狩人に向かっていくのだ。 窮鼠猫を噛む。 その言葉を思い描いたとき東雲と柊女史は接触、 「え?」 しなかった。 東雲が柊女史の脇を通り過ぎたのだ。 なにが目的だと柊女史が視線で問いを放ち、対する東雲は目先への視線で答えた。 「! しまっ!?」 柊女史が言い切った時には手遅れ、東雲は身を丸めた弾丸跳躍にて窓ガラスを突き破る。東雲が見いだした出口は窓枠の向こうだった。 そして東雲が補習授業より脱獄した。 『ピンポンパンポーン。みんな嬉しい緊急放送です』 無機質な声が各教室に響き渡る。それは女子とも男子とも言える音階であり、顔の見えない放送では判別がつかない。 『先ほど某教室より補習中の女子東雲咲哉が窓ガラスを突き破り脱走、それに対して補習を担当していた柊先生が当方に支援を要請、当方はその要望を受領しました。これより東雲咲哉に懸賞金一万を懸けます。退屈な人、金欠な人、恋人に振られた人、東雲咲哉に殴られて嬉しい人は奮ってご参加ください』 それを聞いた東雲は、ちっ、と舌打ち。 (大々的に取り上げやがって……。昨日のこと根に持ってやがるな?) 東雲は一階美術室に逃げ込み対策を練っていた。最初は相手の不意を突き校外に逃げるはずだったが、思いのほか柊たちの反応が速く逃げ遅れたのだ。 放送の内容から放送委員会が人手まで貸す気が無いのは救いだろう。しかし、これからどう転ぶかは不明だ。 (一箇所に居続けるのは危険だな) 仕方なく行動を開始、目指すは三階の風紀会議室。其処にいけばとりあえずの安全は確保できる。 出来るだけ警戒しながら引き戸を開ける。 「――」 そうか、初手から詰まるか。 扉の先には男子生徒。さっきまで自分と同じく補習を受けていた和歌月信武だ。 東雲は無駄とは判りつつも言ってみる。 「頼む。見逃してくれ」 「残念だが報奨の魅力には勝てない」 和歌月はそれだけ告げて左袖から手裏剣を取り出す。 「捕らえるぞ。サっちゃん」 「!」 一息と置かずに投擲、初速のついた手裏剣が胸元に飛んでくる。 「って、捕まえるんじゃねぇのか!?」 急いで回避、横に二歩を歩けば手裏剣の鋭利な刃は扉に食い込んでいく。 「安心しろ。応急処置は施す」 だが、手裏剣は一本だけではない。和歌月は手品のように手裏剣を量産していた。投擲に次ぐ投擲、それを回避するなら廊下には手裏剣の剣山が積みあがっていく。 「ちょっとは手加減しろ! 女子だぞ!? 女の子だぞ!!」 「黙れ、五月蝿い、胸無しサっちゃんに興味など無い!」 後で殺そう、物理的に。そのためにもここは退避、目の前の廊下を突っ切る為にその身に加速を促す。 「無駄だ。短距離ならば俺のほうが上だ」 だが、東雲の後方を和歌月が張り付くように走る。その間にも和歌月は手裏剣を放ち続けて、それを東雲は後ろも見ないで避け続ける。 「短距離か、それは直線の話しだろ?」 前方を見つめれば廊下が曲がっていることが判る。 「F1の極意はカーブで発揮されんだよ!」 叫んで廊下を疾走。壁面にぶつかる直前で足首を捻り、強引に右へ横飛びする。 「!?」 そこで終わらないのが東雲咲哉という女だった。 跳んだ場所から反転してもう一度跳躍、和歌月の胴部を狙った肘鉄を放つ。 「ぐを?!」 肘鉄が決まり和歌月の体が僅かに揺れた。そのまま流れる動きで懐へと入り込み相手の胸襟と左袖を掴んで背負い投げの体勢、しかし、和歌月はそれを阻止すべく右袖からクナイを取り出し上段から振り下ろした。 「!」 クナイを回避するために拘束を解き前傾、体育の前転さながらに転んで前方へと退却。 「逃がさん!」 和歌月は手首のスナップだけでクナイを投じる。脚部を狙ったそれは、 「舐めんな!!」 手裏剣によって弾かれた。 「なっ?! 俺の手裏剣!?」 「腕つかんだ時に袖からスったんだよ!」 言いながら手裏剣を投擲、さらに弾いたクナイもキャッチしての連投。的は二箇所、和歌月の胴体と頭部だ。 和歌月は一瞬で防御を判断、胴体部分を狙う手裏剣を右腕で受け止め、頭部を狙うクナイを左手で止める。当然、肌肉に食い込んだ刃物の先から出血する。 (よし!) 和歌月の動きが出血の痛みで止まる。それを視認するまでも無く、東雲は廊下を走り出した。 