邂逅輪廻



「随分と無茶な使い方をしましたね。一体、何があったんです?」
「いや、なんというか、半分以上は勢いで……」
 壁に凭れながら、曖昧な返事をする諒。その三メートルほど前。オフィスで用いるような机の上に電磁銃ガンを置き、分解している水上が居る。部屋の中はかなり暗く、机の上にある電灯がやたらと明るく感じられた。
「これは駄目ですね。蓄電回路が焼き切れています。本社から代わりを持ってきてもらうまでどうしようもありませんよ」
「そうか」
 それを聞き、頭を掻くために右手を上げる。周りには、何やら正体不明な器機類が雑然と並べられており、この動作にも気を使わなくてはならない。
「なあ。結局あの研究所は何だったんだ? 俺らが地下に戻った時には、既に処理班が来てて、いつもに比べて手際が良すぎる。特殊な事情があると考えるのが普通だろ?」
「そう言われましてもね。私は只の仲介役です。社長プレスと執行部の意向までは知りませんよ」
「そこんところも釈然としないんだよな。前々から聞こうと思ってたんだが、あんた、何で俺達の補佐をしてくれる? 本社でもそう居ない人材のあんたが、所詮は末端の俺らと関わってんのは得策だとは思えないんだが」
 それを受け、水上は一瞬だけ視線を諒に向けた。そして引き出しを開けると、その中を漁り始める。
「私には現場で働かなくてはならない理由があるんですよ」
「理由?」
 問い掛けてはみたが、返答はない。そのまま、引き出しの中身と格闘を続けている。
「ありました」
 そう言うと、何か黒っぽい棒のようなものを取り出した。そしてそれを諒に向けて放り投げる。それは電磁銃ガンであった。諒が用いているものより一回り大きく、色も紫紺ではある。しかし、その形状やボタン、発射口から見ても、それは疑う余地が無い。
「それは開発段階での試作品の一つです。出力は多少劣るかもしれませんが、護身用くらいにはなるでしょう」
「そうか。ありがたく使わせてもらうよ」
 言って諒は壁から背を離した。そして、もう一度だけ視線を水上に向ける。
「次の仕事までは暇をもらうぜ。流石に少し疲れてるからな」
「分かりました。何とか調整を付けておきましょう」
 その言葉を聞くと、諒は部屋を出た。そして電子工学研究会≠ニいう張り紙をされている扉を閉める。
 と、そこで一つの事実に気付いた。部屋の前に見知った人物――神薙 禊が立ち尽くしていたのだ。彼女は、憔悴しきったといった感じで、いつもは肩に掛けているバックも地べたに置いている。
「ねえ。一緒に帰らない?」
「いいけど、お前部活は?」
「今日は休んだの。少し、気分、悪いから」
 弱々しく言葉を口にする禊。らしくないその姿に、諒はなんだか気まずくなってしまう。
「じゃ、行くとするか」
 言いながら、諒は禊のバックを奪い取った。そしてそのまま自分の肩に掛けてしまう。
「ちょ、諒?」
「いくら俺だってな。体調不良の女に荷物持たす程、根性腐ってる気は無いんでね」
「――ありがとう」
 他愛の無いはずのその礼に、妙に照れを感じた。


 空気が重かった。私立冠叡高校から、最寄りの駅までは歩いておよそ十分。既に二人は駅寄りのところまで歩いていたのだが、会話は無かった。俯いたまま、何も喋ろうとはしない禊に、諒はますます気まずくなってしまう。
「な、なあ禊。今度暇あったら、どっかに――」
「三人目」
 禊は立ち止まると、ポツリ、と呟いた。その意味を把握しかねた諒を見たためか、言葉を続ける。
「私が殺した人の数よ」
 言って彼女は、自身の手を見詰めた。諒には、掛ける言葉が見付からなかった。彼には、その経験が無いためだ。経験の無いものがいくら言葉を掛けても、それは表面的な慰めにしかならない。そのことを理解しているのだ。
「命に差別をするつもりはないけど、今までで一番苦しいの。彼が子供だったからじゃない。これが私のミスで引き起こされたからよ――」
 言いながら、両手で自らを抱き締める。いや、締め付ける、と表現するべきか。
「何度も何度も思い出すの。あの子、最後絶対に苦しんでた。人格が破壊されて、何も分からなくても死の恐怖からは逃れられっこ無い。あの顔だけは忘れられないのよ。科学を狩る者サイエンス・ハンターって何!? こんなにも悲しい思いをしなくちゃいけない存在なの!?」
 再び俯き、黙りこくってしまう禊。その瞳からは大粒の水滴が、石畳に当たっては弾け散る。
「のわ!? み、禊! ちょっと待て。何か微妙に誤解を受けかねんので、ここで泣き出すのだけはよせ!」
 周りはマンション街である。暇を持て余してしょうがない中年女性や、下校中の生徒達の視線が、当然のことながら集中する。諒は禊の手を取ると、逃げるようにしてその場から走り去った。


「ったく、いい年して突然泣き出すなよ。お前はともかく周りが迷惑する」
「ごめん」
 ここは、駅前の喫茶店ル・シェリエ=B甘みの程よいレアチョコレートケーキと紅茶が評判で、女生徒に人気の店である。
「人前で泣き出すってんなら、俺が居ない時か、せめて宝石店の前にしてもらいたいもんだな」
「宝石店?」
「何か買ってやって嬉し泣きしてるように見えるかもしれんだろうが」
「あ、そう」
 あまりに馬鹿馬鹿しいその台詞に、禊は表情を崩した。しかし、すぐ様深く沈んだものに戻る。
 沈黙が続き、ウェイトレスが注文の品を運んできた。諒の前にはブラックコーヒーとチーズケーキ。禊の前には紅茶とレアチョコレートケーキが置かれる。それでも尚、二人は何も喋ろうとしない。その雰囲気に耐えかねたのか、ウェイトレスはマニュアル通りの接客だけをして立ち去ってしまった。諒は、禊を見るのが辛いのだろう。先程から、なんの意味も無くコーヒーに立ち上る湯気を見詰め続けていた。


