邂逅輪廻



 西暦二〇一三年、一月。静岡県加賀御前かがごぜん市、私立冠叡かんえい高等学校二年三組教室内。
 そこでは、二十人余りの生徒が、短い休み時間を利用して思い思いの行動をとっていた。友人達との他愛の無い話で盛り上がる者。受験に向け、人生に不必要と思える単語を唯、ひたすらに暗記するもの。学生手帳も兼ねている、小型のコンピュータを用いて遠くの知り合いと連絡を取るもの。それぞれの時間がそれぞれに過ぎていく。
 その中で、一人の少年が窓際の席に腰掛けたまま、何をするでも無く虚空を見詰めていた。さらさらの短髪が特徴的で、良く言えば冷静、悪く言えば冷めた印象を与える容貌である。着ている制服はグレーのブレザーにズボンとオーソドックスな物である。しかし、ブレザーの裾が赤いことと、普通はボタンで止めることが多い前と袖の部分にファスナーが用いられている所が珍しいといえば珍しい。
「三村、客だぞ」
 不意に呼び止められ、少年――三村 諒は我に返ったかのように表情を変え、そちらを見遣った。
 見てみると、出入り口の所にいるクラスメートが呼び付けたらしい。そして廊下には見覚えのある少年が立ち尽くしている。
 諒はクラスメートに礼を言うと、その足を廊下へと向けた。
「この前はご苦労様でした。最後は少し揉めたようですけど、一応仕事は済んだのでよしとしましょう」
 一言で言うのであれば、背が低く、肉付きもあまりよくない少年である。体格だけを見れば中学生、或いは小学生でも通用するのであろうが、その目付きは鋭く、又、諒と同じ制服を着ているため。高校生と言われても違和は感じない。
「早速ですけどこれに目を通しておいて下さい。多分これだけで解るでしょうけど、もし聞きたいことがあるのであれば私の研究室までお願いします」
 言って少年は、親指の爪程しかない金属片を手渡した。これはナノディスクと呼ばれる超高容量記憶媒体であり、その名は同じ情報を一昔前のナノ、即ち十億分の一程度の大きさに収められる所に由来している。
「いいのか? こんな誰でも立ち上げられるようなもんに情報を詰め込んで。いつもみたいに旧型のフロッピーを使った方が――」
「生憎、今回は情報量が多く、それでは大変な手間になってしまいますのでね。心配しなくてもあなたと神薙君の手帳以外では資料を読み込めない様にしてありますよ」
「ならいいんだが……」
 言って諒は、ナノディスクを、胸ポケットに収めている学生手帳に差し込んだ。もちろん、これだけでは手帳に何の変化も起こらない。すぐさま、胸ポケットに戻されることになる。
「なあ、また仕事か? 最近多い気がするんだが、何かあったのか?」
「さあ? 一応本社の情報は逐一、私の所に入ってくることにはなってるのですが、何処まで守られてるかまでは」
 少年は、その表情をほとんど変えずに返答する。その変化は本当に僅かで、そこから今の言葉の真偽を読み取ることは出来ない。
「それはそうとガンの調子はどうです? 何か不都合な点は?」
「概ねいいな。欲を言うなら、次のバージョンアップの時には出力の限界とバッテリー電池の耐久性を上げてもらいたいな」
「分かりました、考慮しておきます。では私はこれで。神薙君には宜しくお伝え願います」
「ああ。そっちも、社長プレスによろしく言っといてくれ」
 それを聞き、少年は苦笑した。しかしすぐさま表情を元に戻すと、踵を返した。
「み〜む〜ら〜」
 不意に、背後に気配を感じた。多少驚いたまま振り返ると、そこには先程のクラスメートがいた。何かを言いたげな表情のまま、諒から視線を外そうとはしない。
「一体何だってんだ!? あの水上みなかみ先輩とお前が知り合いだと!? 一体どうなってるんだ!?」
「いや、言いたいことが良く分からないんだが」
「誤魔化すな!? 水上先輩といえば、授業にほとんど出てないのに、進学校であるこの冠叡でトップの成績を収め、高校生にしてあのミューズコーポレーションに研究者として内定が決まってるんだぞ!?