二階教室前。和歌月から逃げ延びて順調に目的地に近づいている。 そんなおり、 「――?」 重低音が響いた。廊下の端から何かが来る。 「おいおいこの音はまさか」 そのまさかが廊下の端より現れた。 オートバイだ。 ネイキッドタイプの中型車がこちらに向かってくる。そして重量のある車体に廊下が軋み後輪が黒い轍を残していく。 「サっちゃん見っけ!」 オートバイに跨るのは佐々波雛菊だった。彼女はこちらを視認するや否や、アクセルを全開まで引き絞る。 「ちょ、おまっ!?」 「いっくよ!」 鉄の躯体が脅威の加速で近づいてくる。 まさかの事態に東雲もまた全力で走るが、いかんせん相手は首都高速を百キロ以上で移動できるスピードだ。それが全速となれば人間が逃げ切る手段は無い。程なくしてオートバイが追いつかれ乗車する佐々波が手を伸ばす。 「捕まえた!」 「ざけんな!」 その場で退転して相手とは逆方向に突っ走る。 所詮はオートバイ、道幅が狭く障害物も多い廊下ではこちらに分がある。 「甘いよサっちゃん!」 佐々波は重心を右側に傾け、廊下に衣服が掠るほどに車体を落とす。しかし、そんなことをしても方向転換は出来ない。 だが、佐々波は不可能などに興味はなかった。 彼女は重心をさらに前へと落としながら腰を浮かして車体を引き上げる。オートバイは鼻先を擦りながら人でいう倒立のような状態になり、その状態で廊下をドリフト。前輪は空転の音を響かせて百八十度回転、後は車体を落として方向転換終了。 人の何倍も重量がある車体はこちらに向き直った。 「なッ!? 嘘だろ!?」 「チャリとは違うんだよ! チャリとは!!」 決め台詞を叫んでからオートバイが全速力をはじき出す。それにより東雲が稼いだ時間はすぐに失われた。 「単車にはこういう使い方もあるんだぁぁぁ!!!」 佐々波が重心を後ろへと落とし、両腕でアクセルを持ち上げる。その状態でアクセルを引き絞られていれば、 「ウィリーで潰す気か!?」 「ペシャンコでGO!」 ウィリー走行のオートバイが一瞬で彼我を詰めてくる。 (倒すしかない!?) コンマ数秒の思考で導きだした答えはあまりに無謀、生身で鉄の塊を倒すなど出来るはずもない。しかし、そのほかに窮地を脱する手段は思い浮かばなかったのも事実。 ならばと覚悟を決めて振り返る。 「!?」 だが、好機は訪れた。 突如、オートバイの後輪が不快な音ともに緩み、エンジン音が歪な騒音を奏でたのだ。それにより佐々波のウィリー走行はバランスを崩す。 バランスが崩れた以上、大怪我を避けるためには停止するしかない。 「チャンス!」 その好機を逃さずに東雲は疾走を再開、同じ女子でも東雲と佐々波の運動能力は雲泥の差に等しい。当然、アシを失った佐々波に東雲を追いかける能力はない。 「くぅ、羽沢の奴覚えてろ!!」 遠く後方より負け犬の遠吠えが聞こえた。 『現在、ターゲットは三階へ移動中です。ハンターの方々は早急に三階へと向かってください。なお、ターゲットと接敵しつつも無様に逃した和歌月、佐々波の両名には柊先生より追加補習が授与されます。良かったですね?』 嫌な放送が流れてから十分、あと一息で目的地へとたどり着く。しかし、こちらの動きを読んで先回りしていた生徒が一人いた。 「わっくん、ヒナちゃんの次はりゅうくんかよ」 「そういうことだ」 風紀会議室前で待っていたのは、ぼさぼさ髪の男子生徒塩原龍一。彼は両手に短冊を取り出し構える。東雲はそれを見て引きつった笑顔を浮かべる。 「おい、それ攻撃用の呪符に見えるんだが? もしかして聞くだけ無駄かもしれんが、それをどうするきだ?」 「こうする気だ」 塩原が片手の呪符を投擲する。呪符の効果がわからない以上、東雲はとにかく避けるために左に跳躍、しかし、こちらの動きを読みきった塩原は既にもう一枚も投擲していた。こちらを狙ったそれは右手を掠めていく。 「アツっ!?」 そして掠めた右手が火傷を負った。 「ヒノカグツチとかいうよく分からない名前を書いた。熱量は調節できないから気をつけてくれ」 「だったら投げんなボケ!」 塩原は無視。その上で呪符を四枚取り出して、距離を測りながら構えている。 