 話は一年程、遡る。


 西暦二〇一一年一二月。ミューズコーポレーション東京本社。特殊工学研究者控室にて。そこには、三人の男女が立ち尽くしていた。中央に立っている男性の年齢は二十五程か。紺のスーツを着込んでおり、細身で知的な顔立ちは、いかにもやり手のサラリーマンといった感じである。
 残りの二人は諒と禊であった。両者共、冠叡の制服を身に纏い、先程から、何故だか視線を合わせようとしない。特に諒の方は、何処か居心地の悪そうな表情をしたまま、何度となく頬を掻いている。
「こちらが神薙 禊君だ。今回君と組むに当たって、次善ネクストに昇進してもらった。噂くらいは来てるだろう」
「いや、ええ。はい」
「どうした。妙に歯切れが悪いな。女と見れば軽快に口の動くお前らしくもない」
「人聞きの悪いこと言わないで下さいよ。俺だってね、色々とあるんですから」
「色々?」
「やりにくいですよ。クラスメートと組むなんて」
 一年生の時、諒と禊は同じクラスであった。とは言っても、特に仲が良かったわけではない。むしろ、疎遠であった、と表現する方がいいのであろう。諒にして見れば、僅か八ヵ月で劣等レッサーから次善ネクストまで昇進してきた禊は、感嘆に値する存在であり、意識して遠ざけてしまうのは当然のことなのかもしれない。
 ちなみに、この劣等レッサーだとか次善ネクストだとかいうのは、科学を狩る者サイエンス・ハンターの階級名である。上から、最上トップ次善ネクスト中堅ミドル劣等レッサーの四階級で、上であるほど待遇が良くなる。当然、任せられる仕事も高度になっていくのだ。
「とりあえず科学を狩る者サイエンス・ハンターとしては、始めましてだな。噂は聞いてるよ。刀使いとしての能力は群を抜いているそうだな」
 言いながら、右手を差し出す。しかし禊はその手を握ろうとしない。代わりに、左手を差し出してきた。
「あんた、左利きか?」
「いいえ」
 微笑みながら返答する禊。それに対し諒は、訝しげな表情をつくる。
「そのような顔をなさらなくとも、理由はお分かりいただけるでしょう?」
「『私はあなたを信用していません』か」
 利き手を相手に任せない点。一歩退いているかのように慇懃な態度。これらから導かれる結論は他にはない。
「ま、まあなんにせよ、お前らは今日からコンビな訳だ。少しずつでいいから仲良くやってけよ」
 場を少しでも和ませようとしているのか、不自然なまでの明るさで二人の肩を叩く男。しかし、禊の表情は造られた微笑み≠フまま、何一つとして変わることはなかった。


「ったく。コンビとしての初仕事が、こんな厄介なもんだとは。劣等レッサーとまではいかなくても、中堅ミドルクラスから始めるのが筋ってもんだろ」
 ぶつくさ文句を言いながら、与えられた資料に目を通す。その口調は軽いが、肩口から禊が覗き込んでいるため、多少どぎまぎしているというのが本音のようだ。
「バイオテクノロジーによって産み出された新生物の捕獲ないしは破壊。現時点では金持ちへの売買で資金を得ているだけだが、本来の目的は国家レベルの軍事への応用。看過するわけにはいかなそうですね」
「いや、あのな。そういう他人行儀な態度をいつまで続ける気だ? 一応相棒なわけだし、もう少し気さくに――」
「三村 諒。一九九六年二月二十九日生、新潟県出身、十四歳の時中堅ミドル見習いとして科学を狩る者サイエンス・ハンターに就任。今年三月。こちらに越してきたのとほぼ同時に中堅ミドル正式昇進。そして二月前、次善ネクスト昇進。少し、調べさせてもらいました」
「や〜だ、禊ちゃんてば。そんなことしなくても聞けば教えてあげたのに。あ、ひょっとして聞くの恥ずかしかった? いや〜、色男は辛いね〜」
「……」
 何も返答がない。どうやら、完全に滑ってしまったらしい。
「学校でのあなたは少し知っています。女たらし、というほどではありませんが巧言令色で、本心を他人に見せない。私の中でかなり嫌いな部類に入る人間です」
「ひどい言いようだな。だったら組まなきゃ良かっただろうに」
「知りませんでしたから。今日、あなたに会うまで、今度組む人があなたであると」
「あっそ」
 間が持たず、何度となく頬を掻いてしまう。
「と言っても、この仕事はきちんとするつもりです。これだけ決まっているのに、私の好みだけで断るわけにもいかないでしょうから」
「そりゃそうだ。ろくに話もしてないのに、先入観や偏見だけでコンビ解消されてたまるかよ」
 敢えて、いつも通りの軽快な口調で言葉を発してみせる。それが癇にでもさわったのか、禊は目をそばだてた。