 それと、成績順位は上から数えた方が早いが、得手不得手がはっきりしてるお前とどういう接点があるんだ!?」
「お前詳しいな。ひょっとして水上先輩のファンか? 或いはそれ以上の感情を――」
「茶化すな。俺は真面目に聞いてるんだぞ」
 唐突に、クラスメートはその表情を変えた。こう真摯に見詰められると、何か居心地が悪くなってしまう。
「別に。単に顔馴染みだよ。家が近くて、こっちに越してきた時いくらか世話になった。それだけの関係だ」
 『それだけじゃ不満なのか?』と言外に含めておく。もちろん、これで納得するわけも無いが、雰囲気に押されたのか、クラスメートは次の言葉を発せなくなってしまう。
「さて、授業授業。誰もが愛せない前川生物のお時間だぜ」
 言って諒はクラスメートの肩を軽く叩いた。しかし、その表情も筋肉もまだ、強張ったままであった。

 パシッ、パン、ドン、ガシッ。
 放課後。体育館内には、この様な音が入り乱れていた。
 中央では、十数人の生徒が激しい動きを続けている。それらは皆、面に胴着や籠手、そして白袴を身につけているため、一目で女子剣道部員であると分かる。
水月みづき! 踏み込みが浅い!」
 この喧騒の中でも、その声だけははっきり聞き取ることが出来た。中央の集団の更に真ん中。防具の垂れ部分に神薙≠ニ書かれた少女のそれである。
 多少、息は上がっているようだが、他の部員とは違い、肩はほとんど動いていない。
「こうなりゃ勝つまでやってやるわよ! 禊、覚悟はいい!?」
「いい覚悟ね! 勝てるもんなら勝ってみなさい!」
 『元気だね〜……』壁に凭れながら、しみじみそう思った。そうこう考えているうちに、禊と水月の両者が激しく切り結び始める。しかし、ものの三十秒も経たないうちに水月は一本を取られてしまう。
「ううう。何であたしは禊に勝てないの!? そうよ! きっと禊は男なのよ! 結構体格もいいし、この仮説は間違ってないと――」
「阿呆なこと言ってないで、まだやるの? やらないの?」
「そりゃやるけど、ほんと、いっぺんでいいからケチョンケチョンのボンロボンロに負かしたいわー」
「先輩、ずるいですよ〜。神薙先輩を独占するなんて〜。私達だって一緒にやりたいんですから〜」
 面を外した状態で、一年生の一人がそう哀願した。その後ろに数人固まっている所を見ると、これは代表としての意見のようだ。
「そうは言うけどね。対抗戦に向けて、もうちょっとこれ鍛えとかないと。って、あ――」
 そこで何かを思い付いたのか、禊は諒のことを見遣った。そして手招きをして、呼び付ける。
「いい所に居てくれたわね。お願いするわよ」
 言って禊は、諒のブレザーを剥ぎ取り、胴着を当てると、後ろの紐を結わえ付けた。同様に、面と籠手も所定の位置に当て、きつめに紐を結ぶ。
「みんな、とりあえずこれ相手にしてて。勝てたら私が相手してあげるから」
「いいのか? 俺がこんな場に出て――」
「いいの、いいの。年下が相手だからって手、抜かないでよ」
 そう言うと、禊は息を軽く吸い込み、乱れを整えた。そして水月に相対すると、真剣な面持ちで練習を再開した。
 バシッ! 先程と同じ三十秒弱で、禊は水月から籠手を奪った。
「み〜づ〜き〜ちゃ〜ん。何でさっきと同じ戦法で同じように負けるのかしら? 学習能力、って持ってる?」
「てへ♪ 禊ちゃん、声と顔、こっわ〜い。それじゃ虫除けならぬ男けになっちゃうよ♪」
「あのね……」
「あの、先輩」
 突然呼び止められたためであろう。禊は少しばかり表情を変えた。
「何?」
 面を外しながら返答する禊。彼女の前には先程と同様に、一年生の一人が立ち尽くしている。
「さっきの人に、全員、勝っちゃったんですけど……」
「……」
 見てみると、二人からおよそ五メートルほど離れた所。他の一年生に見下ろされる形で大仰にのびている人物が居る。
 言うまでもなく、三村諒その人である。微妙に痙攣している所を見ると、生命活動は何とか維持しているようだ。
「あんたねー。一体一人平均何秒でやられたのよ? 逆にすごいわよ、これって」
「当たり前だろ。俺剣道の経験なんか全く無いんだぞ」
「それでもしょっちゅう見学してるんだから、一人二、三分ぐらい持たせなさいよ!」
 いくらか勢いも手伝ってか、無茶を言う禊。それを聞きながら、諒はゆっくり起き上がり、顎に手を当てた。
「ふっ。みんなを女の子として落とせ、というのであれば負けなかったんだが」
「はいはい。しょうがないわね。片端から相手したげるわ。言っとくけど、手加減なんかしないからね!」
「おーい禊。人のボケ流すのは――まあ、あんま良くないんだがこの際置いといて。終わったら例の場所でな」
 最後の部分は他の誰にも聞こえないほどの小声で言う。禊も又、何も聞かなかったかのように練習へと戻っていった。
 諒は無言のまま胴着を外し、ブレザーを羽織ると、体育館を後にした。

 コンピューター室。中央校舎の三階にある教室である。創立当初に、『情報化社会に負けない生徒を育成する』というコンセプトでつくられたのだが、七年前、学生手帳にコンピューターが用いられるようになってからは全くといっていいほど使われなくなっている。
 そのため、放課後ともなると人気がほとんど無くなり、隠れて会うのにはかなり都合のいい場所になるのである。