呪符はその効果上、近接戦闘には不向きだ。理由として呪符は効果が発動すると使用者と被対象者の区別が出来ない、そのため封印やトラップなどの妨害には最適だが近接戦闘では巻き込まれないようにするため効果を発揮しきれない。 (まあ、本気だったら風紀会議室にトラップを仕込んでいるはずか) そこまでされていたら逃げ切れない。しかし東雲は知っていた。塩原は和歌月や佐々波と違い後先面倒になることはしないほうだ。皆が参加する以上、体裁を保つ為に参加したと考えるべきだろう。 「ああ言い忘れたが、柊先生がサっちゃんを捕まえた奴の補習を免除するらしいぞ?」 「って、マジかよ!?」 塩原はマジだ。マジな目つきで呪符を三枚、続けざまに投げる。 「俺が同じ手を何度も喰らうか!」 一枚目を靴先で上空に蹴り上げる。 呪符の媒体は短冊。熱かろうが冷たがろうが所詮は紙片なのだ。 二枚目は身を翻して回避し、三名目を靴底で蹴り潰しておしまいだ。 そして呪符に関わらず魔術師の類は基本的に近接戦闘を苦手とする。だから、間合いを詰める為に腰を落として走り出す。 「!?」 走れなかった。地べたから右足が離れない。 「全部が全部、同じなわけがないだろ」 馬鹿にした口調で塩原が話す。 「直接攻撃用は四枚だけ、最後の一枚は違う。――サっちゃんみたいに中途半端に知識がある奴は一度効果を確認すると、それしか無いと考える傾向が多いよな」 地べたに張り付いた右足が長時間正座したように麻痺していく。 「これで補習は終了か、意外と呆気なかったな」 「おまえっ、友達を売るのか!? それでも友達か?! この裏切り者!!」 状況から焦って友達の塩原を非難する。 「サっちゃん……。立場が逆なら俺を売ってるだろ?」 「当然だ! 補習が無くなるんだぞ!?」 考える間もなく反射で叫ぶ。 呆れた表情で塩原は、だろうな、と呟き近づいてくる。 手に持った最後の一枚、状況から鑑みてこちらの意識を略奪するタイプの呪符だろう。そうすれば対象が暴れることもなく、すんなりと柊女史に身柄を渡せるからだ。 「ところでりゅうくん」 「ん?」 「そんなに近づいていいのかな?」 「なに?」 気付いていないのか、それとも馬鹿なのか。どちらにせよ塩原は迂闊にも攻撃範囲に踏み込んでくれた。だから、思いっきり左足を蹴り上げた。 「ぐぉ!?」 渾身の蹴りが直撃した箇所は腹部の鳩尾。おもわぬ襲撃によろけた塩原がその場に崩れる。 「あーあ、馬鹿だなりゅうくん。別に右脚が動かなくても左足や両手は動くんだぜ? 迂闊に近づいたら意味ないっての、やっぱ前線に出てないと経験の差が生まれるもんだな」 東雲は嬉しそうに語る。 塩原が前線に出ることは少ない。それは前線で戦うよりも後方支援のほうが遥かに活躍できるからだ。呪符はその性質の殆どが妨害に費やされている以上、それは当然の事。 しかし、塩原は前線もこなせる、それだけの才能がある。もし雑魚相手なら問題なく勝てただろう。今回負けたのは、単純に東雲が雑魚ではなかっただけだ。 「まっ、これからはもっと精進……?」 気付けば塩原は気絶していた。 やれやれ、と東雲がため息を吐き、塩原の上着を探る。 「お、あった」 何枚かの呪符を取り出して、その中から呪符とは違う短冊を選ぶ。それは護符だ。 「これで動けるな」 治療用の護符を右足首に押し当て呪符の効果を相殺、右脚の麻痺を解く。 自由になった右足のつま先と踵を軽く床に打ち鳴らし、 「見つけたぁぁぁ!!!」 横っ腹を殴り飛ばされた。 最初に感じたのは違和感であり、次に感じたのは、どうして身体が吹き飛んでいるのかという疑問だ。ただゆっくりと流れる思考に意思が追いつかず、状況を呑み込む為の理解力が凍結している。 なんだ? と言おうとして体が壁に激突した。さすらば痛覚が正常に起動する。 「がぁ?!」 打ちつけた痛みに身をよじり、同時に思考力を復帰させた。 攻撃を受けた。それも早い一撃。 「誰だ?!」 一人の生徒が居る。短い黒髪を逆立て腕に『健康第一』と書かれた腕章を身に着けた男子。 保険委員だ。 「お? 一撃じゃ無理か? そりゃそうだ、だったらどうする?!」 いきなり逆ギレして相手はこちらに向かって走り出す。 