 次善ネクスト、三村 諒と神薙 禊。後に最上トップとなり、伝説ともなる二人の初めての出会いである。

 その空間には音が存在しなかった。通常、自然界では例え人気がなくても音はする。木々の擦れ合う音。虫の鳴き声。風の流れる音。だがそこには何もなかった。空気は澱み、外からの音も、全て厚い壁で遮られていた。自分の心音がやたらと耳につくことに、諒は少なからず違和を覚えていた。
「いつ来てもやな感じだ。夜の研究所ってとこは」
 ぽつり、と言葉を漏らす。もちろん、声が響かないように、極力、声量は押さえている。
「意外、ですよね。この様な一流大学があんな研究に荷担しているなんて」
「金が無いんだろ。小子化の影響でどこの学校経営も火の車だ。どうやって税金を誤魔化してるのかは興味深いところだが、そこんところは後回しにしとくか」
 言いながら道順を確認しておく。目的の場所へ辿り着くには、三枚のIDが必要だ。研究所に入るのに一枚。地下にある特別研究棟に入るのに一枚。そして、研究室に入るのに一枚。もちろん、二人が用いる偽造カードは、記録に残らない、特殊なプログラミングが施されている。
「まだ、研究者が一人、二人残ってますね。どうします? 帰るまで待ちますか?」
 今の時間は深夜一時。たしかに、彼らがもうすぐ帰ってしまう可能性は高い。
「それは中堅ミドルの発想だな。こういう時は速攻で乗り込んで、電撃解決。これが一番格好いいんだ♪」
「いつも、そのような理由で作戦をお決めになっているのですか?」
 禊の口調は呆れているとも、窘めているともつかない。諒にとって、あまりありがたくない反応だ。
「いや、素で返されても困るんだが。根拠が全く無いわけじゃない。連中だって違法行為の自覚ぐらいあるだろう。となれば、科学を狩る者サイエンス・ハンターの名前と、俺達の愛のコンビネーションを駆使すれば、比較的簡単にいけるはずだ」
「それは少しばかり安直ではありませんか? 普通の相手であれば、それもいいのかもしれません。しかし相手はあの進藤しんどう啓治けいじ。科学のみを信仰する狂科学者ですよ。法など、何の役にも立つとは思えません」
 言いながら、禊は諒をきっと睨み付けた。
「ここで延々と議論しているわけにはいかない。とりあえず、科学を狩る者サイエンス・ハンターとしても、次善ネクストとしても俺の方が先輩だ。顔、立てろよ、な?」
科学を狩る者サイエンス・ハンター、常用規則第三条二項のa。科学を狩る者サイエンス・ハンターが二人以上で行動する場合、階級が違えば、下位のものは従属することを基本とする。しかし同格であれば、いつ如何なる時も意見は等価値のものとみなす、です。私が何故次善ネクストに昇格したのか。その理由はここにあるのですよ」
「ったく、いちいち突っかかる奴だな。だったら、こうすりゃいいんだろ!」
 言って諒は、袖下から三枚目のIDカードを取り出すと、眼前のリーダーに通してしまった。唖然とした面持ちのまま、それを見ることしか出来ない禊の前を、扉は音も無く開いていく。
「これで殴り込むしかなくなったわけだ」
「まったく、これですから男という人種は」
 文句を言いながらも、腰の刀に手を掛ける。こうなってしまったら、退くわけにはいかない。
「な、なんです、あなた達は!? こんな時間に、そんな格好で! もしや変態さんですか!?」
科学を狩る者サイエンス・ハンター、だよ」
 敢えて助手らしき男の言葉を聞き流し、冷静に振る舞う。本音を言えば、かなり癇にさわってはいたのだが。
「ほう。科学を狩る者サイエンス・ハンター、か。私も偉くなったものですね。この様なテロ紛いの狂人集団に狙われ――」
 パシュッ、パシュッ、パシュッ。電磁弾ブリットの三連発で進藤の口を塞ぐ。はっきり言って、この状況でのんびり喋っている方が悪い。一方で、助手の方は禊が片付けていた。新開発の即効性昏倒薬を用いたのだ。これには、使用した前後の記憶を曖昧にする作用もあり、中々使い勝手が良い。
「ほらな。案ずるより産むが易し、だろ?」
「結果オーライに過ぎません。一つ間違ったらどうなったことか」
「ま、ま。良く言うじゃん。勝てば英雄、負ければ俗悪とか、当たって砕けた時は砕けた時って」
「言いません!」
 何を向きになっているのか、禊はつい大声で応えてしまった。
「それはさておき、こいつはどうする? やっぱその薬で――」
 途端、諒は息を呑んだ。進藤が懐からリモコンを取り出していたのだ。慌てて電磁銃ガンをそちらに向けるが、間に合わない。
「まあ、これもいいか。私の研究の成果を、この目で見られるのだからな」
 刹那、部屋の奥まった部分。異常に白い壁が、上がり始めた。ゆっくりと広がり続ける闇の中からは、咆哮とも威嚇ともとれる獣の声が響き渡ってくる。
「幸いにも、今日は絶食による凶暴性と戦闘能力への影響を調べていてね。彼には私達が肉塊にしか見えないだろうね」
 含み笑いでもしだしそうな口調で語る進藤啓治。既に覚悟を決めているのか、大の字に寝そべったまま、動こうとはしない。
「何を言っているのです! 今すぐそのリモコンを渡しなさい!」
「馬鹿!」
「ああ、これか。危ないところだったな」
 言って進藤は、無造作にそれを放り投げた。まるで、ボールでも放るかのようにして、壁の裏側へと。
「余計なことを。言わなきゃなんとかなったかもしんないってのに」
 呟いてはみたものの、今ここで、禊を責めている暇はない。そして、逃げ出すわけにもいかない。それは即ち、両研究者の死を意味しているからだ。流石にそれは後味が悪すぎる。
「仕方ない。禊! 何とかして押え込むぞ!」
「禊、などと気安く呼ばないでいただけますか。私はあなたの友人でも恋人でもないのですよ」
「も〜、そんなこと言っちゃって♪ 僕たち、あのハルモリニアの樹の下で将来を誓い合った仲じゃない♪」
「……」
 どうやら、無視を決め込んだらしい。無言のまま刀を抜き、壁の先を見据える。
「?」
 と、そこで一つの事実に気付いた。彼女の刀は、普通のそれとは違う、鈍い光沢を放っているのだ。
「なあ、まさかそれ金属置換技術で――」
「来ます!」
 禊が声を掛けたのとほぼ同時に、闇の中からそれは姿を現した。  ――疾かった。オスライオン程はあるその体躯に似合わぬそのスピードは、二人の予想を遥かに上回るものであった。そして――。
「あ、う……」
 禊の右肩へと噛み付いた。絶滅種、サーベルタイガーを連想させる長い牙が食い込んでいるのだ。その表情は見る見るうちに青ざめ、幾度と無く呻き声を上げる。
「禊!」
「禊なんて、気安く呼ばないでよ!」
 刀が手から離れて尚、突っ撥ねてくる。しかし、痛みに耐えかねたのか、再び顔を歪めた。
「少し、痺れるかもしれないが、何とか我慢しろ!」
 無茶を言っていることを自覚しつつも、電磁弾ブリットを三発、獣に向けて打ち放つ。空気の抜ける、間の抜けた音と共に、獣はその身を震わせた。間、髪入れず、諒は跳びあがり、全体重を右足を媒体として、獣の頭に叩き込む。要約すると、飛び蹴りである。獣は、弾かれる格好でその身を横たえ、床を滑った。一方の禊も、腕を食いちぎられたということもなく、解放はされた。唯、夥しい鮮血が、彼女の純白の衣を染め上げていたが。
「禊! 大丈夫か!?」
「学習能力の無い方ですね。禊、とは呼ぶなと」
「分かった! 神薙さん! お身体の具合は!?」
「……」
 何か釈然としないものを感じたのか、禊は、一瞬呆けたかのような表情をした。
「大丈夫、ですよ。右腕は動きませんが、血さえ止まれば戦えます」
 言って、鉢巻を左手一本で器用に解いた。そしてそれを、口も用いて傷口の内側に縛り付ける。少し絞れば、滴るのではないかと思える赤い液体が、鉢巻さえも染め上げていく。
「無茶を言ってるが、止めても無駄だろう。と言うより、んな暇もねえ!」