「諒。こんなとこで寝てたら風邪ぶり返すわよ」
 そう呼びかけられ、突然がばっと起き上がる諒。しかし、現状が良く分かっていないのか、寝惚け眼のまま周囲を見回す。
 諒の横にはポニーテールの少女――神薙禊が立っている。先程とは違い、この学校の制服であるグレーのブレザーに、膝まで隠れる程度のスカートを身につけている。ブレザーの裾が赤いのは男子のそれと同様であるが、前にボタンが用いられている点や、襟の形が違うなどの相違点も見受けられる。又、恐らく竹刀などが入っているのであろう。彼女は、黒く細長いバッグを左肩に掛けていた。
「今、何時だ?」
「六時過ぎ。もうすぐ正門閉められちゃうから、手短に済ませましょう」
 たしかに、外は完全に暗くなっている。如何に冬至を過ぎたといっても、当分この時間帯に明るさが残ることはない。
「まあいつも思うことなんだが、いくら人がこないといっても、ここでこれを使うのは馬鹿げてる気がするんだが」
 言いながら、胸ポケットから手帳を取り出す。それは、脇についているストッパーを外して広げるとB5用紙程度の大きさになる。更に、もう一度広げると、中から液晶の画面とフェザータッチのキーボードが姿を現わすのだ。
「ねえ、また仕事? 前のはたったの三日前。ちょっと早すぎない?」
「俺に言われてもな。大体そこの所は俺も水上の奴に聞いといたんだが――」
「何も分からなかったわけ?」
「ああ。あいつの表情はいつものことながら全然読めない、っと」
 アイコンの一つをクリックし、先程のナノディスクを立ち上げる。すると突然、画面に厖大な文章が表示された。どうやら、報告書の形式で書かれているらしい。とりあえず速読で内容を把握しておく。
「人間のクローン? それも胎生じゃなく、体外で」
「何を目的にしてるかは知らないが、見過ごすわけにはいかなそうだな」
 資料には、要所要所に映像が添付されていた。そこには、どこぞのSF映画で見るような、巨大なガラス管で培養される人間の姿や、人間の染色体を高価そうな機械で操作する研究員達の姿などが映し出されている。
「しかしまあ、大した資金力だな。これだけの研究所ともなると相当でっかいバックが――」
 検索機能を利用し、関連の資料を調べてみる。
 ――しかし。
「不明? これだけの資金を提供してる組織が分からないってのはどういうことだ?」
「さぁ? うちの諜報部で分からないんだからよっぽどの理由があるんじゃない? でなきゃ単なる手抜きね」
 さらりとその質問を流す禊。どうやら部活上がりで少し疲れているようだ。
「これで終わり? だったらもう帰りましょ。あのあと、全員相手にしたからもうへとへとで」
「その前に、ここだけは読んでった方がいいみたいだぜ」
 諒はそう言うと、報告書の一番最後の部分。唯付け加えただけ、といった感じの一文を指差した。
「研究品が逃げ出すようなことがあれば破壊も辞さぬ様に、って、簡単に言ってくれるわね」
「全くだ」
 ファイルを閉じ、コンピューターを手帳のサイズに戻す。そしてそこからナノディスクを取り出すと、禊の眼前に差し出した。
「コピーしようか? まだ全部は読んでないだろ?」
「いいわよ。私達は単なる実行係。それに必要な情報があれば充分よ。それよりそのファイル、少しでも早く処分した方がいいんじゃない?」
「そうだよな」
 諒は小さく呟くと、右手に力を篭めた。すると、ペキッという音を立ててナノディスクは二つに折れる。
「俺らの目的は過ぎた科学≠消滅させ安寧を得ること。そのために一生懸命頑張ってるんだよな……」
 只の金属片と化したナノディスクを見詰めながら呟く諒。その姿はどことなく寂しげだ。
「よし! 実行は今週末だな。土曜と日曜、どっちが都合いい?」
 まるで、デートでも申し込むかのように軽く問い掛ける。そしてそれについての返答がなされると、二人はごく普通の友人として帰路へついた。
 後には、おそらく二度と本来の目的で使われることのない教室の、悲哀を含んだ静寂のみが残された。


 その日、目的地の上空は黒く、そして厚い雲に覆われていた。時たま遠方から鳴り響く空の鼓動は、諒の心に嫌な予感を覚えさせる。
「珍しいな。こっちでこの時期にこんな天気になるなんて。何か罰の当たることでもしたっけな?」
 軽口を叩きながらボストンバックのファスナーを閉める。中にはここに来るまでに着ていた私服が詰め込まれている。
 そして今着ている服は、一言で言うなら黒装束である。上も下も艶のない黒一色。手袋や靴も同色に纏めており、中々決まってはいる。
「でも、なんでマフラーな訳?」
 林の中から出て来た禊がそう問い掛ける。彼女の方はというと、意識したという訳では無いのであろうが、対照的に白一色である。白の小袖に白袴。そして尻尾の長い白鉢巻に足袋、草鞋と何処と無く神子を連想させる格好である。
 もちろん、左の腰には刀を帯びており、一方でそれが一種の違和を与えている。これが二人の、言うなれば仕事服≠ネのだ。
「まあ何というか。やはり首からの冷えには注意した方がいいと、うちのお袋が言ってくれてな。秋口からこれを作ってくれた訳で。それを着用しないなんて不人情なこと、お前に出来るか!?」
「いや、私は聞いてみただけで、別に怒らなくても……」