「行くぜ女! 保険委員に躊躇いなし!」 高速にして疾駆、狂喜にすら届く感情と攻撃が来る。 東雲はやばいと感じて両腕を防御に構えるも、 「それがどうする!?」 保険委員は嗤って、構えた両腕にタックルを叩き込んだ。その重圧に防御ごと潰されて背面の壁に背中を打ちつける。 「ぐッ!」 「まだまだぁ!!」 相手の両手に両腕をつかまれ、腹部に膝蹴りを決められる。 「ぐ!!」 「これでおわりだぁぁぁ!!!」 相手は東雲を巻き込んで後ろに倒れこみ両手と右足を使って投げ飛ばす。形は違うがこれは巴投げだ。 中空へと投げ飛ばされた身体は綺麗な放物線を描いて廊下に肩から激突、鈍い痛みが身体を占領する。 「ぁ」 呼気が漏れたら身体が意識を失っていく。 「けっ、てんでたいしたことないな。……と、そういや俺様の名前を言ってなかったな。いいか良く聞け、俺様は保険委員の西山十蔵だ」 意識が闇に塗れかけた時、 「しかし女って弱っちいな」 その言葉、その一言、その侮辱が東雲の意識を空白の一歩手前に繋ぎとめた。そして、 「おいテメェ、そんなに私と戦いたいのですか……?」 夕闇が影を伸ばす廊下の先、東雲咲哉の気配に開花前の桜の香りが混じった。 消毒薬の匂いが鼻先を掠める。つられるように瞼を開ければ目の前に広がったのは一メートル以上もある古風な換気扇と窓枠の向こうの夜空だった。 「起きたのかい?」 その言葉の意味がわからなかった。だが直ぐに自分がベッドで就寝していた事に気付いて納得する。どうやら半日もの間眠っていたらしい。 「此処は、……保健室か?」 「そうさ」 先ほどから声を掛けてくるのは誰だろうか。 横を見れば腕に保険委員の腕章を巻いた茶髪の女子が椅子に腰掛けている。 「目が覚めて安心したよ、西山の奴がずいぶんと無茶したからさ」 「……にしやま?」 どこかで聞いた名だ。 誰だったかを考えて無言になると、保険委員の女子はそれを勘違いしたらしく笑って、 「安心しな。西山だって無傷じゃない、半端とはいえ姫状態のアンタとやりあったんだ」 「はぁ。――ところでアンタ誰だ?」 「あたいかい? そりゃ可笑しい質問だね。ほら、よくあたいの顔を見な」 言われたとおり、女子の顔を見る。 (どこかで見たと事がある……?) 記憶から彼女の特徴を当てはめ該当人物を思い出す。 「……あ?」 そうやって思い出したのは保険委員長の大宮和美だ。しかし、名前よりも先に思い出したのは、 「海の女王!?」 四姫妃の一人だという事だった。 「……あんまり言われても嬉しくないねぇ」 「なな、なんで此処に?!」 「それだけ叫べればもう大丈夫さね。柊から伝言があるさ『今日の補習はチャラにしてあげるから明日は逃げないように』だってさ。まあ、こっちとしても毎日来られたら困るさ」 大宮は手のひらを振って、さっさと出ていけ。とジェスチャー。東雲としても状況はわからないが、彼女に迷惑を掛けて恨まれたくはない。 身支度を済ませてから保健室の引き戸を開けて大宮に一礼。 「失礼しました」 「今度同じ理由で担がれてきても治療しないよ」 最後に釘を刺されてから保健室の外に出る。 東雲が居なくなり大宮は独り言を呟く。 「アレが桜姫とはねぇ。見た目はただの女の子さ」 「ええ、僕も最初は気付きませんでした」 否、独り言ではなかった。 視線では見えぬ先、何者かの気配が渦巻いている。 「アンタも意地が悪いねぇ。居るなら居るって言えばいいのにさ」 「でしたら声を掛けてください。貴女は最初から気付いていたんでしょう?」 はン。と大宮が鼻で笑って、 「あたいが声を掛けなかったのはアンタの為さ。桜姫を、いや東雲咲哉を警戒して距離を取っていたアンタのね?」 東雲が本調子なら気付けだろうけど。と付け加える。 「警戒、ですか? ……どちらかと言えば監視ですよ」 「どっちでもいいさ。――ところでアンタ、最近西山とつるんでなにしてるんだい?」 「……ヒーローごっこ。ですかね」 「は?」 クスクス、と笑って気配は彼方へと掻き消えた。 ≪桜咲き誇る真夏の夜まで残り二十五日≫
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