 刹那、獣が諒に向け跳ね上がった。オスライオン程もある体躯である。本音を言えば横に飛び退きたいのだが、後には禊がいる。止むを得ず、電磁銃ガンを向け、ボタンを押す。
 電磁弾ブリットは直撃した。獣は全身の筋肉活動を阻害され、自らの意志では身体を動かせなくなった。唯――。
「のわ!?」
 慣性の法則と、万有引力の法則によって弧を描いて諒に直撃した。如何に全身を毛に覆われていると言っても、筋肉の塊が飛んできたのだ。相応の痛みを感じながら、床に叩き付けられる。
「畜生――こりゃ獣のことか、って呑気なこと言ってる場合じゃねえ! 禊、じゃなくて神薙さん! 戦えるってんなら、動き出す前に何とかしてくれ」
 放っておいたら、重みで押しつぶされそうであった。もちろん、諒にこれを押し返すだけの腕力はない。しかし、禊は動かなかった。膝をついたまま肩を押さえ、唯、その痛みに耐えている。
「情けない、こんなことで。侍は左手一本でも戦ったのに――いや」
 唇を噛み締め、痛みで痛みを紛らわす禊。そしてゆっくり立ち上がると、眼前の敵を見据えた。
「あたしは、神薙禊。誰にだって、負けるつもりはない!」
 瞬間、禊は刀を拾い上げ、獣に向かって突進する。その頃には獣の身体も自由になっており、彼女に向かって突き進む。その際に、諒が思いっきり踏みつけられたことは、敢えて些事ということにしておこう。
「きえーえぇ!」
 独特の奇声を上げて、獣の頭に狙いを付ける。しかし、慣れない左手である。刹那遅れて、頭突きを腹に受けてしまう。そしてそのまま壁際まで押しやられる。
「くっ」
 獣は禊の腹に頭を当てたまま、ゆっくりと力を入れ続ける。おそらく、獣も気付いているのであろう。この体勢では太刀を振るっても充分な力を加えられないことに。それならば、このまま体力を奪い続けた方がいいと判断したに違いない。
「だったら、これでどう!」
 言って禊は、刀を瞬間で握り替え、頭目掛けて振り下ろした。柄の部分ではなく、刃の部分を、だ。当然、残り少ない生命の糧が再び舞い散った。
 サシュッ。肉が切り裂ける音がした。しかしそれは獣の肉体のそれではない。禊の右膝だ。獣は本能的に危険を察知し、すんでのところで避けたらしい。禊は刀の勢いを止められず、軌道線上にあった膝を刀が滑ったのだ。さほど深い傷ではないが、特殊な耐刃繊維で出来たこの袴でなかったら、おそらく骨さえ断っていたであろう。
「……」
 無言のまま、刀を握り直し、獣を見据える。もはや怪しげな脳内物質が出ているとしか思えない。目が、普通の人間のそれとは違うのだ。
「畜生、帯電率が上がらねえ。孔内の絶縁コートに亀裂でも入ったか。これじゃ唯の空気銃だ」
 言いながら、電磁銃ガンを袖下に収める。対人用の戦闘術しか知らない諒である。こうなったら、体当たりでもして隙をつくることぐらいしか、出来ることはない。
「こんちくしょう!」
 その雄叫びに反応し、獣は前傾姿勢をとった。そして、猛烈な加速力でもって対応する。物体の持つエネルギーは、そのものの質量に比例し、速度の二乗にも比例する。そのどちらでも劣る諒が敵うはずもなく、獣の勢いと、自らの反作用によって撥ね飛ばされてしまう。幸いにというか、何というか。着地点がちょうど助手が居たところだったので、大事には至らなかった。唯、助手が目覚めるまでの時間が、幾許か延長されたのは、先ず間違いないが。
「いい加減、諦めたらどうです? 彼に勝てるはずがないでしょう? 元々が戦場で敵を蹴散らすための戦闘兵器です。逃げるなり何なりして、自らの非を認めた方がほうが建設的です」
「そりゃ、科学を狩る者サイエンス・ハンターのことか?」
 立ち上がりながら、言葉を返す。進藤の顔は、先程と変わらず何処か遠くを見ている感じである。
「当然です。所詮は人間そのものに科学に対する抑止力など持ち合わせるはずがないでしょう。そんなものは、人間の持つ本質を知らぬ無知な存在です。いや、あなた方も分かっているのでしょう? 唯、自分は他人とは違う。その感覚を得たいがため、こんなことを続けているのでしょう? 所詮、あなた方は大河の本流に抗う木端に過ぎないのですよ」
「あんた、生物工学じゃなくて、心理学の先生だったか? 違うね! 俺は信じてる。加速しすぎる科学を少しでも押さえることが安寧を得る唯一の道だと。このままいったら、人間は科学に呑みこまれちまうんだ」
「そこがあなた方と私の決定的な違いですね。何が悪いのです? 人間は科学によって産まれた存在。科学に還るのは当然のことでしょう?」
「ああ、もう、うっさい! とにかく、だ。黙って見てろ! こっちだって死ぬ気でやってんだ!」
「いいでしょう。人間は常に抵抗の中で強くなり続けた。その意味であなた方の存在も無意味ではありませんからね」
 進藤の言葉を背に、諒は走り出した。電磁銃ガンが使えない今、彼に出来ることは一つしかない。
 即ち、身体が壊れるまで特攻を続けること。禊と、牙でもって切り結んでいる獣に向かって、二度目の体当たりを仕掛ける。ドコッ。鈍い音と共に獣はバランスを崩し、身体を横たえた。しかしすぐ様起き上がり、二人に向け威嚇音を発する。
「余計なことを。牙の一本でも折ってやるつもりだったのに」
「強がり言うな。出血量はどうみたって1000ccは越えてる。ほっといたら死ぬぞ」
「え?」
 まるで、それが非現実であるかのように呟く。
「死ぬ? 私が?」
 焦点の合わない瞳のまま俯く。頬を伝う汗は、おそらく感情性のものであろう。そして、力無く刀を手放すと、脱力し、両膝を床につける。
「死にたくない、死にたくない。私だって、死にたくないよ。誰だって、そうでしょ?」
 と、ここで目線を上げ、獣を見詰めた。次の瞬間、彼女の両目に泪が溢れ出す。
「ごめん」
 一言謝ると、立ち上がり、獣に向け歩み寄る。そして、左手でもって獣の頭を抱えこむ。
「ごめん、本当にごめん。あなたも恐かったんでしょ。死ぬことが。それなのに私は――」
 泪と血で、鬣がくしゃくしゃになる。しかし獣は、構うことなく禊の胸に顔を埋めた。どうやら、猫科の動物をベースとしているらしく、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
「うちね、お寺なんだ。たくさんの猫が住みついてて。この子もみんなと同じ目してた。寂しくて、独りぼっちが嫌で。良かった、気付いてあげられて。殺しちゃわないで」
「いや、こっちとしてみれば、なんか拍子抜けなんだが。まあ何にせよ良かった良かった。禊も打ち解けたみたいで、言葉遣いも普通になって」
「――!」
 そこで禊は、はっと表情を変えた。
「禊、と呼ぶのは止めていただけませんか」
「いわゆる手遅れ」
「はい……」
 しおらしく頷いた直後、思わず吹き出してしまう。諒もつられ、白い歯を見せた。
「やれやれ」
 不意に、後方から声がした。進藤啓治のそれである。
「とんだ茶番でしたね。今度創る時には。脳の感情を司る部分を麻痺させなくてはいけませんね」
「――なんてことを」
「『さらりと言うの』か? 科学というのはそういうものだよ。人間以外の生命――いや、時には人間の生命さえ犠牲にすべきなんです。むしろその方がより多くの人に益を与える。単純な引き算だよ」
「冗談じゃないわ! 今在る命を否定するなんて、絶対に許されることじゃないわ!」
「まあ、いいですか。あなた達との議論は、恒久に平行線のようですからね。いずれまた会いましょう。この稼業を続ける限り、それは必然でしょうからね」
 言って、進藤は部屋を飛び出した。反射的に電磁銃ガンを取り出すが、使い物にならないことを思い出し、悔しそうに舌を鳴らす。
「進藤 啓治、か。厄介な奴を取り逃がしたのかもな」
「大丈夫。この仕事を続けている限り、また巡り合う。その時は必ず――」
 そう言いきる禊の瞳には、決意の色がはっきり読み取れる。諒はほっと安堵の溜め息を吐いた。