「ふふ、いいんだ。これからきっと仲間内じゃマフラー諒ちゃん≠フ愛称で親しまれることになるだろうけど、母親の愛情に勝る物はないさ」
「分かったから早く行くわよ。ガンの調整は済んでるんでしょうね?」
 問題のマフラーを引っ張りながら移動を促す禊。それによって当然のことながら諒の首は締め付けられ、苦しそうにマフラーの内側へ指を突っ込む。
「ちょ、ちょっと待て! お前、俺を殺す気か!? 日本じゃ絞首刑はとっくの昔に廃止になってんだぞ!」
「だったら始めっからそんなつまらないことで拗ねないでよ」
 まるで悪びれること無く、禊はその手を放した。それを受けて諒はその場に蹲ると、敢えて大袈裟に咳込んだ。
「うえー、本気で死ぬかと思った。全く、いつかまとめて復讐してやるからな」
「女に甘いあなたにそんなこと出来るの?」
 いたずらっぽい笑みを浮かべながら言う禊。一方で、諒は再び何かを考え始めたのか、その表情を神妙な物に変える。
「そうなんだよなー。いくらこいつが奇跡の胸≠ニ呼ばれ、とある宗教団体の偶像の候補に選ばれてるっていう噂があるほど無いといっても、一応女だからな。『女に優しく、自分にも甘く』が座右銘の俺としては一体どうすれば――」
 ボコッ。何か、硬い物同士を叩き合わせた時に生じるような鈍い音が響いた。
「安心して。峰打ちよ」
「ったりめえだ! こんなボケ一つで刃の方使われてたまるか」
 頭を擦りながらそう返答する諒。その部位は、内出血によって微妙に隆起している。
「にしてもだ。人間って奴は、真実を突き付けられると本気で怒るってのは本当らしいな。実に興味深い」
「諒。一度、この世とあの世の境目まで行ってみる? 医療技術の進歩からいって、多分帰ってこれるからいいわよね?」
 その双眸に、冗談の匂いの欠片さえ感じさせずに語る禊。諒はそんな禊から視線を外すと、わざとらしいほどの大声で宣言した。
「そ、そんなことより禊君。我々の任務を忘れてはいないか? そう。クローン研究所の破壊、ないしは研究を永久に凍結させること! それを達成するまでは、私的な感情を表面化させる訳にはいかないのだ!」
 言って諒は、逃げるようにその場から走り去った。その速度はかなり速く、一瞬呆気に取られてしまった禊が追いつける物ではない。禊は大きく溜め息を吐くと、諦めたかのような表情でその後を追った。


 その研究所は郊外の、廃学校の地下にあるという情報であった。
 ここは都民のベットタウンとして発展した街であり、人口密度も決して低くないのだが、小子化の影響で閉校になってしまったのである。周囲には茶畑が延々と広がっており、何処かほのぼのとした雰囲気が漂っている。
「にしても、何で秘密研究所ってのは地下に多いんだ? はっきり言って比率的にはかなりのもんだと思うんだが」
 諒は下駄箱の前で、ふと思い付いた疑問を口にした。それに対し禊は、考えを纏めるためにか、少し間を取る。
「もちろんばれにくい、っていうのも大きな要因なんでしょうけど、好きなんでしょ。科学者って人種はそういう所が」
 さらりと、偏見に満ちた発言をする禊。彼女には結構こういう面がある。
「で、どうする? 見張りは一人。強行? それとも――」
 鏡を利用し、死角から相手のことを覗き込む。下駄箱から、目的の工作室までの距離はおよそ十メートル。もちろん、二人はその声量を相手に聞こえない程度に押さえている。
「目的が分からない、ってのは気持ち悪いからな。とりあえずあいつを捕まえて、バックも含めて聞いとくのが無難だろう」
 言って諒は、右袖の中から藍青色に輝く棒状の物体を取り出した。その大きさは、通常の万年筆をいくらか太くした程度である。
 これは電磁銃ガンと呼ばれる装置で、充分に湿度を高め、帯電させた高圧空気――通称、電磁弾ブリットを撃ち出すことが出来る。又、気圧や帯電量をボタン操作で調節することも可能だ。
 ドメラキャゾワイオ!
 唐突に、周囲が目を覆わんばかりに明るくなる。そしてそれとほぼ同時に、とてつもない大轟音が轟いた。どうやら雷がこの学校、ないしは近くに落ちたらしい。幸いにも、諒が驚きと恐怖のため、禊の足元で震えていること以外、さして変化はない。
「こほん。では改めて。俺は通常弾を三発撃つ。もし仕止められなかったら――」
「ちゃんと私が何とかするわよ――で、諒。その前に一応言っておくけど、今更格好つけたって手後れよ」
「ごめんなさい」
 何に対してかは良く分からないが、一応謝っておいた。
「それじゃ行くわよ。タイミングはいつも通り――」
「お前が飛び出した三秒後、だな」
 禊はそれを聞き、小さく頷いた。そして軽く息を吸うと、目付きを変え、腰の刀に手を掛けた。刹那、禊が廊下へと飛び出した。それに続く形で、諒も又その足を前に進める。
 見張りの男がそれに気付き、口を開きかけたのと、禊が刀を抜ききったのはほぼ同時であった。しかし、諒は既に照準を合わせ終えている。ポシュ、っという小さな音と共に、見張りの男は床に膝をついた。
 諒が狙いを付けたのは、両腿と右上腕部の三点である。電磁銃ガンの放った電磁弾ブリットは見事にその部位を直撃したのだ。そして禊が男の首筋に自らの銘刀如月≠突き付け、下手な動きをとらないよう勧告した。
「とりあえず第一段階はクリアね。諒、何か縛るもの持ってない?」
「いや。無いぞ、んなもん」