 眼前の珈琲が湯気を立て続けている。先程から諒は、それを何とはなしに見詰め続けていた。
「どうしたの?」
「いや」
 言って、一口だけ珈琲を啜った。甘みのない、純粋な苦みと旨みを舌先で転がして楽しんでみる。
「少し、昔のことを思い出してな」
「昔って、新潟に住んでた頃の?」
「もうちょい後。お前と始めて組んだ時のこと、だな」
「そう」
 自分が科学を狩る者サイエンス・ハンターであることを再認識したためか、禊はその表情に暗い影を落とした。
「大丈夫だよ」
「え?」
「言葉遣いが変わって、俺に対する接し方が変わっても、お前はあの時と違わない。あの時と同じ、侍の目をしている。だから大丈夫だ」
 言い切ると、カップの中身を飲み干した。その手は微かに震えており、諒も又、科学を狩る者サイエンス・ハンターであることに向き合っていることが見て取れる。その後、二人が言葉を交わす事はなかった。しかし、その空気は入ってきた時と比べると、幾分ましなものであった。


「大丈夫、だよな。今夜は眠れそうか?」
 禊の実家、琉縁寺りゅうえんじの前でそう問い掛けた。辺りは夕闇に染まっており、無骨な木造建築がある種の威圧感を覚えさせる。
「うん、頑張ってみる」
 『頑張ってみる』か。実に禊の奴らしいな。ふと心の中でそう思い、苦笑してしまう。
「何だったら一緒に寝てやろうか? 夜は結構冷えるしな」
「寝首を掻かれる覚悟があるのなら、いつでもどうぞ」
「流石にそれは嫌だからな。しょうがない、今日のところは帰るとするか。そんじゃ、またな」
「あ、諒」
「ん?」
「いや、何でもない。じゃあまた明日学校で」
「ああ」
 他愛のない別れの挨拶にも重みを感じていた。背中に感じ続ける視線を、諒は敢えて受け止め続けた。


「さてと」
 夜の公園にて。長椅子に腰掛けると、手帳を取り出した。この辺りは閑静な住宅街なので、周りに人気は全くない。
「今日こそは――」
 ファイルの一つを開き、キーボードを一つ、二つ押し叩く。フェザータッチのキーボードだと押した感触がないので、感覚が掴めない様に思える。しかしこれは、押すと微かに熱を発するようにプログラミングされており、その点は問題ない。
「くそっ! また外れか。一体何パターン用意してやがるんだ」
 焦りと苛立ちから、吐き捨てるような口調である。しかし、冷静さを保ち、再び指を動かし始める。軽快に動き続けるその指は、一流のピアニストを連想させた。
「この経路、前は駄目だった。だが、もしかすると」
 ディスプレイには、無数の文字列が映し出せれていた。そのほとんどがアルファベットであり、英語であるように思えるのだが、意味はほとんど分からない。
「見つけた! ホストコンピューターへの侵入経路。コンピュータの分際で梃子摺らせやがって」
 ようやく訪れた目的の時であった。しかし、ゆっくり余韻に浸っている時間はない。すぐ様、必要な情報を引き出すために指を滑らす。
「これは必要だな。これも――だぁ!! 面倒臭え! 全部入れたる!」
 言って、空のナノディスクを手帳に差し込む。別に、ホストコンピューターにある全ての情報が必要なわけではない。諒にとって必要な情報をメインに入れれば、ディスク三、四枚で事足りる。
 途端、警告音がした。クラックがばれたのだ。慌てて伸ばしていた手を切断し、逆探知を防ぐ。しかし――。
「ちっ。今のは微妙だったな」
 歯噛みし、一瞬判断が遅れたことを悔いた。と言っても、今更どうすることも出来ない。諦めて、手に入れた情報に目を通すことにした。
「ああ、もう。情報を飛び飛びで保存してやがる。連中も馬鹿じゃねえか」
 手に入れた情報はナノディスク一枚分。量としては厖大で、重要なものも所々にあるのだが、如何せん、こう不連続な情報では、確証を得るまでにはいかなかった。
「?」
 その中の一つ。とある研究所の情報に諒は目を細めた。研究内容ははっきりしないのだが、見覚えのある研究者名。そして資金援助額についてこと細かく記されていた。
「こりゃ、どうやら俺の想像してた通りか」
 手帳を閉じ、空を見上げた。昨日から今朝方まで降り続いた雨の影響で、澄みきった星空が広がっていた。
「いつからかな? 科学と、それに抗う存在を信じられなくなったのは。昔はそうじゃなかった気がするんだがな」
 自分で自分に問い掛け、苦笑した。そして――。
「まあいいか。こんだけありゃ、なんとかなるだろうし」
 そう結論付け、頭を掻きながら立ち上がると、公園を後にした。


 夜の学校というのは異様な空間である。鋭い剃刀を連想させる冷たい雰囲気。その静寂故に、何か人間以外のものがすぐ側に居るような錯覚に陥ることもある。元々が大量の人間を収容するための存在なので、人気がなくなる夜にそうなるのは当然のことなのかも知れないが。
 その中で、一人の少年が歩いていた。水上津雲である。脇に書類の入ったプラスティックケースを抱え、視線を落としたまま階段に向かっている。と、不意に足を止めた。その理由はおそらく、目の前によく知った人物が居たためであろう。三村諒その人が。
「良かった。まだ居たか」
「事後処理というのは、これで時間の掛かるものでしてね。それで何か御用ですか? 電磁銃ガンでしたら、明日には何とかなりそうですので、放課後にでも――」
「その件じゃない。少し、聞きたいことがあってな」
「何でしょう? こんな時間に来るということは、つまらないことではなさそうですが」
「ミューズコーポレーション、非直営研究所、通しナンバー0325。これが何だか分かるよな?」
「どうやら『知りません』では済まなそうですね」
「ああ、なに何せ、昨日俺らが狩った研究所だからな」
 途端、空気が止まった。ある程度予想はしていたのだろうが、流石の水上も動揺を隠しきれない。
「やはり知ってしまいましたか。心配していた通りですね」
「どういう意味だ?」
「あなた方は優秀です。そのため只の駒として使うのはあまりに危険だと、社長プレスに進言していたのですけどね」
 言いながら肩を落とす。その目もどこか疲れたような感じである。
「それで何が聞きたいんです? 言っておきますが、私の知っていることは限られていますよ」
「幾つかあるが、先ずは理由だ。何で、身内の研究所を狩んなきゃなんないんだ? いや、そもそも何のための研究所なんだ? ミューズコーポレーションでクローンの研究をしてるなんて聞いたことないぜ」
 淡々とした、呟くような口調である。しかしその目付きは鋭く、迫力がある。
「最初の質問に関しましてはね。反乱、ですよ。研究者達が働くことを拒否しまして、それまでの研究結果も処分しようとしたんです。理由は恐らく良心に耐えかねたのでしょう。非人道的な研究ではありましたからね」
 水上は、他人事のように語る。その目からは、どこか悟ったかのような印象を感じられる。
「二つ目については、少々長くなりますが。今、本社ではとあるプロジェクトが進んでましてね。そのためのちょっとした実験、と表現するのがいいでしょう」
「プロジェクト?」
「ええ。一言で言うのであれば、人間という種の究極形を産み出すこと超人類研究≠ニ名が付いてますけどね」
「?」
 諒は、その意味を把握しかねた。と言うより、話の方向性さえ見えないと言うのが本音だ。
「人間には二十三対、四十六本の染色体があります。その中に三十四億程のDNAが存在し、その塩基配列の一部が遺伝情報として用いられていることは御存知でしょう?」
「ああ」
「その情報の意味を完全に把握することが出来れば、個人の特性のうち、遺伝が大きな要素として占める部分、例えば、生まれ持った知性や筋力、いわゆる天賦について知ることが出来ます。尤もこれは突然変異によって生じることもありますから、必ずしも遺伝性とは言い切れませんがね」
「で、それがクローンや超人類なんたらとどうつな繋がるんだ?」
「仮に人間が一般的に優れているとしている特性。例として高い記憶力や身体能力、器用さを含む染色体を複数人から任意に選択します。それを融合させ、そこからクローンを造ればどのような存在になるかは明白でしょう?」
「んだと――」
 身体が、震えるのが分かった。空気は冷たいのに、頬を汗が伝う。
「理屈は簡単です。残りの問題は技術的な面と、一世代にあまりにも時間がかかることですが。前者の問題は何とか解決しましたよ。あなた達、科学を狩る者サイエンス・ハンターの存在によってね」
「てめえら! やっぱり俺らを利用してやがったのか!」
 怒りで、拳に力が入る。血圧が上がって、頭に血が昇ることさえ実感していた。
「そちらもお気付きでしたか。そうですよ。あなた方、科学を狩る者サイエンス・ハンターの狩った技術は、ほぼ全てが本社のメインコンピューターに収められています。今となっては、世界で一番の技術力をもっているんでしょうね、ミューズコーポレーションは」
「ふざけるなぁ!」
 言って諒は、水上の胸倉を掴んだ。このまま放っておいたら、怒りで自分が自分でなくなるような気さえした。
「何でそんな他人事みたいに言える!? 三若賢さんじゃっけん≠フ一人であるあんたが、そんな重要なプロジェクトの中核に居ないだなんて言わせないぞ! お前らのせいで禊は今――」
「076ですか。そちらの方は御存知無いのですか?」
「何をだ?」
 何を問われているのかさえ分からなかった。話の筋さえ見えぬまま、水上の目を見詰める。
「あの研究所は超人類研究≠ノおける一つの支流。心身、頭脳共に優れた人物、例えば優秀な科学を狩る者サイエンス・ハンターの染色体を半分ずつ選択し、融合させる。その結果の一つが076なんですよ」
「おい、まさか――」
 心臓が高鳴った。いや、この表現は厳密ではない。あまりに強く、そして早く鳴り響き続ける鼓動は、諒から意識さえ奪おうとしていた。
「そう。あれはあなた達の子供。母親という媒体を介さないだけのことでね」
 心臓が弾け飛んだような気がした。口の中は乾ききり、全身の筋肉も硬直して動かない。頭の中では、彼と、禊についての記憶が回り灯篭の様に巡っていた。