「え? 困ったわね。流石に放置しておく訳にもいかないし、せめて手だけでも縛っておければいいんだけど――」
 そこまで言ったところで、何かに気付いたのか、禊はその視線を諒の方に向けた。厳密に言うのであれば、諒の首に絡み付いている物体に、だ。
「禊。お前人の話聞いてないのか? これは俺の母親が丹精篭めて編んでくれたもの。言い換えるのならば愛情90、毛糸10ぐらいの比率で出来ているといっても過言ではない訳で。それを解いて、そんな誰とも知れぬおっさんの腕や足に巻き付けるなんてこと――」
「分かってるわよ。唯、ちょっと可能性の一つとして考えてみただけじゃない」
 言って禊は刀を鞘に納めた。そして『しょうがない』と呟くと、頭の後に手を回し、鉢巻を解いた。それは意外に長く、彼女の身長と大差ないほどある。
「諒。私この人縛っておくから、中の様子見といてちょうだい」
「へいへい」
 言いながら諒は工作室の扉をスライドさせた。中はかなり薄暗い。見てみると、全ての窓にベニヤ板が張り付けられている。安っぽい工作ではあるが、状況が状況だけに違和感はない。 その途端、何かを感じた。具体的に五感の何で感じたのかは明言できない。唯、今までとは違う何かを感じたのだ。メリッ。不意に、まるで板が折れ曲がるかのような音がした。そして次の瞬間、床下から派手な音を立てて、黒っぽい物体が姿を現した。
 いや、この表現は厳密ではない。部屋の中が暗いためそう見えるだけで、色としては黒より紺に近い。そしてそれは紛れも無く人間であった。体格だけで判断するのであれば、十歳前後の少年に見える。それ以外のことはこの暗がりでは良く分からない。
 刹那、今まで床に蹲っていた少年が窓際へと走り寄った。そして左手をベニヤ板の一枚に掛けると、力任せにそれを剥ぎ取る。その瞬間、外から入ってきた光で彼の顔が晒された。一言で表現するのであれば、狂気≠ニいうのが最も適当であるように思える。何かに怯えているとも、又、何かを欲しているともとれる鋭い瞳。この時諒は、その眼光に射竦められ、その情景を見詰めることしか出来なかった。
 少年はベニヤ板を放り捨てると、眼前に腕を回し、硝子を突き破った。当然、身体のあちこちを傷付けたようで、赤い物が周囲に乱れ散る。しかし彼はそれを全く気にせずに、その場から走り去っていった。
「何!? 今の音!?」
 禊が、乱暴に扉を滑らせ、中へ入ってくる。その目は驚きに満ちており、相応の恐怖も読み取れる。
「何か、子供みたいのが出ていった。それ以上は、分からない……」
「子供? で、どうするの? その子を追うの? それともした階下に――」
 そう言われ、考えを纏めるために両目を瞑る諒。とは言え、正直な所、頭の中は混乱していた。たしかに、あの少年に恐怖に似た感情を抱いたのは事実である。しかしそれだけでは表現しきれない、別の想いも同時に湧いてきたように思えたのだ。
「単独行動は絶対にまずい。とりあえず見張りの奴が何か知ってるかもしれない」
「ごめん。焦ってこっち来たから、縛りきれなかったの。多分、もう逃げてるわ」
 それを確かめるため、首だけ出して外を覗いてみた。そこには鉢巻が落ちているだけで、男の姿は何処にも無い。
「なら、研究所に行こう。あれが何なのか分からないのに追うのは意味がない」
 その判断に自信はなかった。だが、迷い続ける訳には行かない。諒は禊と共に、少年の飛び出した階段へと足を向けた。
 階段は螺旋状になっていた。段数は十六段と少ないのだが、角度が上手く計算されており、奥の光が見えないようになっている。
「諜報部の情報通りね」
「ああ。ってことは、あの開いた扉が――」
 言いながら二人は、それぞれの武器を右手に収める。緊張のためか、その手には汗が滲み出ていた。
科学を狩る者サイエンス・ハンターだ! 抵抗はしない方が――」
 その時、諒は自分の目を疑った。その実験室はたしかに以前、ファイルに添付されていた場所である。しかし、今のここはあの映像とは似ても似つかない場所と化していた。十数個並んだガラス管は割れ果て、漏電でもしているのか、何処からともなくバチバチという音が聞こえてくる。そして何より、床に十数人が倒れていた。そのほとんどは薄絹しか纏っておらず、裸同然である。諒は、手近にいた白衣の男の胸座を掴んでその身体を起こした。そして二、三度ひっぱたき正気づかせる。
「起きろ! 一体何が起きた!? 答えろ!」
 かなり荒々しくしたためか、研究員らしき男は怯えながらも質問に答えた。
「奴が……076が逃げ出した。さっきの落雷で停電し、非常電源に切り替わるまでの隙をついて。あれだけはこの研究所から逃がしちゃいけない。俺達は奴をあいつらの手に渡さないためにこんなことを。信じてくれ――」
「……」
 諒には、言っていることが半分ほど理解できなかった。禊にとってもそれは同じの様で、どうしたものかと視線を諒に向けている。
「状況は良く分からないが、さっきガキが076なんだろうな。とりあえずここは処理班に任せて、俺らはそいつを追った方が良さそうだな」
 その諒の台詞を聞き、禊は表情を強張らせた。
「見つけて、どうするの?」
 その声も又、強張っている。どうやら、報告書の最後の一文が気に掛かっているようだ。
「知るか、んなもん。俺らは俺ら。上層部の単なる駒じゃない。会ってから決めるんだよ」