 西暦二〇一二年五月。ミューズコーポレーション静岡支社野外訓練場。訓練場と名は付いているが、只の山である。所々に、人工的に造られた草地が広がり、その側には澄んだ小川も流れている。林の中には、堅く踏み付けられた山道もあり、ハイキングコースとしては、申し分のない環境である。そんな草地の中の一つに、禊が居た。両手で刀を握り締め、先程から周囲に目を走らせ続けている。
「居ない!? 何処に行ったっていうの。そんな遠くに逃げる時間はなかったはずなのに」
 言いながら、少しずつ後退る。と、ここで川縁まで寄ってしまっていた。踵で蹴飛ばした小石が、水面に当たって波紋を広げる。
「川!? まさか!?」
 慌てて身体を反転させ、川を見遣ろうとする。しかし、手遅れであった。ずぶ濡れの諒が電磁銃ガンを喉に突き付けていたのだ。
「正解は導けたようだが一瞬遅かったな!」
 言って、ボタンを押した。カチッ。ボタンを押す音だけがした。諒と禊、両名に特別な変化は見受けられない。上空では鴉が、アホー、アホーと鳴いており、それが何だか物悲しさを増幅させた。
「……」
 無言のまま、禊は刀を諒の頭に振り下ろした。如月≠ニ同重量の模擬刀なので、斬れはしないが、痛いことは痛い。
「あぁ! なんか漏電してる!?」
 勢い良く立ち上がると、電磁銃ガンを手に絶叫した。
「そりゃ、水の中に電化製品を入れたらそうなるでしょうね」
 刀を右肩に掛けたまま、禊は冷ややかに言い放った。
「ちょ、ちょっと待て。これは防水加工は完璧だっつった水上の奴が悪いわけで、俺の非はさして大きいものとは思えない。故にもう一戦――」
「何があろうと、勝負は勝負。約束通り何か奢ってね」
 白い歯を見せ、明るい感じであった。そんな禊に、諒は何も言えなくなってしまう。
「ま、良かったんじゃない? 実戦中じゃなくて。適当な対策でも立てることね」
 禊は踵を返し、支社のある麓の方へ歩き出した。諒は諦めたかのように溜め息を吐くと、その後を追いかけていった。

「これが、今度最上トップに上がった、三村諒、神薙禊の両名です。ある程度は御存知でしょうが、御報告までに」
 薄暗い部屋の中、巨大スクリーンの映像が消え、真っ暗になる。次の瞬間、暗幕が開き、光が射しこんだ。窓からは、遥かな高みからコンクリートジャングルを見下ろせ、ここが高層ビルの一室であることが、容易に理解できる。部屋の中に居るのは二人の男性である。先程言葉を発したのは水上津雲。そしてもう一方は、年齢で言うなら三十五程。比較的長身で肉付きが良いのが目に付く。顔付きも凛々しく、一言で言うのであれば、二枚目のスポーツ選手といった感じの男性である。
「両者共大した腕のようだな。特に男の方は面白い素材だな」
「三村君ですか? そうですね。若い頃の社長プレスに似てますね。同じ電磁銃使いガンマスターですし」
「ぬかせ」
 言って男――社長プレスは白い歯を見せる。それにつられてか、水上も小さく笑った。
「見てみたいものだな。あの様な者達の遺伝子の行末を」
 瞬間、水上の表情が凍り付いた。
社長プレス。それは」
「どうした? 以前手に入れたあの技術を用いれば、一年足らずで完成するはずだ。上手くすればミューズより先に――」
「お言葉ですが、現段階で記憶の人工転写はあまりにリスクが大きすぎます。ミューズのケースと同じく、少なくても三年は見た方が」
「津雲。もし今のままで計画を押し進めれば、完成まで何年かかるか知っているだろう? 上手くいって四十年。下手をすれば六十年以上だ。私が生きている保証もないし、地球が持ってくれるとも限らない。少しでも早くする必要があるのだよ」
「それはそうですが」
 言いながら、少しふらついた。顔には幾筋もの汗が伝い、色も良好とは言えない。
「まあいい。主任はお前に任せるつもりだっただが、あまり乗り気ではないようだな。他の誰かを見繕っておくとしよう。出ていいぞ」
「はい……」
 額に手を当て、よろめきつつも、何とか退室しようとする。
「津雲」
 と、エレベーターに辿り着いたところで呼び止められた。
「忘れるなよ。今、日本に残っている三若賢さんじゃっけん≠ヘお前一人なんだぞ」
「分かってはいます」
 なんとか言葉を絞り出した、といった感じである。その顔からは、明らかな戸惑いと苦悩が見て取れた。


「如何なさいました? やはり、ショックが大きかったようですね」
「な――」
 『何だ今のは?』心の中でそう問い掛けた。明らかに自分の記憶には無い映像が浮かびあがり、諒は困惑を隠しきれないでいた。自分が床に尻をついた格好であることなど構わずに、水上を見上げる。
「それでどうします?」
「何だって?」
 意味を理解しきれず、考え無しに聞き返す。
「真実を知って私をどうします? 殴りますか? それとも――殺しますか?」
 心臓の高鳴りは、まだ収まりきっていなかった。むしろ今の一言で、再びその速度を上げていた。
「殺す? 俺がお前を?」
 諒の中に、水上に対する怒りが込み上げてきたのは事実である。だが、その後、何をするかについて、特に考えがあるわけではなかった。今ここで水上を殴ろうと、殺そうと何も変わらない。事実は事実として残るのだ。
「何でだ?」
「何がです?」
「何でそんなあっさり全てを喋る? 黙ってりゃ、そう簡単にばれる話じゃないはずだ」
「タイミングを逸してしまった、というのが本音でしょうね。前々から言うつもりだったのですが、言いそびれるのが続いて、最悪の事態に至ってしまったというわけです」
 ここで、一つの事実に気付いた。水上の口調が淡々としているのは、冷めているからでも、他人事と思っているからでもない。諦めているのだ。たとえ、今ここで諒に殺されても仕方がない。そんな気持ちで語ったに違いない。
「……」
 無言のまま立ち上がると、踵を返した。そしてそのまま階段を降りようとする。
「これからどうするんですか?」
 呼び止められ、足を止める。
「考えてない。少し時間が欲しい」
 口の中はまだ乾いたままで、あまりいい感じではない。
「そうですか。言い忘れていましたが、あなたに対して全国の科学を狩る者サイエンス・ハンターに拘束命令が出ています。あまり、時間はありませんよ」
「そうか」
 言葉の意味をあまり理解しないまま、返事だけを返す。重い足を引きずりながら、階段を降りていった。
社長プレス。あなたのとった気まぐれが、如何様な結末を導くかは、私にも予想がつきません」
 誰にも聞こえないような小声で呟いたのは、独り言であったのだろうか。水上は寂しげな目付きのまま、唯、虚空を見詰めていた。


 何だか、空が綺麗に見えた。呆けた表情のまま、長椅子に腰掛け、空を見上げる。どれくらいの時が流れたかについては、見当がつかなかった。唯、先程まで見えていた月が沈みきっているところを見ると、相当の時間が経っているのであろう。ふと、そんなことを考えた。
 全て、夢であると思いたかった。何もかも無しにして、普通の高校生として家に帰りたかった。叶わぬ願いとは分かっていたが。自分は今まで何をしてきたのだろう。科学者狩り――善であるとは思っていなかったが、悪であるとも思わなかった。しかし全ては舞台の上での出来事に過ぎなかったのだ。
 と、ここで空腹感を覚える自分に気付いた。『何を呑気な……』と苦笑するが、考えてみれば喫茶店でケーキを口にして以来、何も食べていない。少しは気が紛れるかもしれないので、手近な店を探すことにした。
「その前に家に連絡しとくか」
 今日の所は家に帰るつもりはなかった。暇な科学を狩る者サイエンス・ハンターが手柄を上げようと見張っているかもしれない。場合によっては、本職の諜報部がいるかもしれない。どちらにせよ、帰らない方が得策のように思えた。
「あ、母さん。悪いけど、バイトが伸びて遅くなりそうだから、店長の所に泊めてもらうことにした。うん、心配ないって。いつものことだろ?」
 そう。いつもの言い訳である。そして、この言い訳を素直に信じてくれる母親に、良心が痛むのもいつも通りのことであった。
「分かってるって。それじゃ」
 一方的に会話を終えると、手帳の通話機能を切った。諒はふうと一息つくと、ついでにメールシステムを立ち上げた。禊に何か送ろうと考えたのだ。メールアドレスを引き出し、文面部分にカーソルを合わせる。しかし、何も思い付かなかった。厳密には、文章そのものは思い付くのだが、それは禊に向けての物ではなく、全てが自分に向けてのものだったのだ。『今の自分に、禊に掛けられる言葉はないのか』そう思い、手帳を閉じた。  右手には繁華街が見えた。『あの雑踏の中で自分が消せれば、どんなに楽なことか……』そう考え、苦笑した。そして、諒がその雑踏に消えるのに、幾許の時も必要としなかった。


 >>第三章『みそがれざるもの』




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