 それを受けて、禊はその表情をぱぁっと明るくした。そして決意を固めたのか、すぐ様顔付きを真剣なものに変える。
「行きましょう。その076って子。何だかとても気になるの」
「ああ、分かった」
 諒は小声で同意すると、扉を閉め、階段を駆け上がった。


「予想はしてたことだが、やっぱ流されちまってるか。ちくしょう。さっき捕まえとくべきだったのか」
 諒は自分の判断ミスを呪った。先程から降り続いている雨で、足跡と血の両方が洗い流されていたのだ。
「悲観するのはまだ早いみたいよ」
 言って禊は、校庭の、遥か向こう側を指差した。
「ここから三百メートルくらい先の茶畑の中に人影が見えるわ。辺りに人家は見えないし、彼の可能性は高いでしょうね」
「いや、俺にはな〜んも見えないんだが」
 目を細めたり、或いは引っ張ったりして指の先を見詰めてみる。しかし諒には、その黒い点のようなものが、人なのか茶畑の何かなのかさえ見分けることが出来なかった。
「まあいい。他に情報が無い以上信用するしかない訳だからな」
 諒はそう言うと、その方向に駆け出した。三百メートルというと、全力近くでいけば一分足らずで走りきれる。と言っても、それでは全身の酸素が欠乏してしまい、筋肉のエネルギー源たるATPも一時的に使い果たしてしまうことになる。その兼ね合いが大切なのであり、当然二人はその辺りのことを熟知している。
「禊。奴はまだ動いてないか?」
「位置的に言えばほとんど。でも、何か妙な動きを」
「妙?」
「上手くは言えないんだけど、何だか、苦しんでるみたいな」
「……」
 根拠は無いが、嫌な予感がした。それが、数年この仕事に携わってきたものとしての勘なのか、天気がそうさせたのは分からなかったが。
「ようやく見えてきた。たしかに、さっきの奴だ」
 距離にして百メートルほどの所でぽつりと呟く諒。それを受けて、禊は腰の刀を抜いた。瞬間、少年が二人を見遣った。二十メートル付近まで来ていた諒は、その目にびくつき、足を止めてしまう。
「なんだ? ここは……。僕は恐いのか? 全てが? それとも、自分自身が?」
 自身の手を見詰めながら、何やら意味不明のことを呟く076。諒はそれを見て、身体の奥から不気味な寒気が湧いて出るのを感じていた。
「禊。あれはやばい」
「やばい? って何が?」
「以前、あれと似た猿を見たことがある。思考能力はほとんどゼロ。自分が誰なのかも分からなくなり、原始の感情たる破壊への衝動を唯、遂行する。感情を、記憶の集積だと思ってやがるからこんなことになるんだ」
「その話、聞いたことある。たしか記憶の人工転写」
「ああ。奴はおそらくクローンとして生を受けた後、高速培養されたんだろう。そして、人が持つべき感情の代替として、情報としての記憶のみを植え付けられた。その結果はあの通りだ」
 冷汗の混じった雨水が諒の顔を伝ってゆく。その表情からはいつのも、軽い感じは見受けられない。
「殺す殺さないは別論議にしても、戦いは避けられそうにないな」
 諒はそう言うと、マフラーを茶の木に掛けた。特殊加工が為されていないため、激しい戦闘になるとずたずたになってしまう恐れがあるからだ。
「待って。本当に何も分からないかなんて分からないわ。人間と猿とは違う。そうでしょ?」
「話し合う、ってのか? そりゃ勝手にすれば良いが、条件がある。武器だけは手放すなよ」
 本心からの忠告である。しかし禊はその刀を収めた。そして五歩ほど彼に歩み寄る。
「聞いて。私達は敵じゃない。一緒についてきてくれれば悪いようにはしないわ。約束する」
「君はなんだ? 生ある存在? ヒトたるもの? 僕を否定するもの? それとも――」
 怯えきった表情のまま禊を見遣る少年、076。そして――。
「うわあぁぁぁ!!」
 絶叫した。
「例え誰であろうと、僕を否定するものを僕は許さない!」
 瞬間、076が禊に向かって走り寄った。そして、顔を引き攣らせたまま硬直している禊の左頬目掛け、拳を繰り出す。
 バシィッ。拳が直撃した。禊の顔ではなく、軌道線上に差し出した諒の左上腕部に、だ。もちろんその衝撃で諒の腕が顔に当たりはするが、大した痛みではないはずだ。
「だから言っただろ。俺達に出来るのはこいつを力ずくで抑え付けることだけだ」
 言いながら諒は手首を返し、076の細い腕を掴んだ。そして彼を引き寄せようと、腕に力を篭める。しかし、076はびくともしなかった。それどころか、もがこうと動かした腕の反動で、諒の体は宙に浮いてしまう。ガサシィ。整然と並んだ茶の木の一つに飛び込んでしまった諒。硬く、細い枝が無数に伸びているため、これが結構痛かったりする。
「諒!」
 声を上げ、その方向に駆け寄ろうとする禊。しかし、眼前には076が居る。慌てた感じで後ろに飛び退くと、彼との間合いを確保した。
「……」
 躊躇いがあるのか、刀の柄に一度手を掛けてから、また離した。禊は一度目を瞑ると、息を吸い込んだ。すると意を決したのか、刀を抜き、それを両手で握り締めた。
「人造人間076。科学を狩る者サイエンス・ハンターの名において、あなたを拘束します」
 おそらくは、自分に言い聞かせるために呟く禊。そしてそのまま076へと斬り込んだ。
 サンッ。如月≠ェ空を薙いだ。076はその斬撃を躱す形で、かなり離れた場所に飛び移っている。しかし、禊にとって今の一撃は威嚇に過ぎない。本当の目的はそれより――。
「諒、起きなさい! こんなとこで寝てたら、また風邪ひくわよ」
「いや。別に気、失ってた訳じゃないんだが。まあ、少しいきかけたことは認めるが」
 頭を押さえつけながら諒は起き上がる。無意味なことは分かっているのだが、つい習慣で埃をはたくように服を叩いてしまう。
「禊。さっきの、奴の腕力見ただろ。ありゃおそらく――」
「筋力特化。人が無意識のうちに行っている筋肉への抑制を薬学的に排除する。麻薬みたいな常習性は無いけど、身体に掛かる負担が大きすぎるために葬られた研究。と言うより、葬ったと言う方が適切ね」
「ああ、前に俺らが狩ったはずの技術だ。くそっ! 厄介なもん使いやがって。加減してたらこっちが殺されちまう」
「それに、あの子への負担も心配よ。短期的に何とかしないと」
 言うのは簡単である。諒はそれを実践するための方法を考え、頭を回転させる。
「よし。俺が先に行く。何とかしてこいつを当ててみせるから、お前は奴の腱を二、三本ぶち切ってくれ」
 言って諒は、袖下の電磁銃ガンを禊にちらつかせた。これで一瞬でも076の動きを止めることが出来れば、何とかなる。そういう結論に落ち着いたのだ。
 ザシッ。諒は地面を蹴り、076へ向け駆け寄った。076は再び何かを呟いていたのだが、その存在に気付き、鋭い目付きで諒のことを睨み付ける。と、諒はその身を屈め、左手を地面に擦り付けた。そして泥を掬うと、目潰しとして076へと投げつける。かなり古典的な手段ではあるが、思考能力の弱い彼には有効なはずである。事実、泥の塊は076の顔に当たると、その泥片を彼の着ている紺色のつなぎや、周囲に撒き散らした。
「の、せび――」
 驚きのためか、意味のない文字列を口走る076。諒はそれを見て、一気にその間合いを詰めた。刹那、076の右手が諒の左腕を掴んだ。
 見えているはずはない。おそらく、山勘で振り回した手が偶然触れたため、握り締めたのであろう。慌てて、振りほどこうとするが、外れはしない。それどころか、その反動を押さえつけるために、076は腕に力を篭める。半端ではない痛みを、神経系を通じて大脳で感じていた。
「んにゃろう!」
 その痛みを、俗に言う根性≠ナ耐え、右腕を差し出した。当然その手には電磁銃ガンが握られており、間、髪入れずにそのボタンを押す。
 電磁銃ガンの近距離射撃である。この雨では空気を飛ばしても、目標に届くまでに溜め込んだ電荷のほとんどが霧散してしまう。しかし直接撃ち込めば、充分に神経系を混乱させ、筋肉活動を阻害することが出来るのだ。もちろん、この状況では自分もある程度感電してしまうが、それは覚悟の上である。
「あ、が……」
 小さな呻き声をあげながら、076は膝をついた。一方の諒も多少身体の不自由を感じていたが、彼の服は絶縁加工されている。蹌踉きながらも何とか立ち上がる。一方で、今まで後方に待機していた禊が076に詰め寄る。そして、その刀を彼の首筋に突き付けた。
「禊! 半端な真似はよせ!」
「え?」
 瞬間、076が右手で如月≠握り締めた。金属置換技術でその切れ味を増している如月≠ナある。その力だけで肉を切り裂き、骨まで食い込んでいるはずだ。その証拠に、彼の手からは赤い生命の雫が止め処無く流れ出し続けている。
 刹那、076が禊を引き寄せた。そして、空いている左手を手刀とし、横手のまま振り払う。禊は慌てて刀を手放すと、後方へ飛び退いた。サシュッ。禊の胸元、小袖の襟の部分が切り裂かれた。耐刃繊維で出来ているはずの小袖が、だ。
「ひゅい〜、無くてよかったな。あったらえらいことになってるぞ」
「何を呑気なことを――」
 二人は体勢を整えながら、軽く言葉を交わした。その視界には自然と、刀を無造作に捨てる076の姿が入ってくる。
「まだ躊躇ってんのか?」
「……」
「見た目があんなガキじゃしょうがないか。俺も可愛い子相手にする時は、本気で自分が嫌になるもんな」
「それと同じことなの?」
「本質的には似たようなもんさ。ま、それはそれでいい。お前はそこで見てな。あんなガキ一人、俺がなんとかしてやる」
 076はこれまでにかなりの傷を負い、血を流している。何とか出来ないはずはない。少なくとも諒は、そう思っていた。
 ――と、そこで雨がほとんど止んでいることに気付いた。これならば、電磁銃ガンを遠距離で使用することも出来る。確実に追い風になっているように思えた。
「よっしゃぁ! 気合入れてやってやっかぁ!」
 この突然の雄叫びに、禊と076の二人がびくついた。諒はそんなことには全く構わず、電磁銃ガンを差し出し、ボタンを二、三度押す。
「内圧25気圧アトム、帯電率70%……いっけぇ!」
 狙いは左上腕部。ある種、間の抜けた、ポシュッという音と共に、電磁弾ブリットはその部位を直撃するはずであった。
 が、電磁弾ブリットは076に当たらなかった。外れたわけでも、外したわけでもない。当たらなかったのだ。滅多に起こらないその事実に、諒は自身の顔を強張らせた。
 刹那、076が二人に向けて駆け出した。右手からは痛々しいほど血が流れ出しているが、ほとんど気にしていないようだ。
「くっ……」
 電磁銃ガンは一度使用すると、蓄電回路に充分な電気が溜まるまで発射できない。諒は袖下に電磁銃ガンを仕舞うと、構えを取り彼と対峙した。
 途端、076がその身を屈めた。そして、諒がしたのと同じように泥を掬い、投げつける。
「なっ!?」
 慌てて左腕で目を保護する諒。次の瞬間、腕に軽い衝撃を感じ、泥が乱れ飛ぶ。
「ふざけた真似を――」
 小さく呟きながら腕を降ろす。と、諒はそこで一つの事実に気付いた。赤い塊が、自分に向かって飛んできているのだ。それは既に眼前にまで達しており、防ぐことは出来ない。
 バシュッ。鮮血が諒の顔面を覆った。反射的に瞼は閉じたものの、視界を奪われることに変わりはない。血を拭おうと、必死になって手で擦り付ける。ガコッ。腹部に重い衝撃と、それに付随する形で痛みも感じた。076が諒を殴り付けたのだ。二、三歩後退る諒に、076はもう一撃喰らわせようと、左腕を後方にしならせる。
「こなくそぉ!」
 絶叫する諒の右手には電磁銃ガンが握られている。蓄電回路に充分な電気が溜まったのだ。但し、その方向は山勘である。大体、前方に右手を差し出すと、ボタンを押す。
 ポシュッ。聞きなれた音と共に電磁弾ブリットが直撃した。その事実を追撃が無いことから理解する諒。血糊を拭き取りながら、かなりの距離を後退る。
「うふぉ、げほ、ちくしょう。基本的なフェイント使いやがって。意外に頭が回りやがるじゃねえか」
 諒に視界が戻ったのと、076が立ち上がったのほぼ同時であった。彼の右手から、もう血は流れ出していない。止まった、と表現するよりは、右腕の血流量が減ったという方が適切なのであろう。あまり、いい色をしていないのだ。
「ねえ、諒」
 不意に、禊が語り掛けてきた。その手には血のついた如月≠ェ握られており、表情は沈痛だ。
「もう一度電磁銃ガンを当てられる? 出来るなら、私が斬り込むわ」
 意外な申し出であった。諒は表情を一瞬、信じられないといった感じのものに変える。
「どうしたんだ? さっきは刀を突き付けるのが精一杯だったってのに」
「もうこれ以上あの子を傷付けたくないのよ。それにはアキレス腱の一本でも切って戦えなくするのが一番早い。そうでしょ?」
「そりゃたしかにそうだが」
 その突然の変わりように、諒は驚きを隠しきれないでいる。
「私は逃げてただけだった。自分の手を汚すのが恐くなってたのよ。でも違う。私は科学を狩る者サイエンス・ハンター。手を汚す存在なのよ」
 力強く言い切る禊。その瞳からは、決意の色がはっきりと読み取れる。
「分かったよ。それじゃ、ま、特大の一発をお見舞いしてやりますか」
 言いながら諒はボタンを操作し、内圧と帯電率を高めていった。
「内圧40気圧アトム。帯電率最大限マキシマム――」
 これだけの電荷を溜め込もうと思ったら、発射までに多少のラグが生じる。その間、諒は076から視線を外すことは無かった。ここで、一つ奇妙な点に気付く。銃口が僅かであるが上を向いているのだ。そこに禊も気付いたらしく、慌てた感じで諒に問い掛ける。
「ちょ、諒。そんなとこ向けてたら当たんない――」
「いいんだよ! これで!」
 瞬間、今までとは違う、目に見えるほどの電磁弾ブリットが撃ち放たれた。もちろん、禊が懸念したように、上方に向けて、だ。
「何考えてるのよ!? 一体!」
 言いながらも、076に向けて駆け出す禊。おそらく、電磁弾ブリットが囮になるかもしれないと考えたのであろう。事実、076も一瞬それを見遣っている。その途端、電磁弾ブリットがその軌道を下方に修正した。重さがほとんど無い、空気の塊である電磁弾ブリットが、である。
 これにはちゃんと理由がある。今、上空は雷雲により負に帯電している。それにより、地表近くは正に帯電する。負の電荷を持つ電磁弾ブリットは静電気的な力によって地面に引き寄せられたのだ。先程、外れるはずの無い電磁弾ブリットが当たらなかったのにはそういう事情があったのだ。そして、見事なまでに計算し尽くされた軌跡を描いて、電磁弾ブリットは076に命中した。その際、彼はショックによって身体を二、三度震わせる。
「……」
 禊がしなければならないことは決まっている。076の横を通り過ぎ様、踵の上を切り付けるのだ。迷いが既に無いことは、その刃先を見れば良く分かる。と、禊が076の横で、刀を振るおうと腕を引いた時、動きがあった。076がその身体を禊の方に向けたのだ。そして、そのまま後方へ飛び退くかのような仕草を見せる。禊は反射的に刀を振り下ろす位置を補正した。彼が着地すると予想される地点に。しかし、076は動かなかった。電磁弾ブリットの影響が残っていたのか、足を挫いたのかは分からない。とにかく、その場から離れなかったのだ。そして――。
 銘刀如月≠ェ、076の腹を薙いだ。腱を切るほどの力で振るわれた斬撃である。刀は背骨近くまで達し、禊の身体には返り血だけではなく、数種の臓物片までもが浴びせられる。そして、再び降り出した雨の中、076は地面に転がった。禊は何も言葉を発しようとはしなかった。いや、発することが出来なかった、という方が適確なのかも知れない。糸の切れた操り人形のようにその場に横たわる076を見下ろしながら、その表情を凍りつかせている。

 これにより、諒と禊の任務は遂行された――。


 >>第二章『零からの逸脱』



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